第7話 赤い光
赤い光を見たあとも、俺はすぐには奥の通路へ向かわなかった。
気にはなる。だが、それだけを理由に正体不明の場所へ踏み込むほど、今の俺には余裕がない。水場へ戻り、残っていた火を消したあと、金属片を手の届く場所へ置いて壁際へ身体を預けた。
腹には少量とはいえ食べ物が入り、喉の渇きもない。左腕の傷や背中の痛みは残っているが、出血は止まっている。《解析》を繰り返した後から続いていた頭痛も、休んでいるうちに少しずつ弱くなっていた。
ここへ来てから初めて、まともに身体を休められる条件が揃ったと言っていい。
完全に眠り込むことには抵抗があった。それでも身体の方が限界だったらしく、水滴の落ちる音を聞いているうちに、いつの間にか意識が沈んでいた。
◇
目を覚ましたとき、最初に確かめたのは通路だった。
何かが近くにいる様子はない。水滴の音以外は静かで、火を消した場所にも変化は見当たらなかった。
身体を起こしてみる。
疲労はまだある。それでも、巨大な虫と戦った直後とは比べものにならないほど動きやすい。左腕に巻いた布にはわずかに血が滲んでいたが、傷が大きく開いた形跡もなかった。
「悪化はしてない……か」
背中の打撲も、押せば痛む程度だ。少なくとも、すぐに動けなくなる状態ではない。
問題は、どれだけ眠っていたのか分からないことだった。
時計もない。日光も届かない。外の昼夜さえ確認できない以上、ここでは自分の感覚以上に時間を測る方法がない。
いずれ何らかの基準を作る必要がある。
ただ、それより今は出口だ。
俺は水を飲み、冷たい水で顔を洗った。頭が少しはっきりしたところで、前に感じた空気の流れを思い出す。
奥の通路から、確かに風が来ていた。
この施設が地下にあるとしても、完全に密閉されてはいない。どこかに大きな空間があるのか、外部へ通じる場所があるのかは分からないが、調べる価値は十分にあった。
そして、同じ方向で見えた赤い光。
火の反射かもしれない。疲労による見間違いという可能性もある。それでも、未知のものがあると考えておいた方が安全だ。
俺は金属片を手に取り、奥へ続く通路の前に立った。
風はまだある。
ほんのわずかだが、頬に触れれば分かる。
今回は深くまで行かない。危険を感じたらすぐ戻る。水場へ帰れない距離までは進まない。
そこまで決めてから、俺は通路へ踏み込んだ。
通路は緩やかに下っていた。壁面の青白い発光物は少なく、前より暗い。代わりに、ところどころへ赤茶色の筋が走っている。
最初は錆のようにも見えたが、この壁が金属なのかどうかさえ分かっていない。わざわざ《解析》を使うほど重要な情報でもないと判断し、触れずに通り過ぎる。
床へ帰路の目印を残しながら進んだ。
休息と食事のおかげで、以前より身体は動く。それでも完全に回復したわけではない。歩調は抑え、周囲を見る余裕を残す。
しばらく進んだところで、通路の先に淡い赤色が浮かんだ。
俺は足を止めた。
青白い発光物とは明らかに色が違う。
淡く光り、弱くなり、また明るくなる。一定の間隔ではない。
前に見たものと同じか。
俺は壁際へ身体を寄せた。
光源は曲がり角の向こうにあるらしい。
足音は聞こえない。
何かが動いている気配もない。
金属片を握り直し、ゆっくり角へ近づく。身体全部を晒さず、まず少しだけ先を見る。
通路の向こうは、小さな部屋になっていた。
中央付近に何かがいる。
俺はすぐに顔を引いた。
生き物だ。
少し待つ。
追ってくる様子はない。
もう一度だけ覗く。
四本の脚。低い身体。体長は七十センチ程度だろうか。全体の形は蜥蜴に似ているが、俺の知っている爬虫類とは明らかに違っていた。
黒に近い灰色の皮膚。その背中には、数本の透明な結晶のような突起が並んでいる。
赤い光はそこから出ていた。
結晶の内部を何かが流れているように、明るさがゆっくりと変化している。頭部は細長く、目らしき部分にもかすかな赤色があった。
見た目だけで危険性は判断できない。
だが、わざわざ近づく理由もない。
俺は静かに身体を引き、来た道へ戻ろうとした。
その瞬間。
背後で、低い音が響いた。
空気が震えたような感覚に、反射的に振り返る。
曲がり角の向こうが赤く染まっていた。
まずい。
理由を考えるより先に、身体がそう判断した。
俺は横へ飛ぶ。
ほぼ同時に、赤い塊が通路を走り抜けた。
拳ほどの大きさ。
炎のようにも見えるが、火とは違う。形を保ったまま一直線に飛び、俺の横を通過して壁へ衝突する。
ドンッ、と鈍い音がした。
壁の表面が黒く変色し、一部がわずかに溶けたように窪んでいる。
「……なんだよ、それ」
俺は思わず呟いた。
弓でも投石でもない。
あの生物が、何かを飛ばした。
どうやったのか。
何なのか。
考える暇はなかった。
蜥蜴のような生物が曲がり角から姿を現した。背中の赤い結晶は、さっきまでより強く輝いている。
頭部が俺へ向く。
もう一発撃たれる。
そう判断した瞬間、俺は走り出した。
戦う理由はない。まず距離を取る。
背後から爪が床を叩く音が続く。
追ってくる。
速度は、巨大な虫ほどではない。休息した今なら、すぐに追いつかれるほどの差もなさそうだった。
だが相手には、さっきの遠距離攻撃がある。
そこが問題だった。
俺は走りながら一度だけ後ろを見る。
背中の結晶が明るくなっている。
さっき攻撃される直前にも同じ変化があった。
前兆。
そう考えるべきだ。
俺は次の曲がり角へ飛び込んだ。
直後、通路の後方が赤く光る。
爆発音。
石片が壁に当たる音。
曲がり角が遮蔽物になり、直撃は避けられたらしい。
直線で飛ぶ。
少なくとも今のところは。
障害物があれば避けられる。
なら、曲がり角を使いながら逃げればいい。
俺は床の目印を追って進んだ。
このまま水場へ戻る。
そう考えたところで、足がわずかに緩んだ。
駄目だ。
あそこは今の俺にとって唯一の拠点だ。
水がある。
食料も残っている。
あの生物をそこへ連れていけば、水場自体を使えなくなるかもしれない。
途中で撒く必要がある。
次の分岐へ差しかかり、俺は水場とは違う方向へ入った。
未探索の通路。
危険性は分からない。
それでも拠点へ敵を連れ帰るよりはいい。
数メートル進んだところで、すぐに選択を後悔した。
通路が狭くなっている。
行き止まりではないが、避けるための空間がほとんどない。
戻ろうと振り返る。
入口に赤い光が見えた。
間に合わない。
蜥蜴が通路へ入ってくる。
俺は壁際へ寄り、金属片を構えた。
防具にはならないだろう。
それでも何も持たないよりはましだ。
相手の背中にある結晶が明るくなる。
攻撃の直前に何が起きているのか。
それが分かれば避けられる可能性が上がる。
頭痛はかなり弱くなっている。
ここは使う場面だ。
俺は生物へ意識を集中した。
【解析結果】
対象:未確認四脚生物
推定体長:約72cm
基本構造:四脚型
背部結晶体:未知エネルギー反応を確認
結晶体内部反応:増大中
放出方向:頭部前方と推定
放出現象:分類不能
危険性:高
解析確度:37%
頭の奥に痛みが戻る。
だが、欲しかった情報は得た。
結晶が明るくなるのは、やはり攻撃準備らしい。
今も反応が増大している。
俺は相手の頭ではなく、背中を見る。
赤い光が一段強くなった。
来る。
頭部がわずかに上がる。
その瞬間、俺は身体を低くして横へ転がった。
赤い塊が頭上を通り過ぎ、壁へ叩きつけられる。
爆発した破片が肩へ当たった。
痛い。
だが動ける。
俺は転がった勢いのまま立ち上がり、今度は相手へ向かって踏み込んだ。
距離を取れば撃たれる。
この狭い通路なら、遠距離攻撃をさせない方がまだましだ。
蜥蜴が後退する。
接近を嫌う。
その反応を見て、俺はさらに距離を詰めた。
金属片を横へ振る。
相手は素早く身体を捻り、刃先の代わりになっている尖った部分を避けた。
もう一歩。
今度は背中の結晶を狙う。
その瞬間、太い尾が視界の端で動いた。
「ぐっ!」
脇腹へ強烈な衝撃。
身体が壁に叩きつけられ、肺の中の空気が一気に押し出された。
金属片を落としかける。
痛い。
だが、意識はある。
骨も、おそらく折れてはいない。
蜥蜴は追撃せず、こちらから距離を取った。
そして背中の結晶が赤く輝き始める。
まずい。
近い。
俺は身体を起こそうとしたが、脇腹の痛みで脚が一瞬もつれた。
間に合わない。
赤い光が膨らんでいく。
咄嗟に金属片を身体の前へ出した。
防げるとは思っていない。
ただの反射だった。
赤い塊が放たれる。
次の瞬間、視界が赤く染まった。
衝撃。
熱。
直撃した。
そう思った。
だが予想していたほどの痛みが来ない。
代わりに、胸の奥が焼けるように熱くなった。
「がっ……!」
俺は膝をついた。
服の胸元が焦げている。皮膚にも熱が残っている。それでも、さっき壁へ当たった攻撃の威力を考えれば軽すぎる。
おかしい。
その違和感を認識した直後、胸の奥でもう一つ異常が起きた。
心臓とは違う。
前に《解析》で見つかった、あの未知の器官。
そこが脈打っている。
一度。
二度。
重い鼓動が胸の内側へ響く。
同時に、身体の外から何かが流れ込んでくる感覚があった。
赤い光。
熱。
圧力。
そういったものが胸の一点へ集まり、そこへ吸い込まれていく。
「なんだ……これ……」
意味が分からない。
だが、ただ攻撃を受けている感覚とは違う。
身体がそれを取り込んでいる。
そうとしか思えなかった。
胸の奥に集まった何かは、そのまま消えるのではなく、別のものへ変わって全身へ広がっていく。
熱い。
苦しい。
なのに、不思議と拒絶感がない。
むしろ。
身体が求めている。
そんな感覚すらあった。
視線を上げる。
蜥蜴の背中から、細い赤い揺らぎが伸びていた。
はっきりした光の線ではない。
だが、結晶の周囲にあった赤い何かがこちらへ引かれ、俺の胸へ流れ込んでいるように見える。
相手の結晶は明らかに暗くなっていく。
蜥蜴自身も異常に気づいたらしい。
後退しようとする。
身体を捻り、床へ爪を立てる。
それでも流れは止まらない。
俺にも止め方が分からない。
胸の奥で、未知の器官が勝手に動いている。
確かめる。
それしかない。
頭痛が悪化することは分かっている。
それでも俺は自分自身へ《解析》を向けた。
【解析結果】
対象:自己生体
未知器官:活動状態変化
前回状態:休眠
現在状態:低活動
外来性エネルギー:流入中
流入経路:解析不能
体内変換:確認
変換機構:解析不能
生体損傷:軽度
内部負荷:上昇
解析確度:34%
頭痛が一気に強くなる。
俺は《解析》を切った。
外来性エネルギー。
体内変換。
言葉の意味は分かる。
だが、起きている現象はまるで理解できない。
「俺が……吸ってるのか?」
目の前の状況だけを見るなら、それ以外に表現のしようがなかった。
蜥蜴の背中にある結晶は、最初に見たときとは比べものにならないほど暗くなっている。
やがて赤い揺らぎが細くなり、突然途切れた。
胸へ流れ込んでいた感覚も同時に消える。
俺は両手を床についた。
呼吸が荒い。
全身が熱を持っている。
胸の奥では、これまで存在すら感じ取れなかった器官が、まだゆっくり脈打っていた。
顔を上げる。
蜥蜴は数メートル先にいる。
背中の結晶はほとんど光を失い、動きも明らかに鈍くなっていた。
それでも生きている。
相手はこちらを警戒しながら、ゆっくり後退している。
俺は落とした金属片を拾い上げた。
身体に力が入る。
疲労が消えたわけではない。左腕も脇腹も痛い。それなのに、さっき壁へ叩きつけられた直後より身体が軽い。
蜥蜴の背中にある結晶が、一瞬だけ赤く光った。
すぐに消える。
もう攻撃を撃てないのか。
俺は数歩近づいた。
相手は同じだけ下がる。
そこで足を止めた。
殺す必要があるか。
さっきまで、向こうは明確に俺を攻撃していた。
だが今は逃げようとしている。
こちらから追い詰めれば、もう一度何をしてくるかも分からない。
食料も確保できている。
わざわざ危険を増やす理由はない。
俺は金属片を下ろした。
しばらく睨み合ったあと、蜥蜴は身体を反転させ、通路の奥へ逃げていった。
爪が床を叩く音が遠ざかる。
完全に聞こえなくなるまで待ってから、俺は壁へ背を預けた。
胸へ手を当てる。
心臓は速く打っている。
それとは別に、少し奥の位置で重い脈動が続いていた。
あの未知の器官。
休眠していたはずのものが、動いている。
「……何なんだよ、この身体」
頭には角がある。
正体不明の器官がある。
そして今度は、あの生物が放った何かを取り込んだ。
自分が人間なのかという疑問は、答えに近づくどころか、さらに分からなくなった気がする。
ただ。
今は考える材料が足りない。
赤い攻撃。
背中の結晶。
外来性エネルギー。
体内変換。
未知の器官。
覚えておく。
次に同じ現象へ出会えば、今回より多くの情報を拾える。
今すぐ答えを出す必要はない。
まず水場へ戻る。
身体に何が起きているのかは、その後だ。
俺はゆっくり歩き始めた。
数歩進んだところで、視界の端にある青白い発光物が妙に気になった。
足を止める。
壁に埋まった光の粒。
見慣れたものだ。
そのはずだった。
だが、以前とは少し違って見える。
光そのものではない。
その周囲。
薄い揺らぎがある。
煙のようにも見えるが、煙ではない。目を凝らすとはっきりしなくなるのに、意識を少し外すと再び感じ取れる。
「……何だ?」
近づきはしない。
ただ、その場から見る。
青白い粒の周囲にある何かは、ゆっくりと揺れている。
以前は見えなかった。
胸の奥で、未知の器官が小さく脈打った。
同時に。
揺らぎが一瞬だけ、はっきり見えた。
俺は動きを止めた。
あの赤い攻撃を受けてから、身体の中で何かが変わった。
それだけは間違いなさそうだった。
何を取り込んだのか。
何に変わったのか。
そして。
それが今の俺に、何を見せているのか。
まだ分からない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
あの赤い光は、俺の身体に当たって終わったわけではなかった。
何かを残した。
俺は胸へ手を当てたまま、青白い揺らぎを見つめた。




