4、開店と再起とほのかな期待(後編)
日よけの帽子を脱ぎながら、アリシアは店のドアを開けた。
「おはよう!」
奥で動く白い姿が、カウンター越しにこちらに視線を投げてくる。
「今日も用事かい? 身だしなみに時間を掛けるのもいいけど、一応店長なんだから。自覚も持ってもらわないと」
「うん、ごめんね」
ユニフォームに着替えると、カバンをレジ台の下に置き、開店準備に取り掛かった。
床を掃除し、テーブルを拭き、カウンターの上もきれいに整える。厨房のディルは手際よく、全ての準備を整えていて頼もしい限りだ。
昨日のうちに洗っておいたフォークとナイフを手に、乾いた布で拭きながら、籠に納めていく。そんな作業一つ一つが、今はとても楽しい。
ほんの数日前まで、すべては無駄だった。
いつ来るかもわからないお客さんを待ちながら、来る日も銀器を磨き、テーブルを奇麗にしてきた。
そして、時々やってくる人たちに困った顔をされたり、怒られたりする。どうして自分がここにいるのかも、分からなくなりそうだった。
「ねえ、ヴィットリオさんに発注掛けておくから、明日受け取りお願いできる?」
「忠告しておくけど、調子に乗って無駄なものを注文するのは」
「コーヒー豆。昨日結構出ちゃったから」
厨房の主は顔をしかめ、それから頷いた。
「とりあえず一袋だけだよ。万が一無くなっても、通りの向こうの雑貨屋さんで適当な豆を買ってくればいいんだから」
「もしかしてあそこ、そんなに良い豆仕入れてた?」
「間に合わせなら、僕が軽く焙煎していい味に仕上げられるからだよ。その後で、足りない分を注文すればいい」
「ディルって、ホントに何でもできるんだね」
分解しておいたエスプレッソマシンにパーツをはめ込みながら、賞賛を告げる。
だが、帰ってきたのは意外な反論だった。
「なんでもってわけじゃ、ないよ」
「例えば?」
「……僕はドルチェが得意じゃない。店に出すメニューでも、そこだけは何も言わなかったでしょ」
そう言えば、そうだ。
あれだけ料理の一切に口うるさかった白いドラゴンは、冷蔵庫のアイスクリームに関しては、味を確かめただけだった。
「なんだか意外だね。あんなに料理が上手なのに」
「料理と製菓は、全然と言っていいほど、違うジャンルなんだよ」
厨房の中からパスタを作る匂いが漂ってくる。それに合わせて、アリシアも今日最初の一杯を、マシンに作らせた。
「やれと言われれば、並以上の物を作る自信はあるさ。でも、僕の作ったドルチェを、メニューに入れようとは思わない」
「求める物にならないから、ってことだね」
「うん。分かってるレストランなら、きちんとドルチェ専門の担当を雇って、調理場も別にする」
そんな話を聞いた後で出すのは気が引けるが、注がれたコーヒーをそっと差し出す。
「心配しないで。僕が見るのは機械の調子、君の腕が関与する余地なんてないよね?」
「安心していいやら、怒っていいやら、複雑」
ディルは笑い、コーヒーの香りと味を確かめ、それからパスタを、ハンバーグを味見していく。
考えてみれば、料理人は大変な仕事だ。
いつも通りの味が出ているか、そうでなければどう修正するか、そういう作業を毎日毎日、続けていく必要がある。
そしていつか、食事という行為が『毒』に変わるかもしれないのだということを、わたしはよく知っていた。
「アリシア?」
「え……な、なに!?」
「そろそろ開店だから、レジお願い」
「分かった」
レジに向かい、つり銭を充填し、それから開店の看板を表に出す。
大丈夫。
昨日もうまくいったんだから、今日も、きっと。
そう思い込もうとしても、やっぱり気持ちは落ち着かない。
店の中の時計が、こつこつとリズムを刻んでいく。
決して心地よくはない、諦めと絶望が積み重なる音。
時間が、過ぎていく。
「アリシア」
「え、なに?」
「顔がこわばってる」
指摘されて、わたしはあわてて頬に手を当てた。ごしごしとこすり、指で思いきり口元をひねりあげる。
「どんな時でも、店員は落ち着いていること。驚いたり、不安そうにしたらダメだよ」
「わかってる。けど、難しいなぁ」
「それと、フロアにいる時は、決して急がないようにね」
彼は厨房から出て、店の入り口辺りまで出て、語り始めた。
「君は挨拶する声がいい。良く通るし、発音もはっきりしてる。でも、動作がうるさすぎる。案内するときや料理を出す時、せかせかするのはダメだ」
「待たせちゃいけない、って思ったんだけど。案内も料理も、早いほうがいいでしょ?」
「もちろん。でも、早いのと急ぐのは違うんだよ」
白いドラゴンの声は、料理人というよりは先生のようだった。
丁寧で、落ち着いた言葉が、静かな店の空気に広がっていく。
「ヒトは他者の行動を見て自分の態度を変える。店員がせわしないと、お客さんも落ち着かなくなる。結果として、居心地の悪い店ができあがるんだ」
「なるほど。確かに忙しそうなお店には長居したくない、かな」
「その性質を利用して、お客の回転率を上げる営業もあるけどね。でも、この店はそうじゃないから」
それからトレイを手に取ると、ディルはゆったりと店内を歩き始めた。
「歩くとき歩幅を半歩ぐらい広めに取ると、せかせかしなくて済む。視線は水平方向よりも、ほんの下に向けてみて。お店のテーブル、全部目に入ってこないかい?」
「あ……ほんとだ」
まっすぐ前を見るよりも、軽く顔をうつむけたほうが、視界が広がる感じがする。四卓あるテーブルの状態も、ちゃんと確認することができた。
「お客さんを注視するのは、主に入店時と料理をサーブする時だ。それ以外は、そのぐらいの視界を保っておく。料理の食べ具合や、グラスがどれだけ空になっているか、自然と分かってくるからね」
「こういう接客の事って、調べてもよく分からないよね。やっぱり専門の学校で覚えなきゃダメかな」
「給仕は日常生活で使う技術じゃないしね。実のところ、学校より店で教えてもらう方がいい場合もある。実地でないと指導しにくいこともあるし」
それから、彼は空のグラスを使って、料理の提供について教えてくれた。
基本はテーブルに座った人の邪魔をしないこと。料理を出すタイミングや、新しく注文を聞くやり方など、覚えることはたくさんあった。
「一度に覚えなくていいからね。急がないこと、動きに余裕を持つことを優先に――いらっしゃいませ」
ディルの声に従うように、扉が鳴った。
ぴったりとしたフライトスーツを着けたドラゴンが二竜。そのまま歩み寄ると、席を勧めて注文を取っていく。
それは自然でそつのない、落ち着いた対応だった。
「ハンバーグとボンゴレ、二人前づつね」
「う、うん」
伝票をこちらに手渡すと、何事もなかったように調理に入っていく。
本当に、お店の中の事はなんでもできるんだ。
そんな感慨をさえぎるように、店のドアが、からりと鳴った。
「いらっしゃいませ!」
急ぎ足を押し留めると、わたしは少しだけ歩幅を広くして、お客さんへと向かった。
信じられない思いで、ディルは今日の売り上げを見た。
入ってきた客は昨日とほぼ変わらないどころか、わずかに伸びていた。ハンバーグはすべて売り切れ、ボンゴレを注文する客もちらほらいた。
この結果に当惑している自分に、当惑する。
こんな風になるとは思っていなかった。毎日の営業が空振りに終わり、しょげかえる彼女をなだめすかしながら、最終的な結果に導くことを想定していた。
だが、店は少しずつ活気を取り戻しつつある。
冷蔵庫の中の食材は、底を尽きかけていた。発注を掛けなければ、明日はともかく明後日の営業に支障をきたすだろう。
僕だって、この店が潰れたほうがいいとは思わない。
繁盛するなら、それはそれで願ってもないことだ。
そして、もしも、何もかもがうまく行ったなら。
『お前、ちょっと修行に行ってこい』
師匠の言葉を思い出す。
僕がこうして、寄る辺もなくさまよいながら、生きてきた理由を。
『三年、いや一年でいい。うち以外の店で勤まったら、帰ってくるのを許してやる』
店を出て、もう二年が経っている。
さまよった日々が、ウニベルツァーレで過ごした年月を、追い越してしまう。
期待するな、心の中から暗い声がする。
チャンスを生かせ、そんな直感がある。
ディルは息を吸って、吐き出し、それから店の電話を手に取った。
「――ロッシーニ精肉さんですか? 発注を、お願いします」
祈り、ささやくように、白いドラゴンは新たな食材を発注した。
今日は接客のおはなしです。




