回想録 ―― 怪物が生まれた日
「ルルリア、はい、あーん。」
「……?」
小さな天人が呼びかけられて振り向いた、その瞬間だった。
何か小さなものが舌の上へ滑り込んでくる。
それは瞬く間に溶け、濃厚な甘みが口いっぱいに広がった。
木の実を思わせる芳醇な香り。
深みのある甘さ。
そして土の匂いにも似た豊かな風味が、ほろ苦い余韻となって後を引く。
あまりにも未知で、あまりにも衝撃的な味覚。
ルルリアは固まった。
目を見開いたまま、一言も発しない。
「どう? 美味しいでしょ?」
レルーシェイは得意満面で胸を張る。
「南方大陸の珍味なんだよ、それ。戦争のせいで流通が滞っててね。商人たちも輸送に苦労してるんだけど、ちょっと特別なルートを使って手に入れたんだ。たまにはこういう贅沢品を楽しむべきだと思わない?」
五千歳を超える天人は上機嫌に語り続けた。
だが――
ルルリアから返事はない。
一分。
二分。
三分。
五分。
沈黙。
「ルルリア……?」
さすがに不安になったレルーシェイは、前髪に隠れた彼女の顔を覗き込む。
「もしもーし? 生きてるー?」
すると。
「……あれは……」
「ん?」
「……あれは、一体何だったのですか……?」
低く震える声。
次の瞬間。
「一体何だったのですか、レルーシェイ!!」
「うわっ!?」
ルルリアは勢いよく立ち上がり、両肩を掴んだ。
その細い腕からは想像もつかない膂力。
戦闘用天人として創られた彼女の握力は冗談にならない。
指先が肩へ食い込み、まるで鉄の鉤爪に掴まれたような激痛が走った。
「痛っ、痛い痛い痛い! ちょ、何!? どうしたの急に!? 肩! 肩が砕ける!」
「答えてください!」
「チョコレート! チョコレートだよ! 最近南方大陸で作られた新しいお菓子!」
「チョコレート……」
ルルリアがその名を反芻する。
夜明けの黄金を思わせる瞳が、きらきらと輝いていた。
まるで星屑をそのまま流し込んだかのような光。
さらに。
ぷくり、と。
薔薇色の唇の端から透明な液体が一筋垂れた。
「……」
「……」
レルーシェイは一歩後ずさる。
なんだろう。
ちょっと怖い。
いや、かなり怖い。
「えーっと……ルルリア?」
「はい。」
「……もう一個、食べる?」
ルルリアは全力で頷いた。
ぶんっ。
ぶんっ。
ぶんっ。
首がもげるのではないかと思うほどの勢いだった。
まるで餌をねだる空腹の子ライオンである。
――あれ?
――こいつ、結構可愛いな?
そんなことを思いながら、レルーシェイは懐から小さな缶箱を取り出した。
中には予備のチョコレートが詰まっている。
「ほら。」
ルルリアの両手に箱を載せる。
「ちゃんと少しずつ味わって食べるんだよ?」
「はい!」
ぱあっと。
人形のようだった少女の顔に、花が咲いた。
「ありがとうございます、レルーシェイ!」
満面の笑み。
「レルーシェイは最高です!」
その瞬間。
周囲に花でも飛び散ったのではないかと思うほど、彼女は嬉しそうだった。
皮肉なことに。
それはレルーシェイが初めて見た、ルルリアらしい感情表現だった。
「……」
彼は複雑な顔になる。
――なんだよ、それ。
――チョコレートだけでそんなに機嫌良くなるの?
つい先日。
彼女は一つの町を守りきれなかった。
悪魔の襲撃によって滅びたその町のため、落ち込んでいるのだろうと勝手に思っていた。
少しは慰めの言葉でも考えていたというのに。
蓋を開けてみればどうだ。
目の前では“悪魔殺し”だの“戦場の怪物”だのと恐れられる少女が、チョコレートの缶を抱えて幸せそうに頬を緩ませている。
「……なんか拍子抜けだなぁ。」
レルーシェイは肩を竦めた。
そして。
無邪気にチョコレートを頬張る少女を見ながら、ふと思う。
――ああ。
――こいつ、本当に空っぽだったんだな。
だからこそ。
誰かが教えたものを、そのまま好きになる。
誰かが与えたものを、そのまま大切にする。
まるで生まれたばかりの子供のように。
その日。
後に世界中で恐れられることになる最強の聖騎士聖女は――
たった一粒のチョコレートによって堕落した。
少なくともレルーシェイは、その瞬間をそう認識していた。
戦況が激化するにつれ、双方の犠牲者は雪だるま式に増えていった。
ルルリアは確かに、一人いるだけで戦局を覆せるほどの強大な戦士だった。
しかし、どれほど強くとも彼女は一個人に過ぎない。
やがて悪魔たちが包囲網を突破し、第一防衛線を崩壊させると、戦火は世界各地へ飛び火した。
連合軍はもはや敵を一箇所へ押し留めることができない。
熟練の戦士を欠く王国や集落は、次々と蹂躙されていった。
暗い話題ばかりの日々だった。
「……あ。」
そんなある日。
ルルリアは手元の缶箱を覗き込み、心底残念そうな声を漏らした。
空っぽだった。
「おい。」
向かい側から冷めた声が飛んでくる。
「少しずつ食べろって言わなかった?」
「で、でも……。」
「でもじゃない。」
レルーシェイは呆れた視線を向けた。
目の前では、チョコレートを食べ尽くした少女が今にも泣き出しそうな顔をしている。
まるでお菓子を取り上げられた子供だ。
彼は苛立たしげにルルリアの頭をぐりぐりと揉みしだく。
しかしルルリアは嫌がるどころか、さらに身体を寄せてきた。
「うぅ……。」
くんくん。
くんくん。
「……?」
突然、ルルリアの動きが止まる。
「……あれ。」
「ん?」
「この美味しそうな匂いは……。」
嫌な予感がした。
とても嫌な予感がした。
「待て。」
レルーシェイは真顔になる。
「待て待て待て。」
ルルリアの手が彼の腰へ伸びる。
「おい。」
「……」
「ちょっと待て。」
「……」
「人のお尻の辺りを勝手に探るんじゃない!!」
レルーシェイの悲鳴が響いた。
しかし時すでに遅し。
至近距離にいたルルリアは、彼のポケットから漂う馴染み深い香りを嗅ぎ取っていた。
木の実のような香ばしさ。
果実にも似た甘い香り。
それが意味するものは一つ。
ひょい。
「あ。」
レルーシェイの顔から血の気が引いた。
ルルリアの手には、小さな缶箱が握られていた。
「チョコレート。」
ぱああっと。
少女の顔が輝く。
「待った。」
「チョコレート。」
「待ったって。」
「チョコレート。」
「人の話聞いて!?」
次の瞬間。
ルルリアは全力疾走した。
「あっ!!」
レルーシェイが叫ぶ。
「こらぁぁぁぁぁっ!! 返せ!!」
「嫌です。」
「それ僕のだから!!」
「見つけた人のものです。」
「盗品の理論なんだよそれ!?」
甘味は戦時下において極めて貴重な品だ。
そしてレルーシェイは重度の甘党だった。
自分用に確保したチョコレートを譲る気など毛頭ない。
「待てーーーっ!!」
「嫌ですーーーっ!!」
こうして二人は兵舎の周囲を全力で駆け回った。
その光景を目撃した兵士たちは戦慄した。
連合軍の象徴たる聖女ルルリア。
その美貌と武勇で知られる最強の天人。
そして五千年以上を生きる大先輩の天人レルーシェイ。
二人が凄まじい形相で追いかけっこをしている。
「見たか……?」
「ああ……。」
「新しい訓練法か何かだろうか……。」
「きっと高等戦闘術に違いない。」
「なるほど……。」
兵士たちは勝手に納得した。
まさかチョコレートの奪い合いだとは夢にも思わなかった。
***
それから数年後。
「レルーシェイ。」
静かな声が響く。
「ボクの引き出しに入れておいた飴を食べましたか?」
「ん?」
レルーシェイは新聞から顔も上げない。
「何の話?」
「誤魔化さないでください。」
ぴしゃりと返ってくる。
「ここにはボクとキミしかいません。」
「……。」
沈黙。
「……。」
さらに沈黙。
そして。
「いやぁ、昨日の夜に急にキャラメルが食べたくなってさ。」
あっさり白状した。
「えっと、その……ごめん?」
謝罪はした。
だが。
何かがおかしい。
レルーシェイはようやく顔を上げる。
ルルリアの表情は前髪に隠れて見えない。
しかし。
見えなくてもわかる。
濃密な殺気が漏れていた。
戦場で悪魔たちが感じたであろう恐怖が、今この部屋に満ちている。
「……ルルリア?」
ごくり。
彼は唾を飲み込んだ。
本能が警鐘を鳴らす。
逃げろ。
今すぐ逃げろ。
彼は椅子ごと後退しようとした。
しかし。
がしっ。
肩を掴まれた。
逃走経路、消失。
「ルルリア、待とう。」
彼は冷や汗を流しながら必死に説得を試みる。
「ほら、昔君だって僕のチョコレート全部食べただろ? おあいこってことで――」
「これは三回目です。」
低い声。
地の底から響くような声。
「え?」
「三回目です。」
「……。」
「ボクのお菓子を黙って食べたのは。」
レルーシェイの背筋を冷たいものが走る。
ルルリアはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は笑っていない。
まったく笑っていない。
「親愛なる兄様。」
優しい声だった。
だからこそ怖い。
「食べ物の恨みは一生続くという言葉をご存じありませんか?」
「ひっ。」
天人の長兄は悟った。
死を。
「待って! タイムアウト! 話し合おう! 文明人らしく――」
「問答無用です。」
「ぎゃああああああああああああああああああっ!!?」
絶叫が大地を揺らした。
その悲鳴は数キロ先の野営地にまで届いたという。
なお。
この事件以降、レルーシェイは二度とルルリアのお菓子保管庫へ手を出さなくなった。
少なくとも――
見つからない範囲では。




