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匂いのない娘は、北の砦で今日も黙々と働く ~番なしと笑われた私ですが、気づけば騎士団になくてはならない存在になっていたようです~  作者: ティアナ
第一部

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7/12

北の砦に、魔獣の群れ

その鐘が鳴ったのは、夜更けのことだった。


カン、カン、カン——と、三度。

間を置いて、また三度。


屋根裏部屋で眠っていた私は、飛び起きた。

砦に来た初日に、テオさんから教わっていた。三度の鐘を二回。それは——


「魔獣だ! 北の尾根から群れが来るぞ!」


廊下を駆ける足音。怒鳴り声。甲冑のぶつかる音。

窓の外を見ると、暗い雪原の向こうに、無数の青白い光が揺れていた。


目だ。

数十、いや、百を超える獣の目。


  ◇


急いで着替えて階段を下りると、中庭はすでに騎士たちで埋め尽くされていた。

松明の明かりの中、ルーカス様が指示を飛ばしている。


「第一班は北門へ! 第二班は東の塔から弓で援護! テオ、伝令を頼む!」

「はっ!」


いつもの穏やかな声とは違う。

鋭く、迷いのない声だった。


ルーカス様が私に気づいて、こちらへ歩いてくる。


「ミラ」

「団長。私に、できることは」


ルーカス様は一瞬だけ黙った。

危ないから部屋にいろ、と言われるのだと思った。


けれど、彼は言った。


「物資の管理を頼みたい。包帯、薬、矢の補充、それから温かい食事。前線に必要なものを、必要な場所へ。……君にしかできない」


君にしかできない。

その言葉に、背筋が伸びた。


「ただし」


ルーカス様は、私の肩にそっと手を置いた。


「絶対に城壁の外には出ないこと。危ないと思ったら、すぐに地下へ逃げること。約束してくれ」

「……はい。約束します」


ルーカス様は頷くと、身を翻して北門へ駆けていった。

黒い外套が、松明の光の中で翻る。


私は、その背中を見送ってから、踵を返した。


  ◇


食料庫に駆け込むと、リタちゃんとマーサさんがすでに来ていた。


「ミラさん! 何をすればいいですか!」


リタちゃんの声が震えている。

私は深く息を吸った。焦ってはいけない。落ち着いて一つずつ確実に。


「リタちゃんは、マーサさんと厨房へ。大鍋で湯を沸かし続けてください。半分はスープに、半分は医務室へ」

「は、はい!」

「包帯は、煮沸済みの箱が三つあります。二つを医務室、一つを北門の詰め所へ」


壁に貼った在庫表を指でなぞる。

矢は東の倉庫に二千本。予備の毛布は、二階の物置に四十枚。


全部、頭に入っている。

この一月、毎日数えてきたから。


「テオさん!」


ちょうど伝令に走ってきたテオさんを呼び止める。


「東の塔に矢を運べる人を、二人お借りできますか。予備は東の倉庫の右奥、木箱に印をつけてあります」

「了解! すぐ回す!」


テオさんが駆けていく。

私は箱を抱えて、医務室へ向かった。


  ◇


医務室では、ハンス先生と村から来た助手のノラさんが、最初の負傷者の手当てを始めていた。


「先生、包帯と薬草です」

「おお、助かる!」


箱を開けると、ラベルの通りに並んだ包帯と膏薬が現れる。

ハンス先生は迷わず手を伸ばし、手際よく傷口を洗っていく。


「探す手間がないってのは、こんなに楽なもんかね」


先生が、汗を拭いながら呟いた。


負傷者は、次々と運ばれてきた。

腕を噛まれた者。爪で裂かれた者。雪に足を取られて骨を折った者。


私は医者ではない。傷を縫うことはできない。

だから、できることをした。


湯を運ぶ。包帯を渡す。空になった箱を補充する。

怯えて震えている若い騎士の手を握る。


「大丈夫です。先生がすぐに診てくださいますから」


それだけで、彼の呼吸が少しだけ落ち着いた。


  ◇


夜が、ひどく長かった。


北門の方角から、獣の咆哮と剣戟の音が絶え間なく響いてくる。

そのたびに、胸が締め付けられた。


あの音の中に、ルーカス様がいる。


「……ミラさん」


声をかけられて振り返ると、医務室の入り口に、灰色の毛並みの狼獣人が立っていた。


エリクさんだった。

すっかり顔色が良くなり、騎士服の上に軽い鎧を着けている。


「エリクさん、もう大丈夫なのですか」

「ああ。おかげさまでな。……前線に戻る前に、礼を言っておきたくて」


エリクさんは、少し照れくさそうに鼻を掻いた。


「あの時、あんたの茶がなかったら、俺は今夜ここにいなかった。だから——今度は俺が、あんたを守る番だ」


そう言って、彼は北門へ駆けていった。


  ◇


東の空が白み始めた頃。

戦いの音が、少しずつ遠ざかっていった。


「退いたぞ! 魔獣が尾根の向こうへ退いていく!」


誰かの叫び声に、医務室にいた全員が顔を上げた。


歓声が上がる。

ハンス先生が椅子に座り込み、大きく息を吐いた。


「……死者は、なし。重傷者も、皆、持ちこたえとる」


信じられない、というように、先生は首を振った。


「これだけの群れで、死者なしだと。わしが軍医になって三十年、初めてだよ」


私は、その場にへたり込みそうになるのをこらえた。

よかった。本当に、よかった。


その時、医務室の扉が開いた。


「団長が戻られたぞ!」


  ◇


ルーカス様は、テオさんとエリクさんに両脇を支えられて入ってきた。


黒い外套は、ところどころ裂けて凍りついている。

左の腕に、雑に巻かれた布。そこから、赤黒いものが滲んでいた。


「ルーカス様!」


思わず、名前で呼んでいた。

駆け寄ると、ルーカス様は少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それから微笑んだ。


「……ミラ。無事だったか」

「それは、こちらの台詞です……!」


ハンス先生が、すぐに傷を確かめる。

布を外すと、腕に深い爪痕が走っていた。


「群れの頭にやられた。……大したことはない」

「大したことあるわい、この馬鹿者」


ハンス先生が、容赦なく傷口を洗い始める。

ルーカス様は眉一つ動かさなかったけれど、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。


「ミラ」


ルーカス様が、私を見た。


「部下たちから聞いた。前線に矢が途切れなかった。温かいスープが届いた。負傷した者は、すぐに手当てを受けられた」


灰色の瞳が、静かに私を映す。


「誰も死ななかった。……君のおかげだ」

「私は、何も……皆さんが戦ってくださったから」

「皆が戦えたのは、君が後ろを支えてくれたからだ」


ルーカス様は、無事な右手を伸ばして、手袋をはめた私の手にそっと触れた。


「約束を守ってくれて、ありがとう」


その手は、ひどく冷たかった。


「ルーカス様、手が……」


言いかけた、その時。


ルーカス様の体が、ぐらりと傾いた。


「団長!?」


テオさんが慌てて支える。

ハンス先生が、ルーカス様の傷口を覗き込み——顔色を変えた。


爪痕の周りの皮膚が、じわりと青黒く変色し始めていた。


「……なんてことだ……霜狼の毒だ」


先生の声が、低く沈む。

ルーカス様の瞼が、ゆっくりと落ちていく。

私の手を握ったまま、その指先から力が抜けていった。


「ルーカス様! ルーカス様……!」


何度呼んでも、灰色の瞳は開かなかった。

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