北の砦に、魔獣の群れ
その鐘が鳴ったのは、夜更けのことだった。
カン、カン、カン——と、三度。
間を置いて、また三度。
屋根裏部屋で眠っていた私は、飛び起きた。
砦に来た初日に、テオさんから教わっていた。三度の鐘を二回。それは——
「魔獣だ! 北の尾根から群れが来るぞ!」
廊下を駆ける足音。怒鳴り声。甲冑のぶつかる音。
窓の外を見ると、暗い雪原の向こうに、無数の青白い光が揺れていた。
目だ。
数十、いや、百を超える獣の目。
◇
急いで着替えて階段を下りると、中庭はすでに騎士たちで埋め尽くされていた。
松明の明かりの中、ルーカス様が指示を飛ばしている。
「第一班は北門へ! 第二班は東の塔から弓で援護! テオ、伝令を頼む!」
「はっ!」
いつもの穏やかな声とは違う。
鋭く、迷いのない声だった。
ルーカス様が私に気づいて、こちらへ歩いてくる。
「ミラ」
「団長。私に、できることは」
ルーカス様は一瞬だけ黙った。
危ないから部屋にいろ、と言われるのだと思った。
けれど、彼は言った。
「物資の管理を頼みたい。包帯、薬、矢の補充、それから温かい食事。前線に必要なものを、必要な場所へ。……君にしかできない」
君にしかできない。
その言葉に、背筋が伸びた。
「ただし」
ルーカス様は、私の肩にそっと手を置いた。
「絶対に城壁の外には出ないこと。危ないと思ったら、すぐに地下へ逃げること。約束してくれ」
「……はい。約束します」
ルーカス様は頷くと、身を翻して北門へ駆けていった。
黒い外套が、松明の光の中で翻る。
私は、その背中を見送ってから、踵を返した。
◇
食料庫に駆け込むと、リタちゃんとマーサさんがすでに来ていた。
「ミラさん! 何をすればいいですか!」
リタちゃんの声が震えている。
私は深く息を吸った。焦ってはいけない。落ち着いて一つずつ確実に。
「リタちゃんは、マーサさんと厨房へ。大鍋で湯を沸かし続けてください。半分はスープに、半分は医務室へ」
「は、はい!」
「包帯は、煮沸済みの箱が三つあります。二つを医務室、一つを北門の詰め所へ」
壁に貼った在庫表を指でなぞる。
矢は東の倉庫に二千本。予備の毛布は、二階の物置に四十枚。
全部、頭に入っている。
この一月、毎日数えてきたから。
「テオさん!」
ちょうど伝令に走ってきたテオさんを呼び止める。
「東の塔に矢を運べる人を、二人お借りできますか。予備は東の倉庫の右奥、木箱に印をつけてあります」
「了解! すぐ回す!」
テオさんが駆けていく。
私は箱を抱えて、医務室へ向かった。
◇
医務室では、ハンス先生と村から来た助手のノラさんが、最初の負傷者の手当てを始めていた。
「先生、包帯と薬草です」
「おお、助かる!」
箱を開けると、ラベルの通りに並んだ包帯と膏薬が現れる。
ハンス先生は迷わず手を伸ばし、手際よく傷口を洗っていく。
「探す手間がないってのは、こんなに楽なもんかね」
先生が、汗を拭いながら呟いた。
負傷者は、次々と運ばれてきた。
腕を噛まれた者。爪で裂かれた者。雪に足を取られて骨を折った者。
私は医者ではない。傷を縫うことはできない。
だから、できることをした。
湯を運ぶ。包帯を渡す。空になった箱を補充する。
怯えて震えている若い騎士の手を握る。
「大丈夫です。先生がすぐに診てくださいますから」
それだけで、彼の呼吸が少しだけ落ち着いた。
◇
夜が、ひどく長かった。
北門の方角から、獣の咆哮と剣戟の音が絶え間なく響いてくる。
そのたびに、胸が締め付けられた。
あの音の中に、ルーカス様がいる。
「……ミラさん」
声をかけられて振り返ると、医務室の入り口に、灰色の毛並みの狼獣人が立っていた。
エリクさんだった。
すっかり顔色が良くなり、騎士服の上に軽い鎧を着けている。
「エリクさん、もう大丈夫なのですか」
「ああ。おかげさまでな。……前線に戻る前に、礼を言っておきたくて」
エリクさんは、少し照れくさそうに鼻を掻いた。
「あの時、あんたの茶がなかったら、俺は今夜ここにいなかった。だから——今度は俺が、あんたを守る番だ」
そう言って、彼は北門へ駆けていった。
◇
東の空が白み始めた頃。
戦いの音が、少しずつ遠ざかっていった。
「退いたぞ! 魔獣が尾根の向こうへ退いていく!」
誰かの叫び声に、医務室にいた全員が顔を上げた。
歓声が上がる。
ハンス先生が椅子に座り込み、大きく息を吐いた。
「……死者は、なし。重傷者も、皆、持ちこたえとる」
信じられない、というように、先生は首を振った。
「これだけの群れで、死者なしだと。わしが軍医になって三十年、初めてだよ」
私は、その場にへたり込みそうになるのをこらえた。
よかった。本当に、よかった。
その時、医務室の扉が開いた。
「団長が戻られたぞ!」
◇
ルーカス様は、テオさんとエリクさんに両脇を支えられて入ってきた。
黒い外套は、ところどころ裂けて凍りついている。
左の腕に、雑に巻かれた布。そこから、赤黒いものが滲んでいた。
「ルーカス様!」
思わず、名前で呼んでいた。
駆け寄ると、ルーカス様は少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから微笑んだ。
「……ミラ。無事だったか」
「それは、こちらの台詞です……!」
ハンス先生が、すぐに傷を確かめる。
布を外すと、腕に深い爪痕が走っていた。
「群れの頭にやられた。……大したことはない」
「大したことあるわい、この馬鹿者」
ハンス先生が、容赦なく傷口を洗い始める。
ルーカス様は眉一つ動かさなかったけれど、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「ミラ」
ルーカス様が、私を見た。
「部下たちから聞いた。前線に矢が途切れなかった。温かいスープが届いた。負傷した者は、すぐに手当てを受けられた」
灰色の瞳が、静かに私を映す。
「誰も死ななかった。……君のおかげだ」
「私は、何も……皆さんが戦ってくださったから」
「皆が戦えたのは、君が後ろを支えてくれたからだ」
ルーカス様は、無事な右手を伸ばして、手袋をはめた私の手にそっと触れた。
「約束を守ってくれて、ありがとう」
その手は、ひどく冷たかった。
「ルーカス様、手が……」
言いかけた、その時。
ルーカス様の体が、ぐらりと傾いた。
「団長!?」
テオさんが慌てて支える。
ハンス先生が、ルーカス様の傷口を覗き込み——顔色を変えた。
爪痕の周りの皮膚が、じわりと青黒く変色し始めていた。
「……なんてことだ……霜狼の毒だ」
先生の声が、低く沈む。
ルーカス様の瞼が、ゆっくりと落ちていく。
私の手を握ったまま、その指先から力が抜けていった。
「ルーカス様! ルーカス様……!」
何度呼んでも、灰色の瞳は開かなかった。




