幕間:レルーシェイ ―― 邂逅
レルーシェイが初めてルルリアを目にしたのは、凄惨を極めた戦場のただ中だった。
そこには、悪魔と同盟兵たちの死骸によって築かれた屍の丘があった。
幾つもの国家が侵略者へ対抗するため急造した連合軍――その兵士たちの亡骸である。
そしてその頂で、なおも戦い続ける一人の少女の姿があった。
鉄錆のような血臭と、腐敗の甘ったるい悪臭が入り混じる。
大地には血と臓物が泥のように溢れ返り、踏みしめるたびにぬかるんだ音を立てた。
まさしく悪夢のような光景だった。
空は濃密な瘴気に覆われ、太陽の光さえ遮断されている。
空気には毒性の霧が満ち、一息吸うごとに肺が焼けるようだった。かつて豊穣を誇った土地は、今や枯れ果てた植物と屍ばかりが転がる死の大地へ変わり果てている。
太古より世界を支えてきた精霊王や元素精霊たちでさえ、この災厄の前では無力だった。
生命力との繋がりを断たれ、活力を奪われた彼らには、周囲の荒廃を癒やすことすらできない。
もはや、何もかもに意味が失われていた。
ステラ族たちが滅びれば、自分もまた役目を失うだろう。
だが非戦闘型の天人である彼に、できることなどほとんどない。
彼はステラ族――異界を旅する温厚な民――と、この世界の人々との平和を取り持つために生み出された存在だ。
戦いなど、最も専門外の領域だった。
だから彼は、ただ傍観していた。
すでに幕を閉じた劇の残骸を見つめる観客のように。
悪魔とは、誰も想像し得なかった規模の災厄だった。
急ごしらえの連合軍など、あまりにも容易く蹂躙されてしまった。
笑い話にもならない。
――それなのに。
彼女だけは、なお戦い続けていた。
仲間たちがすべて塵となり果てても、絶望に呑まれることなく、怯むことなく。
まるで不毛の荒野に咲く、一輪の睡蓮のように。
小柄なその身体は、舞姫めいた優雅さで鈍器を振るう。
だがその動きは、紛れもなく凶暴だった。彼女の魔法は嵐のような破壊を呼び起こし、敵を薙ぎ払っていく。
両腕を失えば、即座に戦法を変えた。
倒れた味方の槍を歯で咥え、そのまま悪魔へ突き立てる。
翼を裂かれれば、今度は脚だけで宙へ駆け上がった。
悪魔の腐食毒に肉を焼かれ、骨が剥き出しになってなお、彼女は魔法の砲撃を止めない。
血を流し続けながらも、その尽きることのない再生能力が、彼女に死という安息を許さなかった。
その一挙手一投足は、あまりにも精密だった。
まるで彼女自身が、ただ敵を殺すためだけに造られた大量破壊兵器であるかのように。
この凄惨でありながら荘厳な光景を見て、美しさを感じる者もいただろう。
あるいは、その野蛮なまでの強さに恐怖する者も。
だがレルーシェイが抱いた感情は、ただ一つ。
憐憫だった。
――あまりにも悲惨だ。
というか、普通に気持ち悪い。
本気で吐きそうだった。
いや、だって何なんだこれは。女神ソラリスは何を考えていた? どうしてこんな殺戮兵器を、あんな華奢で可愛らしい少女の姿にしたのか。
せめて役割に見合った、
おどろおどろしい見た目にするべきではないのか。
彼は思わず胸中で毒づいた。
そして――
国境戦線で一か月にも及んだ絶え間ない戦いは、悪魔たちが本拠地へ退却したことで、ようやく終結を迎える。
もちろん戦争そのものは終わっていない。世界と高次元領域を繋ぐ裂け目からは、今なお無数の悪魔が溢れ続けている。
それでも、人類は今日という一日を生き延びた。
たった一人の天人の奮戦によって。
「いやぁ、いやいやいや。君、ほんとすごいねぇ! 一か月も休みなしで悪魔どもを叩き潰し続けるなんて、さすがに驚いたよ!」
ぱちぱちと軽快に拍手をしながら、レルーシェイは最年少の妹へ歩み寄った。
その音だけが、戦場跡に漂う不気味な静寂へ、妙に明るく響き渡っていた。
「でも、うわぁ……! 言いづらいけど、君めちゃくちゃ臭うね!」
そう付け加えながら、レルーシェイは露骨に鼻を摘まんでみせた。
血と汚泥に塗れた裸の少女は、小さく首を傾げる。しばらく彼を観察した後、ちいさな唇を開いた。
「もしかして、お兄様ですか?」
「その通り。第百十七世代最後の生き残り、レルーシェイ様だ。よろしく――と言いたいところだけど、一つだけ。兄なんて呼ぶのは禁止。」
「ですが、ユーサキュル兄様は、天人は皆きょうだいとして呼び合うべきだと。」
「……あぁ、あの面倒くさい取り決めねぇ。」
レルーシェイは心底うんざりしたように溜息を吐いた。
ユーサキュルのことはよく知っている。
第三十七世代の天人で、規律第一の堅物。融通の利かなさでは右に出る者がいない。
自由気ままなレルーシェイとは、まさに水と油の関係だった。
……いや、正直に言えば、彼は他の天人全般と相性が悪かった。
単純に、自分の性格に問題があるのかもしれない。
いずれにせよ、“きょうだい”だの何だのと馴れ合う気は、彼には微塵もなかった。
あの連中のままごとじみた共同体ごっこには、できるだけ関わりたくない。
彼から見れば、天人など――揃いも揃って自己愛が強く、恩着せがましく、やたらと上から目線の鬱陶しい集団でしかなかった。
……ああ、わかっている。
自分の行動が矛盾していることくらい。
本当に同胞との関わりを嫌っているなら、そもそも彼女に近づく理由などない。
今の自分は明らかに柄じゃないことをしている。
だが、目の前の少女だけは、どうしても放っておけなかった。
腹の奥に渦巻く得体の知れない苛立ちが、その原因を突き止めるまで収まりそうになかったのだ。
「まあ、あいつの言うことは気にしなくていいよ。あれは便宜上そう呼んでるだけだし。別に血が繋がってるわけでもない。そもそも、僕たちって生物構造すらバラバラだからね。」
肩を竦めながら、レルーシェイは軽く言った。
「わかりました、レルーシェイ。」
少女は抑揚のない声で返す。
それきり、沈黙が落ちた。
少女はそれ以上会話を続けようとしない。まるで、これで用件は終わったと言わんばかりだった。
本当に――真っ白だった。
感情の起伏も、温度も、主体性もない。
飾り棚に置かれたビスクドールのように、ただそこに存在しているだけの空虚な少女。
レルーシェイは呆れたように眉を上げた。
「君、会話下手すぎない? 一応自己紹介くらいしてくれてもよくない? 可愛い妹ちゃん?」
少女は無表情のまま、小さく首を傾げる。
――“きょうだい呼びは嫌なんじゃなかったの?”
そんな無言の疑問が、その瞳には浮かんでいた。
だが彼女は律儀に従った。
「ルルリア。第百三十五番目の天人。お会いできて嬉しく思います。」
「はいはい、どうもどうも。……っていうかさ、そこは怒るところじゃない? 嫌味、通じなかった感じ?」
レルーシェイは目の前の少女をじろじろと観察する。
まるで生まれたての赤子だ。
やれやれ、と彼は内心でぼやいた。
わざと道化を演じ、反応を引き出そうとしてみたものの、成果はゼロ。次第に苛立ちを募らせながら、彼は自身の魂装を発動する。
そして案の定――
彼女の魂は、無色だった。
欲もない。
野心もない。
執着も、信念もない。
空っぽだ。
完全なる虚無。
レルーシェイの魂装は“読心”。
あらゆる知見を暴き立てる全知の権能だ。相手の精神深層へ潜り込み、隠された思惑も、忘却された記憶も、禁忌の感情や本性までも見抜くことができる。
だが。
この最年少の天人からは、“自我”と呼べるものが、何一つ感じ取れなかった。
――まあ、兵器ってのは、余計な感情なんか持たない方が都合いいもんね。
レルーシェイは舌打ちし、胸中に渦巻き始めた黒い感情へ、無理やり蓋をする。
一歩踏み外せば、自分は創造主も、この世界そのものも呪い始めるだろう。
だが正直――
そんなふうに堕ちたとして、誰が彼を責められるというのか。
五千年以上も昔。
異界から流れ着いた外来種族――ステラ族たちは、この世界へ避難先を求めてやって来た。
だが、生態も思考体系もあまりに異なる彼らは、この世界の住人たちと意思疎通を図ることができなかった。
そのため女神ソラリスは、両者の橋渡し役としてレルーシェイを創り出した。
彼の魂装は、言葉を交わさずとも他者の感情や思考を感知できるよう調整されている。そしてその能力は、常時発動型だった。
絶え間なく流れ込んでくる他者の内面。
欲望、嫉妬、悪意、欺瞞――人という生き物の暗く醜い部分を浴び続けた結果、彼はとうの昔に人類への希望を失っていた。
それでも長い間耐え続けてこられたのは、彼が心からステラ族たちを大切に思っていたからだ。
だが今、そのすべてが壊されようとしている。
突如として世界へ侵攻してきた地獄の悪魔たち。
理不尽極まりない侵略者は、彼の大切なものを根こそぎ踏み潰していった。
かつて繁栄を誇ったステラ族は、今や十人足らずまで数を減らしている。
共に生まれた六人の天人も、すでに惨殺された。
自分という存在そのものが、少しずつ意味を失っていく。
日に日に、彼は歪んでいった。
そんな彼の前に現れたのが――
自我も欲望も持たず、ただ悪魔を殲滅するためだけに造られた少女。
あまりにも滑稽だった。
狂気じみた喜劇だ。
この出会いが運命に仕組まれたものなのか、それとも単なる偶然なのか、彼にはわからない。
だが。
この状況を利用しない手はない、と彼は考えた。
彼が求めたものは、ステラ族たちの救済でも、自分自身の未来への希望でもない。
もっと俗っぽく、もっと矮小で――けれど切実な願い。
それは、“存在した証”だった。
もはや世界に何一つ貢献できなくなった彼らが、この世に確かに在ったという証。
遺産。
天人は繁殖できない。
ステラ族もまた、周囲の精霊が弱り果て、大地が死に絶えた今、増えることはできない。
待っているのは、完全なる滅亡。
何も残らない終わりだ。
記憶すら、やがて世界から消え失せる。
そんな結末を、五千年以上守り続けてきたステラ族たちに迎えさせるなど、彼には耐えられなかった。
絶対に認めない。
どれほど惨めで矮小でも、そんな運命には抗ってみせる。
そのためなら――
目の前の、何も知らない少女を利用することにも、躊躇いはなかった。
彼は交渉と政略のために生み出された天人だ。
頭を使うことに関しては、誰にも負ける気がしない。
――悪いけどさ。君には、僕らの面倒ごとに巻き込まれてもらうよ。
レルーシェイは内心で謝罪しながら、苦く笑った。
だが皮肉なことに。
彼はたった一つだけ、見落としていた。
自分が思っていた以上に“優しい”性格だったこと。
そして、最年少の妹を本気で大切に思うようになってしまうこと。
できることなら永遠に彼女の傍にいて、守り続けたいと願うほどに。
「よし。まずは綺麗にしようか。どんな服が好き? 僕、見た目によらず手先は器用だからさあ。何でも一から作れるよ。」
「……?」
少女はわずかに首を傾げる。
「んー、どうやらお洒落には興味なさそうだね。さっきまで何を着てたの? 悪魔の毒で溶けちゃったみたいだけど。」
少女は無言で、足元に転がる兵士の亡骸を指差した。
「……それ着てたの? ほぼ布切れじゃん。いやいや、それは駄目でしょ。」
レルーシェイは呆れたように肩を落とす。
「もっと君に似合う服を僕が作ってあげる。安心して。可愛くて、それでいて実用性も高いものにするから。ついでに術式もいくつか組み込んでおこうかな。」
にこやかな笑み。
だが、その声音には拒否権を認めない圧が滲んでいた。
こうして以後、ルルリアの衣装はすべてレルーシェイの趣味によって仕立てられることになる。
戦場で最もか弱く見える少女を包む、過剰なほど華やかなフリルドレス。
しかしその衣を纏う者こそが、誰よりも圧倒的な力で戦場を支配していた。
その異様な光景は、敵にも味方にも強烈な印象を刻み込む。
――後に“大聖騎士ルルリア”の象徴となる装いは、この日生まれたのだった。




