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0/凍てる星

前日譚になります。

 おもえば、そのてのひらからなにかを取り落すのはいつだって、空の果てから北の終わりへ、凍てる星が天上を渡り落ちゆく、夜明けの時分のことだった。

 幼少のみぎりに、産みの母が彼をおいて逝ってしまったのも、もう顔も憶えていない父が、いくばくかの財と引き換えに彼を手放したのも。うあわくかすんでしまった思い出ではあったが、フローリアンのいずれの喪失の記憶にも、凛と冴える星が夜を引き連れてあかつきに追われ、空の彼方へと翔け沈む情景は存在した。大切なものがフローリアンをおいて、遠くへと去りゆくのはいつも、真夜中を見送った、そのあとのこと。

 グレーティアが世を去った今だって、そうだ。

 春の朝、寝台の上で老祭司が静かに息を引き取っているのを見つけたのは、家女中の一人だった。

 フローリアンはその日、夜明けるほどから峰のふもとを、馬を駆ってめぐっていた。青い峰へ至る場所に点在する、神域への入り口をあらわす導の石を訪ねていたのだ。先日にみつかったばかりの古い手記。その読み解きに際して、石の導に刻まれた古い文章技法の詩とその表現を確認するためだった。

 そして、朝食の時刻もだいぶ過ぎたころに館へ戻ってようやく、フローリアンはグレーティアの死を知った。

 それからの時間はまるで、勝手も知らない夢の中かどこかに、とりのこされたかのようだった。

 祖母とも、師とも慕った人の死に実感など持てるはずもなく。

 けれどグレーティアがこの世を去ったというならば、彼女を弔うべき祭司は、そしてこの花祝ぎの館の、リセトの主人は、もはやフローリアンで。

 ぎこちないながらも、突きつけられてしまったその事実に縋りついて、弔いの準備の采配をふるいはじめたのが、グレーティアの亡くなった、昨日の事。

 彼女の生前より繰り返し教えられていた通りに、使いを飛ばし、人を呼び、あるいは文章をしたためて、花祝ぎの代替わりを知らせ、死者の弔いの準備を進め、先代が最後まで手元においていた仕事に目を通すうち、時間はめまぐるしく過ぎた。

 そうして、葬儀の段取りや予定が定まり、わずかにひといきがついたころ。不意に彼を襲ったのは「これからは、己が花祝ぎとしてこの地に立たなければならない」という圧迫感と、「グレーティアはもう、死んだ」と、嫌でも告げ知らせてくる心中の空白だった。

 祖母とも、師とも慕った老祭司は、もはやこの館にはいない。亡き人は既に代々の花祝ぎの眠る弔いの丘、そのほど近くの祭殿の氷室へと身を移している。

 それはつまり彼女はもう、亡神の領分にあるという事。

 言うなれば青い峰そのものである亡神は、花祝ぎの血筋の祖神でもある。人は死ねば己の祖先に迎えられ、自身もまた祖霊となって、遺された血筋を守るのだ。だからこそ、亡神を血筋の祖とする花祝ぎであったグレーティアもまた、死を迎えて館を出た以上、既に人の領分の存在とは数えられない。亡神のそばへとかえりゆく、人の領域にあらざるものとして扱われる。

 だというのに、もう師がこの場所に居ないと、心のどこかで信じきれずにいたからか。わずかとはいえ、ようやくつかのまの休息の時間を手に入れた少年は、廊下の奥へと歩を進めた。

 フローリアンが目指す扉を開け、静かに当代の花祝ぎのものと定められている部屋に足を踏み入れると、やはりそこにはだれも居なかった。すでに真夜中も過ぎて久しい頃であったため、足元は燭台を必要とするほどに暗い。

 けれども片手に持つ燭台のともしびによって、実際に室内の様子を目にしてみれば、やはりそこはまだ先代が暮らしているかのようにしか、彼には感じられなかった。

「失礼、します」

 無意識のうちに自分が口にした言葉に、ぼんやりと、かすかないたみをおぼえつつ、フローリアンはゆっくりと部屋の中を見渡す。年代物の机、ふるい書の数々、大きな衣装箱、飾られた陶器の食器。暖炉のそばには一人掛けのソファが置かれており、ふらふらと近寄れば、少年の持つ燭台のひかりが暖炉上の飾り棚を照らした。なにげなくそちらへ視線を遣れば、ソファの傍の小机に、数枚の紙がそっと置かれているのがみてとれる。

 グレーティアの几帳面な性質をおもえば、少々めずらしい事ではある。なにか、書きつけでもして、そのままになっていたのだろうか。そう推測し、興味をひかれて紙面をのぞきこんだ彼の目にうつったのは、しかし師の文字とは異なる、見慣れない筆跡だった。

「これって――アリーセ・シュトルツ?」

 おばあさまへ。先日はお返事を、ありがとうございました。

 そう、少々かたい印象をうける細い文字で書きはじめられているのは、グレーティアに宛てられた手紙。

 師を祖母、と呼べる立場の人間を、彼はひとりしかしらない。フローリアンは記された呼称に思わず、グレーティアの孫娘にあたる、少女の名を口にした。

 早くに逝ってしまった、たったひとりの愛娘の忘れ形見なのだと。けれど娘が選んだ夫の血筋ゆえに、いまは領外に居るのだと。フローリアンと年もそう変わらないと。

 彼女の名前を出すたびに、おだやかに笑んでいたグレーティアの言葉を、フローリアンはよくおぼえていた。

 それだけでなく、顔も知らぬ少女の名前も、グレーティアの語る彼女の思い出も、そこから垣間見える人柄も。どれも記憶の中に、くっきりと彩られている。

 人の手紙を読むのはどうか、と思う自分もいたが、ためらいよりも縋るように惹かれる感情が先だった。

 フローリアンと同じに、グレーティアに育てられ、フローリアンが後継として引き取られるまでは祭司の知識も多く託されてきた少女。彼女の事を、フローリアンはグレーティアの言葉伝いにしか聞いていない。

 けれど後継ではなかったとはいえ、祭祀についても学んでいた、先代の身内だ。花祝ぎがフローリアンへの代替わってしまった今、彼女はフローリアンにとって、たったひとり喪失感を共有できる相手なのではないかと、そんな気がした。

 燭台を小机の上におき、手紙に目を通してみれば、アリーセ・シュトルツという少女の記した言葉は、心地よくフローリアンの心に触れてきた。

 ゆっくりと手紙を追っていけば、彼女は祖母への挨拶もそこそこに、王国の古史についての問いをいくつか投げかけている。

 どうやら少女は領外の寄宿学校に居てさえも、旧女王領にまつわる知識に触れているらしい。手紙の語るところによれば、紋章学のくくりの中で、銀杖王家の古い歴史を知ろうとしているようだった。あるいはもしかすると、それを通して眠れる女王家の今に繋がる系譜をもまた追っているのかもしれない。

 そう思えもするほどに、アリーセが手紙に記している問いは、貴族や聖職者、あるいは有識者といった一部階級の人間が教養として学ぶ紋章学とは、方向性や視点を異にしていた。

 今は茨に覆われた女王国の血脈は、この鉄の時代において、銀杖王家に継がれている。それは最初の女王へと代替わるにあたり、王殺しの慣習に斃れた古い王の血筋が、峰を神と祀る役目とともに、今も花祝ぎに繋がっているように。

 アリーセが記す問いはいずれも、銀杖王家において女王家の流れをくむ家系の紋章や、その変遷に焦点をあてていた。旧女王領から遠のいているとはいえ、グレーティアの孫娘は今でも故郷から、花祝ぎから離れきってはいないのだろうか。

 そう考えてみれば、不思議と心細さが軽くなったようにも感じる。きっと誰より、彼女は自分と似た立場なのだと思えた。

 アリーセからグレーティアに宛てられた手紙は、もっぱら疑問に枚数がさかれていた。

 それでも最後の方には、年を重ねてきた祖母への気遣いや、リセトの日常を尋ねる言葉も記されている。

 ……そこまで読んで、フローリアンはふと気づく。

 この手紙の返事を、彼女が受け取ることはないのだと。そしてアリーセ・シュトルツは、グレーティアの死を知らない。

 どうして、思い至らなかったのだろう。

 疲労か、動揺か、あるいは突き刺さる現実を直視したくはないという感情からか。いっそ不自然なほどに、フローリアンの意識は手紙と、それをしたためた少女に向いていた。

「知らせないと」

 花祝ぎの代替わりを、彼女の祖母が儚くなったことを。

 領主代行であるアーベライン伯や、この地を統べる銀杖王、言うなれば花祝ぎの旗下である、旧女王領の各地に在す亡神の祀り手や――とにかく、公的に花祝ぎとやりとりのある立場の人間には、既に報せは飛ばしてある。

 しかし今に至るまで、グレーティアの私的な縁者には、考えが及んでいなかった。常ならば近親の者だけでひっそりと見送られる葬送だ。アリーセ・シュトルツ、彼女はたったひとりの、死者の近しい血縁であるというのに。

 失念していた。少々焦りながらも、連絡を取る算段を考える。

 グレーティアから詳しくは聞いていなかったが、確か彼女の孫娘が在籍する寄宿学校は、旧女王領とも境を接する候領にあると聞いていた。領外ではあるが、行き来に何日もかかる距離というわけではない。葬儀にだってきっと間に合うはずだ。

 けれどアリーセの在籍する寄宿学校について、フローリアンの知ることは少なかった。場所はおおまかに聞いていたが、名前は知らない。

 それでもふと思い当たり手紙の入っていたのだろう封筒を探すと、やはり差出人の名が書いてある。同時に、彼女の在所も。

 燭台の光だけが仄暗く部屋を照らす中、これだけは見落とさないようにと、フローリアンは慎重に指先を滑らせて確認する。

 そして最後の一行まで目を通し辿ったところで、彼はかるく目を見開いた。

差出人の在所として記された文字。

 アルフラート女子修道院付属寄宿学校。

 まちがいなく、聖堂の領分のものだった。

 どういうことだと、ひとつ疑問が浮かべば、雪解けに際して水が川を翔け流れるかのように、次々と言葉はおしよせた。

 アリーセ・シュトルツ。先の花祝ぎの孫娘。けれど領外に出て以来、一度も帰ってきてはいない、花祝ぎの守るこの地に関心を寄せながらも、聖堂傘下の学び舎に暮らす少女。

「どうして」

 ぽつりと、ほそく声がこぼれおちる。

 この一行を見とめるまでは、あんなにも、彼女が近く感じたというのに。文字はフローリアンの感情をくるりくるりところがして、戸惑いをそっと、その手にのせてきた。

 グレーティアも、この事は知っていたのだろう。ならば彼女が聖堂の領分へ行く事を、許したとでもいうのだろうか。

 すこしの沈黙と思案の後に、フローリアンは麻痺しきった心のまま、小さく息をついた。手紙と封筒をたたんで、もとあったように丁寧に置いた指先は、おどろくほどにふるえて冷たい。

 そしておそるおそる、というように燭台を手にすると、彼はなにかから逃げだすようにして、呆然と部屋を立ち去る。廊下を急げば、やがて踊り場に突き当たった。

 大窓からあわくさしこむ星明りにふとたちどまり、少年は窓から夜空を仰ぎ見る。凍てる星、と。地上の人にそう呼ばれるひかりは、この真夜中の空にもまた、まばゆく輝いていた。

 あの星が、峰の向こうへと渡り落ちるのを、みたくなどない。

 きつく、くちもとを引き結んで、フローリアンは凍れる星から、夜空から視線をそらす。自室へと戻る歩をはやめ、たどりついた先の扉を乱暴に開け放つ。燭台からあかりを吹き消すと、少年は倒れこむように寝台へと横たわった。

 また、なにかを失ったりはしない、と。少年は淡々と己に言い聞かせて、まぶたをきつく伏せる。

 そう、また、明ける夜を駆け渡る星とともに、なにかをこの手からとりおとすことはない。なにせ、亡くしたばかりの人の存在は、彼にとってあまりに大きすぎたし、慕わしさに触れかけたものは、この手の上にはないのだから。

 そう言い聞かせて眠りに沈みこむうちに、やがて、夜も明け。また忙しく、役割を果たす時間は始まった。

 フローリアンは明くる朝に目覚めるとともに、まずアリーセ・シュトルツへ宛てた訃報と、葬儀への参列を促す手紙を送ったが――とうとう、弔い送るその日になっても、リセトに彼女の姿はなかった。それでも、新たな花祝ぎの最初の役目として、先の祭司の死出の旅への出立を見送る儀を、フローリアンはとどこおりなく終えた。

 グレーティアの死を悼み悲しむ思い以外に、「やはり」という落胆と、「それでも」という感情を胸中にいりまじらせながら。

 それからの日々は、慣れぬものの祭司としての役目をこなし、ぎこちなくはあっても師に教えられたことを思い出しては学びに時間をまわし、また、ひとり弔いの丘へと亡き人を訪ねることで時間が過ぎた。変わりゆく生活は、まだ喪に服すフローリアンにとっては慣れないものであったけれど、夜を厭って日暮れとともに寝台にもぐりこめば、感覚はなくとも疲れはしているのだろう。夢も見ずに、深く眠りこむばかり。

 その日もまた、春のおだやかな日差しの下で、少年はぼんやりと若い木の墓標の前に立っていた。やはり、まだいたみはつよく彼の中に存在するのか、あるいは刺し貫いてきた現実に、凍てついていた感情がとけだしているのか、それともかさなっる疲労ゆえか。ここ三日ほどは、丘を訪れるたび、どうしてか涙が止まらずに、襟元や地面に花咲かせる日々が続いていた。

 よわっているな、と。ぼんやりと墓標をみつめていた、その時のこと。不意に、背中の方から人が土草を踏みしめる足音が、かるく聞こえた、気がした。誰かが来るとは、思ってはいなかった。すこし焦って振り向くと、丘の途中には見慣れない少女が一人、喪服に身を包んで、こちらを見つめて立っている。

 その青い瞳の面影にそっとまたたいたフローリアンは、零れ咲く花の涙をぬぐいもせずに、ためらいがちに声をふるわせた。

「だれ? なんでここにいるの」

 そして祈り縋るほどに、少年がまちのぞんだその言葉を、少女はそっと、フローリアンに差し出した。

思いもかけないタイミングで、思いもかけない形で、ひとさまに「おすすめの作品です」とSNSにて触れていただけたので、同人誌として製本した際に書き下ろした前日譚を再録した次第です。

また、本文のうち長年気になっていた箇所にも少しだけ手を入れました。


初めて完結させた思い入れのある作品に、何年かぶりに触れるよい機会になりました。とても嬉しかったです。届くかわかりませんが、ありがとうございました。


この二人やこの旧女王領の「これから」や、かつての花祝ぎの「これまで」を含む物語もあるにはあるので、なにかの折にお披露目できる形に仕上げることができましたら、またお付き合いいただければ幸いです。

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