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匂いのない娘は、北の砦で今日も黙々と働く ~番なしと笑われた私ですが、気づけば騎士団になくてはならない存在になっていたようです~  作者: ティアナ
第一部

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8/12

あなたが目を覚ますまで

ルーカス様は、執務室の隣にある私室の寝台に運ばれた。


青黒い痣は、左腕の肘から肩へと、ゆっくり這い上がっていた。

額には汗。呼吸は浅く、時々苦しそうに眉が寄る。


「霜狼の毒は、体を内側から凍らせる」


ハンス先生が、傷口に膏薬を塗りながら言った。


「十年前の大戦で、団長はこれを浴びた。その時は、運良く命は取り留めたが……毒が鼻に回って、嗅覚を持っていかれた」

「治す方法は、ないのですか」

「ある。北の崖に生える『月影苔』という苔を煎じて飲ませれば、毒を中和できる。だが——」


先生は、悔しそうに唇を噛んだ。


「あれは真冬の、それも崖の岩場にしか生えん。保存も3ヶ月しかきかない。十年前も、見つけた時には手遅れだった。今から探しに行くとなると、雪の崖を何日もかけて……」


月影苔。


その名前に、聞き覚えはなかった。

けれど——


「先生。その苔は、どんな見た目ですか」

「銀色がかった、細い糸のような苔だよ。月の光に当てると、ぼんやり光る」


銀色の、糸のような苔。


私は、医務室を飛び出していた。


  ◇


医務室の奥の棚。

薬草を種類ごとに分けて干してある、小さな木箱の列。


その一番端に、ラベルのない箱が一つあった。


二週間ほど前、裏の斜面で咳止めの草を摘んだ帰りに、岩陰で見つけたものだ。

銀色の、細い糸のような苔。


なぜ摘んだのか、自分でもわからなかった。

ただ、見た瞬間に「これは取っておかなければ」と思ったのだ。何に使うのかもわからないまま、干して箱に入れて——名前がわからないから、ラベルを貼れずにいた。


箱を抱えて、ルーカス様の部屋へ駆け戻る。


「先生、これは……!」


蓋を開けた瞬間、ハンス先生の眼鏡の奥の目が、大きく見開かれた。


「…………月影苔だ」


先生の手が、震えていた。


「あんた、これを……どこで」

「裏の斜面です。岩の陰に、少しだけ」

「裏の斜面に……? そんな近くに生えとったのか……」


先生は、しばらく苔を見つめて言葉を失っていた。

やがて、我に返ったように顔を上げる。


「話は後だ。ノラ、湯を沸かせ。すぐに煎じる」


  ◇


煎じた苔の汁を、少しずつ、ルーカス様の口に含ませる。


最初の一匙は、ほとんど唇の端からこぼれてしまった。

二匙目。三匙目。ハンス先生が顎を支え、私が匙を運ぶ。


椀が空になる頃、ルーカス様の喉が、小さく動いた。


「……飲んだ」


先生が、長い息を吐いた。


「あとは、毒が引くのを待つしかない。半日か、一日か……」


窓の外は、もう日が高くなっていた。


  ◇


私は、寝台の傍らの椅子に座っていた。


ルーカス様の呼吸を、じっと聞いている。

少しでも乱れたら、すぐに先生を呼べるように。


どれくらい、そうしていただろう。


「ミラさん」


肩を叩かれて振り返ると、リタちゃんが立っていた。

手に、湯気の立つ椀を持っている。


「交代です」

「でも……」

「ハンス先生が決めたんです。看病は交代制。ミラさんは四刻ごとに休憩。食事と睡眠をとること」


リタちゃんは、少しだけ怒ったような顔をした。


「団長さんが目を覚ました時、ミラさんがまた倒れてたら、団長さん絶対悲しみますよ」


……その通りだった。


あの夜、ルーカス様は言ってくれた。休むことも仕事のうちだと。

今ここで私が倒れたら、あの言葉を裏切ることになる。


「……わかりました。お願いします」


椀を受け取り、もう一度だけ寝台の上の人を見つめる。


青黒い痣は、肩の手前で止まっているように見えた。


  ◇


それから、二日が過ぎた。


テオさん、エリクさん、バルトさん、リタちゃん、マーサさん。

皆が交代でルーカス様の傍らに座った。


私の番が回ってくるたびに、痣は少しずつ薄くなっていった。

熱も下がり、呼吸も穏やかになっていく。


それでも、ルーカス様は目を覚まさなかった。


三日目の夜。

私の番は、真夜中から明け方までだった。


窓の外では、細い月が雪原を照らしている。

私は、寝台の傍らで膝の上に手を揃えていた。


灰色の手袋。

あの日、市でもらったもの。


「……ルーカス様」


小さく、呼んでみる。

返事はない。


「皆さん、待っていますよ。テオさんは毎日、北門の見回りの報告を枕元でしていきます。エリクさんは、今度は自分が守る番だったのに、と落ち込んでいました。バルトさんは、団長の好物のスープを毎日作っています」


静かな部屋に、私の声だけが落ちていく。


「私は……」


言葉が、詰まった。


何を言いたいのだろう。

この人に、何を伝えたいのだろう。


「……私は、まだ、お茶をお持ちする約束を、果たしきれていません」


それだけ言うのが、精一杯だった。


ルーカス様の右手が、毛布の上に投げ出されている。

少しだけ迷ってから、私はその手に、手袋越しにそっと触れた。


温かかった。

あの夜、医務室で触れた時の、凍えるような冷たさではなかった。


「……早く、起きてください」


  ◇


明け方。


窓の外が、うっすらと白み始めた頃。

いつの間にか、私は椅子に座ったまま、うとうとしていたらしい。


指先に、何かが触れた。


はっと目を開ける。

重ねていた手が、握り返されていた。


「…………ミラ」


掠れた声。


顔を上げると、灰色の瞳が、こちらを見ていた。


「ルーカス様……!」


声が震えた。

ルーカス様はゆっくりと瞬きをして、ぼんやりと天井を見上げ、それからまた私を見た。


「……ここは」

「お部屋です。三日、眠っておられました。霜狼の毒で……でも、もう大丈夫です。ハンス先生が、月影苔で……」


うまく説明できない。

言葉より先に、目の奥から熱いものがこみ上げてくる。


ルーカス様は、黙って私の顔を見つめていた。


そして——ふと、何かに気づいたように、目を見開いた。


「……ミラ」

「はい」

「少し、近くに来てくれないか」


戸惑いながら、身を乗り出す。


ルーカス様は、ゆっくりと息を吸った。

一度。二度。

信じられないものを確かめるように、何度も。


「…………匂いが、する」


「え?」


「部屋の匂いがする。薬草の匂い。窓の外の、雪の匂い。……十年ぶりだ」


ルーカス様の声が、かすかに震えていた。


「先生が、月影苔は毒を中和すると……もしかしたら、十年前の毒も一緒に……」


言いかけて、私は口をつぐんだ。


ルーカス様が、私を見ていた。

今まで見たことのない目で。


驚きと、戸惑いと——それから、何か、言葉にできないもの。


「ルーカス様?」


呼びかけると、彼ははっと我に返ったように瞬きをした。

それから、ゆっくりと視線を逸らす。


「……いや。なんでもない」


そう言った声は、どこか上擦っていた。


握っていた手を、ルーカス様はそっと離した。

まるで、これ以上触れていてはいけないとでもいうように。


「ハンスを呼んできてもらえるか。……それから、皆にも。心配をかけたと」

「は、はい。すぐに」


私は立ち上がり、部屋を出た。


扉を閉める直前、振り返る。

ルーカス様は、片手で顔を覆って、天井を見上げていた。


  ◇


扉が閉まる。

足音が遠ざかっていく。


ルーカスは、顔を覆ったまま、深く息を吐いた。


部屋の中に、まだ残っている。


陽だまりのような。

焼きたてのパンのような。

冬の終わりに、初めて雪の下から顔を出した花のような。


温かくて、懐かしくて、胸が締め付けられるほど愛おしい——匂い。


十年間、失っていたもの。

いや。生まれてから一度も、感じたことのなかったもの。


それが、彼女から香っていた。


「……匂いが、ないと……」


誰も、彼女の匂いを感じない。

彼女自身も、自分には匂いがないと信じている。


だが、ルーカスにはわかる。

獣人なら誰もが、魂の底で知っている。


番の匂いは——番にしか、わからない。


「…………ミラ」


その名を呼ぶ声は、ひどく掠れていた。

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