5話、北地区長 高擶
吉野は園風少年の背中を押し、山を降りていく。
二人を追いかけると、麓に着くなりスラリとした長身の黒髪の男が看板の前で佇んでいるのが見えた。黒地に縦縞模様の着流しを着た、一見すると好青年に見える男。ふわりと癖のついた短い黒髪は、男が振り返った拍子に微かに揺れる。
「ああ、葛城に吉野。ひと月ぶりだ、元気にしていた?」
「高擶……」
穏やかそうな笑みを浮かべるこの男は高擶で、俺と吉野と同じ呪奏者学校の出身。現在は北地区の地区長を努めている。
「高擶さん、ご足労いただいたのに申し訳ございません。私は彼と行くところがありまして、明日また改めてご挨拶させてください」
「うん、吉野。変わらず忙しそうだね……彼は新人くん? 初めまして、私は北地区を担当している高擶だよ。そうそう吉野、石蕗が君に会いたそうにしていたよ。前回の会合では時間がなかったからね」
「石蕗くんですか。彼は今どちらに?」
「北地区に残してきたよ。君の後輩だけあって裁量が良い、すごく助かってる。東地区からいい人材を引き抜けて嬉しい限りだ」
「あはは、返していただいてもいいんですよ?」
「断るよ。もう彼は僕の右腕だからね、誰にもあげないよ」
吉野と高擶の会話は右から左に耳を抜けていく。
この日の吉野が受けた依頼はなんだった? 五ノ町の中だけだった気がするが。頼むから大掛かりな術だけは使わないでくれと願うしかない。
霊核崩壊が何を起因とするのかわからない現状、莫大な霊力を必要とする霊術だけは使って欲しくなかった。
俺は小声で彼に声をかける。
「園風くん」
「は、はい」
「吉野になるべく術を使わせないようにしてくれ……体調が良くないんだ。霊力を使うと体に悪い。頼む、吉野を見張ってくれ」
「え、あの、そうなんですか」
「ああ、だから頼む」
「兄上、何の話をしてるんですか? 彼に変なことを吹き込まないでください」
「何でもないぞ、さ、園風くん。吉野のことを頼んだ……君にかかってる」
「あの、葛城様」
「……行きましょうか、園風くん。高擶さん、また明日会いましょう。失礼いたします」
「ああ、また明日会おう。園風くんもまた。君たちも、良かったら今度は北地区においでよ」
手を振る高擶に吉野は一礼すると、園風少年を連れて行ってしまった。
この頃の大掛かりな任務といえば、先ほどの祠の結界の張り直しと、この後に幾つかある封印術の再施行くらいだったはず。大丈夫だろうか。
「……心配性だな、葛城は。吉野が失敗したことがあったかい? 彼の実力は君がよく知っているだろう」
「知っているとも……だが、今の吉野は」
「なんだか変わったね、葛城。弟をそんな目で見てたっけ? 信用できないのかい、吉野が」
「なっ、そうじゃない!」
吉野を信じていないなど、そんなことは断じてない。
「吉野の力は俺がよく知っている。お前に言われるまでもない」
「おおっと、怖いな兄上様は……。吉野の伝書鳩くんが伝えてくれたけど、東地区を案内してくれるんだろう、担当地区長殿?」
ニヤリと高擶の奴が笑う。それが少しばかり感情を逆撫でしてきて、俺は眉を寄せた。
「ああ。案内するが、お前だって何度も来たことがあるし、ここで過ごしていただろう」
「ははっ、そうだねえ。あ、そうだ。この前は行けなかったあそこに行ってみたいな。なんだっけ……あの、あんバターサンドが有名な……」
「カフェ村松か? 今からだと並ぶぞ」
「食べてみたいと思ってたんだ。僕のために一緒に並んでくれないか、地区長殿?」
「はあ……どれくらい待つかわからないぞ?」
カフェ村松は東地区では特に人気の飲食店だ。デザートメニューが人気で、その中でもあんバターサンドは売り切れ必須の商品。今から行っても残っているだろうかと思うが、案内をしろと言われている以上付き合うしかないだろう。
吉野と園風の様子は気になるが、高擶に付き合うべくカフェへと向かうことになった。
行列を並び、やっとのことで入れたカフェのソファー席。ぼんやりと座っていた俺に、高擶はこう言った。
「葛城、僕の話聞いてないよね?」
「あ、ああ、いや、そんなことはないぞ。なんだったか、えっと、次の会合はー……」
「ふふ、そんな話はしてないんだなあ」
「……す、すまん」
「心ここに在らずって感じ。そんなに吉野が心配?」
心配しすぎて、注文したあんバターサンドも、一口も手を付けられずにいる。
「葛城、君ってそんなにブラコンだったっけ?」
高擶は氷がほとんど溶けてしまったアイスコーヒーをストローで軽く回しながら俺に言った。
「ブラコンだと? そう見えるか、俺が」
「うん、吉野がいなくなってからずっと上の空だよ、君。なあに、吉野と何かあったのー? お兄ちゃん」
「お兄ちゃんと呼ぶな、寒気がする」
「呼んでいいのは吉野だけって?」
ははっと高擶は笑ってからコーヒーを吸った。ぞわりと鳥肌が立ったのを感じ、そっと数回両腕をさする。
高擶め、楽しんでいるな。
彼との付き合いは、地区長になる前からだ。東地区の七ノ町にある呪奏者学校。同じ年に入学し、ほぼ同時期に卒業し現場に出た。高擶は術の扱いが上手い吉野と同じ、天才の部類だ。
そろそろ食べなければと、あんバターサンドを口に運ぶ。舌の上でとろけるバターがまろやかに香りを広げていく。
「……ああ、美味いなこれ」
「だろう? といっても僕も今日初めて食べたけど。吉野にもお土産にしたらどうだい、お兄ちゃん」
「お兄ちゃんは止めろ、俺の弟は吉野だけだ。お前はいらん」
「別に減るもんじゃないだろう?」
「増える減るの問題じゃない」
俺は言い終えるなり残りのあんバターサンドを平らげた。ストローを咥えると、勢いよくアイスコーヒーを飲み干す。さっぱりとした味わいが、高擶によって引き起こされた悪寒を押し流していく。
俺の弟は吉野一人だけ。他の誰でもない。
ふと高擶の顔を見た。そうだ、こいつは天才なんだ。
元の時代、ここでは『未来』でのこと。
吉野が倒れた後、高擶は東地区の溜まりに溜まった依頼を北地区で快く引き受けてくれた。今はまだ余裕がある状況。吉野の病に関して、何か良い対策案を出してくれるかもしれない。
高擶の頭脳を頼りたい。
だが、下手に話せば俺が未来から過去に、時間を巻き戻してしまったことが露呈してしまう。
処罰されるのが俺だけなら良い。だが、もし吉野にまで処分が及んだら?
高擶が密告するとは思えないが、どこで漏れるかはわからない。
信用して良いだろうか。
「葛城、明日だけど」
「あ、ああ。明日だな」
「ん? また何か考えごとでもしていたのかい? 明日は君の屋敷でお互いの地区の近況を報告するっていう予定でいいかな。吉野も交えて」
「ああ。その予定だったしな。高擶、その後はすぐに帰るのか?」
「うん。石蕗がね、急かしてくるんだ。今日も伝令が飛んできてね。さっきのは吉野のだけど、同じ伝書鳩の術を使うから、あ、また来た! ってちょっとドッキリしたよ」
石蕗はかつて東地区に所属していた呪奏者の一人だった。一時期ぴったりと吉野の任務に同行し続けていた少年を思い出す。
当時の印象は、黒髪の大人しい性格の少年だ。まさか北地区の担当補佐官にまで昇り詰めるとは。
呪奏者として生きていると、体内を循環する霊力によって寿命が延びる。老いにくく、長寿になる。だが不死ではない。
俺も地区長になってから何年目だろうかと、思いを馳せる。
「僕が吉野にお土産を買ってあげよう。すみませーん」
高擶が店員を呼びつける。和装の上にフリルのエプロンを重ねた女性の店員が現れ、てきぱきと注文を取っていく。
「あんバターサンドを二つ……いや、三つ? それから持ち帰り用にこの揚げパンを二つと、あとカツサンド二つ」
「おい、吉野はそんなに食わないぞ」
「え、僕が食べるんだよ? 夜ご飯と朝ごはん用に。吉野のお土産はちゃんと一個ずつだって」
「いや多いが!」
つくづくマイペースな男だと思う。
カフェの代金は高擶が持ってくれるらしい。
明日の打合せは期待していると、にんまりと笑みを浮かべて言われたのだった。




