第9話 風の先
一本角の男が眠る部屋を離れてから、水場へ戻るまでの道のりは、来たときよりも妙に長く感じられた。
腕に抱えた黒い記録板は軽い。だが、そこに自分の正体へ繋がる情報が刻まれているかもしれないと思うと、実際の重さとは別の存在感があった。
帰路の途中、壁に点在する青白い発光物へ何度か目を向ける。
その周囲には、やはり淡い揺らぎが見えていた。
正面から凝視すると輪郭を失い、視線を少し外して胸の奥――《魔核》と仮称した器官へ意識を向けると、そこに何かが存在していることだけが分かる。
魔力。
本当にそう呼んでいいものかは、まだ分からない。
ただ、名前がなければ考えるにも不便だ。仮称は仮説を整理するための道具でしかない。間違っていると分かれば、そのとき改めればいい。
歩きながら観察すると、揺らぎの濃さには場所ごとに差があった。発光物の多い場所ほど強く感じる傾向はあるが、完全には一致しない。壁の亀裂そのものから滲んでいるように見える場所さえあった。
調べれば何か分かるかもしれない。
だが、今は寄り道をするべきではない。
気になるものを片っ端から調べていては、いつまでもこの施設から出られない。
水場へ戻ると、俺は記録板を壁際へ置いた。床へそのまま置くのが何となく気になり、集めてあった乾いた繊維を敷いてその上へ載せる。
この世界で手に入れた、今のところ唯一と言っていい文字資料だ。雑に扱う気にはなれなかった。
水を飲み、残しておいた虫の肉を焼く。
初めて口にしたときほどの抵抗はない。白い身が火の上で焼ける匂いにも、すでに少し慣れてしまっている。
「慣れって怖いな……」
半透明の巨大な虫を食料として扱っている自分へ苦笑しながら、十分に火を通した身を少量ずつ口に運ぶ。
今のところ、食べたことで異常は起きていない。
ただし問題は保存だった。
死骸を倒してからどれほど経っているのか分からない。施設内は涼しいが、それだけで腐敗が止まるはずもない。《解析》を使えば兆候は拾えるかもしれないが、食事のたびに頼るのは効率が悪い。
匂い、色、表面の変化。
自分で判断できる情報を先に見る。
怪しいときだけ《解析》を使う。
能力があるからといって、何もかも任せる必要はない。
食事を終えたあと、俺は改めて黒い記録板を手に取った。
手のひら二つ分ほどの大きさで、厚さは一センチにも満たない。表には十数個の文字らしき記号が並び、そのうち最初の数文字だけが少し大きく刻まれている。
裏側には円と複数の線を組み合わせた紋様。
一本角の男が胸につけていた装飾と似た意匠だ。
そして、見れば見るほど、事故の直前に目にした白い線を思い出す。
形が同じわけではない。
ただ、中心から複雑な線が広がり、いくつもの規則が重なっているような印象だけが妙に似ていた。
「これが読めればな……」
男の名前。
種族。
この施設の正体。
何か一つでも分かるかもしれない。
だが、文字は相変わらず読めない。
一枚の板を眺め続けても、知らない言語が突然理解できるようになるわけではない。
解読するには比較材料がいる。
同じ文字が別の場所で使われている例。意味を推測できる絵や物との対応。数字らしき配列。そうした情報が増えれば、少しずつ規則を見つけられる可能性はある。
つまり、やるべきことは結局同じだ。
情報を集める。
俺は記録板を元の場所へ戻し、周囲を見渡した。
この水場には、水と食料がある。
火も起こせる。
最低限の生存環境としては成立し始めている。
だからこそ、次は外だ。
ここに留まり続けても、虫の肉はいずれ尽きる。燃料に使っている乾いた繊維も有限だ。それ以上に、この施設の中だけでは世界について知れることに限界がある。
以前、火を焚いたときに感じた風。
出口へ繋がる可能性が最も高い手がかりだった。
俺は小さな火を起こした。
暖を取るためではない。
空気の流れを見るためだ。
炎が安定するまで乾いた繊維を少し足し、水場から伸びている各方向へ順番に近づけてみる。
最初に目覚めた区域へ続く方向では、炎はほとんど揺れない。一本角の遺体を見つけた深部側では、ごく弱く傾く程度だった。
赤い結晶を持つ生物と遭遇した方向へ向けると、明らかに炎が倒れる。
やはり、あちらには空気の流れがある。
ただし、あの生物の縄張りへ再び踏み込む必要はない。
別の流れを探す。
水場を改めて一周すると、溜まった水が流れ出している細い溝が目についた。その先には膝ほどの高さしかない暗い穴が続いている。
排水路のように見える。
火を近づけると、炎が小さく揺れた。
穴の奥からこちらへ向かって空気が流れている。
「ここも、どこかに繋がってるのか」
もちろん、這って入るつもりはない。
あの狭さでは身体の向きを変えることも難しい。中で生物と遭遇すれば逃げ場がない。
それでも情報としては重要だった。
空気は一方向から流れ込んでいるわけではない。
いくつかの経路を通って、この施設内部を循環している可能性がある。
そこで、今まで無意識に使っていた言葉に引っかかった。
遺跡。
俺はこの場所をそう呼んでいる。
だが、それは古そうに見える地下構造物だから便宜的にそう呼んでいるだけだ。
規則的な通路。
複数の部屋。
壁に刻まれた文字。
排水らしき構造。
空気の流れ。
一本角の男が横たえられていた部屋。
単なる洞窟や墓というより、明確な用途を持って造られた施設だったと考える方が自然だった。
なら、どこかに出入口がある。
人型の存在が利用していた施設なら、人や物資が出入りできる経路も存在したはずだ。
「構造から探した方が早いか……」
闇雲に歩くよりはいい。
細く入り組んだ通路より、人や物を運べそうな幅の広い経路を優先する。現在地が深部なら、緩やかに上っている道も候補に入れる。
完全な根拠ではない。
だが、少なくとも方針にはなる。
俺は火を消し、探索の準備を始めた。
武器代わりの金属片。
少量の焼いた虫肉。
問題は水だった。
持ち運ぶ容器がないため、これまでは水場から遠くへ離れられなかった。
探索範囲を広げるなら、何とかしなければならない。
そこで巨大な虫の外殻を思い出した。
死骸のある崩落区域へ戻り、外れた殻の中から比較的大きく湾曲したものを選ぶ。腹部を覆っていたらしい一枚で、長さは三十センチほど。浅い鉢のような形をしていた。
水場へ持ち帰り、何度も水ですすぐ。
正直、これで水を飲むのは気分がいいものではない。
だが、選択肢はない。
水を入れてしばらく待つ。
漏れない。
容器としては使える。
問題は持ち運び方だった。
片手で抱えれば、戦闘時に邪魔になる。
服をさらに裂いて紐にすることも考えたが、今後のことを考えれば服まで消耗品にしたくはない。乾いた繊維にも十分な強度はなかった。
結局、今回は携帯を諦めた。
失敗ではない。
水を運べる器そのものは作れた。
次に必要なのは、それを身体へ固定する方法だ。
一つ問題を見つけたら、次の問題へ分解する。
それでいい。
俺は水を十分に飲み、金属片を持って探索へ出た。
選んだのは、これまで途中までしか確認していなかった比較的広い通路だった。
一本角の遺体を見つけた深部側とは別方向。
歩き始めてしばらくしたところで、胸の《魔核》が小さく脈打った。
俺は足を止める。
近くに発光物は少ない。
だが、前方から何かが流れてくる感覚がある。
空気だけではない。
壁の発光物の周囲に感じていた、あの揺らぎ。
それに似たものが、ごく薄く風に混ざっている。
掌を前へ向けてみる。
冷たい空気が指の間を抜ける。
同時に、《魔核》がわずかに反応する。
「……外から来てる?」
まだ分からない。
魔力が外部に多いのか。
別の場所に発生源があるだけなのか。
あるいは、そもそも俺が感じているものが魔力ではないのか。
それでも、空気と同じ方向へ流れを感じることには意味がある。
俺はそのまま進んだ。
通路は緩やかに上っている。
良い兆候に思えた。
もちろん「上へ行けば外」というほど単純な保証はない。それでも地下施設から地表を探すなら、下へ進み続けるよりは納得できる。
さらに進むと、床の様子が変わり始めた。
これまでの滑らかな構造材の上へ、細かな砂や土が積もっている。
壁にも大きな亀裂が増え、その一つから細い茶色のものが伸びていた。
俺は足を止める。
枝分かれしながら壁の内側へ入り込んでいる。
「……根、だよな」
どう見ても植物の根に近い。
近づいて観察すると、表面に小さな水滴がついていた。周囲の壁も湿っている。
施設内部に生えているのではなく、外部から侵入してきたと考える方が自然だった。
地表が近い。
その可能性を考えた途端、歩調が速くなりそうになる。
俺は意識して速度を抑えた。
出口が近いなら、同時に外部の生物が侵入してくる場所も近いということだ。
警戒を緩める理由にはならない。
根が見つかってから、空気の匂いも少しずつ変わっていった。
乾いた石の臭いに混じって、湿った土の匂いがする。
壁の発光物はさらに減り、周囲は暗くなっていくはずなのに、なぜか前方だけは少し明るく感じられた。
目が慣れたせいではない。
光がある。
青白いものではない。
柔らかな灰色。
俺は金属片を握り直した。
耳を澄ませる。
風の音。
それ以外にも何か聞こえる。
小さな音がいくつも重なっている。
葉が擦れる音。
鳥の鳴き声に似たもの。
細かな虫の羽音のようなもの。
俺はしばらくその場に立ち尽くした。
胸の奥がざわつく。
怖い。
それ以上に。
嬉しかった。
目を覚ましてから、周囲にあるのは石と闇と青白い光ばかりだった。
この施設の外にも世界がある。
当たり前のことのはずなのに、音を聞いた瞬間に初めて実感できた。
通路の先は大きく崩れていた。
石材が重なり、その隙間から光が差し込んでいる。
正規の出入口ではない。
崩落した壁か天井が外へ通じたのだろう。
俺はすぐには近づかず、少し離れた場所から耳を澄ませた。
大きな足音は聞こえない。
人の声もない。
風と葉音。
遠くで鳴く何か。
ときどき、高い場所から羽ばたきのような音も響いてくる。
警戒しながら少しずつ隙間へ近づく。
人一人が正面から通れるほど広くはないが、一番大きな場所なら身体を横にすれば抜けられそうだった。
その手前で外を覗いた瞬間、強い光に目を刺された。
「っ……」
反射的に顔を逸らす。
暗闇に慣れた目には明るすぎた。
しばらく瞼を細めたまま待ち、少しずつ外へ視線を戻す。
最初に見えたのは、緑だった。
濃い緑。
淡い緑。
黄色を帯びた葉。
青みがかった植物。
無数の色が重なり、視界を埋め尽くしている。
木々は高い。
太いものでは、数人が腕を広げても囲めそうにない幹まである。その枝葉が何層にも重なり、その向こうから光が降り注いでいた。
そして、その隙間に。
空。
「……空だ」
声が掠れた。
青い。
俺が知っているものと、よく似た青。
白い雲も浮かんでいる。
それだけだった。
それだけなのに、目を離せなかった。
風が隙間から吹き込む。
湿った土。
植物。
水。
それまでの施設にはなかった匂いが一度に押し寄せてきた。
俺はゆっくり息を吸った。
閉じ込められていたわけではない。
そう理解した瞬間、胸の奥にあった圧迫感が少しだけ軽くなった。
同時に、《魔核》が今までよりはっきり脈打つ。
外の空気には、施設内で感じていた揺らぎが混じっていた。
それも、ごく一部ではない。
空気全体。
木々の周辺。
地面。
濃淡はあるが、いたるところに存在しているように感じる。
「……これが、本当に魔力なら」
世界そのものに満ちている。
そんな考えが浮かぶ。
その瞬間、木の幹を小さな何かが走った。
栗鼠ほどの大きさ。
だが、後ろへ伸びる尾が二本ある。
俺は目で追ったが、そいつはすぐ枝葉の中へ消えた。
少し離れた枝には、鮮やかな青い羽を持つ鳥らしき生物が止まっている。嘴は長く、頭には小さな角のような突起があった。
さらにその上空。
木々の隙間を、大きな影が横切る。
一瞬だけだった。
鳥にしては大きすぎる。
翼の形も、俺の知る鳥類とは違って見えた。
俺は黙って森を見つめた。
角の生えた自分。
胸の《魔核》。
巨大な甲殻の虫。
赤いエネルギーを放つ蜥蜴。
見たことのない文字。
一本角の男。
そして、この森。
異世界。
事故のあとに目覚めてから、ずっとその可能性を保留してきた。
証明できないから。
決めつける材料が足りないから。
だが、ここまで来ると話が変わる。
「俺が知ってる地球だって考える方が……無理があるか」
口にしてみる。
完全な証明ではない。
それでも、自分の中では十分だった。
この場所を異世界だと仮定して行動する。
少なくとも、その方が現在までの事実を無理なく説明できる。
俺はもう一度森を見る。
外へ出られる。
数歩進めば、施設の外だ。
それでも俺は隙間を抜けなかった。
今の俺には水を十分に携帯する手段がない。森に何がいるのかも分からず、食べられる植物の知識もない。
この施設は危険だった。
だが、水場がある。
火を起こせる。
食料も少し残っている。
そして今は、帰る場所として使える。
出口を見つけたからといって、準備もせず飛び出す必要はない。
今日――という言い方が正しいのかは分からないが、今の探索ではここまでで十分だ。
出口までの経路を覚える。
水場との距離を確認する。
携帯できる水の確保方法を作る。
それから外へ出る。
俺は床へ、これまでより深く帰路の印を刻んだ。
この場所だけは絶対に見失わないよう、壁にも目印になる傷を残す。
作業を終えてから、最後にもう一度だけ隙間の外を見た。
木々が風に揺れている。
葉の間から陽の光が零れ、地面へまだらな影を落としている。
その向こうに何があるのかは、何一つ分からない。
人がいるのか。
町があるのか。
一本角の男のような存在が、今もどこかで生きているのか。
俺の身体がなぜ彼と同じ特徴を持っているのか。
知りたいことはいくらでもある。
だが、冷たい石床で目を覚ましたときから、やることは変わっていない。
分からないなら、まず見る。
情報を集める。
生き残りながら、一つずつ理解する。
次は、この森だ。
俺は森から吹き込む風を一度だけ深く吸い込み、暗い施設の中へ引き返した。
背後から差し込む光が、長い影を床へ伸ばしている。
胸の《魔核》が静かに脈打った。
外の世界は、もうすぐそこにあった。




