第3章 動き始める運命
「うーん……結界には特に異常はないみたいだ。」
地面へふわりと降り立ったルルリアは、周囲を見渡した。
彼女が張った結界は、外部の者が不思議の森の奥地へ侵入するのを阻むと同時に、危険な魔獣が森の外へ出ることも防いでいる。
古代の呪文を幾重にも織り込み、さらに膨大な魔力によって補強した、強固な結界だ。
たとえ高位の悪魔であろうと、彼女に気づかれることなく突破するのは困難なはずだった。
でも、悪戯を企む妖精ほど厄介なものはない。
力そのものは大したことなくても、陰湿な術にかけては右に出る者がいないからね。
「それに、ここら辺で目撃されたって話なのに、スルアの姿も見当たらない。」
ルルリアは顎に手を当てる。
ボクを避けてるのかな?
再び翼を広げ、空へ舞い上がる。
高度を上げる。
さらに、さらに高く。
やがて大気圏近くまで達すると、眼下に広がる不思議の森を一望した。
ルルリアは目を閉じ、探知魔法を展開する。
森のあちこちに残された魔力の痕跡を辿っていく。
そして――
見つけた。
ルルリアはその痕跡を追い、山々の鋭く尖った稜線を越えた先へ滑るように飛んでいった。
そこは、アンシーリー・コートの妖精たちが根城とする、人里離れた一帯だった。
鬱蒼とした木々が陽光を遮り、森は深い闇に沈んでいる。
甘ったるく、それでいて毒々しい霧が漂い、幽鬼の手のような触手となって空中を蠢いていた。
「うーん……この辺りには確かに新しい魔力の痕跡がある。でも、うまく気配を隠してる。」
妖精は、本来、自然の力を操ることに長けた種族だ。
自然の精気に満ちた不思議の森では、その力はほとんど無敵に等しい。
熟練した戦士ですら、彼らを相手にするのは容易ではない。
周囲の地形そのものを自在に変え、森を己の武器へと変えることさえできる。
鮮明な幻覚を生み出し、獲物を夢のような幻境へ閉じ込めることもできる。
罠も、策略も、使える手段は無数に存在する。
もしスルアが森そのものに自分たちの姿を隠させると望んだのなら――
ルルリアには、どうすることもできない。
「これは、ちょっと時間がかかりそうだね。」
ルルリアは小さく溜息を吐いた。
その直後。
ざわり。
木々の向こうで、いくつもの影が蠢いた。
一つ。
二つ。
三つ。
彼女を取り囲むように、次々と黒い影が姿を現す。
その全身から、濃密な殺意が滲み出ていた。
「……やっぱり、そう簡単には帰してくれないか。」
***
その頃。
キルヴァニャは薬草の花畑に水を撒いていた。
鼻歌を歌いながら、せっせと作業を続ける。
庭に暮らす妖精たちも楽しそうに歌声を重ね、魔法を使って彼の仕事を手伝っていた。
穏やかな午後。
――だった。
「……ん?」
キルヴァニャの耳が、ぴくりと動いた。
遠くから、何かが聞こえる。
「どうしたのですか、キルヴァニャ様?」
心配そうにノームの妖精が尋ねた。
「今、何か聞こえなかった?」
「何がでしょう?」
キルヴァニャは作業の手を止めた。
妖精の問いには答えず、耳を澄ませる。
微かな音。
遠く、森の向こう。
地面を揺らすような轟音が響いた。
――ゴゴゴゴゴ……。
「……。」
さらに。
ドンッ!!
ドドンッ!!
立て続けに凄まじい轟音が響く。
そして――
「いやあああああああああああああああああああっ!!」
甲高い悲鳴が森中へ響き渡った。
キルヴァニャの目が見開かれる。
悲鳴!?
しかも、エルニアの共通語で話してる……?
不思議の森は、太古から続く神秘の領域だ。
そこに暮らす者の中には共通語を話せる者もいるが、大半は精霊語や古代語を使う。
だからこそ、キルヴァニャにはすぐにわかった。
――今の悲鳴は、外から来た者のものだ。
どうして人間が森の中にいるの?
ママの結界があるのに……?
ただ事ではない。
そう直感した瞬間、キルヴァニャは巨大な翼を大きく広げた。
「キルヴァニャ様!?」
ノームの妖精が叫ぶ。
次の瞬間。
バサァッ!!
巨大な翼が一度、空気を叩いた。
凄まじい突風が巻き起こり、地面の砂埃が舞い上がる。
乾いた落ち葉が渦を巻きながら空へ吸い上げられていく。
キルヴァニャはそのまま、一直線に空へ飛び立った。
「キルヴァニャ様!?」
ノームの妖精は、ただ呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。




