咳止めの草と、眠れない騎士
翌朝、朝食の片付けを終えると、厨房の入り口に見慣れない人が立っていた。
白髪交じりの髪に、丸い眼鏡。背中が少し曲がった、小柄な老人。
頭の両脇から、ふわふわとした羽毛のような耳が覗いている。梟の獣人だ。
「あんたがミラさんかね。軍医のハンスだ」
「はじめまして。ミラ・ロウェルと申します」
「団長から聞いたよ。咳止めの草を知ってるとか」
ハンス先生は眼鏡の奥から、じっと私を見た。
疑っている、というより、面白がっているような目だった。
「案内しておくれ。老いぼれの足でも登れる斜面だといいがね」
◇
砦の裏手、雪の残る斜面。
岩の陰に、地面に張り付くようにして、丸い葉が広がっている。
「これです」
しゃがみ込んで葉をめくると、ハンス先生が「ほう」と声を上げた。
「オオバコの仲間だな。北ではめったに見ないが……確かに、昔の薬師は咳に使っていた」
「葉を乾かして、煎じて飲めば喉が楽になると思います。それから、あちらの木の皮も、少し」
「白樺かね?」
「はい。熱を下げるのに使えるかと」
ハンス先生はしばらく黙って、私の顔と植物を見比べていた。
「……あんた、薬師の修業でもしたのかい」
「いいえ。商家の娘です」
「ふむ」
それ以上、先生は何も聞かなかった。
ただ、籠いっぱいに葉を摘むのを手伝ってくれた。
◇
医務室の奥の寝台に、エリクさんは横になっていた。
まだ若い、灰色の毛並みの狼獣人。
頬がこけ、目の下に濃い隈がある。私たちが入ると、彼は体を起こそうとして、激しく咳き込んだ。
「無理に起きなくていい」
ハンス先生が背中をさすり、私は煎じたばかりの湯気の立つ椀を差し出した。
「少し苦いですが、ゆっくり飲んでください」
エリクさんは怪訝そうに私を見た。
鼻をひくりと動かして、眉を寄せる。
けれど、何も言わずに椀を受け取ってくれた。
一口、二口。
苦さに顔をしかめながら、最後まで飲み干す。
「……喉が、少し、すっとする」
「よかった。夜は、これを枕元に置いておきますね。蒸気を吸うと楽になるので」
湯を張った桶に、残りの葉を浸して寝台の脇に置く。
エリクさんは、ぼんやりとそれを見つめていた。
「……すまない。俺、最初、あんたのこと……」
「大丈夫です」
何を言おうとしたのかは、わかっていた。
慣れているから、と言いかけて、やめた。代わりに、少しだけ笑う。
「早く良くなってくださいね」
◇
その夜、エリクさんは三週間ぶりに朝まで眠れた——と、翌朝ハンス先生が教えてくれた。
「熱も少し下がった。この調子なら、十日もすれば起き上がれるだろう」
「本当ですか。よかった……」
「それでな、ミラさん」
ハンス先生は、眼鏡を指で押し上げた。
「手が空いたときでいい。医務室も手伝ってもらえんかね。わしの代わりに、薬草の仕分けと、包帯の管理をしてくれるとありがたい」
「私で、よろしいのですか?」
「あんたがいい。団長には、わしから話を通しておく」
厨房と洗濯と、医務室の手伝い。
仕事が増えたはずなのに、不思議と嫌ではなかった。
誰かに必要とされるのは、こんな気持ちなのだろうか。
◇
それから数日。
医務室の棚を整理し、薬草を種類ごとに干し、包帯を清潔なものとそうでないものに分けて箱に入れた。
どの箱に何が入っているか、紙に書いて貼っておく。
「これなら新人でも迷わんな」とハンス先生は笑い、手当てを受けに来た騎士たちも「探す手間が省ける」と言ってくれた。
少しずつ、騎士たちが私に声をかけてくれるようになった。
「ミラさん、今日の粥うまかった」
「この前の膏薬、よく効いたよ」
翌朝、朝食の片付けを終えると、厨房の入り口に見慣れない人が立っていた。
白髪交じりの髪に、丸い眼鏡。背中が少し曲がった、小柄な老人。
頭の両脇から、ふわふわとした羽毛のような耳が覗いている。梟の獣人だ。
「あんたがミラさんかね。軍医のハンスだ」
「はじめまして。ミラ・ロウェルと申します」
「団長から聞いたよ。咳止めの草を知ってるとか」
ハンス先生は眼鏡の奥から、じっと私を見た。
疑っている、というより、面白がっているような目だった。
「案内しておくれ。老いぼれの足でも登れる斜面だといいがね」
◇
砦の裏手、雪の残る斜面。
岩の陰に、地面に張り付くようにして、丸い葉が広がっている。
「これです」
しゃがみ込んで葉をめくると、ハンス先生が「ほう」と声を上げた。
「オオバコの仲間だな。北ではめったに見ないが……確かに、昔の薬師は咳に使っていた」
「葉を乾かして、煎じて飲めば喉が楽になると思います。それから、あちらの木の皮も、少し」
「白樺かね?」
「はい。熱を下げるのに使えるかと」
ハンス先生はしばらく黙って、私の顔と植物を見比べていた。
「……あんた、薬師の修業でもしたのかい」
「いいえ。商家の娘です」
「ふむ」
それ以上、先生は何も聞かなかった。
ただ、籠いっぱいに葉を摘むのを手伝ってくれた。
◇
医務室の奥の寝台に、エリクさんは横になっていた。
まだ若い、灰色の毛並みの狼獣人。
頬がこけ、目の下に濃い隈がある。私たちが入ると、彼は体を起こそうとして、激しく咳き込んだ。
「無理に起きなくていい」
ハンス先生が背中をさすり、私は煎じたばかりの湯気の立つ椀を差し出した。
「少し苦いですが、ゆっくり飲んでください」
エリクさんは怪訝そうに私を見た。
鼻をひくりと動かして、眉を寄せる。匂いがしないことに、気づいたのだろう。
けれど、何も言わずに椀を受け取ってくれた。
一口、二口。
苦さに顔をしかめながら、最後まで飲み干す。
「……喉が、少し、すっとする」
「よかった。夜は、これを枕元に置いておきますね。蒸気を吸うと楽になるので」
湯を張った桶に、残りの葉を浸して寝台の脇に置く。
エリクさんは、ぼんやりとそれを見つめていた。
「……すまない。俺、最初、あんたのこと……」
「大丈夫です」
何を言おうとしたのかは、わかっていた。
慣れているから、と言いかけて、やめた。代わりに、少しだけ笑う。
「早く良くなってくださいね」
◇
その夜、エリクさんは三週間ぶりに朝まで眠れた——と、翌朝ハンス先生が教えてくれた。
「熱も少し下がった。この調子なら、十日もすれば起き上がれるだろう」
「本当ですか。よかった……」
「それでな、ミラさん」
ハンス先生は、眼鏡を指で押し上げた。
「手が空いたときでいい。医務室も手伝ってもらえんかね。わしの代わりに、薬草の仕分けと、包帯の管理をしてくれるとありがたい」
「私で、よろしいのですか?」
「あんたがいい。団長には、わしから話を通しておく」
厨房と洗濯と、医務室の手伝い。
仕事が増えたはずなのに、不思議と嫌ではなかった。
誰かに必要とされるのは、こんな気持ちなのだろうか。
◇
それから数日。
医務室の棚を整理し、薬草を種類ごとに干し、包帯を清潔なものとそうでないものに分けて箱に入れた。
どの箱に何が入っているか、紙に書いて貼っておく。
「これなら新人でも迷わんな」とハンス先生は笑い、手当てを受けに来た騎士たちも「探す手間が省ける」と言ってくれた。
少しずつ、騎士たちが私に声をかけてくれるようになった。
「ミラさん、今日の粥うまかった」
「この前の膏薬、よく効いたよ」
◇
ある夜。
いつものように最後の片付けを終えて廊下を歩いていると、執務室の扉の隙間から灯りが漏れていた。
もう、真夜中を過ぎている。
昨日も、その前の日も、同じだった気がする。
団長は、いつ眠っているのだろう。
少し迷ってから、私は厨房へ戻った。
湯を沸かし、乾かしておいたカモミールに似た白い花を浸す。蜂蜜をほんの少し。
盆を持って執務室の前に立ち、そっと扉を叩いた。
「……どうぞ」
扉を開けると、団長は机の上に広げた地図から顔を上げた。
私を見て、驚いたように目を見開く。
「ミラ殿。こんな時間に、どうした」
「差し出がましいかと思ったのですが……灯りが見えたので」
盆を差し出す。
団長は、湯気の立つカップを不思議そうに見つめた。
「これは?」
「眠りやすくなるお茶です。お仕事の邪魔でしたら、下げます」
「いや」
団長は立ち上がり、両手で丁寧にカップを受け取った。
「ありがとう。……いただくよ」
一口飲んで、団長は小さく息を吐いた。
「温かいな」
それだけ言って、しばらく黙ってカップを見つめている。
私はどうしていいかわからず、扉のそばで立っていた。
「……実は、あまり眠れないんだ」
不意に、団長が言った。
「大戦の頃の夢を見る。目が覚めると、仕事をしていたほうが楽でね」
穏やかな声だった。
けれど、カップを持つ指先に、少しだけ力が入っているのがわかった。
「すまない。君に話すようなことではなかった」
「いいえ」
私は首を振った。
何か気の利いたことを言えればよかったのに、言葉が見つからない。
だから、思ったことをそのまま口にした。
「明日も、お持ちしてもいいですか」
団長が顔を上げる。
灰色の瞳が、灯りの中で揺れた。
「……君の負担にならないなら」
「なりません」
即答すると、団長は少しだけ目を細めた。
笑ったのだと、気づくのに少し時間がかかった。
「では、お願いしよう。——ただし、君も同じ時間には休むこと。それが条件だ」
「……はい」
◇
扉の向こうで、ルーカスは空になったカップを見下ろしていた。
花の香りがするのだと、彼女は言っていた。
だが彼には、何も感じられない。十年前から、ずっと。
それなのに。
彼女が部屋を出ていったあと、ほんの一瞬だけ。
陽だまりのような、懐かしいような何かが、鼻の奥をかすめた気がした。
「……気のせい、か」
呟いて、ルーカスは灯りを落とした。
その夜、彼は久しぶりに夢を見ずに眠った。
◇
同じ頃、王都。
「ジゼル。……今日は、なんだか匂いが違わないか?」
クラウスの問いに、ジゼルの尻尾がぴたりと止まった。
「え? そ、そうかしら。気のせいよ、クラウス様」
慌てたように笑うジゼル。
その鏡台の引き出しには、半分ほど減った香水の瓶が、そっとしまい込まれていた。




