第3章 バーゲスト
キルヴァニャは森の中を駆け抜けた。
鋭い眼差しで周囲を見渡していると、ほどなくして小さな獣人の少女が視界へ飛び込んできた。
彼女は必死に逃げている。
その背後には、地獄の番犬を思わせる巨大な影の獣が迫っていた。
*あれって……バーゲスト!?*
少女は恐怖に顔を歪めながら、懸命に足を動かしていた。
虎の獣人らしく、幼い身体にしては驚くほど俊敏だ。
しかし、焦りが災いした。
「きゃっ!」
足元から突き出した木の根に躓く。
少女の身体が宙へ投げ出され、そのまま地面を転がった。
勢い余って大木の幹へ激突する。
ドォンッ!
凄まじい衝撃が身体を貫いた。
特に両足へ走った激痛は凄まじく、皮膚は裂け、血が止めどなく流れ出す。
これではもう逃げられない。
少女が動けずにいる間にも、追跡者は瞬く間に距離を詰めていた。
巨大な爪が持ち上がる。
このままでは、引き裂かれる。
――しかし。
ヒュオッ。
突如として、激しい風が吹き抜けた。
荒々しく、それでいてどこか慈愛に満ちた風だった。
「……?」
少女は痛みに備えて身体を強張らせていた。
だが、いつまで経っても衝撃は訪れない。
恐る恐る、片目を開く。
「……っ!?」
声が出なかった。
先ほどまで喉が裂けるほど叫びながら逃げていたのに、今度は息を吸うことすらままならない。
「ぁ……あ……。」
胸が締め付けられる。
目の前に立っている存在から感じる恐怖は、先ほどのバーゲストとは比べものにならなかった。
巨大な身体。
全身を覆う、底なしの黒。
頭上には漆黒の角が二本そびえ立ち、その身体からは死神の吐息を思わせる濃密な瘴気が這い出している。
少女には、その怪物が何なのか分からなかった。
それでも、本能だけは理解していた。
――目の前の怪鳥のような怪物は、さっきのバーゲストより遥かに恐ろしい。
遥かに強い。
一瞬にして、胸の奥に残っていた希望の火が消えた。
*……ああ。*
*もう、ダメだ。*
少女は震えながら、運命を受け入れようとした。
もちろん彼女は知らなかった。
自分がすでに救われていることなど。
一方、その「怪物」ことキルヴァニャもまた、別の意味で追い詰められていた。
*どうしよう……。*
危険に晒されている少女を見た瞬間、何も考えず助けに入ってしまった。
その結果。
母との約束を破ってしまった。
*ボク、余計なことをしちゃったのかな……?*
生き物は皆、何かを食べなければ生きていけない。
狩りだって自然の営みだ。
弱い者が強い者に捕食される。
それがこの世界の摂理なのだから、部外者である自分がそれを邪魔するのは、自然の秩序を乱すことになるのではないだろうか。
正直に言えば、助けた少女に特別な思い入れがあるわけではない。
それでも――。
良心が、彼女を見捨てることを許さなかった。
*どうしよう!?*
*ボク、悪い子になっちゃった!*
*ママに嫌われたらどうしよう!?*
ルルリアが悲しそうな顔をする光景を想像しただけで、キルヴァニャは青ざめた。
目尻に涙まで浮かぶ。
そんな彼の耳に。
がさり。
衣擦れの音が届いた。
振り返る。
そこには、地面に座り込んだ虎の少女がいた。
怯え切ったその姿を見た瞬間。
キルヴァニャの迷いは吹き飛んだ。
一つだけ、確かなことがある。
*うん。*
*弱い子をいじめるのは、やっぱりダメだ!*
二者の力の差は明白だった。
もしバーゲストが最初から全力を出していたのなら、少女がここまで逃げ続けられるはずがない。
そもそも、こんな長い追いかけっこになるはずもなかった。
つまり――。
あの魔獣は、獲物を弄んでいたのだ。
怯え、苦しみ、逃げ惑う姿を楽しんでいた。
キルヴァニャには、それが正しい「狩り」には思えなかった。
母から教わった狩りは、獲物を苦しませないために、一撃で仕留めるもの。
そして、授かった命に感謝するものだった。
だから。
キルヴァニャはおずおずとバーゲストへ向き直った。
「え、えっと……。」
声が震える。
「お昼ご飯のところ、ごめんなさい……。」
ぺこり。
「で、できれば、その子を放してあげてくれないかな?」
少し考えてから、キルヴァニャは控えめに続けた。
「そ、その代わり、もっと大きな獲物を持ってくるから……。」
勇気を振り絞った。
とても臆病で優しいキルヴァニャにとって、それは大きな一歩だった。
――もっとも、傍から見ればとんでもなく滑稽な光景である。
世界でも屈指の高位魔族が、ただのバーゲストへ必死にお願いしているのだから。
しかもキルヴァニャは、指一本動かさずとも目の前の魔獣を消し飛ばせるほどの力を持っている。
本人だけが、それを知らない。
「グルルルル……!」
バーゲストは低く唸った。
返事は――攻撃だった。
ドドドドドッ!!
無数の魔力弾が一斉に放たれる。
それは暗赤色の花火のように弾け、触れたものすべてを呑み込む灼熱の炎となった。
凄まじい熱量。
オリハルコンやアダマンタイトのような頑強な金属ですら溶かし、跡形もなく焼き尽くすほどの猛火だった。
しかし。
ぽぽぽぽぽっ。
炎弾は、キルヴァニャの艶やかな羽毛へぶつかると、まるで熱したフライパンの上で跳ねるポップコーンのように、あらぬ方向へ弾き飛ばされた。
ドゴォン!
ドゴン!
地面が灰になる。
木々が焼け落ちる。
それでも――。
キルヴァニャには傷一つなかった。
「う、うん……?」
本人はきょとんとしている。
「こ、これは……ダメってことかな?」
バーゲストの身体が硬直した。
目の前の存在が何者なのか。
ようやく理解したのだ。
――勝てない。
バーゲストが一歩、後ずさる。
キルヴァニャも一歩、前へ出る。
「……?」
一歩。
また一歩。
バーゲストが後退する。
キルヴァニャが近づく。
「……?」
一歩。
二歩。
三歩。
そのまま、奇妙な追いかけっこが続いた。
やがて――。
「……クゥン。」
耐えきれなくなったバーゲストが、尻尾を巻いて逃げ出した。
ガラガラガラ……。
どこからともなく鎖の擦れる音が響く。
その音はバーゲストの姿が完全に見えなくなったあともしばらく森の中を漂い、次第に遠ざかっていった。
そして。
森に静寂が戻る。
しばらくして、鳥たちの囀りが聞こえ始めた。
小さな獣たちも、恐る恐る物陰から姿を現す。
ようやく危険が去ったのだと、キルヴァニャにも分かった。
「えっと……。」
彼は地面に座り込んだ少女へ振り返った。
「だ、大丈夫?」
少女はびくりと身体を震わせた。
そして両手で耳を塞ぎ、身体を丸めてしまう。
「……。」
キルヴァニャは困ったように眉を下げた。
今の彼女は、とても話ができる状態ではないらしい。
だから、これ以上怖がらせないように。
彼はそっと距離を取った。
そこで母の言葉を思い出す。
――世界の人々は、悪魔を恐れている。
*……ボク、この子とは友達になれないんだ。*
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
キルヴァニャは何も言わず、その場を離れた。
***
虎の少女は、ずっと息を止めていた。
目を固く閉じたまま、身を縮めている。
一秒。
十秒。
やがて秒は分へ変わった。
それでも――。
何も起こらない。
怪物が襲いかかってくる気配もない。
恐る恐る。
少女はゆっくりと顔を上げた。
「……?」
誰もいない。
あの恐ろしい気配を放っていた怪鳥のような存在は、跡形もなく消えていた。
その代わり。
少女は、自分の目の前に見慣れないものが置かれていることに気づいた。
「……?」
一本の折れた枝。
そして、その枝で地面に書かれた文字。
『村はあっちだよ。
この軟膏で傷を手当てしてね。
それから、帰るときはこの香袋も持っていって。
悪い妖精を遠ざける薬草が入ってるよ。』
傍らには、大きな葉。
その上には、白く半透明なゼリー状の物質が塗られている。
さらに、小さな袋も置かれていた。
少女は警戒しながら、それぞれの匂いを嗅いだ。
「……アロエと、蜂蜜の匂い。」
毒の気配はない。
そこでようやく。
遅ればせながら、少女は気づいた。
この奇妙な置き手紙を書いたのが誰なのか。
そして。
自分を助けてくれたのが誰なのか。
少女は去っていった方向を見つめる。
「……鳥さん……?」
小さな声が、静かな森へ消えていった。




