9、夏空と夕暮れと落としたもの
『こちらセドナポートです。そちらの信号を確認しました。オレンジのガイドラインに従って、臨時着陸場上空に進入してください』
メッセージを受け取り、ディルは眼下に広がる空間を確認した。
緑の芝生の上に、幾筋もの黒く見えるレールが敷かれている。その端に置かれているのが、着陸の時に使用する衝撃吸収装置だ。
グラスに投影されたオレンジのラインに鼻面を合わせ、ゆっくりと旋回しながら高度を下げていく。
『速度少し早いです、仰角一度上げて――はい、そのまま着陸姿勢に入ってください。七番緩衝器です』
歯を食いしばり、上半身を引き上げるのと同時に、両足を前に突き出しながら緩衝器に足を突く。
そこから両手をついて四つん這いになると、翼を閉じて速度が落ちるのを待った。
腹に重い衝撃が走り、同時に緩衝器が勢いよくレールを滑べり、端の方でストッパーで動きが止まった。
『着陸成功。お疲れさまでした』
管制官の声にほっと息をつくと、そのまま立ち上がって、歩き出そうとした。
「う……っ」
下半身に力が入らない。腹からごっそりと中身が抜けているような、ひどく頼りない感触が伝わってくる。
流れ落ちる汗は、暑気のせいだけじゃない。サンセレストからここまで、一切の休憩なく飛び続けたせいだ。
上空にいる間は強烈な気流によって体温と水分が奪われ、下では多量の汗をかく。
もしかすると、脱水症状を起こしかけているかもしれない。
「そこのヒト、早くどいてください! 次の方が着陸に入りますから!」
急かされながら立ち上がると、着陸場を抜けて公園広場に出る。手近な屋台を見つけ、無言で硬貨を積んだ。
「大丈夫かい、だいぶ調子悪そうだよ?」
返事もそこそこに、経口補水液を流し込む。普段なら口にねばつくような不快を覚える液体が、命の水に思えるほどのうまみを感じた。
「すいません……もう一本」
「気をつけなよ。これをがぶ飲みするヒト、病院に担ぎ込まれるの、よく見るから」
深呼吸を繰り返し、震える両足を何度も叩く。
全身がひどく冷たい。
こめかみと眼の奥に、針で刺すような痛み。
心臓が脈打つたび、脳が膨張するような感じがあった。
それでも、何とか体を起こせるようになるころには、不調も無視できる程度には収まってきた。
「すいません、水をもう一本」
「ホントに平気かい? 病院に行った方がいいかもしれないよ」
「だ、大丈夫です」
最後に冷たい水を飲み干すと、そのまま公園を後にする。
セドナは海浜近くに開けた街で、ポートを出てすぐに海が見える。連絡しておいた魚屋もそちらの方にあるはずだ。
できれば街中に降りたかったが、市街飛行ができるのは配達免許を持つ者だけだ。こんなことなら、自分も取っておけばよかった。
大通りに出てタクシーに乗り込むと、そっと息を吐く。
少しでも休んで、体力を回復させておきたい。行く先を告げると目を閉じ、運転手とのコミュニケーションを拒絶する。
「さすがに……無茶しすぎたかな」
ちらりと腕時計を確かめ、結果に笑う。
八時くらいに出発して、セドナへが到着が十一時を少し回ったくらい。途中で休憩しつつ魚屋に連絡を入れてあるから、後はアサリを受け取って帰るだけだ。
『――午前の予選飛翔を終え、スターティンググリッドが確定したわけですが、予想を上回る展開になっております』
車載ラジオから流れる放送を、聞くともなしに意識に入れる。
サーキットはここからかなり北にあり、こちらの嵐とは無関係だが、ディルは奇妙な共感を覚えていた。
向こうはレースでこっちは店のためという違いはあるが、今日は同じ空を飛ぶ者だ。
『予選をトップで通過し、ファーストグリッドを手にしたのは、シエル・エアリアルのライル・ディオス。このマレーネでポールを取れば、一気に個人優勝も視界に収まることもあり、大胆な攻めが目立ちます』
大胆な攻め、という言葉にディルは思わず口を緩ませた。
過ぎ去ったとはいえ、嵐が洗った上空の大気は普段以上の危険が伴う。普段なら頼まれたってやらない、大胆を通り越して無謀な行動だ。
「ほんと、何やってるんだかな」
ほんの気まぐれで始めたことなのに、気が付けば、こんなに入れ込んでいる。
きっかけは、アリシアの危なっかしさを見ていられなかったことだ。
行き詰った店に手を加えて、活況が戻ってくるのは心地よかったし、自分が考案した料理を創れる環境は、本当に楽しかった。
だが、その一つ一つも、珍しい経験じゃない。
今までと、いったい何が違って――。
「着きましたよ」
「……帰りもお願いしたいんで、待っててもらえますか?」
運転手の承諾を得ると、そのまま目的の店へと入る。
コンクリ打ちっぱなしの壁と床、潮の香りと海産物の生臭さ、たくさんのヒトがあわただしく行き来する姿。
並べられたいけすの鮮魚や、大きなバケツの貝類を横目で見ながら声を掛ける。
「すいません! 連絡を差し上げたディルですが!」
「はい! そちらに用意してあるんで、ラベルを見て取ってってください!」
大きめのテーブルの上に、山と積まれたケース。その中から自分の割り当てを見つけ、用意しておいた前掛けのバッグに、丁寧にしまい込む。
そのまま代金を払い、表に出ると再び車に戻った。
「仕入れですか、大変ですねえ」
「はい。ポートに戻ってもらえますか?」
車が走り出すと、運転手はラジオをいじり、放送局を変えた。
『続いて、航空情報です。現在、台風の影響で航路が制限されており、一部のポートが離発着を停止しております。飛翔前に航路を確認し、管制の指示に従って安全な航路を選択してください』
気づかいに感謝しつつ、流れてくる情報に意識を集中する。
『セドナ=トルノ間、西北西の風、風力三。セドナ=ミラル間、北北西の風、風力二』
サンセレストからセドナまで、風は西よりで追い風を受ける形になっていた。
しかし、帰路はその風がすべて向かい風に変わる。トルノ方向から風は、午前よりも強くなっているらしい。
ディルは竜便の女性から渡された航路図を開いて、書き込みを確かめた。
行きは指示通りでほぼ間に合ったが、このままトルノを経由すると、さすがに午後を割り込んでしまう。
距離的には、圧倒的にミラル山を超えるルートの方が短い。
『絶対にミラルルートは通らないこと』
彼女の言葉が脳裏によぎる。
ここで事故でもしてしまえば、アサリを届けるどころの騒ぎではない。
安全第一、そう心に決めて余計なことを意識から追い出す。
「はい、ポート前だよ。帰りも気をつけてね」
「ありがとうございます」
公園に入りまっすぐにポートを目指す。
行きに健康診断は済ませているので、窓口での軽い問診と、アルコールチェックぐらいですぐに通れるはずだ。
だが、
『ただいま、トルノポートの連絡により、ポートへの進入が制限されております。整理券をお持ちでない方は、航空情報センターの案内に従い、航路の再申請を行ってください』
公園のスピーカーから、不吉なアナウンスが流れていた。
飛翔者は困惑した様子で、手近な電光掲示板に視線を送り、あるいはポート前の情報センターへと集まりつつあった。
「ただいま、午後の離着陸申請超過により、トルノ方面航路への進入は、一時間につき五十名までとさせていただいております! 三時までの整理券はすべてお配りしておりますので、航路の再設定申請をお願いします!」
あちこちで非難と罵声が飛び交っている。考えてみれば、この辺りの竜便が一斉に起用されているのだ、こういう事態が起こるのは当然だった。
「すみません、トルノ方面は着陸申請でも行けませんか?」
「臨時着陸場を開けてこれですよ。トルノは安全航路のハブステーションですから、空が荒れると毎回こうです」
職員のあしらいはひどくそっけなかった。おそらく、自分のような者を相手にしすぎたんだろう。
「トルノがダメだと、他にサンセレストへ繋がるポートは?」
「もう少し南西のバーリポート、ですかね」
バーリポートはトルノよりもさらに十キロは遠い。サンセレストにたどり着くのは、夕方になってしまうだろう。
「……ミラル方面ルートは、どうですか?」
「ミラルなら空いてますよ」
「空の状況は?」
「それは管制官に聞いてください」
ディルは少し迷い、それから決断した。
「航路をミラル経由のサンセレストでお願いします」
「はい、それじゃ、こちらを」
手渡された書類を持って、そのまま発翔場へと向かう。
本当に危なそうなら、諦めて大回りで帰るつもりだ。それでも、飛び慣れていない自分でもなんとかなるというなら、可能性だけでも。
「ミラル山は初めてなんですが、今の空はどうですか?」
射出機の前で待っていた係官に尋ねると、彼はモニターに視線を向けながら答えた。
「正午少し回ったあたりなんで、割と穏やかですよ。ただ、少し時間がずれると、山風で荒れ始めますから、通り抜けるなら早めに」
時計を確認すると、時刻は十二時を回っていた。一時には帰ると言っておいたが、うまくすれば、本当にそのぐらいにたどり着けるかもしれない。
「分かりました。航路変更はなしで、上げてください」
「まずいと思ったらすぐに着陸してくださいね。ポートからの定期バスも出てますから」
彼の助言に頷くと、ディルは再び射出機の中へ自分を押し込んだ。
昼の営業を開始してから、店は混雑する一方だった。
必死に応対し、今朝の不漁でボンゴレが出せないことを詫びつつ、注文を取る。
もちろん、そのまま帰っていく客もいたが、それでも一人でこなすには大変な人数が、時間を置かずにやって来た。
「はい、お待たせしました、ハンバーグです……あ、いらっしゃい、ま、せ」
なんとか動揺することなく、やって来たスーツの男に声を掛ける。グラントは鷹揚に片手を上げると、レジ前に置かれた長椅子に腰を下ろした。
「今片付けますから、少々お待ちください」
「私のことは気にしないで、仕事を続けなさい。そろそろ二時だろう? いったん店を閉めるタイミングで、案内してくれればいい」
「……は、はい」
壁の時計は、既に十三時五十五分を指している。
それでも言われた通り、店のお客さんに丁寧に応対し、表の看板をクローズに変えてから、彼の前に戻った。
「それで、今日はどういった御用ですか?」
「単なる食事、のつもりだったんだが、どうやら妙な具合になっているね」
「……午後の営業もあるんで、お話は片付けながら、うかがってもいいですか」
「いいとも」
頷く彼を窓際の一卓に案内すると、残っていた皿を全部下げ、コーヒーメーカーを新しい一杯を作らせた。
「彼はどこに?」
「セドナへ、アサリを取りに行ってます」
差し出されたカップに口をつけると、浅黒い肌に奇妙な表情を浮かべて、彼はこちらを見つめた。
「それは店長判断で?」
「……彼の提案を、わたしがうけました」
「なるほど」
不安になるような沈黙が続き、立ち尽くすこちらに、グラントは世間話を口にした。
「台風の後というのは、私にとって喜ばしいものの一つでね」
「そ、そうなんですか?」
「セドナの海岸では、とてもいい風が吹く。出勤前にウィンドサーフィンをするのにちょうどいいんだ。嵐の後は、波もよく立つ」
「……結構なご趣味で」
不動産業の合間にスポーツを嗜むという彼の日課が知れたところで、なにがどう変わるわけもない。だが、アリシアはなぜか、胸騒ぎを覚えていた。
「そういえば、ブレイズのコースにもあったね。海岸のそばに創られたのが」
「メルカールートサーキットですね。砂浜に面した五十キロメートルのストレートが特徴のコース、決勝リーグの時に吹く海風で、レースがも荒れやすくて……」
言いながら、胸騒ぎが悪寒に変わる。
自然の風はプロのプレイヤーでさえ扱いを間違えるものだ。
現に、メルカルートでは有名な選手が幾人も事故を起こしている。
「空間を広く取られた海岸沿いでもそうなんだ。起伏にとんだアペン山脈の風と、途中のトルノ山に当たって入り組む気流の流れ……慣れたドラゴンでも大変なルートだ」
「……そんな」
「ちなみに、彼は普段から空を飛ばないそうだよ」
その一言に、喉の奥からうめきが漏れた。
悪寒はあきらかな不安になって、体に充満していく。
「それは、店長のする顔ではないな」
「……っ!」
「上に立つ者というのは、常に決断を迫られる。やるべきか、やめるべきか」
グラントの言葉は、ただの事実だった。
責めるわけでも、問うわけでもない、わたしが目を逸らしていたことに、気づかせる言葉だった。
「君がそんな顔をしたところで、いまさら何も変わらない。分かっているだろう?」
「はい……」
「というわけで、私にも何か作ってくれないか。さすがに昼抜きで、待ち続けるのはきついからね」
どうやら、彼もディルが帰ってくるのを待つつもりらしい。
店は閉めているけど、客として待たせたのだから、応対しないわけにもいかない。
「ランチのハンバーグしかないですけど、構いませんか」
「名物が食べられないのは残念だがね。ところで、少しは料理の腕は上がったのかな?」
「……ええ。それはもちろん」
笑顔の彼に向けて、私は精一杯の愛想笑いを浮かべて告げた。
「彼仕込みのハンバーグ、どうぞお召し上がりください」
どすん、と、濡れた砂袋が落ちたような振動が、腹に伝わる。手足の下敷きになったサスペンションが、きりきりと悲鳴を上げた。
ディルは息を吐き、視線を上げた。
日の差さない、薄暗い空間。むき出しの鉄骨と金属の壁、ここがランディングポートの中層に設けられた着陸場であると、ようやく思い出す。
「すぐにどいてください! 急いで!」
緩衝器から降り、脇に退くと、両手を膝についてふたたび息を吐く。
ひどく、全身が重たい。
セドナからミラルまで、空は比較的安定していた。飛んでいる間は夢中だったから、自分の体がどうなっているのかさえ、気づかなかった。
そのまま壁際に近づき、なにげない風を装って体を預ける。
「っ……はぁ……っ」
言葉では言い表せないほどの、違和感。もたれた体がぴくりとも動かない。足は震え、口は半分あけたまま、呼吸するのさえ辛いと感じる。
喉の奥に、風邪の時のような、ねばつく不快な唾の臭いがある。
肺がひどくだるい。空気の出入りさえ、痛みとかゆみの混ざった感覚を伝えてくる。
「そこのヒト、大丈夫ですか?」
気が付けば、通りがかった職員がこちらをのぞき込んでいた。
「す、すみません。だ、大丈夫、です」
「今すぐ医務室に行ってください。大分ひどい顔してますよ」
「……は、はい。ありがとうございます」
深呼吸して、うずく胸に活を入れると、エレベーターへ歩き出す。
そのまま一階のボタンを押し、もう一度深呼吸。
「くそ……っ」
考えてみれば、空を飛ぶドラゴンたちは大なり小なり、日々の生活でトレーニングをしているようなものだ。
急激な気温の変化、決して優しくない上空の気流、離着陸の時には手足の筋肉も使うことになる。
なにより、終始正しい姿勢で翼を維持し続けなくてはならないから、背中と翼の筋は鍛え込んでいなくてはならない。
その一切をすっ飛ばして往復五十キロ近くの飛翔を、しかも荷物を持った状態で行うなんて、とんでもない話だ。
むしろ、ここまでよく飛べたと言わざるを得ない。
カーゴスペースが一回で止まると、そのまま窓際に置かれた長椅子に歩み寄った。
休息への無意識の欲求。気が付けば、両手で顔を覆っていた。
「く……ふぅ……っ」
体がひどく冷たい。そのくせ、ジャケットの下は汗でびっしょりだ。
自分はもともと、アスリート向きじゃないんだ。あくせく空を飛ぶなんて、どう考えても柄じゃない。
肉体の不快と疲労が、一斉に自分に対する罵倒へ変わる。
どうして、こんなことをしようと思った。
いつもならもっと、うまく立ち回ってるはずじゃないか。
僕は料理人であって、他の一切なんて知ったことじゃない。
どうして。
「おいあんた、大丈夫か」
顔を上げると、頑丈なクーラーボックスを体の前後に括りつけた竜便の男が、こちらを見つめていた。
「少し、休憩してたところです。おかまいなく」
「そっか。じゃあ、これ」
こちらの言い分も聞かず、彼はストローの刺さった紙カップを差し出してきた。
「え……っと?」
「飲めるようなら飲んどきな。飲めないようなら、医務室に飛び込んでバスで下山。飲み終わったら、改めてどうするか考えるこった」
「す、すみません」
口をつけて見ると、中身はバナナのシェイクだと気づいた。
冷たい甘味とバナナの香りが、ささくれた感覚に、やさしく染み込んでいく。
「山越えの時はいつもこれ、飲んでんだ。大方、急いでここまで飛んできたんだろ。水ばっかじゃなくて、ちゃんと飯も腹に入れとかなきゃダメだぜ」
自分よりも年上らしい、ずんぐりした体のドラゴンは、そのままエレベーターで上に行っていってしまう。
ジャケットのことといい、このシェイクといい、竜便のドラゴンはみんなおせっかい焼きなんだろうか。
貰った栄養のおかげで、気分がだいぶ楽になってくる。
彼の言う通り、ここまでほぼ休みも食事もなしできてしまった。低血糖による体調不良とは、なんとも様にならない話だ。
休憩室の壁に目をやると、時計は二時半を回りつつあった。
予定はとっくに過ぎている。それでも夜の営業にはまだ間に合う。
立ち上がると、どうにか両足はまともに動いた。こわばりの残る翼をゆっくり広げ、軽くストレッチををした。
「すみません、サンドイッチとカフェオレ一つ」
売店で軽食を買い、その場で一息で食べきる。
味や行儀のことは後回し、そのままエレベーターに乗り込んだ。
「離陸許可願います。航路はミラルからサンセレストで」
係員への挨拶もそこそこに、射出機の中に体を押し込む。
あともう少し、ほんの十キロも飛べば、たどり着く。
全身に掛かる加速度に必死に耐え、ディルは帰路の空に、身を躍らせた。
緑の葉が生い茂る樹木が、下を通り過ぎていく。
ミラル山は緩やかな傾斜の山で、周囲に切り立った崖や峰もないため、気流自体にそれほど変化はない。
ディルにとって問題なのは、行く手から吹き付ける風だった。
「……っ……くそっ」
水中ほどではないが、厚みを感じる大気の密度が、幾度も体にぶつかってくる。
その流れに逆らい、姿勢を仰角に修正。ある程度上昇したら、体を下に向け加速する。
飛行機のような推進力も、鳥のように羽ばたくこともないドラゴンは、高度の調節によって距離と速度を稼ぐしかない。
(ここにジェットスポットでも生えてくれればな)
そんな埒もない考えが浮かぶ。
強力なジェット噴流を使い、無理やりドラゴンに加速を与える装置。
サラマンダー・ブレイズという競技の特色、危険と隣り合わせのスピードに熱狂する人々を思う。
(アリシア……どうしてるだろう)
ごうごうという音が、頭蓋のまわりで遠く響く。
翼は疲れているが、姿勢を決めてしまえばいきなり落下することはない。ひたすらガイドビーコンと、投影される速度と高度計を見つめるだけだ。
(今は、三時ぐらいか)
行く手の左側、クロックポジションで言うなら十時方向に、沈みつつある太陽が輝いていた。
飛行中、グラスに時刻は投影されない。
時間を気にしたせいで無理な飛行をしたり、必要な指示の見落としが発生したためだ。
(それにしても……静かだな)
体や翼を通り抜ける風は、甲高い響きを届けてくる。
それでも空は、とても穏やかで、静かだった。
眼下に目をやれば、山すその代わりに畑や小さな集落が広がっていた。車道を行く小さな点が断続的な渋滞を起こしている。
その大半が貨物輸送のトラック、アクセントのように長距離バスの形が見えた。
(マカロニ……いや、ペンネか)
車列の形にそんな想像が湧いて、口元がゆるんだ。
このまま無事に帰りついて、今日と明日の売り上げがなんとかなったら、九月からのメニューを考えよう。
魚介の次は肉にしようか。秋から冬にかけてはジビエの季節だ。
ランチは鹿や猪のラグーソースをペンネで、夜はコショウを利かせたローストか、ラードと香辛料でじっくり煮込んで出すのもいい。
それよりもまず、帰ったらゆっくり休んで――。
『警告! 気圧変化による突風を検知! 姿勢制御を優先してください!』
横殴りの風が、一瞬で視界を暗転させた。
顎が跳ね上がり、脳が揺さぶられる。
不快な警告音が鳴り響き、恐怖が全身をなぶった。
見えない?
今どこに?
空は、地面はどっちだ?
「は……?」
気が付くと、空が茶色に染まっていた。
混乱する。
落ちている? そうだ、空に落ちていく。
自分の上は空だ、だから落ちてはいけない。
腹の中を、冷たい手がまさぐるような感覚。姿勢を戻さないと。
とにかく首を上げて、高度をとらないと。
姿勢を変えた途端、風の音が甲高い悲鳴に変わる。
空に落ちていく。
空が迫ってくる。
茶色い空がこちらに落ちてくる。
体が止まらない。首を上げないと――。
『自分を絶対に信じるな、グラスの表示だけを信じろ』
「あ」
歯を食いしばり、恐怖をかみ殺す。
そのままグラスに表示された指示に、全神経を集中させる。
「……っく、あああああああっ!」
夢中で手足を、尻尾を、翼を動かす。
そして視界が再び揺らぎ、世界が急速に反転する。
今まで『空』だった『地面』が、ようやく本来の意味を回復した。
なんで地面を空だと思った。
背中から落ちているときに首なんて上げたら、そのまま墜落するだろ。
自分の判断が全く信用できない。しようと思ったことが、すべて間違っていた。
空間識失調、その言葉を噛みしめる間もなく、警告が更なる危険を告げた。
『予定高度から大きく外れています。至急、緊急着陸手順を取ってください』
ヘッドセットからの声に従い、必死に体を持ち上げる。
同時に、グラスに表示された着陸可能エリアに、視線を走らせた。
道路わきに広がる畑、耕されたばかりの黒土が目に入る。荒らすのは忍びないが、今は非常事態だ。
『緊急着陸に入ります。絶対に急に高度を下げず、速度が落ちるまで足をつかないでください』
緩衝器のない地面に飛び込んだら、骨折どころか手足がもげることさえある。
歯を食いしばり、画面に表示される指示に従う。
『高度百メートルを通過、速度低減落下傘を開いてください』
ジャケットに仕込まれた紐を引っ張ると、背中に新たな抵抗が発生する。
そのまま上半身を思い切り上げて、向かい風に体を立てる。
『尻尾を先に地面につけ、摩擦を起こして速度を低減してください、残り高度十メートル……五メートル……対ショック姿勢、足を上げて尾を下げてください』
ざりざりと尻尾が地面でこすれ、熱さと痛みが伝わってくる。
体から浮力と速度が失われ、突き出した両足が地面に着いた瞬間。
「うわあああっ!」
勢いを殺しきれず、体が投げ出される。
ぐしゃ、という鈍い音が、聞こえた。
叩きつけられ、這いつくばり、ぶつかった痛みに息もできなくなる。
それでも、必死に上半身を起こして胸元を確かめた。
「あ……」
布地越しに伝わる湿り気と、漏れ出す潮に似た匂い。
「ああ……」
取りこぼすまいと、膝をついたまま崩れた箱の輪郭を指で押さえる。
それでも確かに、中身は潰れていた。
「おい……そこの君……!」
誰かが近づいてくる。
声の方に顔を上げたが、視界が暗くなっていく。
それでも、ディルは必死に叫んだ。
「アサリは……捨てないで……」
意識は、そこで途絶えた。
ペンネラグーはおいしいです。チーズもいっぱいかけたい。




