10、そして、残ったもの
寝覚めは、思ったよりは悪くなかった。
視界が開けると同時に、ディルは体を起こし、
「う……っ」
「起き上がるのはまだ早いよ。あと少し、そのままにしておきな」
枕元と同じ位置にあるデスクに座った白衣の女性は、ぶっきらぼうに言い放った。
狭い部屋、一部は壁だが、三方向は布の張られた間仕切りが置かれている。
消毒液の匂い、寝かされていたベッドの形から、どこかの診察室と当たりをつけた。
「今、何時ですか?」
「七時半を回ったところだよ。言っておくけど、あと十分はここにいてもらうからね。点滴がまだ落ち切ってないんだから」
絶望的な宣言を聞き、うつ伏せになって枕に顎を乗せる。
間に合わなかった、それどころか。
「アサリは……」
「捨てたよ。悪いけどそういう決まりでね。そもそもあんな潰れた生もの、診察室に入れられるわけないだろ」
なんてひどい医者だ。
気づかいの欠片もない発言に、相手をにらみつける。
赤毛のヒューの女性は、こちらの視線を、皮肉気な笑いで受け流した。
「昨日の嵐で、あんたみたいな無茶な飛行者が急増してるんだ。おかげで非番のあたしまで呼びつけられて、やりたくもない残業についてるってのに、そんな顔かい」
「す……すみません」
「命があっただけでもありがたいと思いな。今日で死亡事故が三件追加、あんたのおかげで軽症者もダブルスコアだよ」
軽症、という言葉に改めて体を見回す。
幸い両腕には、大した傷はない。
箱をくくりつけていた胸に、打撲の痛み。それから、尻尾と足に脈打つ疼きがあった。
「荷物がクッションになったおかげで、大きなけがはない。寝てる間に頭の検査もしておいたけど、そっちも問題なし。不調の原因は栄養失調と軽い脱水だ」
「そう、ですか」
「宅配業者じゃないね。大方、店で使う食材を取りに行ったってところか。無茶したね」
彼女はカルテに診察内容を書き留め、飲みかけのカップを口に運んだ。
「今日はこのまま帰っていいけど、明日、事故内容証明を持って警察に出頭すること。保険会社にも連絡入れときな。墜落現場の持ち主と交渉する必要があるだろうからね」
「はい……」
「ともあれ、命があってよかった。生きてりゃ次もある、そんな顔しなさんな」
次、という言葉が、ひどく虚ろに聞こえる。
持ち帰るべき物を失い、約束は失われてしまった。
「なるほど。それだけ大事な品物だったんだね」
「店の、売り上げに関わるんです」
「無茶をする価値のある事だった、ってわけかい」
椅子に背を預け、彼女は深々とため息をついた。
「お疲れさん。あんたはよくやったよ」
「……なんですか、それ」
「湿布みたいなもんさ。少なくとも、あんたみたいなヒトには、大抵こう言ってる」
改めて、ディルは彼女を見つめた。
細い体ではあるが、ひ弱な感じはしない。こちらを見つめる顔にあるのは、静かな笑顔だけだった。
「バカなことしたって、思いますよね」
「でも、やりたかったからやった。そうだろ?」
「……はい。でも」
あの時、自分を思いきらせたものは何だったのか。
冷えてしまった今の心には、見当もつかない。
持ち帰るべきものは失われて、虚しさだけが残っている。
「連絡は入れたのかい」
「え?」
「仕入れに行ったんだ、店に連絡ぐらい、途中で入れなかったのかって言ってんの」
指摘が痛みになって、胸に差し込んだ。
アリシアになんて言えばいいんだろう。店は今、どうなっているのか。
「ほら、ここのを使いな」
「で、でも」
「いいんだよ。あたしのおごりだ。それと」
彼女は受話器を差し出して、言葉を継いだ。
「まずは今すぐ帰るって、ちゃんと報告しなよ」
そのまま、医者は部屋を出て行ってしまう。観念すると、ディルは店に電話を掛けた。
『はい、ヴォーノです。今日はもう閉店しておりますので、申し訳ないですが……』
「僕だよ」
息を飲む音が聞こえて、それから上ずった声が、雷のように轟いた。
『今どこにいるの!? 体は大丈夫!? 一体何が――』
「――だから、それを報告しに、今から帰るよ」
受話器の向こう側のアリシアは、少しためらった後、言った。
「うん。待ってるから」
そのまま通話を切り、ベッドから起き上がる。
会話の終わりを見計らったように赤毛の医者が戻り、繋がっていた点滴を外した。
「気をつけて帰るんだよ。タクシー乗り場なら、ここから大通りに出ればすぐだ」
「はい。ありがとうございました」
人気のない廊下をたどり、解放された非常口から外に出る。
空はすでに、暗く染まっていた。
今まであそこにいたのだと、そんな感慨が湧いた。
そして、白いドラゴンは帰路をたどり始めた。
小さな小路に収まった店は、静かだった。
明かりは落とされ、看板も下げられている。抜けてきた通りの騒がしさとは逆の、押し殺したような沈黙があった。
白い手が一瞬ためらい、それでもドアを開く。
奥のテーブルから立ち上がったのは、栗色の髪の姿。
その対面には初老の男がいて、こちらを見て笑った。
「ディル!」
勢いよく駆け寄ったアリシアは、潤んだ瞳で、こちらをじっと見つめた。
「ただいま」
「……おかえりなさい」
こらえきれなくなった彼女の、頬が濡れていく。
こんな時、どうしたらいいのだろう。うろたえる白いドラゴンに、助言が投げられた。
「彼を座らせてあげなさい。無事とはいえ、本調子ではなさそうだからね」
「あ……っ、は、はいっ」
壊れ物でも扱うようにこちらの手を取ると、彼女は椅子を一緒に引きずり、今まで座っていた席に導いてくれた。
腰を下ろし、落ち着くと、ディルは結果を口にした。
「アサリはダメだった。途中で不時着して、その時に」
「ふ……ふじ……っ」
「驚くのも後悔するのも後にしなさい。まずは彼の報告を聞かせてもらおう」
グラントの言葉が、正直とてもありがたかった。
二人っきりでいたら、感情ばかりが先に立って、まともな会話にならなかったろう。
そしてディルは、今日一日の出来事を、語り聞かせた。
「三時ぐらいか……丁度風向きが切り替わるところだ。ミラル山は海から離れているが、北の山々の影響を受けるからね」
「お詳しいんですね。そう言えば不動産の方でしたっけ」
「ドラゴン向けの賃貸に、地形と風の話は欠かせない要素だ。とはいえ、半分は趣味のようなものだが」
笑うと彼は立ち上がり、コーヒーメーカーに歩み寄った。
その手つきは慣れていて、きっちり三人分を作り上げ、戻ってきた。
「もしかして、飲食の方もやられていたんですか?」
「これを使うのは久しぶりだ。この店に通っていたころは、忙しいトマスの代わりに、ウェイター代わりをしたこともあったよ」
ミルクも砂糖もない、苦いエスプレッソとともに、彼は本題を切り出した。
「店の営業は、二時をもって終了した。店長判断でね」
「……正直、気が気じゃなかったの。それに、ランチの営業で、とても一人じゃ回せないと思ったから」
「一月前とは見違える繁盛ぶりで、私も驚いたよ。ちなみに、アリシアのハンバーグは、まあ、それなりの出来だった。君の指導の賜物だ」
思わず笑いが漏れ、アリシアも照れくさそうに笑みをこぼす。
そんな空気が緩んだところに、グラントは容赦のない宣言を振り下ろした。
「とはいえ、今日一日の売り上げが落ち込んだのは事実だ。聞けば、私に対する手付金を工面する目処は、この二日間に掛かっていたそうだね」
「……はい」
「しかし、一番人気の商品は材料不足で提供できず、シェフも事故で負傷した」
「僕は大丈夫です! 売り上げの方も」
「ダメだよ」
それまで沈黙していた彼女は、こちらを見つめて首を振った。
「明日はおやすみして。事故の次の日に働くとか、絶対にダメ」
「でも」
「これは、店長の決定です。それと」
アリシアは笑い、それから告げた。
「このお店は、今月をもって閉店します」
墜落した時の空と、同じめまいが襲ってくる気がした。
天地がひっくり返るような、不快な感覚。
叫びだしたくなるのをこらえて、ディルは呻くように問いかけた。
「それが、君の判断なのかい?」
「ごめんね、相談もしないで」
「嫌なんじゃ、なかったのか、ここを閉めるのが」
「うん。でもね、それよりも大事なことがあるから」
彼女の顔は、もう泣いても苦しんでもいなかった。
答えを手にして、納得している清澄さがあった。
「働いてくれる人に無茶をさせて、続けていいお店はないんだって、分かったから」
「僕は無茶なんて――」
「そうかもしれない。料理を作ることも、食材の目利きも、経営の話も。あなたにとっては簡単なことかもしれない。それでも、誰かに無理をさせて続けるなんて、しちゃいけないことだよ」
そんなことはない。
これまでだって自分は、ヒトよりも働いて、結果を出してきた。
誰ができなくても、一人ぐらい欠けたって何でもなかった。
全部、僕がやれば。
『ここはな、子供の遊び場じゃねえんだ』
それは、唐突に投げ出された答えだった。
かなたから響く遠雷のように、過去から掛けられた諫言だ。
ディルの意識が、これまでの記憶を通り過ぎた。
『どうして、こんな簡単なことができないんだ』
『そんなやり方、効率的じゃない』
『自分の仕事をまともにできない奴は、必要ない』
『僕がやったほうが早い』
そうだ。
これは全部、僕のわがままだ。
思う通りにならないと気がすまない、子供の理屈だった。
自分の都合以外、何もない世界。
だから、誰とも折り合わず、どこにも居場所がなくなってしまった。
「ディル?」
気が付くと、アリシアは心配そうな顔でこちらを見ていた。
「その、気分が悪いなら、今日はもう帰ったほうが」
「大丈夫。そうじゃないんだ」
彼女はあきらかに、ダメな経営者だ。
自分の都合で先代の残したものを喰い潰し、出資してくれたヒトの好意に甘え、とうとう僕という他人まで引きずり込んでしまった。
それでも、何かを変えることをためらわなかったし、自分にできることを果たす気持ちと行動力があった。
彼女を知る一日ごとに、欠点と美徳の天秤が傾きを変えていく。
その心地よさを、思い出した。
(ああ、そうか)
師匠がなぜ、よそで勤まったら、戻ってきていいと言ったのか。
その意味をようやく理解できた気がした。
「分かった。店長の判断なら、従うよ」
「ごめんね……こんなことになるくらいなら、もっと早く辞めるべきだったよね」
「そうでもないよ」
冷めたコーヒーを飲み下してしまうと、ディルはグラントの方に向き直った。
「僕が帰ってくるまでに、話は済んでいたんですね?」
「アリシアから切り出されたよ。このまま続けていたところで、結局は、君頼みになるだけだとね」
「身勝手でごめんなさい。それと、本当にありがとう」
「うん。僕の方こそ、ありがとう」
不思議そうな顔のアリシアにあえて何も言わず、白いドラゴンは立ち上がった。
「二人とも、お腹空いてないですか?」
「……うん。実は、けっこう空いてる」
「昼に彼女のハンバーグを食べたきりだからね」
手にも目にも異常はない。少し尻尾が痛むが、そのぐらいは何ともないだろう。
厨房に入ろうとすると、アリシアは不安そうに立ち上がった。
「今日はもういいよ。どこかのお店で」
「君の言う通り、明日は休むさ。でも、今は作りたい気分なんだ」
コックコートに帽子、エプロンを身に着け、火が落とされた厨房に命を吹き込む。
朝の仕入れ分のアサリは、残っている。
たぶん、ここで料理をするのは、これが最後かもしれない。
そんな感傷も、ニンニクに包丁を入れた瞬間に、消え去った。
照明の落とされたレストランというのは、独特の味があるものだ。
活況の店にはない奇妙な静けさと、そこで出される賄いの美味さ、料理人とその協力者だけが知る、裏の顔だ。
湯気を立ち昇らせた皿を手に、厨房を抜けてくる白いドラゴンの姿に、グラントは微笑んだ。
「今日の今日まで、匂いだけしか嗅がせてもらわなかったからね。いよいよ、君の料理を口にできるというわけだ」
「それは、お待たせして申し訳ありません。ボンゴレ・ロッソです」
真紅色のソースも目に鮮やかなパスタ。
湯気から漂う、ニンニクの刺激。軽く鼻を利かせると、アサリ独特の潮と地味の匂いと一緒に、チーズの甘い香気が感じ取れた。
そのままフォークに絡め、口に運ぶ。
噛みしめ、味わい、飲み込む。
うまいソースだ。
水っぽさがなく、それでいて煮詰めたくどさもない。
ニンニクと鷹の爪は控えめに、あくまでアサリの汁気を引き立てるために。
トマトの酸味と甘みに、チーズの乳成分が溶け合い、パスタから離れることもなく、喉の奥へ滑り落ちていく。
心の中で、グラントは旧友に笑った。
彼はおそらく、お前よりも数段上の料理人だ。
「……舌に染みる旨味だ。チーズの量も抑制が効いている。ヒトによっては、もう少し濃くするものだが」
「そこはアサリ次第ですね。今日のは小粒でしたけど、味が強かったので」
「君は海浜近くの生まれかね?」
よほどお腹が空いていたのか、白いボンゴレを夢中で食べるアリシアを横目に、同席した彼に問いかける。
「そういう訳ではないですけど……それが?」
「地物の味を引き出す、というのは子供の頃の食経験が影響するというのが持論でね」
「すべて師匠の仕込みですよ。ここがもっと海から遠かったら、チーズを強くします」
「なるほど。すまないがバケットを頼むよ。このソースをもう少し味わいたい」
心得て、彼は斜め切りにしたバケットをかごに盛り上げ、ついでに冷蔵庫から良く冷えた白ワインを手に戻ってきた。
「ありがとう。ところで君は、これからどうするつもりかね」
「そうですね……」
いつかの問いかけと同じ言葉だったが、彼の顔には清々した笑顔があった。
「もう一度、修行のし直しをしますよ。このお店で、いろいろ学んだので」
「言ったでしょ。ディルは、このお店にもったいないくらいのヒトだって」
「……そのようだ」
三人分のグラスに酒が注がれたのを見計らい、グラントは二人を見回した。
彼らなら、問題ないだろう。
「実は、セドナの方で海岸通りに面したレストランが一軒、営業を終了してね。その処分をうちの会社が受け持った」
「……それが?」
「君が……いや、君たちが気になるなら、そこで新しい店を始めてはどうか、という話だよ」
二人は顔を見合わせ、最初にドラゴンの青年が口を開いた。
「僕は、その……もちろんいつかは、自分の店を持つことも考えてました。けど、先立つものが……」
「わたしも、やりたい気持ちはあるけど、またこんな経営をしちゃうかもって……お金だって、ここの借金を支払ったら……無くなっちゃうと思うし」
「私が融資をしてもいい、と言ったら?」
まるで、私が物語に出てくる悪魔でもあるかのように、アリシアは胡散臭そうな視線を向けてきた。
「その、なんでそんなことを、わたしに?」
「勘違いしては困る。私は君に融資する気は一切ないよ。支払い能力も経営手腕も、この十か月で、よぉく分かったからね」
彼女は絵にかいたような『ぐぬぬ』という顔で、こちらをにらむ。
すべてを心得た白い青年は、冷静に言葉を選んだ。
「融資というからには担保が必要ですよね。でも、このお店はすでに抵当に入っている」
「その通りだ。店の機材も型落ちで、売りに出したところで大した額にはならない」
「代わりに、何が必要ですか?」
私は目の前の皿を持ち上げ、彼に示した。
奇麗に食べ終わってしまったが、そこに入っていた料理を。
「このボンゴレのレシピを、担保にしよう。期日までに支払えなければ、このレシピは私のものだ」
「そんなもので、いいんですか?」
「この一皿にはそれだけの価値がある、そう査定しただけさ」
青年は少し考え、ちらりとかたわらのアリシアに目を向けた。
「融資先を彼女に任せるという条件なら」
「え!? な、なんで……!? わたしなんかじゃ……」
「君が店主になるつもりはない?」
「僕は料理人であって、経営者の器じゃないです。そっちは、彼女に任せますよ」
なるほど、これは本当に良い物件を見つけたものだ。
私は満足し、片手を差し出した。
「契約成立だ。正式な書類は月曜日に。この店は、二週間で畳めるかね?」
「そのぐらいあれば。ありがとうございます、バーンズさん」
「……やっぱり、わたしって必要なくない?」
仏頂面のアリシアに肩をすくめてみせると、私は立ち上がってジャケットを羽織った。
そして、持ってきていたブリーフケースから、それを取り出す。
「忘れていた。アリシア、これは君へだ」
「え……?」
油じみやソースの汚れのこびりついた、一冊のノート。
それを両手で受け取ると、彼女は中身をめくって、確かめていく。
「これって、おとうさんのレシピ帳?」
「この店を処分したら、渡すように頼まれていた。決して、ここを存続させるようなことをさせないでくれと、頼まれていたからね」
「どうして?」
自分の友人に、こんなまねをさせるとは、本当にろくでなしめ。
胸の奥で毒づきながら、遺された言葉を告げた。
「『ここは俺の夢で、アリシアの夢じゃない。追いかけるものが違うんだから、何も背負わせたくない』だそうだ」
「……そんな」
「君が出版社に行くと決めたとき言われてね。その時から、覚悟はしていたんだろう」
彼女は遺品を抱いたまま、声を押し殺して泣いた。
その傍らに座り、見守る彼に頷くと、そのまま店を後にする。
外には宵の喧騒が残っていて、馴染みのバーにも、まばらな人影があった。
「いらっしゃい」
バーテンダーは愛想よく笑い、席を整えてくれる。
長い灰皿と葉巻が音もなく傍らに置かれ、ショットグラスに満ちた琥珀の液体が添えられた。
「久しぶりだな。あいつの葬儀以来か」
「ああ」
吸い口を切り、先端をじっくりと火であぶりながら、昇っていく白い煙を眺める。
口にくわえ、深々と一服。そして、吐き出す。
舌にひりつく金属めいた香りに、私は嘆息した。
「で、今日はどうした」
「一仕事、終えてきた」
「そうかい。ゆっくりしていきな」
店は落ち着いて、薄暗く、居心地が良かった。
日々の憂いを慰める、悪徳に満ちた空気を、白煙と一緒に吸い込む。
吐き出し、そして小さな杯を掲げて、私は祝った。
「約束は果たしたぞ」
舐めたスコッチの味は、かすかに潮の味がした。
塩味のするスコッチは実際にあります




