4、開店と再起とほのかな期待(前編)
夏の日差しを避けるように入り込んだ厨房は、生ぬるい空気が満ちていた。
昨日の掃除で湿った床が、水気を立ち昇らせている。清められたステンレスの作業台に手を触れると、その冷たさに束の間、暑気が遠ざかった。
誰もいない開店前の静けさ。
この瞬間が、ディルは好きだった。これから始まる一日へのほのかな期待と、誰にも邪魔されないで作業に集中できることへの喜び。
この店に、ロッカールームなどという、しゃれたものはない。そのままフロアに入り、素早くコックコートに着替える。
そのまま換気扇のスイッチを入れ、電灯で暗がりを払いのけると、冷蔵しておいたトマトソースを引っ張り出し、鍋の上に掛けた。
まだ火は入れない。急激な熱変化による劣化を防ぐため、常温に戻してから。
「こんにちはー、ヴィットリオ商店ですけどー」
「あ、はい」
出入りの業者が手渡してきたボックスを受け取り、中身を確認する。ロングパスタと足りなかった調味料のいくつか。
取り出して、作り付けの棚や作業台に置いていく。
厨房のレイアウトは把握済みだし、自分がやりやすいように手を加えてある。これなら思う通りに調理ができるだろう。
そんなことを考えつつ、ランチセットに使うレタスをちぎって冷水にさらし、昨日のうちに作っておいたランチスープ用の出し汁を取り出す。
人参と玉ねぎ、セロリのみで作ったこれは、アリシアが使っていたインスタントのコンソメスープを『延ばす』ために使う。
お湯の代わりに、このブロードで溶いて風味を増強する。材料費を抑えて『本格の味』を出すという、一部のレストランでもやっている方法だ。
後は、セットに出すバケットと、デザートのアイスクリームの品質に気を付ければ問題ないだろう。
開店一時間前なのを確認すると、トマトソースとブロードの鍋それぞれを火にかける。それからパスタを茹でる鍋にも水を張り、同じく火にかけた。
途端に、室温が三度ほど上がり、肌着にじっとりと汗ばむ感じが伝わってきた。
まずは始業前の試食だ。
少量のパスタを茹で、小粒のアサリを拾い、手早く調整しながら真紅色の一皿を整えていく。
最初にソースの出来栄えを見る。乳化されたアサリのエキスとトマトの酸味、その二つをまとめ上げるチーズの風味。溶け合ったとろみは口の中でほどけ、甘く芳醇なソースとなって、喉を滑り落ちた。
狙った通りの味だ。
パスタをフォークに取り、噛みしめる。ソースがよく絡んでいる。湯切りのタイミングも申し分ない。
最後にアサリの肉の身を試し、しっかりと滋味が残っているのを確かめた。
小さなフライパンの上で、小さなひき肉の塊が泡立ちながら焼けていく。手早く返し、頃合いを見て小皿に載せる。
ナイフを入れると、じわりと封じ込められた肉汁があふれた。
口に運び、噛む。
ナツメグやコショウの刺激もほどよく、肉の脂とエキス、混ぜ込んだスープ用のブロードが味をまとめ上げている。
ブロードはいわゆる隠し味ではなく『調律役』だ。
肉の旨味より、ブロードの印象を先に立たせることで、肉を変更しても味が変わったと思われにくい。
味付けはボンゴレに使うトマトソースを流用する。酸味が肉の味のアクセントになってくれるだろう。
「おはよう! ちょっと私用が長引いちゃって」
駆け込んでくる店長を見やり、ディルは手元を片付けながら告げた。
「開店準備は余裕をもってやること。店長とはいえ遅刻は厳禁だよ」
「わかった、以後気をつけます。じゃ、すぐに着替えちゃうね」
彼女は部屋の角の方へ行き、こちらの視界から姿を消す。
ほどなくして、青と白のストライプの半そでシャツと、同じデザインのスカート、ベストのように見えるエプロンという恰好になって出てきた。
「どうかな? これでちょっとはホールの人っぽく見える?」
「遅れてくるって言ったのは、そういう事か」
「うちのお店、コックコートしかなかったから。ちょっと奮発してみました」
彼女は笑い、そのまま店内の清掃と開店の準備に移っていく。床にモップが掛かり、それぞれのテーブルが拭き清められる。
銀器の入った小さな籠をそれぞれの卓に置くと、そのままアリシアは店の看板を表に出しに行き、入口を掃除にしていた。
こちらがやるべきことは終わっている、後は開店を待つだけだ。
来るはずはない、と思いながら、それでもどこかで期待してしまうのは、やっぱり厨房に立つ者の性だろうか。
予備の水差しを取ってきて、中に水と氷を入れると、グラスに注いで飲み干す。
「お店、開けるよ!」
「うん」
ドアに開店の表示を掛けるとアリシアは店の中に入り、カウンターのそばに立った。その目は何かを期待するように、入り口を見つめている。
「いくら見てたって、お客さんは来ないよ?」
「……うん」
トマトソースの鍋をゆっくりとかき混ぜ、スープの火を弱火に落とす。パスタを茹でる鍋へ水を足し、ヘリにこびりついたデンプンのかすをへらでこそぎ落とした。
まあ、こんなものだろう。
アリシアは期待しているようだけど、現実はそんなに甘くない。
どうせ長丁場になる、少し休んで――。
「いらっしゃいませ!」
聞き違い、ではない。
ドアのベルが遅れて鳴り、サラリーマンらしい二人組が店を見回しながら入って来る。
何やら親し気にアリシアが会話し、そのまま注文を取っていく。
「ボンゴレセット一つ、ハンバーグセット一つよろしく!」
「ボンゴレ一、バーグ一ね、了解」
やっぱり聞き違いじゃない。
大急ぎでフライパンを火であぶり、油を敷く。予想と違う状況に戸惑いながら、それでも手早く、正確に仕事を進める。
「ボンゴレ上がったよ!」
「はーい!」
うれしくてしょうがないという顔のまま、彼女が料理を客の前に並べる。
出来上がったハンバーグを提供しながら、ディルは呆然と目の前の光景を眺めた。
一体どんな魔法を使ったのか。もしかするとあの格好に何か秘密があるのかも。
忙しい勤め人らしく、二人は食事を終えてすぐに出ていってしまう。
それでも、売り上げは確かに出た。
「やった! お客さん、二人も来たよ!」
「よ、良かったね」
「二人とも美味しいって言ってた! また来るって!」
「う、うん」
まぐれ当たりにしては上出来だ。
自分も、ただ突っ立っているだけでは恰好がつかないし――。
「あっ、いらっしゃいませ!」
「は?」
幸い、その声はアリシアには聞こえていなかった。今度は一人、こちらはボディスーツを着た竜便のドラゴン。
この辺りに宅配をした帰りだろう。
あと二日、この店に来るのが早かったら、彼もアリシア特製、できそこないのミートボールを喰う羽目になったかもしれない。
「ハンバーグ一、ボンゴレ一お願いね」
「う、うん」
空を飛ぶ仕事は体力の勝負、一竜で二人前食べてもおかしくはない。提供された食事は、あっという間に彼の胃袋に消えていった。
「ありがとうございました!」
それからも、客はぽつぽつと訪れた。
大体、一時間に三人ほどで、千客万来には程遠い。それでも、五時の閉店前には仕込んでおいたハンバーグが、残り一個になっていた。
「アリシア、もう店閉めておいて。ハンバーグが一個しかない」
「ホントに!? すごい、もうそんなに出てたんだ!」
「まあ、安いからね」
その代わり、ボンゴレの売り上げは振るわない。ソースはそれなりに日持ちするので問題ないが、自分の味が値段に負けるのは、微妙にへこむ。
「大丈夫。ディルのボンゴレ、本当においしいから。少し高くても食べてくれるヒト、たくさんいると思うよ」
「……別に気にしてないよ。そもそもハンバーグだって、僕が作ったものだし」
「残りはどうするの? 半分づつにして食べよっか?」
「これから明日の仕込みに入るよ。君は片付けたら上がっちゃっていいから。残りのハンバーグは僕の残業代だ」
食器や洗い場の水回りを片付けると、アリシアは満足そうに吐息をついた。
「久しぶりに、このお店がにぎわった気がする」
「だろうね。もしかして君、運が良いほう?」
「かも。何しろ、最高の料理人を引き当てたんだもんね」
ディルは何気ない調子で、視線をそらした。次の仕事を探すように。
「もう上がっていいよ。戸締りもやっておくから」
「……うん。それじゃ、また明日」
そして彼女が去り、一竜だけの厨房に、静けさが戻る。
朝と同じようで、ほんの少し意味の違う空気。
ディルは口を閉じたまま、野菜を刻み、ひき肉を作り、調味料と一緒に混ぜ合わせ、ハンバーグの種を作っていく。
あえて仕込みの数は変えない。今日と同じく繁盛するなんて、お気楽な予測を立てるプロはいない。明日の売り上げを予想するなら、まず一月の平均値を取ってからだ。
『何しろ、最高の料理人を引き当てたんだもんね』
夕暮れの厨房に残された言葉が、まだどこかに漂っていた。
もし彼女が、僕の考えていることを知ったら、なんと言うだろう。
「どうでもいいさ、そんなこと」
肉の塊を焙りながら、うずいた感傷を投げ捨てる。
そして、二枚目のフライパンを引き出し、卵を焼き始めた。
奇麗なサニーサイドアップを、焼きあがったハンバーグの上に載せて、トマトソースをたっぷり、更にチーズを贅沢に降り注ぐ。
厨房を仕切る者の特権。表には出ない賄いに、ボトルに残った白ワインを添えた。
「おつかれ」
自分だけに向けたねぎらいを掲げて、白いドラゴンは晩餐を取った。
目玉焼きハンバーグ、好きです。