第8話 眠る一本角
水場へ戻ってからも、胸の奥に生まれた感覚は消えなかった。
痛みではない。熱とも少し違う。心臓よりわずかに右寄りの深い場所で、何かがゆっくりと脈打っている。
以前から《解析》では「未知器官」として存在を示されていた。だが、それまでは位置を意識しようとしても曖昧で、自分の身体に本当にそんなものがあるのかと疑いたくなるほど実感がなかった。
今は違う。
目を閉じれば、そこに何かがあると分かる。
さらに、壁面に点在する青白い発光物の周囲にも、それまで見えなかったものを感じるようになっていた。
煙のような、熱気の揺らぎのようなもの。ただし、目で直接見ようとすると輪郭が消える。視線を少し外し、存在そのものを意識すると、ぼんやり浮かび上がってくる。
「……何が変わったんだ?」
赤い光を放つ生物。
背中にあった結晶。
身体へ流れ込んだ正体不明のエネルギー。
《解析》が示した、外来性エネルギーの流入と体内変換。
そして、休眠状態から動き始めた胸の器官。
無関係だと考える方が不自然だった。
ただ、今の俺には、それらを結びつける知識がない。
なら、確認できるところから調べる。
俺は水を飲み、残しておいた虫の肉を少量だけ焼いて食べた。今のところ、あれを口にしたことで目立った異常は起きていない。安全だと断定するには早いが、少なくとも当面の食料として利用できる可能性は高そうだった。
食事を終え、しばらく身体を休ませる。
頭痛が十分に弱くなるのを待ってから、改めて胸の奥へ意識を集中した。
解析。
【解析結果】
対象:自己生体・胸部未知器官
状態:低活動
構造:一部解析可能
内部:高密度エネルギー反応あり
外来性エネルギー:変換済み
変換後エネルギー:内部保持を確認
生体組織との接続:複数
推定機能:
・エネルギー受容
・変換
・蓄積
正式分類:不明
解析確度:51%
以前より明らかに情報が増えている。
器官そのものが活動を始めたことで、観測できる情報が増えたのか。それとも《解析》する俺自身の認識が変わったからなのか。そこまでは分からない。
重要なのは機能だ。
外から何かを受け取り、変換し、蓄積する。
あの赤い攻撃を受けたとき、身体へ流れ込んできたものは消えたわけではなく、この器官の中に残っているらしい。
俺は目を閉じたまま、その存在を感じ取ろうとした。
心臓の鼓動を意識から外し、もっと奥にあるゆっくりした脈動へ集中する。
しばらくすると、ごくわずかに感覚が変わった。
形は分からない。
液体でも、熱でもない。
それでも、何かがそこに溜まっている。
そんな感覚だけがある。
試しに、それを右手へ動かすところを想像してみた。
何も起こらない。
もう一度試しても同じだった。
「そんな簡単にはいかないか」
存在に気づいたばかりだ。正体も、扱い方も分からない。無理に動かそうとして身体へ何が起きるかも分からない以上、今はそれ以上試すべきではない。
ただ、「未知器官」と呼び続けるのも不便だった。
外部のエネルギーを受け取り、変換し、内部へ蓄える核。
壁の発光物にまとわりつく揺らぎや、赤い生物が放ったものまで含めて考えると、どうしても生前に触れた物語の言葉が浮かぶ。
魔力。
今までなら現実の説明として候補に挙げることすらなかった言葉だ。
だが、生物が赤い光を放ち、それが石の壁を焼いた。しかも俺の身体には、それを取り込む器官がある。
ここまで来て、単に非現実的だからという理由だけで除外する方が不合理だった。
「仮に、あれを魔力とするなら……」
魔力を受け、蓄える核。
「魔核、か」
もちろん正式名称ではない。
俺が整理しやすくするための仮称だ。それでも「胸の未知器官」よりは扱いやすい。
現時点で分かっていることを整理する。
1. 赤い攻撃には、熱や衝撃だけでは説明できない未知のエネルギーが含まれていた。
2. 魔核と仮称した器官が、そのエネルギーを取り込んだ。
3. 取り込まれたエネルギーは何らかの形へ変換され、現在も魔核内部に保持されている。
4. その後、壁の発光物の周囲に存在する未知の揺らぎを感じ取れるようになった。
仮説としては十分だ。
この世界には、俺がこれまで知らなかった種類のエネルギーが存在する。そして今の身体には、それを扱うための仕組みが備わっている。
そこまで考えると、右側頭部にある黒い角へ自然と手が伸びた。
角。
魔核。
以前とはまるで違う身体。
自分が人間なのかという疑問は、まだ答えが出ない。
それでも手がかりは少しずつ増えている。
なら、次にやることも変わらない。
もっと調べる。
俺は十分に休息を取ったあと、金属片を手に立ち上がった。
赤い生物がいた方向へ再び向かうつもりはない。逃げていった個体が戻っている可能性もあるし、同じ種類が他にいるかもしれない。
水場から伸びる通路のうち、まだ十分に調べていない方へ進むことにした。
出口を探すという目的は変わらない。
ただ今回は、壁の発光物にまとわりつく揺らぎも意識する。
何か新しい情報が得られる可能性がある。
◇
未探索の通路は、これまで歩いた区域より明らかに損傷が激しかった。
壁にはいくつもの亀裂が走り、場所によっては表面そのものが崩れ落ちている。床にも破片が散らばり、ところどころで段差ができていた。
壁面にある青白い発光物も少ない。
それでも完全な闇ではなく、目が慣れていれば歩くことはできる。
発光物の近くを通るたび、周囲に漂う薄い揺らぎへ意識を向けてみた。
やはり、どこでも同じではない。
光の強い場所ほど揺らぎも濃く、弱い場所ではほとんど感じない。発光そのものと関係がある可能性は高そうだった。
今はそれ以上調べない。
《解析》は必要な場面に残しておく。
通路は緩やかに下っていた。
つまり、水場よりさらに深い場所へ向かっている。
出口を探す目的だけで考えるなら逆方向にも思えるが、この施設の構造を知らない以上、「上へ行けば外」という保証もない。何より、この方向にはまだ調べていない場所がある。
帰路の印を残しながら進んでいると、壁に刻まれた文字の数が徐々に増えてきた。
以前に見つけたものと同じ体系に見える。
ただし、今回は数文字ではない。
壁のかなり広い範囲へ、整然と並べられている。
文章。
そう呼ぶのが一番自然だった。
同じ形が何度も繰り返され、ところどころに大きな記号が混ざっている。見出しなのか、数字なのか、それともまったく別の意味なのか。
分からない。
以前なら、とりあえず《解析》を使っていたかもしれない。
だが今は使わなかった。
比較できる情報が増えていない。
同じ条件で同じ対象を調べても、意味まで突然理解できるとは思えない。それなら特徴だけ記憶し、別の手がかりを探した方がいい。
少しずつ、自分なりの《解析》の使い方が分かってきた気がする。
さらに奥へ進むと、通路そのものの形が変わった。
幅が広がり、天井も高くなる。
左右の壁には、一定の間隔で奥まった部分が並んでいた。かつては個別の部屋へ続く入口だったのかもしれないが、大半は崩落した構造物に塞がれている。
その中で、一つだけ内部へ入れる場所があった。
俺は入口の手前で足を止め、まず中を確認する。
動くものはない。
広さは十数メートル四方。
これまでの部屋とは違い、中央に大きな台のようなものが置かれていた。
そして。
その上に、何かが横たわっている。
最初は崩れた構造材だと思った。
だが近づくにつれて形が見えてくる。
腕。
脚。
頭。
俺は歩みを止めた。
「……人?」
動かない。
当然だ。
近づく前から、すでに生きていないことが分かるほど身体は乾燥していた。
遺体。
この場所へ来てから初めて目にする、人型の存在だった。
俺は金属片を構えたまま、ゆっくり距離を詰めた。
二本の腕。
二本の脚。
胴体。
全体の骨格は人間にかなり近い。
身体は俺より一回り大きく見えるが、巨人というほどではない。残っている皮膚は灰色に変色し、服らしきものも大半が劣化していた。
そして、頭部。
そこで足が止まった。
角がある。
一本だけ。
額のやや右側から後方へ伸びる、黒い角。
長さは十センチを少し超える程度だろうか。俺のものより明らかに大きいが、色も質感も似ている。
俺の右手が、無意識に自分の側頭部へ伸びた。
指先へ触れる、小さく硬い感触。
目の前の死者にも、それがある。
「……俺だけじゃない」
思わず声が漏れた。
ここへ来てからずっと、自分の身体だけが異常だった。
比較対象がなかった。
だから、角も魔核も、何が普通で何が異常なのかすら分からなかった。
だが目の前には、自分と同じ特徴を持つ可能性のある存在がいる。
俺はさらに近づいた。
遺体は男性に見える。
年齢までは分からない。
乾燥してはいるものの顔立ちは人間と大きく違わず、角さえなければ奇妙な場所で見つかった古い人間の遺体だと思ったかもしれない。
服の胸元には、薄い板状の装飾が残っていた。
金属なのか石なのかは分からない。
中央には円形の紋様があり、その周囲へ細い線が幾重にも刻まれている。
どこかで見たような感覚がした。
だが、今はそこより先に確かめたいものがある。
角だけなのか。
それとも。
俺は遺体へ意識を集中した。
解析。
【解析結果】
対象:人型生体遺骸
状態:死亡
死後経過:推定不能
基本骨格:人型
性別:男性型
頭部:角状生体組織あり
胸部:高密度器官痕跡あり
器官位置:自己胸部器官と近似
組織劣化:著しい
種別:判定不能
解析確度:47%
表示された情報を見た瞬間、呼吸が止まりかけた。
胸部。
高密度器官。
位置が、俺の魔核と近い。
角だけではない。
この遺体にも、同じような器官が存在していた可能性がある。
完全に同一だとは限らない。
だが、共通点が二つになった。
人間によく似た身体。
一本の角。
胸部の特殊な器官。
偶然だけで片づけるには多すぎる。
俺はしばらく遺体を見つめた。
「……お前は、俺と同じなのか?」
答えは返ってこない。
当然だ。
だが、この死者は俺がこの世界で初めて見つけた、自分自身の正体へ直接つながるかもしれない手がかりだった。
遺体の右手近くに、細長い黒い板が置かれていることに気づいた。
表面には文字が刻まれている。
壁で何度も見たものと同じ体系だ。
十数個ほどの記号が並び、最初の数文字だけが少し大きく刻まれている。
名前。
所属。
役職。
墓標。
いくつか可能性は浮かぶが、どれも推測にすぎない。
ただ、遺体と一緒に残されている以上、本人に関係する記録である可能性は高い。
条件が以前とは違う。
文字だけではなく、「誰かの遺体のそばに置かれている」という情報が増えている。
試す価値はある。
【解析結果】
対象:黒色記録板
用途:個体情報記録媒体の可能性
文字体系:既観測刻印と一致
記載内容:解析不能
反復構造:あり
固有識別情報を含む可能性:高
解析確度:35%
読めない。
だが、予想どおり情報記録に使われている可能性は高そうだ。
もし、この世界の文字を読み解けるようになれば、この遺体が何者なのかを知ることができるかもしれない。
そして、そこから俺自身の正体へ近づける可能性もある。
俺は記録板へ手を伸ばしかけ、少し迷った。
死者のそばに置かれているものだ。
勝手に持ち出すことに、妙な抵抗がある。
この世界に俺と同じような死者への考え方があるかどうかは知らない。それでも、俺自身が気になる。
ただ、ここへ何度も来られる保証もない。
情報を持ち帰って比較する価値は高い。
「……借りる」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
意味を読み解けるようになったら戻せばいい。
俺は黒い板を持ち上げた。
思ったより軽い。
そのとき、胸の魔核が小さく脈打った。
俺は反射的に手を止める。
何かを感じた。
記録板ではない。
遺体の方だ。
魔核を意識すると、死者の胸部と角の周辺に、ごく薄い揺らぎが残っているのが分かった。
壁の発光物にまとわりつくものと似ている。
ただし、こちらは弱い。
ほとんど消えかけている。
死んでいるのに。
何かが残っている。
赤い生物からエネルギーを取り込んだときのことが頭をよぎった。
俺は遺体から一歩離れた。
今は触らない。
魔核がどう反応するか分からない以上、興味だけで試すべきではない。
そのまま少し距離を取り、改めて遺体全体を見る。
そこで、胸元の装飾がもう一度気になった。
円形の中心。
そこから外へ伸びる細い線。
何重にも重なり、複雑な形を作っている。
見覚えがある気がする。
記憶を辿る。
そして。
高速道路。
大型トラック。
衝突する直前の世界。
あのとき、道路にも車にも空にも重なるように見えた、無数の白い線。
同じ模様ではない。
形も一致しない。
ただ、規則性の感じ方が妙に似ている。
「……気のせいか?」
分からない。
人間は一度何かを意識すると、無関係なものにまで共通点を探してしまう。
今の段階で、事故直前に見たものとこの紋様を結びつけるのは早すぎる。
それでも。
忘れない方がいい。
俺は紋様の形をできるだけ目に焼きつけた。
持ち帰る記録板にも、似た印がないか後で確認する。
そう考えたところで、自分が少し興奮していることに気づいた。
怖くないわけではない。
死者のいる薄暗い部屋。
正体不明の文字。
自分と同じような角を持つ遺体。
普通なら、すぐにでも離れたい状況だ。
それでも今は、恐怖より知りたいという気持ちの方が強かった。
この身体は何なのか。
俺はなぜここにいるのか。
あの事故のあとに何が起きたのか。
初めて。
答えへつながるかもしれないものを見つけた。
俺は記録板を抱え、遺体の前でもう一度立ち止まった。
男の顔を見る。
名前も知らない。
どれほど前に死んだのかも分からない。
それでも、俺にとってはこの世界で初めて出会った「自分と似た存在」だった。
「お前が何者なのか、必ず調べる」
返事はない。
水滴の音すら届かない深い場所で、男は静かに横たわっている。
一本の黒い角だけが、青白い光をわずかに反射していた。
俺は自分の右側頭部へ触れた。
同じ黒。
似た形。
そして胸には、おそらく同じような器官。
自分は人間なのか。
その問いへの答えは、まだ出ない。
ただ。
問いそのものは変わった。
俺だけがおかしいのではない。
俺と同じ特徴を持つ存在が、この世界には確かにいた。
その事実だけで十分だった。
俺は部屋を出る。
帰路につく前に、入口の床へこれまでより分かりやすい印を刻んだ。
ここには戻ってくる。
文字を読めるようになったとき。
もっと《解析》を使いこなせるようになったとき。
そして、この身体について今より多くのことを理解できたときに。
そのときこそ、この死者が残したものから答えを探す。
振り返る。
薄暗い部屋の中央。
一本角の男は、眠っているように見えた。
その姿を最後に目へ焼きつけ、俺は記録板を抱えて歩き出す。
胸の奥で、仮に《魔核》と呼ぶことにした器官が静かに脈打っている。
俺が何者なのか。
ここがどこなのか。
まだ分からない。
それでも。
冷たい石床で目を覚ましたときとは違う。
今の俺には、調べるべきものがある。
答えへ続くかもしれない手がかりがある。
なら、やることは一つだ。
知らないなら、調べる。
分からないなら、理解できるところまで近づく。
いつか。
この身体のことも。
この世界のことも。
すべて解析してやる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
これにて第一章「覚醒」は終了です。
少しずつこの世界と、自分自身の謎に近づき始めた玲司。
次章からも、彼の物語を楽しんでいただければ幸いです。
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