名前を呼ばれた日
食料庫の管理を任されてから、十日が過ぎた。
朝は夜明け前に起きて、厨房で粥を炊く。
昼までに洗濯を済ませ、午後は医務室で薬草を干し、包帯を仕分ける。
夕方からは食料庫の在庫を数えて帳簿をつけ、夕食の支度と片付け。
最後に、団長にお茶を運ぶ。
忙しかった。けれど、苦しいとは思わなかった。
実家にいた頃も、ずっとこうだったから。
「……ミラさん。ちょっと、こっちを向いておくれ」
医務室で包帯を巻き直していると、ハンス先生が眼鏡越しに私の顔を覗き込んだ。
「あんた、昨日は何刻に寝たかね」
「ええと……いつも通りです」
「その『いつも通り』を聞いとるんだがね」
答えに詰まる。
ハンス先生は、深いため息をついた。
「目の下が真っ黒だ。指先も冷えとる。飯はちゃんと食っとるかい」
「食べています。味見で」
「それは食事とは言わん」
先生の声は、いつになく厳しかった。
◇
その日の夕方。
食料庫で麦の袋を数えていた時だった。
棚の上段に手を伸ばした瞬間、視界がぐらりと揺れた。
あれ、と思う間もなかった。
足元から力が抜けて、体が傾く。
「——ミラ!」
誰かの声がした。
硬い床にぶつかるはずの体が、何かに受け止められる。
温かい腕。
見上げると、灰色の瞳がすぐそこにあった。
団長だった。
「ミラ、聞こえるか。ミラ」
名前を、呼ばれている。
殿、が付いていない。
そんなことをぼんやり思ったところで、意識が遠のいた。
◇
目を覚ますと、医務室の寝台の上だった。
窓の外は、もう暗い。
枕元の小さな灯りの横に、誰かが座っている。
「……団長?」
声を出すと、団長がはっと顔を上げた。
ずっとそこにいたのだろうか。外套も脱がないまま、膝の上で手を組んでいる。
「気がついたか。……よかった」
心の底から安堵したような声だった。
「ハンスに診てもらった。過労と、睡眠不足と、食事が足りていないそうだ」
「……申し訳ありません。ご迷惑を」
団長は、静かに首を振った。
「謝らなければならないのは、私のほうだ」
組んでいた手に、ぐっと力が入る。
「君が来てから、砦が良くなっていくのが嬉しくて……君に頼ることばかり考えていた。厨房も、洗濯も、医務室も、食料庫も。一人の人間が背負える量ではないと、少し考えればわかったはずなのに」
団長は、深く頭を下げた。
「本当に、すまなかった」
私は慌てて体を起こそうとした。
けれど、団長の手がそっと肩を押しとどめる。
「寝ていてくれ。今は、それが君の仕事だ」
「でも、明日の朝食が……」
「バルトとテオがやる。洗濯は騎士の当番制に戻した。医務室は、ハンスが近くの村から手伝いを一人雇うそうだ」
団長は、一つずつ丁寧に説明してくれた。
「それから、これは相談なのだが」
懐から、一枚の紙を取り出す。
砦の仕事を書き出した表だった。几帳面な字で、誰が何をするかが細かく割り振られている。
「君には、食料庫と物資の管理だけを任せたい。厨房と洗濯からは外れてもらう。代わりに、麓の村から下働きを二人雇う。その者たちに、君のやり方を教えてやってほしい」
「教える……私が、ですか」
「ああ。君が全部やるのではなく、君のやり方を皆ができるようにする。そのほうが、砦にとってもいい」
紙の一番下に、小さく書き加えられている一行があった。
『七日に一度、休日とする』
「……休日」
「休むことも仕事のうちだ。君の家では、そうではなかったかもしれないが」
団長の声は、どこまでも穏やかだった。
「ここでは、そうだ。本来下働きが過労で倒れるほどの仕事を抱える事はないんだ。本当にすまない。」
何か言おうとして、声にならなかった。
休んでいいと言われたことはあった。
けれど、休む日を決めてもらったことは、一度もなかった。
働かなくても、ここにいていいのだと。そう言われた気がした。
「……ありがとう、ございます」
ようやく絞り出した声は、少し震えていた。
団長は何も言わず、ただ小さく頷いた。
◇
しばらく沈黙が続いた。
灯りが、ゆらゆらと揺れている。
「あの、団長」
「なんだ」
「さっき……倒れた時。名前を、呼んでくださいましたよね」
団長の耳が、ぴくりと動いた。
それから、目に見えて気まずそうに視線を逸らす。
「……すまない。慌てていて、つい。失礼だった」
「いえ、そうではなくて」
私は毛布の端を握った。
自分でも、なぜこんなことを言おうとしているのかわからない。
「……嫌では、なかったので」
団長が、こちらを見た。
灰色の瞳が、灯りの中で少しだけ見開かれる。
「殿、と付けていただくのは、ありがたいのですが……少し、遠い気がして」
言ってしまってから、顔が熱くなった。
何を言っているのだろう。下働きの娘が、騎士団長に。
けれど団長は、笑わなかった。
真剣な顔で、しばらく考えるように黙ってから、ゆっくりと口を開いた。
「……では、ミラ、と」
低く、静かな声。
たった二文字なのに、胸の奥に響いた。
「呼んでも、構わないだろうか」
「……はい」
団長は、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「その代わり、と言っては何だが」
「はい?」
「私のことも、団長ではなく名前で呼んでくれて構わない。ルーカス、と」
私は固まった。
「そ、それは、さすがに……!」
「無理にとは言わない。気が向いたらでいい」
そう言って、団長は立ち上がった。
外套の裾を直し、扉のほうへ向かう。
「今夜はゆっくり眠ってくれ。明日の朝、ハンスがもう一度診に来る」
扉に手をかけて、振り返る。
「おやすみ、ミラ」
ぱたん、と扉が閉まった。
私は毛布を頭まで引き上げた。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
名前を呼ばれただけなのに。
◇
廊下に出たルーカスは、扉の前で立ち止まった。
腕の中に、まだ彼女の重さが残っている。
驚くほど軽かった。あんなに細い体で、毎日あれだけの仕事を。
ルーカスは自分の手のひらを見下ろし、強く握った。
二度と、あんなふうに倒れさせはしない。
それは騎士団長としての責任感なのか、それとも別の何かなのか。
今の彼には、まだわからなかった。




