3、試食と問題と小さな改善
作業台に向かって半身に立つと、ディルは食材に包丁を入れ始めた。
ニンニクをみじんに切り、赤唐辛子のへたを取って種を取り出し、輪切りに。
アルミのフライパンをガス台に掛けると、たっぷりとオリーブオイルを注ぎ入れ、温めていく。
最初にニンニクのみじん切りが、しゅわしゅわと泡立ちながら、金色の液体に沈んだ。
火を弱火におとし、緩やかに揺すぶりながら、白い欠片がほんのりと色づいていくのを見計らって、唐辛子の小さな輪切りが追加される。
一連の動作に差し込まれて、いつのまにか煮立っていた鍋にパスタを投入する。
ざっ、と、濡れた砂利のような音と一緒に、アサリがフライパンに投じられ、上げられた火力にぱちぱちと水分が爆ぜた。
パセリがみじん切りにされ、緑の欠片となってフライパンに降り注ぐ。
注がれた白ワインが、じゅぅっ、と音を立て、炎が上がった。
落としぶたがされ、中身のアサリがごとごと揺れる様に目もくれず、寸胴から小鍋にトマトソースを移し、再び味を見る。
パスタの鍋がかき混ぜられ、麺がほぐされ、何かに気が付いたように、落としぶたが開けられると、ひと掬い、フライパンのスープを口にする。
頷き、わずかに塩。
間をおいて、小鍋のトマトソースが注ぎ入れた。
そこで、厨房の中に漂う香りに、変化が起こっていた。
強いニンニクの香りから、アサリがワインで蒸しあがる湯気、その全てがやって来たトマトの、甘く酸味のある香りと混在していく。
全く個別のものであった食材たちの匂いが、料理の香りへと成り替わっていた。
最後に、一塊のチーズから淡雪めいた粉が削り入れられ、茹で上がったパスタが混ぜ合わさせると、ディルはアリシアに声を掛けた。
「お皿」
「は、はいっ!」
二つの皿に、きれいな小山の形で盛り上げられたパスタ。具のアサリはきれいにちりばめられ、行儀よく開いた姿を見せつけていた。
「すごい……ホントに本で見た感じになってる」
「感動してるとこ悪いけど、冷めないうちに」
「う、うん」
そのまま店側に戻り、適当な席に着くと、
「い、いただきますっ」
アリシアはパスタを口に運んだ。
「う……ん……っ」
まず驚きが、彼女の顔に浮かんだ。
ゆっくりと目じりが下がり、納得の笑顔に変わる。
とろりとしたトマトソースが絡んだパスタ。染み出た滋味の汁気で輝くアサリ。
手は止まらず、一口、また一口と、言葉もなく料理を平らげていく。
やがて皿からすべてのパスタが消え、残ったのは食べ終わった貝殻だけになっていた。
「満足していただけましたか、店長」
「……はい。とてもおいしかった、です」
頬を染めながらうつむいているのは、子供のようにがっついてしまったからか。それとも感想も言わずに食べきってしまったからか。
そんなアリシアに笑い、ディルも自分の分を食べ始めた。
アサリもソースも問題はない。ただ、パスタを上げるのが少し早かったかもしれない。
この味なら、もう少し柔らかめにしてもいいだろう。
「そんな風に、いつも考えながら食べてるの?」
「癖みたいなものさ。料理をしない人から、食べるのが嫌にならないか、なんて聞かれたりもするけど」
「ほんと、ディルはすごいね」
彼女にしてみれば、こんなしぐさ一つでも、一流のふるまいに見えるのだろうか。
だが、続けられた言葉は、意外なものだった。
「厨房で動いてる姿が、すごくきれいだった。あと、立ちかたとか」
「……そ、そうかい?」
「これでも一流のヒトを近くで見てきたんだもの。見る目には、ちょっと自信あり」
アリシアが言っているのは、プロのアスリートのことだ。
空を飛ぶレーサーと料理人の自分が、どこまで共通するかはわからない。
それでも、こちらを見つめる視線には、純粋な賞賛があった。
「そうするのが当たり前みたいに、あっという間に作業が進んでいくんだもん。メモする暇もなかった」
「そ、そうかな。僕も仕事は早いつもりだったけど……」
「どんな世界でも、プロって姿勢から違うんだね」
ディルは席を立ち、店の隅にあるコーヒーメーカーに向かった。
「コーヒー、淹れるから。冷凍庫のアイス、適当に盛ってきて」
「うん、わかった」
さり気なさを装ってみたが、声は少し上ずっていたかもしれない。
これほど率直に褒められたのは、いつぶりだろうか。
お世辞でも、皮肉でもない言葉で。
「……大げさなんだよ」
それは自分に対しての戒めだった。
あんな言葉くらいで口元を緩めるなんて、僕らしくない。
コーヒーの香りを吸い込み、気持ちを入れなおすと、ディルはテーブルへと戻った。
「とりあえず、最初の一皿はこれでいい。仕入れの時にも言ったけど、季節ものは売りになるし、仕入れも安く済むから」
「これだけ美味しいんだもん。お客さんもいっぱい来るよね?」
「さすがにそれは、楽天的すぎるよ」
こちらの腕を信用してくれるのはいいが、妄信まで行かれたら厄介だ。
苦くて黒い液体で舌を湿らせると、ディルは同じぐらい苦い現実を口にした。
「君はこの十か月近く、徹底的にこの店の評判を落としてきた。素人同然の接客に、料理未満の残飯でね。その上、こんな目立たない裏通りだよ?」
「せ……宣伝すれば、なんとかなる、かも」
「知り合いに声を掛けたところで、たかが知れてるよ。そもそもこの店、広告を出せるほどの余裕があるのかい?」
たちまち、彼女の顔は日向に置かれたアイスクリームのようになった。
甘い考えはきっちり溶かしておくに限る。希望的観測や場当たり的な考えは、店の経営にとって害にしかならない。
「繰り返すけど、僕は料理人であって経営者じゃない。僕が手伝えるのは厨房の中の事だけだ。それ以外は店長、君の領分だよ」
「それなら」
いつの間に取り出したのか、さっきの料理を記録していたメモが、アリシアの手の中に現れていた。
「あなたが言える範囲でいいから、この店の直すべきところを、教えて」
彼女は、まっすぐにこちらを見つめていた。
その真剣な表情に、ディルは心の中で皮肉な笑いを浮かべた。
追い詰められた人間は、こういう顔をする。そのくせ、改善するべき点を指摘すると、怒りだしたり、つまらなそうな顔でこう言うのだ。
『それはただの正論だ。今は聞きたいのは、そんな言葉じゃない』
いいとも、君がそう望むならやってあげよう。
白いドラゴンは厨房の方へ顔を向け、冷蔵庫の方を指さした。
「まず、君が使ってるハンバーグ用の肉だけど、あれは高すぎる」
「そ……そうなの?」
「あんな上物、六百デナリのランチメニューに使うなんて馬鹿げてる。ディナーメニューで、最低でも二千は付けていいレベルだよ」
実際、厨房で在庫をチェックしたとき、開いた口がふさがらなかった。
おそらく業者に、一番いい肉を、とでも頼んだに違いない。
とはいえ、こんな売り方を素人相手にやらかした業者も相当にひどい。あとで顔をあわせたら、文句の一つも言ってやろう。
「それと、冷凍の付け合わせもストップで。ああいうのは繁盛店が、省力化のために使うものだよ」
このぐらいの店なら、朝の仕込みに人参のグラッセや、茹でいんげんを含めることぐらいはわけもない。
そもそも、僕の料理に出来合いの冷凍食品を使うなんて、許す気はなかった。
「じゃあ、残ってる食材はどうしたらいい?」
「使うしかないよ、赤字覚悟で。その辺のやりくりは僕の領分だ。なるべく損が出ないようにやるさ。ちょっとそのメモ貸して」
借りた筆記用具でハンバーグとパスタの絵を書き入れ、少し考えて、値段を割り振る。
「ハンバーグの値段は据え置きの六百、パスタの値段は八百にする。ハンバーグは今の材料を使いきったら、改めてランチ仕様に切り替えよう」
「切り替えるって?」
「……今より安い肉を使う、ってことだよ。『婉曲な表現』って奴さ」
「ご、ごめん。ランチ仕様に切り替えるのね、了解」
察しの悪さにあきれつつ、ディルは店内を見回し、更に指示を飛ばした。
「店に出てるメニュー表は全部下げて。あそこに載ってる料理は、今の状況じゃどれも出せないからね。ついでに言うと、ディナー営業はしばらく止めた方がいい」
「ど、どうして?」
「お客さんが来てないからだよ」
無情な断言に、アリシアが泣きそうな表情でこちらを見る。
それでも、手加減をする気は全くなかった。
「昼の評判が悪ければ、夜だって当然、人はこない。店を開けていても光熱費と廃棄食材がかさむだけだよ」
「げ、現実が……厳しい……」
「それが飲食ってものさ。少しは理解したかい?」
ぐぬぬ、の形に口を曲げた彼女は、それでも言われたことをメモに記して、何度か読み直していた。
「これ以外に、やっておくことは?」
「アサリの仕入れ先の確保、パスタやチーズの注文、コーヒーメーカーの分解清掃は始業前に必ずやること。あとはテーブルクロスとカーテンを夏物に交換する。それで何とか、落第は免れるかな」
「な、なるほど」
「あとは君の接客だけど、それは実地でいいね」
とりあえず、指摘できるところはこのぐらいだろう。
あとは彼女の本気が、どの程度か見せてもら――。
「じゃあ、まずは一つ目」
立ち上がると、彼女は置かれたメニューを取り、他のテーブルからも回収していく。
そのまま窓際に近寄ってカーテンを外し、手近なテーブルに積み上げた。
「カーテンはこのまま廃棄するけど、メニューはどうしようか」
「……参考のために、一冊だけ残して。あとは廃棄で」
「そっか、分かった」
そして全てのテーブルクロスが取り除けられ、彼女はメモ帳に書かれた項目に、いくつか横線を引いた。
「カーテンとテーブルクロスの色指定は?」
「えっと、無難に青か、緑でいいんじゃないかな。柄物じゃなくて薄手の無地で」
「ちょっと行って買ってくる。分からないことがあったら連絡するね。それじゃ!」
ドアを鳴らしてアリシアが去り、残されたディルは、呆然とつぶやいた。
「そりゃ、善は急げとは言うけどさ」
特にメニューの話は、もめることさえ覚悟していたのに。
メニューとは実質的な店の看板であり、運営者のこだわりそのものだ。
内容に意見することさえ慎重を要するし、すべて破棄しろなんて言った日には、相手の怒りを買うのを覚悟しなくてはならない。
いい加減なことを言ったつもりもないが、ここまで素直に受け入れるなんて。
「それだけ焦ってる、ってことかな」
店を立て直したい一心で、それまでの経営をがらっと変える経営者も珍しくない。
そのほとんどが人の意見を聞かず、成功者の方法論をいい加減にまねたあげく、一年と持たずに廃業していく。
そういう意味では、アリシアは筋のいい方だろう。
「落第ギリギリなのは、変わらないけどね」
ディルは皮肉に口元を歪め、厨房に入った。
あれだけ偉そうに指示した以上、呆けて休んでるわけにもいかない。
ハンバーグとランチスープの手直しぐらいはしておこう。
思い定めると、白いドラゴンの手は、無心に野菜を刻み始めた。
すべての仕込みと店内の手直しが終わるころには、七時を回っていた。
店の鍵を閉めながら、アリシアは背後に立つディルに声を掛けた。
「明日、ちょっと別件で遅れると思う。先に入ってもらってもいい?」
「それは、別に構わないけど……」
「あ、そうか。はい、お店の鍵」
差し出されたものを胡散臭そうに眺めると、白い手が渋々といった感じで受け取る。
「いいけど……これって、マスターキーだよね?」
「無くさないでよ。わたしも入れなくなっちゃうから」
几帳面な彼には申し訳ないが、今日まで他のヒトが店に入ることなど、想定していなかったから仕方ない。
いずれはスペアキーを作って渡すことにしよう。
「それじゃ、また明日ね!」
「うん、お疲れ様」
軽く手を振ると、駅のある方へと走りだしていた。
歩いても電車には間に合うはずだが、それでも足は自然と早くなる。沸き上がるる喜びが、体を突き動かしていく。
たった一日で、店は変わった。
白いドラゴンの料理人は、厨房をごちそうの香りで満たし、店の中をきれいに染め変えてみせた。
厳しい物言いも本当にプロのそれで、辛辣さよりも信頼感が上回った。
彼に任せておけば、きっと大丈夫。
『僕は料理人であって経営者じゃない。手伝うのは料理まで、それ以外は全部、君にやってもらうよ?』
「おっと、そうだったっけ」
彼の言葉を思い出し、ゆるんでいた自分を戒める。
彼の仕事は厨房の中にある。それなら、わたしがするべき仕事は?
これからの行動に、新しい項目を追加する。思いついたことは何でもやっていこう。
決意を胸に吸い込むと、アリシアは再び駆け出した。
料理を作るシーンは好きです




