第3章 スルア
「お嬢様。」
窓辺にそびえる大樹。その梢の一番高い枝から、小さなリスの妖精が声を掛けた。
読書に耽っていたルルリアは、本から顔を上げる。
「……なに?」
そう返事をしたあと、少し困ったように眉を下げた。
「前にも言ったよね? ボクを『お嬢様』なんて呼ばなくていい。ボクはキミたちの主人じゃない。」
「失礼いたします、お嬢様。しかし、お耳に入れたいことがございます。」
リスの妖精は彼女の願いを聞き入れることなく、深々と頭を下げた。
魔法の森に暮らす弱い妖精たちは、皆ルルリアを主君のように慕っていた。
キルヴァニャの瘴気から守ってもらったこと。
さらに彼女の光魔法によって、悪魔との戦争で荒廃した森を蘇らせてもらったこと。
その恩義を思えば無理もない。
それでもルルリア自身は、そうして祭り上げられることを好まなかった。
大聖騎士として戦場で大元帥を務めていた頃も、忠実な従者たちに囲まれる生活は苦手だった。
息苦しい。
ただ、それだけだった。
「最近、お嬢様の結界の外で、アンシーリー・コートの妖精たちが妙な動きを見せております。」
「アンシーリー・コートが?」
ルルリアは静かに聞き返す。
魔法の森の妖精たちは、大きく二つの勢力に分かれている。
春と夏を司る、穏やかな妖精たちが集うシーリー・コート。
そして、そこを追放された闇の妖精たちによるアンシーリー・コート。
両者は水と油のような関係だった。
シーリー・コートの妖精たちは人間に友好的、あるいは無関心であることが多い。
対してアンシーリー・コートは、秋と冬を司る残忍な妖精たちの集団だった。
「はい。最近、彼らは妙に慌ただしく動いております。目撃者によれば、スルアがより凶暴な魔獣を次々と捕らえ、騎獣として調教しているとか。」
「……。」
その名を聞いた瞬間、ルルリアの表情が僅かに引き締まる。
スルア。
赦しを得られず彷徨う罪人の魂。
生前、禁忌の呪術に手を染めた者も多く、妖精種の中でも最も邪悪な存在とされている。
秋の終わりになると、彼らはワイルドハントと呼ばれる恐るべき行進を始める。
冬の到来を告げる凶兆。
暗雲が空を覆い、アンシーリーの妖精たち、異形の騎獣へ跨る亡霊騎兵、そして幽鬼の猟犬が大地を駆け巡る。
彼らは旅人を惑わせて攫い、死にゆく者の魂までも狩り集め、自らの軍勢へ加えるのだ。
「……どうしてそんなことを?」
リスの妖精は小さく肩を竦めた。
「おそらく、彼らの性分でしょう、お嬢様。アンシーリー・コートの妖精たちは、生まれつき他者へ苦痛や絶望を与えることを楽しみます。人間へ悪戯を仕掛けるのも彼らの娯楽です。」
「ですが今は、お嬢様の結界によって村人たちへ近づけません。」
「退屈を持て余した彼らが、いずれ私たちや、お嬢様へ牙を剥くのではないかと……皆、不安に思っております。」
小さな身体を震わせながら妖精は言った。
「そっか。」
ルルリアは優しく微笑む。
「知らせてくれてありがとう。念のため、結界はもっと強くしておくよ。」
そう言って庭で摘みたての木苺を一掴み差し出した。
「ありがとうございます!」
リスの妖精は嬉しそうに抱え込み、何度も頭を下げると、そのまま空気へ溶けるように姿を消した。
「……さて。」
静寂が戻る。
ルルリアは森の向こうを見つめ、小さく息をつく。
「ボクも少し見回ってこようかな。」
ボクの結界は簡単には破られない。
でも、スルアは狡猾だ。
キルヴァニャや、戦う力を持たない妖精たちを危険な目に遭わせるわけにはいかない。
戦場で過ごした長い年月が、彼女に教えてくれた。
敵が強いか弱いかは関係ない。
油断こそが、最も恐ろしい敵なのだと。
ルルリアはふわりと宙へ浮かび、畑仕事に励む息子へ声を掛ける。
「キルヴァニャ。森を見回ってくるね。夕飯までには戻るから、それまで庭の外へ出ちゃダメだよ。」
「……?」
キルヴァニャは不思議そうに首を傾げた。
いつもなら過保護な母は、出かける前にあれこれと注意を重ねる。
それが今日は驚くほど短い。
母の声に滲む僅かな緊張を感じ取り、彼は素直に頷いた。
大きく翼を振って笑顔を向ける。
「うん! いってらっしゃい、ママ!」
「ああ。行ってくる。」
ルルリアは柔らかく微笑み返すと、純白の翼を広げた。
風を切って一気に空高く舞い上がる。
その小さな姿は、やがて雲海の彼方へと溶けるように消えていった。




