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プリモ・ピアット~白ドラゴンのシェフ、潰れる料理店を立て直す?~  作者: 真上犬太


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8、嘘と無謀と遠い空

 一夜明けたサンセレストの通りは、いつもの光景と違っていた。

 空は見ても分かる速度で灰色の雲が流れ去り、通りのあちこちに水たまりと、飛ばされてきた木の枝やごみが散乱している。


 商店の人たちや事務員たちが総出で片付けているが、作業は進んでいないようだった。

 いつもの小路に入ると、水路には濁った水が音を立てて流れ、ところどころに泥だまりができ上っている。


 低気圧が運んだ湿気と不快な熱を感じながら、ディルは職場へと急いだ。

 店の外観に異常はなく、飛ばされてきた小枝や木の葉が散らばっているだけ、掃除を念入りにしなければならないくらいだ。

 仕込みの前に軽く掃除をしてしまおう。道具を取って出てきたところで、アリシアがやってきていた。


「おはよう。お店はなんともないみたいだけど、中の方は?」

「大丈夫だよ。特に壊れたところもないし」

「そっか……良かった。夜中、すごい雨と風だったもんね」


 そう言って笑う顔には、どこか虚ろなところがあった。おそらく、彼女もあのニュースは聞いてきたのだろう。


「大丈夫かな……通行止め、って言ってたけど」

「それは直接、聞いたほうが早いよ」


 通りの向こうからやって来る業者に、ディルは片手を上げて挨拶した。


「ご苦労様です。その箱、アサリですか?」

「台風で漁が休止した上、道がどうしようもなくて。今日はこれで勘弁してください」


 差し出された箱は、いつもより一回り小さい。

 顔を青ざめさせ、アリシアは呆然とつぶやいた。


「……これじゃ、全然足りないじゃない」

「ほんと、申し訳ない。来週になれば、なんとかなるんですが」

「来週じゃダメ! 今日と明日、どうしてもアサリが……」

「アリシア」


 その一言で彼女は引き下がったが、それでも口惜しそうに、小さな箱を見つめている。


「セドナの方は、普通に水揚げしてるって聞きましたけどね。臨時の竜便を雇って確保してるとか」

「つまり、空輸ならいけるってこと?」

「それでも嵐の後ですし、どこの腕利きもスケジュール抑えられてますよ。うちも連絡とってみたんですけど、大手の業者にとられちゃって……」


 挨拶をして去っていく業者を見送ると、二人は厨房に入った。

 作業台に箱を乗せ、中身を確かめる。

 アサリはどれも小さな粒ばかりで、一皿に量を乗せる必要があった。どうやっても、昼の営業で使い切ってしまうだろう。


 アリシアは顔をこわばらせ、箱の中を覗き込んでいた。そうしていれば、中のアサリがもう少し増えてくれる、とでも言うように。


「前の店で、知り合いになった魚屋さんに連絡とってみるよ。確かセドナの方にも仕入れ先があるって聞いてたから」

「それで、どうにかなる?」


 声は落ち着いていたが、彼女の視線は切実さに満ちていた。


「分からない。ちょっと待ってて」


 店の電話を取り、相手先に連絡を掛ける。

 呼び出し音が一度、二度と重なり、じりじりするような時間が過ぎ、回線がつながる。


「あ――フォトナ水産様ですか、私……あ、はい。そうです、お疲れ様です」


 意外そうではあったが、思うよりは好意的な声に後押しされ、用件を切り出す。


「今、別の店で手伝いをしてまして、今日と明日に使う分のアサリが……ああ、はい……そうですよね……ええ」


 受話器越しに、相手の店が騒然としているのが分かる。間違いなく今回の雨に関わる取引で、対応に追われているのが分かった。


「せめて明日にでもなんとか……ああ、はい。やっぱり竜便で……いえ、ありがとうございました」


 結局、進展もないままに、受話器を降ろす。

 おそらく、今どこに連絡しても状況は変わらないだろう。そんな苦い思いを抱えて、ディルは告げた。


「アサリ自体はあるけど、輸送する業者がいないそうだよ。取りに行ければ、売ってくれるとは言われたけど」

「取りに、行ければ……」


 呟いた彼女は、何かに気が付いたように、こちらへ顔を向けた。その目の中に浮かぶのは、痛切な期待。

 だが、


「しかた……ないか」


 吐き出されたのは、諦観だった。

 コーヒーメーカーへ歩み寄り、いつものように機械を組み立てはじめる。


「天気のことだもん、誰も悪くないものね」


 据えられたカップに、エスプレッソが注がれていく。

 香ばしい湯気が、凍り付いた彼女の表情を、かすめて通り過ぎた。


「売り上げは……もう期待できないけど、それでもお客さんには来てほしいし」


 カップを差し出す笑顔は、こわばっていた。

 それでも、なんでもないとでも言うように、レジの方へ向かう。


「開店の準備始めちゃうね。ボンゴレは売り切れ次第、終了ってことで――」

「それでいいのかい?」


 気が付くと、そんなことを口走っていた。

 アリシアは背中を向けたまま、聞こえないふりをしてレジを開けている。


「君は、この店がなくなってもいいと思ってる?」

「……も、元々、このお店は、わたしが無理やり続けてただけで、ずっと前になくなってるはずだったんだから」


 仕事の手を止めると、彼女は苦い笑いを浮かべて、かぶりを振った。


「第一、アサリがあったって、今日の売り上げが立つか分からないでしょ。もしかしたらお客さんが全然、来ないかもだし。だから」

「もう一度聞くよ」


 ディルは、彼女をまっすぐに見つめて、尋ねた。


「このまま店を畳んで、それで納得できるかい?」


 再びの問いかけに、彼女は言葉を詰まらせた。

 それから、本当の気持ちを、吐き出した。


「ここまでやって来たのに、こんな風に終わるなんて、いやだ」


 内心を隠す明るさも、弱きを押さえこんだ強がりもない、祈るような言葉が紡がれる。

 それはディルの胸に染み込み、これまで想像もしなかった何かに、火をつけていた。


「僕に任せて。一時までには、アサリを手に入れて戻ってくる」

「……どういう、こと?」


 分かりやすいように、翼を軽く広げて見せる。

 その意味を理解したアリシアは、驚きと不安に声を荒げた。


「だ、ダメ! 台風の後の空を飛ぶなんて、無理しなくていいから!」

「大丈夫だよ。今日だって、通勤のヒトが飛んでるのを見たし、安全なルートを飛べば、なんとかなるさ」

「さっきのことは忘れて! わたしは大丈夫、本当に大丈夫だから!」


 それは嘘だった。

 彼女は、自分が本当に苦しいときに嘘をつく。それがアリシアの本心でないことも、承知している。

 そして、どういう風に調理(せっとく)すればいいのかも、分かっていた。


「この通りにバーがあるの、知ってるかい」


 冷めかけたコーヒーカップを口に当て、目を細める。


「すごく良さそうな店で、いずれ入ってみたいと思ってたんだ。ところが、今日の今日まで仕事が忙しすぎて、横目で通り過ぎるばっかりさ」

「お休み、うちに入ってもらってから、全然なかったもんね……」

「でも、この店が続いてくれれば、いくらでも入る機会ができるだろ?」


 そっと笑うと、ディルは付け加えた。


「少しの手間で店が続けられるなら、僕に都合がいい。そういうことだよ」


 重い荷物を降ろしたような顔で、彼女は吐息をつく。

 それから、感情を抑えた声で、ささやいた。


「ありがとう……ディル」


 その顔は笑ってはいたが、とても苦かった。

 強烈な葛藤を抱え、それでも僕を頼るしかないと分かっている顔。

 そのすべてを背中に負うと、ディルは何気ない口調で付け足した。


「ちょっと行って、アサリを買ってくる。お店のことは、頼んだよ」

 


 サウス・サンセレストのポート前公園は、異様な雰囲気に包まれていた。

 折れた木の枝や木の葉が残る歩道に、ドラゴンたちの列が続いている。それぞれが専用の保護ケースを腹や胸元に据え付け、緊張した顔で目の前の鉄塔を見つめていた。


「ただいま、発着場が非常に込み合っております! ポート使用の方はこちらで整理券をお受け取りになってから、アナウンスに従ってポートへお入りください!」


 ポート職員の顔は汗まみれで、膨れ上がる列をさばくのに必死だ。

 臨時で整理券を配る場所が作られ、その前にも長い列ができ上っている。ポートに入るのさえ一苦労なのは、目にも明らかだ。

 焦る気持ちを抑えて、整理券交換の列に並ぶ。


「北のリーチェポートから、アペン山脈沿いの方が早いんじゃないか?」


 自分の前に立った男が、隣に並んだ女性の竜便に話していた。


「あっちはダメ。嵐の直後は、山からの風がひどいから。今頃は危険航路に設定されていて、ガイドビーコンも出ていないはずよ」

「地元民が言うなら、そうなんだろうな。おとなしくミラル経由で、セドナに入ったほうがよさそうだ」

「何言ってるの。ミラルポートなんて――」


 セドナ、という言葉に体が自然に反応する。

 どうやら二竜は自分の同じ方向に飛ぶらしい。それなら、早く向こうへ着くルートもしっているかもしれない。


「あ、あの……っ」


 なりふり構っている場合じゃない。

 ディルは嫌がられるのを承知で、会話に割り込んだ。


「その……お二竜(ふたり)はセドナへいらっしゃるんですか?」

「ええ。あなたも?」

「店で使う食材を切らしちゃって。業者も見つからなくて」

「車も出せないんじゃなあ。おたがい、別ルートがあって良かったよな」


 緑の体色のドラゴンは陽気に笑う。

 だが、知り合いらしい赤い女性の方は、こちらを眺めて眉をしかめた。


「料理人さん、悪いことは言わない。今日は止めといたほうがいいよ」

「ご忠告感謝します。でも、僕は」

「お店の大事より、身の安全を考えたほうがいい。そう言ってるの」


 頑丈そうなフライトジャケットの胸ポケットから、使い古した紙切れが取り出される。

 そのまま彼女は、サンセレストを中心とした航空図をこちらに示してきた。


「サンセレストの周りは平野で、比較的に風の影響も受けない。でも、セドナ方面に近づくほど、アペン山脈から張り出した山が行く手を阻んでくる」

「ミラル山のポート経由なら、アペン山脈からも離れてるし、最短でセドナに入れるんじゃないのか?」

「普段ならね。それでも、ミラル山だって標高二百メートルはあるのよ。こういう時、あの辺りも荒れるから、ずっと南のトルノ方面から、大きく回り込んでセドナに入る」


 彼女が指し示したのは、セドナから二十キロは離れた地点にある町だった。確かにその辺りは山や海からは遠いが、目的地へも遠すぎた。


「ただの観光だってお勧めしないのに、仕入れってことは帰りは積み荷を持ってくるつもりなんでしょ? その様子じゃ、空を飛ぶのも久しぶりなんじゃない?」

「う……」

「そういや、その服も普段着じゃないか。いくら夏でも上は寒いぜ? フライトジャケットくらい持ってないのか?」


 二竜の指摘はもっともだ。

 プロの竜便でもない自分が、嵐が過ぎ去ったばかりの空に上がるなんて。どう考えても無謀なのは分かっていた


「……それでも」


 絞り出すように、ディルは反論していた。


「それでも、約束したんです。アサリを買って戻って来るって」


 自分でも驚くほどの強い言葉に、二竜が沈黙する。無茶なのは承知だが、どうしても譲る気はなかった。

 最初に沈黙を破ったのは、男の方だった。


「そうだよな。そこまで言える約束なら、しょうがないよな」

「ちょっと、ネヴィル」

「あんたならサイズも合うはずだ、これ着てけよ」


 自分のジャケットを脱ぐと、笑顔でそれを押し付けてきた。 


「今から買いに行くんじゃ間に合わないだろ。汗臭いかもだけど、凍えるよりはましだ」

「あ、ありがとう……ございます」


 女性の方は目を丸くし、ろくでもないものを見るように男二人を見回すと、ため息をついてみせた。


「正直、あたしは断固反対。どういう事情にせよ、今の空に送り出すなんて、自殺の手助けをするようなもんだわ」

「いやいや。これはきっとアレだよ。譲れない意地というか、込み入ったやつが」

「だから、はい」


 彼女は手にしていた地図を、こちらに突き出した。

 いつ間にか、きれいな字で細かい飛行のための指示が、書き添えられていた。


「急いでいるのは分かるけど、ポートの誘導には必ずに従うこと。絶対にミラルルートは通らないこと。無理だと思ったら、最寄りの緊急着陸場にすぐ降りること、分かった?」

「なんだよキーラ、やっぱりお前も」

「こういう思いつめたヒト、無理に引き留めても変な気を起すからよ。火傷の怖さを覚えるなら、適度に手をあぶられた方がいいものね?」


 辛辣な忠言に、ディルは苦笑した。

 自分が無茶をたしなめられるなんて、もしかするとアリシアの気性が、こっちにも映ってしまったのかもしれない。


「そこのお二方、こちらで整理券をお受け取りください!」

「あいよ! 今行く!」


 男は整理券を受け取り、当然のようにこちらへ手渡してきた。


「お先にどうぞ。俺は新しいジャケット、買ってこないとだからさ」

「えっと……お金を」

「いいって。どうせ買い替えるつもりだったし。それよりあんたの店、どこにあんの?」

「サンセレスト大通り、東一番小路奥の、ヴォーノって名前です」

「ああ、そういうこと。どこかで見たことある顔だと思ったんだ」


 女性の竜便は、目を細めてこちらを見た。


「前に一回、食べに行ったことあるよ。それならなおの事、安全第一でね」

「あとで俺も食いに行くよ。その時は店主さんのおごりってことで」

「は、はい!」


 その時、近くのスピーカーから、呼び出しの声が掛かった。


『整理券、百五十から百七十番までの方、係員の誘導に従ってポートにお入りください』


 軽く頭を下げ、案内に従おうとしたディルに、二竜が声を掛けた。


「焚きつけるようなこと言ったけど、本当に無理はするなよ? 正直俺も、今日の空は避けたいぐらいなんだ」


 緑のドラゴンの言葉に、赤のドラゴンも頷いて言い添える。


「ポートに下りたら必ず、三十分以上の休憩を取りなさいね。疲労や脱水症状から、空間識失調(バーティゴ)を起こすのが、一番怖いから」

「『自分を絶対に信じるな、グラスの表示だけを信じろ』だぜ。忘れんなよ」

「起こさないのが一番だけど、いざとなったら、慌てないようにね」


 昔、教習所で教わったのと同じ言葉を、その場で復唱する。

 空間識失調は、ドラゴンの飛行事故における一番の要因と言われていた。空の中で自分を『見失う』という現象は、教習所で必ず味わわされる不快な体験の一つだ。


「ともあれ、無事を祈っているわ。"北方銀星の導き、闇迷うことなく"――」

「――"蒼天に始祖千翼の加護ぞ在らん"ってね」


 緑と赤の手が、ディルの翼を優しく撫でる。

 それは空を行く者の安全を願って唱えられた、古い言い回し。

 わずかな照れくささを感じつつ、ディルはポートへ向かう列へ向かった。


『入場の際は航空免許を係から見える位置に出しておいてください。ただいま、検査場が込み合っております。順番を守り、落ち着いて行動してください』


 一階のフロアにも待機の行列ができあがっていた。

 いつもなら、ガラス張りの外壁と、待合のためのソファが置かれ、ホテルのロビーのような空間も、殺気立ったドラゴンたちでひしめいている。

 そのほとんどは竜便だったが、自分のような一般利用者の姿もあった。


「はい、次の方。免許証の提示、飛行理由および航路の申請をお願いします」


 促されるままに内容を提示すると、検査係のヒューは幾分疲れた様子で、決まりきった文言を口にした。


「飛行前、十時間以内に飲酒、睡眠薬や風邪薬などの服用は?」

「一切ありません」

「眼鏡使用なし、過去の病歴も問題なし、と。はい、後は翼面荷重検査を受けて、屋上ポートに移動してください」


 あっさりと問診が終わり、そのまま奥に設けられた検査室に入る。

 広い部屋を即席の仕切りで覆っただけのそこには体重計が置かれ、計測器を持った係員が立っていた。


「体重は、八十六キロか、平均ぐらいだね。はい、翼を広げて……うん、翼面の電位も問題なし」


 チェックを終了させると、飛行許可のカードが手渡された。


「飛行目的は積荷運搬だそうだけど、限界重量は三キロまでだからね」

「積載可能重量って、体重の十パーセントまでのはずじゃ……」

「荒天の場合、特殊免許を持たない者は三キロ以下という決まりだ」


 想像していた量よりも少ない見積もり。それでも三キロあれば、仕入れの分と合わせて今日は何とか持つだろう。

 足早に検査室を抜け、エレベーターへ小走りに進む。


 時刻はすでに九時を回っている。これ以上の足止めはごめんだ。

 同じいら立ちを抱えたドラゴンと一緒に、狭いカーゴに揺られつつ、最上階の発翔場に到着する。


 そこはむき出しの金属で構成された、武骨な空間だった。

 緩やかな坂のように、傾斜がつけられた鋼板の床。そこに刻まれた五本のレールに、射出用カタパルトが流れていく。


 レールの伸びた先には、何の遮蔽物もない開けた空。視界の端でまた一台、急激な加速と共に誰かが打ち出されていく。

 ドラゴンの飛行に必要な、初速と高度を生み出すための施設。その有無を言わせない暴力的な動作が、どうしても好きになれなかった。


「百六十番の方! 第三レーンにおいでください!」


 とはいえ、今はえり好みをしている場合じゃない。

 係の声に従い、巨大な金属の箱に歩み寄る。

 中は、ちょうどディルが腹ばいになって入れるぐらいの空間があり、様々な指示のためのデカールがべたべたと貼られていた。


「ご自分のフライトグラスはお持ちですか?」

「いえ、すみません。レンタルをお願いします」

「分かりました。返却は最寄りのポートに、貸出期限を過ぎると違約金が発生します」


 手渡された飛行帽をかぶり、視界をゴーグルで覆う。そのまま、顔の脇辺りにつけられたスイッチを入れた。


『手足は必ず、フットレストとアームレストの正しい位置に合わせてください。指示があるまで翼を開かない、頭は水平より気持ち下に、準備が出来たらコールお願いします』


 手足を指定位置につけると、狭い箱のようなスペースで、腕立て伏せをするような姿勢になる。

 もう後戻りはできない、深呼吸するとディルはマイクに声を掛けた。


「大丈夫です、上げてください」

『了解。射出機、移動します』


 足元からモーターの振動が伝わり、射出機が待機位置から、空に向かって伸びるレーンの一つに乗った。


『カウント、開始』


 グラスの中にカウントダウンが表示される。その間、ディルは訓練所で習ったことを必死に思い出していた。

 加速が掛かる間は、Gに任せて下半身をフットレストへしゃがみこむように。視界が空でいっぱいになったら、流れに逆らわずに体を前に押し出すように倒れ込む。


『五秒前、四、三、二、一、滑走開始』


 強烈な加速度が、圧力となって全身に襲い掛かる。

 その威力がフットレストに連動したサスペンションに吸収され、ディルという中身を押し出す力として蓄積されていく。

 そして、百メートルの滑走距離が一瞬に消費され、


『第三レーン、離床』


 カタパルトの箱から放り出されたディルの体が、何もない空に放り出された。


『射出姿勢十秒維持。翼面開帆(かいはん)――今!』


 声に従い、夢中で翼を広げる。

 張られた皮膜で空気が破裂し、張りつめた翼が大気を受け止めた。

 同時に、見えない力が、全身を空高くに引き上げていく。


『飛行姿勢問題なし、そのまま仰角五度を維持しながら左旋回、アップリフターで高度を取ってください』


 そこでようやく、ディルは自分の居る場所を意識した。

 飛行帽を通しても感じる強烈な風の音。通り過ぎる大気は、ジャケットを着ていてさえ冷たさを伝えてくるほどだ。


 そして、世界の全てが、眼下にあった。

 ランディングポートを中心にして、十字に舗装された公園通り。緑の芝生に、売店の前に、整理券を配る仮設テントの前に、ゴマ粒のような人影が見えた。


 さっきの二竜を探そうとして、感傷を振り払い、顔を空に向けた。

 旋回姿勢をとり、ランディングポートの直上にある巨大な送風口を通り過ぎる。

 高度調整のために設けられた『アップリフター』が白いドラゴンの体を押し上げ、グラス内の表示が、予定飛行高度に到達したことを告げた。


 現在の速度と現在座標、目指している方角を確認し、目的地を示すビーコンに視線を合わせた。

「目標地点、トルノポート。飛行開始します」


『了解。ビーコン確認、目的地到達予測時刻、十時半です。気象情報に注意して、安全飛行を心がけてください。良い空を』


 トルノポートはただの中間地点、十時半到着では遅すぎだ。

 ガイドビーコンから『高速用』を選択し、指示に従ってさらに高度を上げる。

 次第に強く冷たくなる風を浴びながら、ディルはひたすら飛ぶことに集中した。



 掃除の手を止めると、アリシアは店の時計を見上げた。

 十時十七分、ディルが出発してから二時間ちかく経っている。店は予定通りに開けるつもりだが、あくまで形だけだ。


 ボンゴレが出せないことも、店の扉に貼り出してある。

 この状態では開店休業と言ってもいい。自分もランチのハンバーグは練習して、店に出せるくらいにはなったけど、それでもディルがいなければ話にならない。

  

『みんな僕の都合だよ。だから、君が気にする必要なんてないんだ』


 たぶん、あれは嘘だ。

 美味しいお酒を飲める場所も、ちゃんとお給料を出してくれる職場も、彼が探す気になれば、すぐにでも見つけられるはず。

 なら、どうして。


「お店に帰ってきてくれた理由も、ちゃんと聞いてなかったね」


 彼は本当に、不思議なヒトだ。

 料理が好きで、妥協するのが嫌い。いつも計算づくで動いているようで、好きなことになると、子供みたいに我を忘れてしまう。


 今日まで一緒にやってきて、とても楽しかった。

 本当のことを打ち明けずに関係を続けてしまったことも、後悔している。

 そして、こんな事態になっても、彼を頼りにするしかない自分が、歯がゆかった。


「ディル……」


 窓に近づき、路地の間から見える空に顔を向ける。

 夏の青を、ちぎれ雲が塊になって流れていた。


「……無事に、帰ってきてね」


 祈りを口にすると、アリシアはそのまま、掃除に戻った。

 今は、自分のするべきことをする。その事だけを、思いながら。 

ドラゴン、空を飛ぶのです

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