第五十一話 愛奈とシャイリー 6
殺気を含んだアグリアの宣言と同時に、シャイリーは愛奈を抱えてその場を飛び退いた。
その直後、それまで彼らの居た場所に巨大な氷柱が出現する。
ドンッと一瞬にして天に向かって屹立したそれは、人を刺し貫くには十分にすぎ、食らった人間は最悪、胴を二股に引き裂かれていてもおかしくはない、凶悪な魔法であった。
広く地面を覆う氷のリンクの上をシャイリーは愛奈を抱えたままで華麗に滑る。
しかし、安心するのはまだ早かった。
シャイリーは「怖くないから暴れないでね」と愛奈に囁きながら、ふっと軽く身を沈めると、氷を滑る流れには逆らおうとはせず、ぴょんっと飛び上がった。
「きゃっ」
ドンッと新たな氷柱が生まれたのはその悲鳴と同時であった。
しかし今度の攻撃は一度だけでは終わらず、シャイリーは背後から続け様に迫り来る氷柱を、空中で愛奈ごと思い切り身を捻ってかわす。
「きゃぁ――ッ!」
くるくると横に回転しながらの空中遊泳に、愛奈は更に大きな悲鳴を上げてしまう。
が、流石のシャイリーも愛奈に気遣っている余裕は無いようで、
「飛んで!」
一方的に言い放ちながら、空中で愛奈を更に上空へと放り投げた。
「きゃあっ」
何度目かも分からない悲鳴が愛奈の口から飛び出すが、シャイリーの言葉の意味を正確に理解した愛奈は、風を駆使して空中で姿勢を固定する。
一人で落下を始めたシャイリーは、更に迫り来る氷柱を空中で身を捻りながら、あるいは氷柱に掴まって一気に方向転換して避ける。落下の最中、彼は空を飛ぶ愛奈と一瞬だけ視線を交わし、彼女がこくりと頷いたのを見ると、自分も微かに首を縦に振った。
そして、氷のリンクの上を滑りながら無事に着地する。
しかし、無理のある姿勢での回避であったには違いないらしく、避け損なってしまい、チャイナドレス風の衣装が氷柱の先に切り裂かれ、華奢ながらも鍛えられた筋肉質な肉体が露になってしまう。
「へ……?」
アグリアは一瞬呆ける。自分の目を疑っているのか、一度擦ってからシャイリーを再度見つめる。
先ほどの攻防の中でシャイリー自慢のシニョンもどこかに引っ掛けてしまったのか、片方が解けてしまっており、ぱさっと肩に掛かるさらさらの金髪を邪魔くさそうに手で背中に流す仕草は幼い外見に反してどこか妖艶で、それを見ていた愛奈やアグリアは状況を一瞬忘れ去って顔を赤くした。
「あ、あんた男だったの!?」
とか驚いているアグリアだったが、シャイリーにとっては関係ない話で、応えることはなく一気に彼女へ向かって加速する。
アグリアは戸惑うままに新たな氷柱を生み出してシャイリーを迎撃しようとするが、彼は向かう先から次々と突き出してくる氷柱を、華麗に身を捻りながらかわして行く。足元が凍っていることなどまるで関係ないと思わせる、自由自在の動きであった。
「ちっ」
アグリアは舌打ちし、手を突き出す。その手に周囲の大気が収束していき、解き放たれる。
氷を伴った風。ダイヤモンドダストという現象の、氷の一粒一粒が大きいものだった。
広範囲に亘ってばらまかれたそれは、シャイリーにとってはカウンターとなって自身を襲う。
しかし彼は、眼の部分だけを守るようにしながらも、速度を緩めようとはしない。氷の一粒一粒には何らかの魔力による強化が施されているのか、確実にシャイリーの身体を傷つけていくにもかかわらず、彼は止まろうとしないどころか、更に速度を上げた。
同時に、
「ブレイズストームっ!」
愛奈の声が戦場に響き渡る。
キャスティング火炎系最上位魔法だ。その効果は使い手の腕前に関係なく、十メートル四方を高熱で焼き払う。
それが、シャイリーとアグリアの居た場所を遠慮なく焼いた。
同士討ちと取られても仕方ない愛奈の行動であったが、これはシャイリーが自ら提案した作戦だった。
空中に彼女を放り投げる前、愛奈を抱えながら逃げている間に、自分が近づいたら自分ごとアグリアを焼けと言ってあったのだ。
当然、そんなことができるわけないと彼女は反論しようとしたが、「キャスティングじゃ僕にはまともなダメージにならない」という発言に、確かにそうなのだと気付いた愛奈はようやく了解した。
だが同時に、キャスティングでアグリアにまともなダメージになるのかという疑問もあったが、そもそもシャイリーが提案したのは、これでアグリアを倒そうという狙いからではなかった。
氷の足場でも自由自在に動き回っているように見えるシャイリーであったが、実際には流石にそんなことはなかった。本人からしてみれば酷く制限されている。アグリアは気功士と戦い慣れているというのが彼の見解で、彼女は敵に実力を発揮させないフィールドを作り上げているのだ。彼はまずそれを解消してしまおうと考えた。
しかし、ロスト・スペリングにより瞬時に新たなフィールドを構成できてしまうアグリアに対して、ちまちまとやっていたのでは間に合わない。火炎系が苦手な愛奈ではアグリアの氷雪には到底敵わない。よって、自分ごとアグリアの周囲を一時的に焼き払え、という作戦になった。
キャスティングならば設定された魔法が自動的に発揮されるから、愛奈でも相応の威力は出せる。一時的にアグリアのアイス・フィールドを蒸発させるくらいならば十分だ。その上、風をコントロールして上空を飛びながらでも今の彼女ならば余裕で使える。一瞬で考え出したにしてはなかなか良く出来た作戦であった。
「だから何であんたらって人種はそこまでやれちゃうんだっての!」
自分ごと焼くという信じられない作戦に、アグリアは魔法障壁に集中し、更に新たな迎撃用魔法を構築しながら悪態を吐く。ダメージが有るとか無いとか関係ないだろう。己の身を焼かれるという恐怖心は無いのだろうか。これだから闘士は相手にしたくないのだ――と。
彼女の数歩手前で足を止めるシャイリー。まだ彼の制空圏には届いていなかったが――彼には眼に見えずとも、感覚で理解していた、ソコがアグリアの魔力障壁だと。
とんっと魔力障壁に指先を曲げた右手を置く。
「こぉぉ」
大きく息を吸い――
ずんっと左足が地面に深く食い込む。
地面を蹴り付けた反動を一切漏らさず膝から腰へ、そして胴体を通って腕へと伝え、それが手に届く瞬間、ぐっと手を拳に握り締める。
「――はあっ!!」
パァーンッ
その一撃をもって、不可視の障壁は消し飛ばされた。
「げっ、一撃!? まずっ」
焦燥に歪めた真っ青な顔でシャイリーを見つめる。
が、次の瞬間。
「なーんちゃって♪」
にやっと唇を歪めながら、後ろに隠し持っていた手を前に持ってくる……その手に導かれるように、魔方陣も一緒にくっついて。
シャイリーの目が驚愕に見開かれる。
「ウィンドブレイク・ブラスト!」
暴風が吹き荒れる。
シャイリーに向けて放たれた爆風は、避けるには範囲が広すぎ、そして耐えるには強烈にすぎた。
「くぁっ」
小さく悲鳴を上げながら吹き飛ばされる。
それ自体がダメージの対象とはならず、空中で器用に身を捻って着地するが、再び間合いを大きく開けられる。気功士対魔道士の戦闘においては相手に致命的な有利を与えることになってしまった。
アイス・フィールドの内に居てはアグリアの好きなように攻撃されてしまうため、吹き飛ばされた慣性に逆らわず、バク転を繰り返して草原へと身を逃す。
すぐさま愛奈はシャイリーの側に駆け寄る。『ブレイズストーム』を撃ったらすぐにアイス・フィールドの外へ出ろと予め与えられていた指示に従っていたのだ。失敗した場合、まだ空中戦に慣れていない愛奈では狙い撃ちにされるだけだと彼は考えていた。戦闘となると本当に隙の無い美少女風美少年であった。
アグリアのアイス・フィールドも流石に無限大ということはないようで、これ以上に広げられることはなかった。しかし、このままでは迂闊に近づけない。千日手だ。
――いや、シャイリーの方が不利だった。それを彼は自覚していた。
「ロスト・スペリングだけだと思った? そうよねぇ……今の瞬間のあたしが練り上げた魔力だけじゃ、金髪くんの勢いを止められないと思ったんでしょ? 正しいわ。とっても正しかったわよぉ」
アグリアはくすくすと嘲りの笑みを浮かべる。優越感に酷く歪んだ顔は、相手をおちょくり、嬲ることを生き甲斐としている歪な人格の表れなのだろうか。
「何で……ウィンドブレイク・ブラストを使えるんですか!?」
「はあ? まさかデカチチ娘さぁ、あんた如きにできる程度の技があたしにできないとでも本気で思ってんの? このくらい、一回見れば十分よ。結局はスペルキャストでしかないしね」
愛奈の驚愕しながらの詰問の声に、アグリアは馬鹿にした顔で返す。
「デフォで強力な魔法を使えるあたしたちみたいなのには無い発想の技術よね。ちょっと癪だけど勉強になったわ。あたしも昔はキャスティングをばんっばん使って悦に入ってた口だけど、いつ頃からか使わなくなってからすっかり忘れてたわ。これはこれで案外便利なのよね。“規定値の魔力を無理やり持っていかれる”から、ロスト・スペリングに慣れると無駄が多くて普段は使う気にならないんだけど、その分“起動させるまで魔力が働かない”から不意打ちにはもってこいだし、今みたいな使い方もできるし」
腕を組んでうんうんと頷きながら。
アグリアは完全に己の優位を確信しているらしい。実際、シャイリーの策を余裕で破ってみせたのだから、それも頷ける話だ。
シャイリーは、心は油断せずに構えながら、冷静にアグリアの様子を観察している。
「ねえ、金髪ちゃん……ううん、金髪くん、かな? 気が変わったわ。あたしと取り引きしない?」
「……取り引き?」
何を言い出すのかと険しく顔を歪めながら、シャイリーは応じる。
「そう。取り引き。今のままじゃお互い決め手に欠けるのは分かったわ。けど、時間を掛ければ掛けるほどそっちが不利になってくのはあんたも理解してるでしょ?」
その理由が理解できていないのは愛奈だけであったようで、彼女は黙り込んでしまったシャイリーを心配そうに見ている。
「デカチチ娘は理解できないみたいね。あたしは勇者。潜在魔力は当然、馬鹿みたいなキャパシティなの。そしてあたしはまだ、それを完全に引き出しているわけじゃない。このまま戦い続けても二、三時間くらいは余裕で持つわ。もっとも、完全に引き出した戦いができるようなら、あんたらなんて問題じゃないけどね。でもデカチチ娘、あんたはどうかしら?」
「わ、私だってそのくらい余裕で持ちます!」
「魔力はね。けど、あんたのメンタルは到底耐え切れないでしょ?」
「――ッ!?」
そんなことはないっ、と言い返してやりたかった。しかし、息を呑んでしまったということは、彼女にもその自覚があったのだ。それどころか、既に決して弱くない疲労感が心身を襲っているくらいだった。
戦闘がこれほどに神経を磨り減らすものだとは、彼女は想像すらしていなかった。矢面に立って戦っているのはシャイリーで、彼女はあくまでもサポートにしかすぎなかったが……数時間など、とても持たないだろう。
「それに金髪くんだって、その怪我でいつまでも元気で動いてられるはずがないわ」
愛奈は思わず、シャイリーの肌蹴た上半身の焼け爛れた怪我の部分を見つめ、痛々しそうに顔を歪めてしまう。
「あたしとしても、これ以上疲れることをしたいわけじゃないし……」
だから取り引きをしようと、アグリアは再度持ちかける。
「ここでお互いに退こうっていう提案なら聞き入れないでもないけど?」
「ばっかじゃない」
シャイリーの言葉をはっと笑いながら切り捨てる。
「じゃあ、なに?」
その問いに、アグリアはにぃっと唇を歪めながらシャイリーを指差した。
「金髪くんさ、あんたあたしの物になりなさい」
「は?」
シャイリーは怪訝な顔で問い返す。
アグリアの方は己の頬に手を這わせながらうっとりと眼を細め、小首を傾げている。
「男だと思ってよくよく見てみれば、見れば見るほどあたし好みだわぁ、金髪くん。その綺麗な金髪もグッドよ。その金髪をベッドの上で振り乱して喘ぐ金髪くんを想像しただけで……」
ぺろっと唇を艶かしく舐める。
「あたし、濡れちゃいそう」
己の体を抱きしめながら身をくねらし、頬を紅潮させながらはぁと熱い吐息を零す。
呆れた顔つきをしているシャイリーの横では、愛奈がドン引きしてアグリアを眺めていた。
「ドSでビッチでショタコンとか……濃すぎでしょう、あの人……」
側でそれを聞くシャイリーには意味が良く分からなかったが、あまり褒められた言葉ではなさそうな響きだなということだけは理解できたらしく、軽く嘆息している。
「ねえ、どうかしら? あんたがあたしの物になると誓うなら、そっちのデカチチ娘は見逃してあげるわよ」
最高の名案とでしょうとばかりに言ってくるアグリアの言葉を、シャイリーは薄笑いしながら退ける。
「それで、自分の寝首を掻かれるとは思わないわけ?」
「私はね、あんたらみたいな闘士の行動原理なんてさっぱり理解できないけど、一つだけ、これだけは確かと知っていることがあるわ――」
ふふっと楽しそうに笑う。
「あんたらは、一度口にしたことは何があっても違えない」
「…………」
「たとえそれがどれだけ自分にとって理不尽だろうと、憎くあろうと、絶対に」
「…………」
険しい顔つきで黙りこくってしまうシャイリーであったが、どうやら反論はしないらしい。
その横で困惑気味に彼を見つめる愛奈が居た。
愛奈には二人のやり取りが良く理解できなかった。正直、アグリアの提案に乗った振りをして、後でシャイリーが逃げ出してくるのも、彼の体調を考えれば今は考慮されるべきではないかとすら思っていた。
なのに、アグリアはシャイリーが『そうすることはない』という確信を持っているらしい。
「ふふ、まだ分かんないみたいね、デカチチ娘には。まあ、その金髪くんや月紅と付き合ってればいずれ理解できるでしょうけど」
今度は愛奈が唇を結んでしまう番であった。
「闘士で在るためには凄まじい精神力が求められるわ。一度『やる』と決めたことは何が何でもやり遂げる強烈な意思よ。それこそが、この世界では一定の領域を突き破るための一つの要因なの。ま、馬鹿みたいな才能があればあっさりそこを突き抜けて行けるけど、あたしにはそのどちらもが足りないから、未だにこんな中途半端な領域で燻っているのよ。そんなの、どっちにしても、持とうとして持てるもんじゃないからね」
忌々しいったらありゃしないと舌打ちする。
「闘士って連中はね、本能的にそれを理解しているの。だから闘士は本能的に嘘をつくことを酷く嫌うわ。謙遜するための誤魔化しくらいが精々。特に誓約事に関しては絶対に嘘をつけない。闘士ってのはそういう風に“出来ている”のよ。連中自身がそれを本能的に理解しているから、特に誓約事に関しては、させようとするだけで多大な苦労する羽目になる。妙な約束をしないように慎重にならざるを得ないのね。そして、一度約束した事柄を守るためなら命なんて顧みない。どんなに強大な権力にだって平気で逆らおうとする。闘士が『極めて扱いづらい』と権力者に認識されている最大の所以よ」
にぃっと唇を吊り上げてシャイリーを見つめる。
「こちらから裏切りでもしない限り、あんたは絶対にあたしとの約束を破ろうとはしない、そうでしょう? ――金髪くん」
「…………」
シャイリーは答えようとはしない。むっつりと唇を結んで黙ったままだった。
「あたしは闘士じゃないけど、闘士と一度交わした約束を破るほど馬鹿じゃないわ。デカチチ娘はちゃんと見逃してあげる。今後あたしからは一切関わらない。……どう?」
アグリアは嬲るように言葉をシャイリーへ叩きつける。
黙したままで口を開こうとはしない彼と、自分の勝利を確信しているかの如く余裕で笑う彼女の間で、愛奈は何度も視線を彷徨わせる。
まさかアグリアの提案に乗る気なのかと疑い、それで自分だけが助かっても……
(そんなの皆さんに顔向けできませんっ)
それに、何だか……
「何だかとってもイヤです!」
突然大声を発した愛奈に、シャイリーやアグリアが眼を丸くする。
「あんなオバサンのゆーことを聞く必要なんてありませんよっ、シャイリーさん!」
「お、おば……!?」
アグリアは愛奈の暴言に青筋をこさえながら絶句する。
愛奈の啖呵に一瞬唖然としたシャイリーは、やがてその顔に笑みを浮かべると、おもむろに明後日の方へ向かって歩みだした。そちらには先ほど彼が殺した騎士の死体があり、今までそれに気付いていなかった愛奈は顔をしかめ、できるだけ見ないように気をつけながら、彼の行動を見守る。
シャイリーは無事に残っている方のお団子頭を結わえていた紐を手にし、それを引っ張って髪を解いてしまう。男の髪とは思えない麗しい髪がさらりと流れた。更に彼は騎士の死体の横に転がっている剣を手に取ると、己の後ろ髪を無造作に掴んで、肩の辺りでそれに剣の刃を当ててしまう。
まさかと愛奈やアグリアが思い、同時に止めようと口を開くが……遅かった。
「シャイリーさん!?」
「止めなさい、金髪くんっ!」
あんなに綺麗な髪が無くなるなんて、敵味方に関係なく人類の損失ということらしい。
しかし、既にシャイリーの金髪は切り取られてしまっていた。
彼は切り取った己の長い髪を、名残惜しさなど全く感じさせない仕草でその辺に投げ捨てると――
「頭が軽いね。何年ぶりかな、この感覚」
未練の欠片も感じさせず、むしろ得をしたなとでも言う風情で、頭を左右に振る。
「ねえ、アグリア。僕はね、綺麗なものが好きなんだ」
「は?」
ああ、勿体無い……と嘆いていたアグリアには、シャイリーの言葉の真意が掴めなかったようだが、彼は嘲るように唇を歪めながら続ける。
「お前みたいな醜女、僕の好みから大きく外れてるんだよ」
「なん……ですって……ッ」
自慢の美貌を貶されて憎しみに顔を歪めるアグリアに、シャイリーは嘲笑を深めて彼女を指差す。
「そう、その顔だ。そんな醜悪な顔で僕を口説こうだなんて、あまり安く見ないでもらいたいな」
ぎんっと眼差し強くアグリアを見据える。
「ちょっと怪我したくらいでお前如きに負けているようじゃ、僕の目指す領域に、僕は決して届き得ないだろう。僕は約束したんだ、リドウさんと、いつか僕が勝てる自信がついた時、お互いに本気で闘おうと……。それに僕は僕自身に誓った、愛奈ちゃんを守ってみせると」
ちらっと愛奈を見ると、彼女は自分でも訳が分からずに顔を赤くしてあたふたしてしまう。いや、シャイリーのような美少年に面と向かって「守るよ」と言われれば、普通の乙女なら仕方ないか。
彼はふっと優しげに笑んでから、アグリアに視線を戻す。その時には既に、眼差しは冷厳に彼女を見据えていた。
「闘士は一度己に課した誓約を決して破らない。僕は闘士だ。僕は己が闘士である事実に誇りを持って生きている。ならば、己に誓った約定を違えていいわけがない」
ゆったりと左手を前に掲げ、仰向けにした手をぐっと握り締める。
「僕は改めて誓うよ――アグリア、お前を必ず倒すと」
「一人じゃありませんよ」
愛奈はシャイリーの決意に引っ張られたのか、気力を十分に満たした笑顔でそう言った。
そうだね、とシャイリーも笑顔で応える。
二人の仲睦まじい様子がとことん気に入らないアグリアは、己が発する冷気の中で、表情すら凍りつかせている。既に憤怒が臨界点を突破しているようだ。
「なら、二人仲良く死ぬことね……ッ」
「あなたにだけは絶対に負けません!」
「お前にはやらせないよ」
怒気を押し殺した声。威勢が良く愛らしい声。静かに遠くまで響き渡る声。
――第二ラウンド開始の合図だった。
決戦が始まってからのクリスは、確殺の宣言が強がりでしかなかったのかと思わせるほど防戦一方であった。
敵の騎士が振り下ろす剣を半身に捻って避けると、追撃とばかりに横に跳ね上がってきた剣を、深くスウェーして避ける。昔一時期流行ったマト○ックス避けだ。
しかし、現実にそんな体勢になって間髪入れずに姿勢を起こせるものではない。が、クリスは己の鼻先を剣が通り過ぎるのに合わせて、華麗にバク転を決めることで体勢を整え、続く攻撃に身を備える。
曲芸のような動きをするクリスに騎士は一瞬悔しそうに呻きながらも、すぐに得意げな顔になってクリスを嘲る。
「どうした? 逃げるしか能がないのか? くくっ、ノーマルが、最初の威勢は所詮は虚勢だったようだな」
「気功士が俺如きに梃子摺っている時点で粋がるもんじゃねぇな」
しかしクリスは逆に自分こそ鼻で笑ってみせた。
「なにっ!?」
「あちらのシャイリー殿なら、最初に接触した時点で俺は殺されているだろう。ましてや月紅なら、俺は自分が死んだと認識する暇も無く殺されているだろう。てめぇなんぞ彼らの足元にも及ばん。精々地を張ってるのがお似合いだよ――俺のようなノーマルに殺られてな」
「き……さまぁっ!」
「悔しかったら掠り傷の一つでも付けてみせたらどうだ? まあ、てめぇ如きにできるとは思えねぇが」
正中線を半身にし、開いた左手を前に突き出し、右手も開いて腰の辺りで何かを持つように構える。
それに応えるように、騎士も剣を正眼に構える。
「あちらはどうやらアグリア様が優勢のようだな。まあ当然ではあるが……まさか貴様如きにアグリア様のお手を煩わせるわけにはいかん。速やかに殺してやるぞ、ノーマル」
「できないことは口にしない方がいい。せっかくのお綺麗なお顔が不格好にしか見えねぇからな」
「すぐに減らず口を利けなくしてやる!」
騎士の剣は速かった。一流の剣道家が全力で振るう竹刀にすら倍、いや三倍に達する速度であろう。重い長剣でのそれは、闘気による守りなど無いクリスが食らえば、一撃で絶命するのは確実であった。
しかし――
(あ、当たらないっ……なぜだ!?)
剣を振り続けながら、騎士は疲労だけでなく焦燥感にも汗する。
(まさか、見えているのかっ、闘気による強化も無しに……ッ)
――とか思っているのだろうな、とクリスは相手の内心を読み取り、心の中だけで嘲笑う……今はそれを表に出す時ではないから。
(馬鹿が。ノーマルの俺に、仮にも気功士の全力の攻撃が完璧に見切れるわけがなかろうに……)
クリスは騎士の肉体の全体を、どこをと言うことはなく、おぼろげに観察していた。
まず騎士の前足が微かに左に開く。
(上段からの振り下ろし……)
思った瞬間には一歩後ろに退く。するとクリスの予想した通りに大上段から打ち下ろされた剣が、それまで彼の居た場所を通過した。
そう、彼は敵の攻撃の全てを予測しているのだ。それもただ己の予測に合わせて回避行動を取るのではなく、敵の攻撃が発動する瞬間、最早攻撃軌道の変更は不可能というタイミングに合わせることで、確実に避けていた。
それは真実ぎりぎり、綱渡りと言うのすら生易しい、底まで百メートルの崖の上で暴風荒れ狂う中の綱を渡るに等しい行い。無謀と言うしかないその暴挙を、しかしクリスの類希な技量は現実とさせていた。
(ふん。ありがちな気功士の雑魚だな。常に一撃で決することを可能とする攻撃力があるせいで、常に大振りになっちまうんだよ、こいつら――っと、中段突き)
予想通りの中段突きを避け、
(――からの、袈裟切り)
騎士は振り上げた剣を斜めに振り下ろす。
(ここで――)
クリスは己の後ろ腰に右手をやる。スーツのような上着に隠れていたが、そこには剣の柄らしき物が、左肩の下あたりから柄を逆さにして彼の背中に張り付いていた。
それを逆手に持ち、抜き放った。
きんっと甲高い音を立てて両者の剣がぶつかる。
騎士は一瞬、突然クリスの手に現れた剣に驚いた様子であったが、すぐに優越感を満たした顔に変わる。
「僕と力比べをしようというのか!?」
「馬鹿が」
己が続けようとした言葉をそっくりそのまま被せて返された騎士は憤怒の形相で剣へ更に力を込める。
が――
クリスは己の剣……いや、正確にはダガーと呼ばれる短剣を逆手のまま斜めに構え、敵の攻撃を受け流しながら、自分は敵の剣を伝うように身体ごと前進させて行く。
力比べのため、余計に力を入れていた騎士は、前につんのめるようになってしまう。
その顔面を、敵の剣を渡り終えたクリスのダガーが襲う。
「ぎぃっ」
騎士は奇妙な悲鳴を上げながら首を捻ってなんとか回避するが、その頬をクリスのダガーが浅く切り裂いていた。
「つぁっ」
慌てて距離を置いた騎士は、己の顔に手をやると、その手を薄く汚す赤い液体を見た瞬間、顔を真っ赤に染め上げた。その意味は、ノーマル如きが自分の美しい顔を傷つけたという怒りであり、またノーマル如きに自分が傷つけられてしまったという羞恥心と屈辱感。
「殺してやるっ。殺してやるぞっ、ノーマルがぁっ!」
「もう聞き飽きたぞ、それは」
騎士の怒気を煽るためにも、クリスは呆れ顔を作ることで挑発を強める。
その最中、彼は心の中でほくそ笑んでいた。
(やはり……思った通り。気術だけはそれなりのレベルなんだ、こいつは。だが逆にそのせいで、攻撃に闘気を集中している瞬間は防御力が手薄になる。だから俺の攻撃も浅くとはいえ通った……闘気が無ければ今ので骨まで断っていただろうがな。しかし、何度も思うことだが、何ともかんとも、ありがちな雑魚気功士だ)
その確認こそが今の攻撃の目的であった。だが今の攻撃に含まれていた意味はそれだけではなく、
(さて、条件次第でこっちの攻撃が通るのも確認できた。それに、勝利への布石も打てた……)
更なる意味をも持った攻撃だったのだ。
(なら、後は詰めるだけだ)
その布石を役立たせ、勝利をより確実にするために……
「最初に傷を負ったのはノーマル風情じゃなく気功士の方だったな。どうだ? 見下している相手から一杯食わされた感想は」
「殺してやるぞ――ッ!」
「本当にできるのか?」
マフィアの幹部は楽しげに挑発を繰り返していた。




