第五十話 愛奈とシャイリー 5
勇者アグリアの従騎士の一人が、身動きしないシャイリーに剣を振り下ろす。
シャイリーは無感情にそれを眺めている。
愛奈が声にならない絶叫を上げた。
刹那――
ずぶり
「え?」
シャイリーを殺そうとしていたはずの騎士が、気の抜けた声を発する。
彼は何度も何度も己の胸元と、シャイリーの間で目を往復させている。
――鉄製のプレートを物ともせず、シャイリーの腕が己の胸を貫通している。
それを認識した瞬間、騎士は絶叫を上げようとするが、内臓の一部を失った身体ではそれも叶わず、こひゅーこひゅーと気管支を空気が無為に通り過ぎていくだけであった。
シャイリーは、まるでゴミを捨てるかのように無造作な、それでいて乱暴な仕草で騎士の身体を振り払う。地面に打ち捨てられた騎士の身体は、出血を塞き止めていた蓋を失ったことで、穴の開いた胸元から一気に鮮血が噴出し、周囲を真っ赤に染め上げた。
花や小動物と戯れている光景こそがお似合いな愛らしい美少女が創造する凄惨な芸術に、さしものアグリアも声を失っていたが、ここに来てようやくはっと意識を取り戻す。
「あんたたち、離れなさい!」
しかし、遅かった。
呆然としている残り二人の騎士たちへ、シャイリーは一瞬で距離を詰める。
命令に従いシャイリーから距離を取ろうとしていた二人。その内の一人の前に立つシャイリー。ハイクラスにすら届かない騎士からしてみれば、それはあたかも瞬間移動にも感じられたことだろう。
「ま、待っ」
命乞いをしようとしたのだろうが、シャイリーは最後まで言わせなかった。
上背で遥かに自身を上回る騎士の顔面に手を当てる。シャイリーの手では相手の顔を掴むには小さすぎたが、そんな現実は知らないとばかりに思いっきり力を入れる。
頭から地面に倒れようとする騎士。その先には地面から突き出る尖った石があった。そこへ強かに後頭部を打ち付けられた騎士は、何が何だか分からない内に絶命していた。
「う、うわぁああああああああああっ!」
この相手からは逃げ切れないと理解した最後の一人は、破れかぶれでシャイリーへ躍り掛かる。無防備に背をさらしてしゃがんでいる今ならば勝ち目があると思ったのかもしれない。
しかし、シャイリーがそこまで甘い使い手であるはずがなかった。
シャイリーはしゃがんだままで、まるで背中に目でも付いているのかと思う正確さで、背後から迫る騎士の剣を避け、更にそのまま騎士の足へくるりと足払いをかけると、剣を振り下ろそうとする意識が強すぎたのか、あっさりとバランスを崩して地面に倒れた騎士は、痛みと驚きの悲鳴を上げるも束の間、
「ぐえっ」
仰向けに倒れた騎士の喉へ、シャイリーの膝が突き刺さる。
しかし、それは一撃で騎士の命を絶つものではなく、シャイリーはわざと騎士に対して苦しみを味合わせるかのように、ゆっくりと膝を減り込ませていく。
「殺される覚悟はできたかな?」
場違いにも、まるで恋人に愛の言葉を囁くような甘い声。耳元でそれを感じる騎士は、しかし照れる余裕などあるはずもなく、真っ青な顔で今にも泣き出しそうだ。
「や、やべ……て」
「僕の意思だ。遺恨はたっぷりあるよ。きっちり怨んでね」
ぐっと膝に力を込める。
己を見下ろすにっこりとした笑顔が、しかし騎士にとっては、今はどこまでも恐ろしかった。
「調子に乗るんじゃないわよ!」
怒声と共に、己の従者を救おうと、アグリアがシャイリーへ向けて魔法を放った。
愛奈を逃がさないために待機状態で維持していた魔法をそのまま使用したのだろう。
雷撃の魔法は一瞬でシャイリーへ到達し、彼の身を包み込む。
が……
「その程度なら避けるまでもないね」
「くっ……本当にハイエンド級か……ッ」
特殊技法による魔法は威力に乏しく、シャイリーにとっては「ちょっと身体がぴりっとしたかな」というくらいのダメージしかなかった。もっとも、シャイリーに組み敷かれている騎士は今ので気絶してしまっていたが、息を詰まらせる苦しみから解放されたので、本人にとってはかえって幸福だったのかもしれない。
(戦闘には参加してこないか。愛奈ちゃんをフランクに預けてくれれば話は早かったのに……)
シャイリーは内心の舌打ちを押し隠し、悔しげに呻くアグリアに向かって、美しく笑ってみせる。
「どうやらお前にとって、この人たちは簡単に犠牲にできるほど安い存在じゃないらしいね。けど、目的を果たすためになら犠牲にしていい程度の存在でもあるらしい。取り引きに使おうかとも一瞬思ったけど、止めておくよ」
「あんた自分の立場が分かってるの!? これ以上やるならこの小娘は殺すわよ」
「やれるものならやってみればいい」
「なっ……」
絶句するアグリアに、シャイリーは笑みを消して突き刺すような視線を送りつける。
「僕が死ねば、どの道愛奈ちゃんも無事ではすまないんだ。脅迫に屈して抵抗を諦めても最後は大団円なんて都合の好く運ぶのは英雄譚の中だけだ。優先順位を間違えるほど、僕は自分を英雄視したりもしてなければ、甘くもないよ」
騎士が気絶したことで、アグリアの相手をすることだけに意識を切り替えたのか、シャイリーは音もなく立ち上がり、彼女と正面から向き合う。
「『ディレイキャスト』で僕に僅かでも影響を与えられるとは大したレベルだと認めるよ。ディレイキャストで展開可能なのは全力のおよそ半分程度の威力が限界らしいね。つまり、本気なら確かに僕でも無事ではすまない威力がお前には実現可能ということ。でもそれはつまり、お前のレベルで愛奈ちゃんを殺しきれる威力と、僕を止めきれる威力を、ダブルキャストで瞬時に両立させるのは不可能だという事実も表している」
「あれがあたしの限界だなんて誰が言ったのよ」
「お前は慎重な女だ。これまでの経緯がそう物語っている。もっとも、詰めは大分甘いけどね。けど、そんなお前が『万一のために用意した魔法』を全力で行使していないはずがない」
くわっと目を見開いたシャイリーの全身から、とてつもない殺気が吹き荒れる。
「僕を選ぶなら愛奈ちゃんは自力で逃げられるし、僕も最低限お前の腕の一本は貰ってから死んでみせる。手負いのお前からなら、愛奈ちゃんも月紅の所までお前に捕捉される前に逃げ切れるだろう。逆にお前が愛奈ちゃんの殺害を選ぶなら、その隙に僕はお前を確実に仕留める。それでも愛奈ちゃんが助かる可能性はあるけど、僕が屈してしまえば確実に愛奈ちゃんは無事ではすまないんだ。実に単純な引き算だよ。どちらでも僕は構わない、どちらにしてもお前の敗北は確実だ」
そちらの行動次第では、こちらの勝利とは言えない結果になるかもしれないけどね――という本心の焦りまでは声にしなかった。今はとにかく強気で臨まなくてはならないのだから。
静かな宣言に、アグリアは呻きながら思考を巡らせる。
(こいつ、取り引きの仕方が分かってるわね。おそらくこっちがこの小娘を殺せないことを見抜いた上で言ってる。けど、あたし自身が危険なら、目的よりも身の安全を優先されるかもしれないと警戒している。一応、まだ“使える”のは間違いない……)
ちっと大きな舌打ちが鳴る。
(けど正直見た目で完全に侮ったわよ、くそっ。やっぱりこいつら、相当腕の立つ魔道士と付き合いがあるわね。じゃなきゃそこまで確信的にあたしの戦力を分析しきれるわけがない。直接やり合うとしても、魔法使いを侮ってる大方の馬鹿気功士たちと同じにはできない。悔しいけどこっちこそ優先順位を間違えたわ。結果論でしかないけど、この金髪ちゃんの始末の方を優先すべきだった。このままじゃ今の硬直状態から抜け出せないっ)
そしてそれは、アグリアにとっては不利を示す事実でもあった。
(時間を掛ければ下手をすると月紅が戻ってくる可能性があるっ。一日や二日じゃ流石にそれもないだろうけど、多分あの金髪ちゃん、それまでの間ずっと今の状態で平然と身動き一つしないで耐え切れる精神力の持ち主と考えた方がいいわね。これ以上の過小評価はあたしの身を滅ぼす。考え得る最高値の能力があると想定して事態に挑むべき!)
アグリアは歯をかみ締める。自然と全身に力が篭ってしまい、手を捕られている愛奈は痛みに顔をしかめた。
そうしている間に、このままアグリアに時間を与えるのは良くないと見切ったシャイリーは、
「取り敢えず……」
先ほど自らの膝を減り込ませていた首に、今度は足裏を置いてぐっと力を込める。
もし彼が起きていたら、「アグリア様。自分にこだわらず、目的をお果たし下さい!」と言ったのだろうか。それとも、「アグリア様、助けて下さい!」と泣き喚いたのだろうか。
気絶していて大した反応を見せない騎士の身体がつまらなかったのか、シャイリーは皮肉にそんなことを考える。今の彼はどこまでも残酷になれてしまうようで、ちょっとした思考までもが冷酷な殺意に染まってしまうらしい。
「――こいつを始末しておこうか」
場違いなほどににっこりと笑いながら、身動きを取れずにいるアグリアを眺める。
「ダメです――ッ!」
愛奈の絶叫が辺り一面に響き渡ったのはその時であった。
何で。どうして――愛奈は困惑と恐怖の狭間で逡巡を繰り返す。
あんなシャイリー、自分は知らない。愉しみながら他者の命を刈るなんて、そんなことをできる人ではないはずだ。
旅を始めてシャイリーと出会い、そしてこれまでの道中で、愛奈も何度か、彼やリドウが盗賊たちを殺害する場面は見てきた。でもその時は……彼らはもっと“綺麗”に命を奪っていた。殺人に綺麗もクソも無いかもしれないが、リドウなら一撃で首を刎ね飛ばしてきたし、シャイリーなら外傷らしい傷跡すら残さない手法で瞬時に絶命に至らせていた。
……あんな、相手にわざと苦しみを与えるような殺し方はしてこなかった。
だが今のシャイリーは、その時とは明らかに違った。
いや、愉悦に浸っているのではないのかもしれない。あれは……きっとあれこそが……憎悪だ。
何が彼をあそこまで追い詰めてしまったのか、愛奈には分からなかった。しかし、『それはだけダメだ』という一つの思いだけは、彼女にとっては確かな事実であった。
リドウや千鶴、そしてシャイリーも時に言う『連帯責任』。命令だからと許されることではないという言い分は愛奈も否定はしない。
でも、命令に従っただけの人たちを、“あんな風に”殺害してしまうのは違う。愛奈は確信を以ってそう思う。
シャイリーが嬲るように騎士の首に足を置き、アグリアが自分の手を握る力が増した時、愛奈は半ば上の空だった思考から、はっと現実を取り戻す。
こいつを始末しておこうか――シャイリーの唇が残忍に歪む。
そんな顔は……
「ダメです――ッ!」
悲しげな絶叫と共に、愛奈の全身から凄まじい稲妻が迸る。
「きゃあっ!」
「うおっ!?」
まともに食らったアグリアは思わず手を放してしまい、事態の急展開とシャイリーが見せる残酷さについて行けずに側で呆然と絶句していたフランクにまで稲妻は襲い掛かった。
シャイリーは一瞬、普段の彼に戻った様子できょとんとその光景を眺める。
その隙に、森の入り口の木の上で待機していたらしいクリスが音もなく地面に飛び降り、疾走し、愛奈を抱えてその場を離脱した。
「いやっ」
いきなり登場した見知らぬ男に再び暴走しそうになる愛奈であったが、
「私は味方です。クリスと言います」
冷静な声に落ち着きを取り戻し、シャイリーの方へ向かっているのを理解し、一応信用する気になったようであった。
「愛奈ちゃん!」
シャイリーは心配そうに彼女の名を呼びながら、クリスに抱えられてこちらに近づいてくる愛奈を自ら迎えに行こうと駆け出す。
刹那――
「――ッ!?」
シャイリーは背後で膨れ上がる気配に気付き、慌てて身を捻る。
「シャイリーさん!?」
愛奈が悲鳴に近い声で彼の名を呼ぶ。
「ぐっ……気絶してたのは演技だったのか」
剣によって深く抉られ、血の滴る脇腹を押さえながら、シャイリーは悪態を吐き出す。即座に致命的な怪我ではないようだが、彼にとっても決して軽症とは言えない。
騎士はしてやったりという顔で立ち上がる。
「気絶していたのは確かだ」
「本当に……今日の僕は運が悪い……」
この絶妙なタイミングで意識を取り戻したという話に、シャイリーは最早笑うしかないらしく、唇の端っこをふるふると震わせながら悪態を零す。
「いや、僕のミスか。不確定要素はどんなに些細なものでも、とっとと排除すべきだった」
「シャイリーさん!」
側までやって来たクリスが、焦燥でいっぱいの愛奈を下ろすと、彼女は心配そうにシャイリーに寄り添う。
「ごめんね、愛奈ちゃん」
「誘拐されちゃったのはシャイリーさんじゃなくって私自身の責任です! それより」
「ううん。それもあるけど……愛奈ちゃんが死んでしまっても構わないみたいに振舞ったこと。誓って本心じゃないから、信じて」
「分かってます! それより……」
愛奈は周囲を染める大量の血や、その原因である二つの死体、そしてシャイリーの脇腹から流れ落ちる血、その全て彼女の意識を攻め立てるが、必死で我慢しながら、彼の怪我を調べる。
「ああ……こんなに酷い怪我を……私のために……」
「大したことはないよ」
「シャイリー殿」
誰の目にもはっきりとやせ我慢と判るシャイリーの様子であったが、愛奈が案ずる声を掛けようとする前に、クリスの平坦な声がそれを遮った。彼はシャイリーと愛奈の二人を守るように、騎士の前に姿をさらしている。
「逃げますか?」
「それを許してくれそうにはないね」
シャイリーは、今は油断無く構える騎士よりも、背後でダメージから既に立ち直りつつあるアグリアを後目にし、苦い顔で応じる。
(間一髪でレジストしたか……)
どうせなら愛奈の暴走で気絶してくれれば良かったのにと、溜息まじりに。気絶しているのは最初から完全に戦力外のフランクだけだ。
「金髪もデカチチも、お嬢ちゃんたち揃いも揃ってやってくれるわね……ッ」
憎悪を滾らせる彼女の周囲の気温が徐々に下がっていくのを、この場に居る人間は感じ取る。
「では、あなた方はアグリアをお願いします」
「そんなっ」
うん、と頷こうとしたシャイリーの声は、愛奈の上げた抗議の悲鳴にかき消された。
「こんな状態のシャイリーさんに戦わせるつもりですか!?」
「酷なのは重々承知です。が、この場でアグリアに対抗可能な戦力はシャイリー殿だけです。失礼ながらお嬢さんでは役者不足でしょう」
「クリスさんの言う通りだよ、愛奈ちゃん」
「で、でも……」
先ほどまでの暗い笑みとも、もちろん普段のシャイリーとも違う、脂汗を滲ませての、それでも苦しみを必死に隠そうとしている笑顔は、愛奈にとって容易に頷くには難しかった。
「だからさ、愛奈ちゃん。悪いけど、手伝って」
「え……?」
「正直に言うよ。長くは持たない。だからできるだけ早くアグリアを片付ける必要があるんだ。だからお願い、手伝って」
こんな時だというのに、愛奈は自分でも不思議なことに、高揚してくるものを感じていた。
ルスティニアに来てから、頼られるのが嬉しくて、十分に理不尽と言うべき目に遭わせられながらも、同級生の男子たちを見捨てられなかったのが高坂愛奈という少女だった。戦うのは向いてない。そもそもはっきり言ってしまえば嫌いだ。でも……
シャイリーに頼られている今の自分が、この事態を招いたのは全て自分の責任だと理解していても、不謹慎にも彼女にとっては少しだけ嬉しかった。
「はい!」
愛奈は涙の痕が残る顔に笑みをともすが、すぐにはっと気付く。
「あっちの騎士さんは……」
「無論、それは私の仕事でしょう」
静かな声でぎらっと瞳を光らせるクリスに、騎士は憤怒の表情を浮かべる。
「ノーマル風情が、この僕に勝てると思っているのか? 思い上がりも甚だしい!」
「思い上がってるのはてめぇの方だ、雑魚が」
「――ッ!?」
殺気だけならばリドウやシャイリーが発するそれに匹敵するだろう。それをまともに受けてしまった騎士は思わず息をつまらせる。
「舐めるんじゃねぇぞ、気功士。てめぇ如き、気功士と名乗るのすらおこがましい。所詮は常人の範疇で満足し、常人を見下して悦に入るのが精々のてめぇは、常人にすら勝てねぇと俺が教えてやる。代価はてめぇの命だ」
非能力者であるクリスに気圧されてしまった事実が許せないのか、騎士の顔は再び憤怒で真っ赤に彩られる。
「嬲り者にしてやるぞ、ノーマル!」
「冥府の門はてめぇの前にこそ開かれていると知れ!」
決戦が始まった。
陣容はシャイリーと愛奈のペアがアグリアと、クリスが敵騎士との対戦。勝敗の予測が難しい組み合わせと言えた。
しかし、取り敢えず、決戦が始まってからの愛奈の最初の仕事は戦うことではなかった。
愛奈はシャイリーへ一応回復の魔法をかけながら、襲ってこようとはしないアグリアを不審な顔つきで見ている。回復魔法の方は残念ながらあまり効果を挙げていないようで、彼の出血が止まる気配は無かった。
「何であの人、動こうとしないんでしょうか?」
「手負いなのは僕もあっちも同じ条件だけど、出血している僕の方が時間を掛けるほど不利になっていくのを理解しているんだよ。あっちは、言っちゃえば痺れてるだけだからね」
シャイリーは痛みを感じていないかのように振る舞いながらアグリアから目を放さずにいると、視線の先の彼女は両手を自分の目の前に持ってきて、握ったり開いたりして身体の様子を確かめている。
「……愛奈ちゃん、回復はもういいよ。それより、今の内にお願いがあるんだけど」
「え? で、でも……」
愛奈は戸惑いながらも、回復の手は止めずに何とか応じる。未だ激しく出血を続ける彼の傷を放ってはおけず、放っておけと言う彼の言葉が信じられない様子であった。
「火は使えるよね?」
「あの……はい、まあ……。あんまり得意じゃありませんけど、一応。リドウさんが普段は全部やってくれちゃいますけど、旅生活で必要な程度には」
「僕の傷を焼いて」
「――ッ!?」
顔を真っ青にして目を見開く。
「そ、そんなのダメです! 回復魔法は風と同じくらい頑張って練習してるんですから、時間を掛ければちゃんと治せますっ」
「そうしたいところだけど、その肝心の時間が無いみたいだ」
「で、でも」
「お願い」
こうして喋っているだけでも苦しそうな声に、愛奈は涙の浮かぶ目をきゅっと結び、そして開いたその時には決意の眼差しで静かに頷いた。
愛奈の手を炎が纏う。それを恐る恐る、徐々にシャイリーの傷口へと近づけて行く。
震える手では余計な部分まで焼いてしまうと、もう片方の手で炎を纏う方の手首を無理やり押さえつけながら。
「ぐぅっ……」
流石のシャイリーも苦痛の呻き声を上げてしまう。ちりちりと傷口が焼かれ、血が焦げ肌を焼く嫌な匂いが鼻をつくが、涙をぽろぽろ零しながらも、愛奈は必死に我慢して彼の傷口を炙り続ける。
それに気付いたアグリアが、一瞬信じられないという顔をし、このまま放っておく手は無いと即座に魔法を起動する。
彼女の目の前に、周囲を覆っていた冷気が収束していき、巨大な氷の塊となる。
「ちっ……」
出血を完全に止めるにはまだもう少し時間が掛かると、シャイリーは舌打ちする。
「愛奈ちゃん。そんな慎重に……ならなくて、いい。一気に焼いちゃってくれて構わな……いよ」
苦痛の声を堪えるために途切れ途切れになってしまいながらの台詞に、愛奈はしかし、涙目なのは変わらなかったが、決然とした顔でシャイリーの傷口から目を反らそうとはせず、じっとそこを見つめたままで応える。
「ダメです。こんな綺麗な肌をこれ以上傷つけるよーなことはできません」
「そんな些事にこだわってる場合じゃないんだ! ぐっ、アグリアが」
「魔法を使おうとしてるんですよね。見なくても判ります」
今もシャイリーの傷口から目を放さず、一心不乱に処置を続けているように見える愛奈であったが、この時の彼女は普段とは一味違った。頼ってもらえたことで内心は気張っているのか、それとも色々とあり過ぎて色々なものを吹っ切れてしまったのか、それは誰にも分からなかったが。
「大丈夫です。私を信じて下さい」
愛奈らしくない発言に、シャイリーはぽかんとしてしまった。そして気付く――愛奈の全身の魔力がどんどん高まっていくことに。
更に彼女は、既に震えの止まった右手から左手を放し、自由になった手で、そちらを見もせずに、空中に魔方陣を高速で刻んでいく。
「……頼んだよ」
「はい」
その瞬間が、アグリアの魔法が完成し、発動した時であった。
高速で迫り来る氷の砲弾。質量、速度共に人を殺すには十分すぎる。まともに受ければ人の体など木っ端微塵に砕け散るだろう。
それを……
「ウィンドブレイク・ブラストッ!」
それはいつぞや、ヴィレッタが使用してみせた、キャスティングの風系最上位『ウィンドブレイク』にロスト・スペリングで構成した魔力を上乗せするという、リドウも感心したスペルキャストの魔法であった。
しかし、その威力はあの時のヴィレッタには及ばないだろう。愛奈の潜在魔力はヴィレッタを遥かに上回るが、潜在能力の全てを引き出していると思しき彼女には、今の愛奈はまだ及ばない。
ヴィレッタすら上回ると考えられるアグリアの魔法は、おそらく全力ではないのだろうが、しかし止め切れるものではない。
それでも――
「私でもそらすくらいはできますよ」
氷の砲弾は二人のすぐ横を通り過ぎ、遠く地面に突き刺さり、盛大な爆音を響かせる。
それとほぼ同時に、シャイリーの出血は完全に止まる。
愛奈は自分が魔法で焼いたはずの爛れた肌に一瞬だけ痛々しそうに顔を苦く染めたが、すぐに気を取り直して毅然と立ち上がり、こちらを悔しげに見ているアグリアと向き合う。
「いつの間にダブルキャストまで……」
シャイリーが感嘆の眼差しで愛奈を見つめると、彼女は曖昧な笑顔で応じる。褒められているのは素直に嬉しいようであったが、彼の状態を思うと、とても喜べるものではなかったらしい。
「実はこっそり練習してたんです。まだ大したレベルじゃないですから、中位キャスト以上のレベルを両立させたりはできませんけど、小さな魔法くらいだったら、使いながらでも、他の魔法を普通に使えます。スペルキャストとの併用は初めてでしたけど、上手くいって良かったです」
「デカチチ娘ぇ……ッ」
アグリアが愛奈を、憎悪を滾らせて睨み付けている。
愛奈は、いつもなら怯えて縮こまってしまう……いや、今も一瞬怯んだ様子を見せはしたが、今日はいつまでも震えていたりはしなかった。
「ほんっとーに何から何まで気に入らない小娘だわ、あんた。スペルキャストだけじゃなく、ダブルキャストまで、しかも併用ですって? 人の神経を逆撫でするのもいい加減にしろってのよ」
ぴしっ
何かが罅割れるような乾いた音が鳴る。それは……
ぴしぴしぴしぴしーッ
彼女の怒気に触発され半ば暴走する冷気が周囲を凍り付かせて行く音であった。
「あー、もー、何だかなー……」
気だるそうに、ゆっくりと首を左右に倒しながら、少しずつ二人の方へと歩いて行く。
「金髪ちゃんは金髪ちゃんで、ちょっとさー、根性見せすぎっしょ。あーやだやだ。これだから闘士ってイヤなのよね。あんたらの行動原理ってあたしみたいな常識人の理解の範疇を簡単に逸脱してくれるんだもん。『そこまでやる!?』ってマネを平気でしてくれちゃうから、策も何もあったもんじゃないわ」
本当にイヤだわと、嘆かわしげに首を横に振る。
「本当はさー、最初の予定だと、あんたらを人質にして月紅と烈震を戦わせるつもりだったのよ。決着がついて生き残った方も無事じゃすまないだろうし、それならあたしでも、徹底的に罠を張り巡らせれば勝てると思ってたんだけど……」
「何で、今それを僕らに話すの……?」
「やめたからよ。もうやめたの。もういいわ。素直に認めましょう。こっちの負けよ」
「…………」
シャイリーは、両手を広げて語るアグリアから視線をそらさず、隣の愛奈に小声で「油断しないで」と忠告する。愛奈は緊張した面持ちで「わかってます。何だかヤバイ感じです……」と応えた。
「この分だと月紅なんて、金髪ちゃんより遥かにイカレた大馬鹿野郎に決まってるわ。そんなのをこっちの思惑通りに踊らせようだなんて土台無理だったのよ。あたしの敗因はただ一つ、あんたらを過小評価しすぎたこと。挙句にあたしの可愛い部下たちまで殺ってくれちゃうし……ッ」
自分のせいで殺されてしまった、と言わないあたりがこの女の人格を如実に表しているなと、シャイリーはしみじみと思う。
「もう、何もかも……どうでも良くなってきたわ」
「素直に退く?」
一応の質問でしかなかったが、アグリアは思い切りはっと吐き捨てるように笑った。
「冗談でしょ。ここまでコケにされてすごすごと退いたんじゃ、あたしの沽券に関わるのよ。どうでもいいって言うのはあたしの計画のことだけ。過小評価はしない。二人揃って仲良く――」
ゆっくりと歩きながら周囲を凍らせていた氷畳が、突如勢いを増して一気にその範囲を広げる。
それが二人の足元まで到達した瞬間、アグリアは高らかと宣言する。
「死になさい!」




