あなたが目を覚ますまで
ルーカス様は、執務室の隣にある私室の寝台に運ばれた。
青黒い痣は、左腕の肘から肩へと、ゆっくり這い上がっていた。
額には汗。呼吸は浅く、時々苦しそうに眉が寄る。
「霜狼の毒は、体を内側から凍らせる」
ハンス先生が、傷口に膏薬を塗りながら言った。
「十年前の大戦で、団長はこれを浴びた。その時は、運良く命は取り留めたが……毒が鼻に回って、嗅覚を持っていかれた」
「治す方法は、ないのですか」
「ある。北の崖に生える『月影苔』という苔を煎じて飲ませれば、毒を中和できる。だが——」
先生は、悔しそうに唇を噛んだ。
「あれは真冬の、それも崖の岩場にしか生えん。保存も3ヶ月しかきかない。十年前も、見つけた時には手遅れだった。今から探しに行くとなると、雪の崖を何日もかけて……」
月影苔。
その名前に、聞き覚えはなかった。
けれど——
「先生。その苔は、どんな見た目ですか」
「銀色がかった、細い糸のような苔だよ。月の光に当てると、ぼんやり光る」
銀色の、糸のような苔。
私は、医務室を飛び出していた。
◇
医務室の奥の棚。
薬草を種類ごとに分けて干してある、小さな木箱の列。
その一番端に、ラベルのない箱が一つあった。
二週間ほど前、裏の斜面で咳止めの草を摘んだ帰りに、岩陰で見つけたものだ。
銀色の、細い糸のような苔。
なぜ摘んだのか、自分でもわからなかった。
ただ、見た瞬間に「これは取っておかなければ」と思ったのだ。何に使うのかもわからないまま、干して箱に入れて——名前がわからないから、ラベルを貼れずにいた。
箱を抱えて、ルーカス様の部屋へ駆け戻る。
「先生、これは……!」
蓋を開けた瞬間、ハンス先生の眼鏡の奥の目が、大きく見開かれた。
「…………月影苔だ」
先生の手が、震えていた。
「あんた、これを……どこで」
「裏の斜面です。岩の陰に、少しだけ」
「裏の斜面に……? そんな近くに生えとったのか……」
先生は、しばらく苔を見つめて言葉を失っていた。
やがて、我に返ったように顔を上げる。
「話は後だ。ノラ、湯を沸かせ。すぐに煎じる」
◇
煎じた苔の汁を、少しずつ、ルーカス様の口に含ませる。
最初の一匙は、ほとんど唇の端からこぼれてしまった。
二匙目。三匙目。ハンス先生が顎を支え、私が匙を運ぶ。
椀が空になる頃、ルーカス様の喉が、小さく動いた。
「……飲んだ」
先生が、長い息を吐いた。
「あとは、毒が引くのを待つしかない。半日か、一日か……」
窓の外は、もう日が高くなっていた。
◇
私は、寝台の傍らの椅子に座っていた。
ルーカス様の呼吸を、じっと聞いている。
少しでも乱れたら、すぐに先生を呼べるように。
どれくらい、そうしていただろう。
「ミラさん」
肩を叩かれて振り返ると、リタちゃんが立っていた。
手に、湯気の立つ椀を持っている。
「交代です」
「でも……」
「ハンス先生が決めたんです。看病は交代制。ミラさんは四刻ごとに休憩。食事と睡眠をとること」
リタちゃんは、少しだけ怒ったような顔をした。
「団長さんが目を覚ました時、ミラさんがまた倒れてたら、団長さん絶対悲しみますよ」
……その通りだった。
あの夜、ルーカス様は言ってくれた。休むことも仕事のうちだと。
今ここで私が倒れたら、あの言葉を裏切ることになる。
「……わかりました。お願いします」
椀を受け取り、もう一度だけ寝台の上の人を見つめる。
青黒い痣は、肩の手前で止まっているように見えた。
◇
それから、二日が過ぎた。
テオさん、エリクさん、バルトさん、リタちゃん、マーサさん。
皆が交代でルーカス様の傍らに座った。
私の番が回ってくるたびに、痣は少しずつ薄くなっていった。
熱も下がり、呼吸も穏やかになっていく。
それでも、ルーカス様は目を覚まさなかった。
三日目の夜。
私の番は、真夜中から明け方までだった。
窓の外では、細い月が雪原を照らしている。
私は、寝台の傍らで膝の上に手を揃えていた。
灰色の手袋。
あの日、市でもらったもの。
「……ルーカス様」
小さく、呼んでみる。
返事はない。
「皆さん、待っていますよ。テオさんは毎日、北門の見回りの報告を枕元でしていきます。エリクさんは、今度は自分が守る番だったのに、と落ち込んでいました。バルトさんは、団長の好物のスープを毎日作っています」
静かな部屋に、私の声だけが落ちていく。
「私は……」
言葉が、詰まった。
何を言いたいのだろう。
この人に、何を伝えたいのだろう。
「……私は、まだ、お茶をお持ちする約束を、果たしきれていません」
それだけ言うのが、精一杯だった。
ルーカス様の右手が、毛布の上に投げ出されている。
少しだけ迷ってから、私はその手に、手袋越しにそっと触れた。
温かかった。
あの夜、医務室で触れた時の、凍えるような冷たさではなかった。
「……早く、起きてください」
◇
明け方。
窓の外が、うっすらと白み始めた頃。
いつの間にか、私は椅子に座ったまま、うとうとしていたらしい。
指先に、何かが触れた。
はっと目を開ける。
重ねていた手が、握り返されていた。
「…………ミラ」
掠れた声。
顔を上げると、灰色の瞳が、こちらを見ていた。
「ルーカス様……!」
声が震えた。
ルーカス様はゆっくりと瞬きをして、ぼんやりと天井を見上げ、それからまた私を見た。
「……ここは」
「お部屋です。三日、眠っておられました。霜狼の毒で……でも、もう大丈夫です。ハンス先生が、月影苔で……」
うまく説明できない。
言葉より先に、目の奥から熱いものがこみ上げてくる。
ルーカス様は、黙って私の顔を見つめていた。
そして——ふと、何かに気づいたように、目を見開いた。
「……ミラ」
「はい」
「少し、近くに来てくれないか」
戸惑いながら、身を乗り出す。
ルーカス様は、ゆっくりと息を吸った。
一度。二度。
信じられないものを確かめるように、何度も。
「…………匂いが、する」
「え?」
「部屋の匂いがする。薬草の匂い。窓の外の、雪の匂い。……十年ぶりだ」
ルーカス様の声が、かすかに震えていた。
「先生が、月影苔は毒を中和すると……もしかしたら、十年前の毒も一緒に……」
言いかけて、私は口をつぐんだ。
ルーカス様が、私を見ていた。
今まで見たことのない目で。
驚きと、戸惑いと——それから、何か、言葉にできないもの。
「ルーカス様?」
呼びかけると、彼ははっと我に返ったように瞬きをした。
それから、ゆっくりと視線を逸らす。
「……いや。なんでもない」
そう言った声は、どこか上擦っていた。
握っていた手を、ルーカス様はそっと離した。
まるで、これ以上触れていてはいけないとでもいうように。
「ハンスを呼んできてもらえるか。……それから、皆にも。心配をかけたと」
「は、はい。すぐに」
私は立ち上がり、部屋を出た。
扉を閉める直前、振り返る。
ルーカス様は、片手で顔を覆って、天井を見上げていた。
◇
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。
ルーカスは、顔を覆ったまま、深く息を吐いた。
部屋の中に、まだ残っている。
陽だまりのような。
焼きたてのパンのような。
冬の終わりに、初めて雪の下から顔を出した花のような。
温かくて、懐かしくて、胸が締め付けられるほど愛おしい——匂い。
十年間、失っていたもの。
いや。生まれてから一度も、感じたことのなかったもの。
それが、彼女から香っていた。
「……匂いが、ないと……」
誰も、彼女の匂いを感じない。
彼女自身も、自分には匂いがないと信じている。
だが、ルーカスにはわかる。
獣人なら誰もが、魂の底で知っている。
番の匂いは——番にしか、わからない。
「…………ミラ」
その名を呼ぶ声は、ひどく掠れていた。




