第6話 生きるための火
巨大な虫の死骸を前にして腹が鳴ったとき、自分でも少し嫌になった。
ついさっきまで殺されかけていた相手だ。半透明の外殻も、その隙間から流れ出した黒い体液も、金属片を突き刺したときに両手へ伝わった感触も、まだ鮮明に残っている。
そんなものを見ながら、食べられるかもしれないと考えている。
「……順応が早すぎないか、俺」
呟いた直後、腹がもう一度鳴った。
精神的に受け入れられるかどうかなど、身体には関係ないらしい。
とはいえ、今すぐ死骸を解体できる状態でもなかった。左腕の傷は痛み、背中も落石を受けている。何より《解析》を使うたびに強くなった頭痛が、まだ鈍く残っていた。
先に身体をどうにかする。
俺は虫に突き刺していた金属片を抜き、床に散らばった石材の比較的きれいな面で黒い体液を拭った。それから立ち上がろうとして、膝にまともに力が入らないことに気づく。
「……思ったより、きてるな」
戦っている間は無視できていた疲労が、緊張が切れた途端に押し寄せてきたようだった。
壁へ手をつき、来た道をゆっくり戻る。
命がけで駆け抜けたはずの狭い通路も、歩いてみればそれほど長くない。戦闘中は距離感までおかしくなっていたらしい。
床へ残した印を確認しながら進み、ようやく水場へ戻ったところで、俺は金属片を手の届く位置へ置いた。
まず左腕。
服は巨大な虫の前脚に裂かれ、その下には斜めに走る傷が残っている。深くはないが、乾きかけた血と汚れが皮膚へこびりついていた。
飲んで今のところ異常の出ていない水を傷口へ少しずつ流す。
「っ……」
冷たさと一緒に痛みが走った。
何度か繰り返し、見える範囲の汚れを落とす。
消毒薬もなければ、清潔なガーゼもない。抗生物質など期待する方がおかしい。
今あるもので対処するしかなかった。
身につけている服の裾を確認する。裂けた部分から少し離れた場所なら、傷口へ直接当たっていた部分よりはましだろう。
金属片の尖った先端を使い、細長い布を二本切り出した。一枚を水ですすいで強く絞り、傷の上へ当てる。もう一枚をその上から巻きつけた。
きつく締めすぎないよう指が入る程度にして固定する。
「応急処置としては、これくらいか」
医学の専門家ではない。
それでも、汚れたまま放置するよりはいいはずだ。
背中にも手を回してみる。押せば痛む場所はいくつかあるが、指に血はつかなかった。少なくとも大きく裂けてはいない。
俺は水を数口飲み、そのまま壁際へ腰を下ろした。
動くのをやめると、疲労がさらに重くなる。
今の状態で探索を続ければ、次に何かと遭遇したときに動けない。それ以前に、単純な疲労で倒れる可能性すらある。
休息が必要だった。
ただ、完全に眠るのは怖い。
この水場には、あの巨大な虫が出入りしていた。さっき遭遇した個体が一匹だけとは限らない。
俺は二本の通路を見渡せる壁際を選び、金属片を右手のすぐそばへ置いた。
目を閉じる。
眠るつもりはなかった。
それでも何度か意識が浅く沈み、水滴の音や自分の身体が傾く感覚で目を覚ました。
どのくらい経ったのかは分からない。
時計もなければ、外の光もない。ここへ来てからの時間そのものが、すでに曖昧になっていた。
それでも休息にはなったらしい。
目を開けたときには、頭痛がかなり弱くなっていた。左腕の傷からも新しい血は滲んでいない。
代わりに、空腹だけはひどくなっている。
「……結局、そこに戻るか」
俺は通路の先へ目を向けた。
巨大な虫。
あれを食料として利用できるかどうか。
考えれば考えるほど危険要素は多い。毒を持っているかもしれない。寄生虫や、俺の知らない微生物がいる可能性もある。そもそも人間――今の俺を人間と呼んでいいのかも怪しいが――が消化できる組織なのかさえ分からない。
だが、食料を探すために探索するにも体力がいる。
体力を戻すには食料が必要だ。
なら、今ある可能性から調べるしかない。
俺は金属片を持って立ち上がった。
休んだ分だけ脚には多少力が戻っている。《解析》を一度使う程度なら、頭痛にも耐えられそうだった。
崩落区域へ戻る。
虫の死骸は、瓦礫に挟まれたまま動いていなかった。
すぐには近づかず、少し距離を置いて待つ。
反応なし。
念のため、長い金属片で前脚を軽く押す。
動かない。
今度こそ死んでいると考えてよさそうだった。
近くで見ると、改めて異様な姿をしている。
一メートルを超える身体。半透明の外殻。巨大な顎。そして外殻の隙間から乾き始めている黒い体液。
「これを食うのか……」
声に出すと余計に嫌になった。
俺はすでに傷ついている左後脚へ回り込んだ。
新たに外殻を割るより、開いている部分を利用した方がいい。金属片を接合部へ差し込み、少しずつ隙間を広げていく。
やはり外殻そのものは恐ろしく硬い。
それでも接合部は別だった。
何度か金属片を動かすと、脚の付け根が大きく開く。
内部から現れたのは、黒い体液と、その奥にある白っぽい組織だった。
わずかに桃色を帯びている。
「……肉には見えるな」
甲殻類の身に似ていなくもない。
少なくとも、完全に未知の物質にしか見えないわけではなかった。
鼻を近づけても強烈な腐敗臭はしない。生臭さはあるが、死後それほど時間が経っていないのなら不思議ではない。
金属片の先で、小さな組織を切り取る。
ここは《解析》を使う価値がある。
俺は切り出したものへ意識を向けた。
【解析結果】
対象:未確認大型生物・内部組織
組織分類:筋組織に類似
腐敗兆候:低
明確な刺激性:確認できず
未知成分:複数
毒性:判定不能
可食性:判定不能
解析確度:38%
「まあ、そうなるよな」
万能な毒物検査にはならない。
なら次にできるのは、危険を減らすことだ。
生のまま口に入れるつもりはない。地球の肉ですら、種類によっては加熱が前提になる。未知の生物ならなおさらだった。
問題は火だ。
俺は周囲を見渡した。
見えるのは石と、それに似た正体不明の構造材ばかり。
薪などない。
仮に火種を作れても、燃やし続けるものがなければ意味がない。
まず燃えるものを探す必要がある。
虫の死骸を残し、崩落区域の周辺だけを調べた。目的は食事であって探索ではない。今は遠くへ行かない。
崩れた壁の隙間を見ていると、亀裂の奥に薄い灰色の塊が絡みついているのを見つけた。
糸のようなものが無数に集まり、乾いた綿のようになっている。
一瞬、生物かと思ったが動きはない。
正体は分からない。
植物性なのか、菌類なのか、何かの巣なのか。
ただ、手前側は完全に乾燥している。
金属片で少量だけ掻き出してみると、細い繊維の集まりになった。
指で直接触れることは避け、金属片でほぐす。
火口には使えるかもしれない。
次は火種。
木を擦る方法は知識として知っているが、肝心の木がない。なら、硬いもの同士を打ち合わせて火花が出る組み合わせを探す。
俺は手にしている棒状の物体を見た。
見た目も重さも金属に近い。
本当に金属なのかは分からないが、試すだけならできる。
床に落ちている石材を拾い、棒の縁へ打ちつける。
カン。
何も出ない。
別の破片。
これも駄目。
黒っぽく角の鋭い石材を拾い、今度は少し強く擦るように叩いた。
カンッ。
一瞬だけ、小さな橙色の点が飛んだ。
俺は手を止める。
「……今の、火花だよな」
もう一度、同じ角度で打つ。
カンッ。
今度ははっきり見えた。
火花が数個、床へ散る。
組み合わせは使える。
俺は乾いた繊維を床へ置き、できるだけ細かくほぐした。中央だけを少し密にし、その周囲は空気が入るようふんわり広げる。
詳しい火打ちの技術があるわけではない。
昔見たキャンプの知識を、記憶の底から引っ張り出す。
火花を飛ばす。
一度。
二度。
つかない。
繊維の位置を変える。
火花の落ちる角度も調整する。
何度も繰り返した。
腕が疲れ始めた頃、繊維の中央から細い煙が上がった。
「……ついた?」
顔を近づけ、ゆっくり息を吹く。
煙が少し増える。
灰色の繊維の奥に、針先ほどの赤い点が見えた。
強く吹けば消える。
焦るな。
少しずつ空気を送る。
赤い部分が広がり、周囲の繊維が黒く変色していく。
そして。
小さな炎が立ち上がった。
「……よし」
数センチにも満たない火だった。
それでも、その橙色は妙に懐かしく見えた。
青白い正体不明の光とは違う。
熱を持った、俺の知っている火。
少しだけ肩の力が抜ける。
だが、そのままではすぐ消える。
俺は追加の繊維を少量ずつ重ね、炎を育てた。問題は、この材料だけでは長く持たないことだった。
もっと燃焼時間の長いものが必要になる。
そこで虫の死骸へ視線を向けた。
大型の生物なら、体内に脂質を含む組織があるかもしれない。
腹部の割れた部分を調べると、黒い体液とは別に、黄色がかった粘り気のある組織が見つかった。
油脂に似ている。
もちろん、本当にそうかは分からない。
少量を金属片で取り、乾いた繊維へ染み込ませてから炎の端へ近づける。
煙が増えた。
次の瞬間。
ぼっ、と炎が一回り大きくなる。
「燃えるな」
これなら使える。
煙と臭いはかなり酷い。
だが、今は贅沢を言える状況ではない。
乾いた繊維と黄色い組織を組み合わせれば、少なくとも調理できる程度には火を維持できそうだった。
俺は後脚から切り出した白い組織を小さく分けた。
最初から腹を満たすつもりはない。
安全性が分からない以上、試す量はできるだけ少なくする。
金属片を水場まで持って戻り、黒い体液をできるだけ洗い落とす。それから小さな肉片を尖った部分へ刺し、火へかざした。
じゅっ、と音がする。
表面の色が少しずつ変わった。
半透明だった身が、白っぽく不透明になっていく。
やがて匂いも変わる。
俺は思わず眉を寄せた。
「……意外だな」
嫌な臭いを想像していた。
実際には、それほど悪くない。
どこか甲殻類を焼いたときに似ていた。
腹が反応する。
それでも急がず、中心部までしっかり熱を通す。表面の一部が少し焦げるくらいまで焼いてから火を離し、十分に冷ました。
まず匂いを確認。
異常なし。
次に、ごく小さく噛み切る。
すぐには飲み込まない。
舌の痺れ。
強い苦味。
刺激。
どれもない。
味は。
「……普通に食える」
驚くほど癖がなかった。
淡白だが弾力がある。鶏肉とも魚とも違い、強いて言えば硬めのエビやカニに近い。
ほんのわずかに甘味も感じる。
俺は小さな一片を飲み込んだ。
そして待つ。
すぐに次は食べない。
身体の変化を確認する。
数分。
吐き気なし。
腹痛なし。
口や喉の痺れもない。
もう少しだけ食べる。
また待つ。
今のところ異常は出ない。
これだけで安全だとは言えないが、少なくとも即座に身体を壊すようなものではなさそうだった。
俺は量を抑えながら、さらにいくつか焼く。
水を飲み、肉を少量食べ、また休む。
空っぽだった胃に少しずつ重さが戻ってくる。
満腹にはほど遠い。
だが、飢えによる不快感はかなり弱くなった。
俺は火の前に座り込んだ。
橙色の炎が小さく揺れている。
その向こうには巨大な虫の死骸。
横には水場。
手元には一本の金属片。
持っているものなど、ほとんどない。
それでも。
目を覚ました直後とは違う。
あのときは、水も武器も火も食料もなかった。
自分がどこにいるかどころか、自分の身体に何が起きているのかすら分からなかった。
今も、分からないことの方が圧倒的に多い。
それでも生存に必要なものを、一つずつ手に入れている。
水。
武器。
火。
食料。
「……少しは、生き残れそうになってきたか」
口にしてみても、安心する気にはならなかった。
巨大な虫が他にもいるかもしれない。
未知の小動物もいる。
この遺跡のどこに出口があるのかも分からない。
それでも、無計画に歩き回る段階からは進めた。
ここを一時的な拠点にする。
その判断でいいだろう。
今後の優先順位を整理する。
1. 水場周辺で休息できる環境を作る。
2. 火に使える燃料を確保する。
3. 食べた肉による遅れた異常が出ないか確認する。
4. 体力が戻ってから出口を探す。
火を維持し続ける必要はない。
燃料には限りがある。
必要なときだけ火を起こせるよう、乾いた繊維と火花の出る石材を水場の近くへ持ち帰っておけばいい。
虫の肉も全部を切り出す必要はない。保存方法がない以上、むやみに解体すれば傷みやすくなるかもしれない。
利用できるものは他にもある。
外殻。
硬くて軽い。
形によっては容器になるかもしれない。
大顎も、加工できれば刃物として利用できる可能性がある。
今すぐ試す必要はない。
休んだ後でいい。
そう考えながら火へ繊維を追加したとき、炎が片側へ傾いた。
俺は手を止めた。
風。
ほんのわずかだ。
火の揺らぎだけなら気のせいとも思えたが、掌を上げてみると、確かに空気が一方向へ流れている。
水場とは反対側。
さらに奥へ続く通路の方からだ。
「……風があるのか」
この場所を地下だと仮定していた。
だが空気が流れているなら、どこかに別の空間か、外部へ通じる場所が存在する可能性がある。
出口。
その言葉が頭に浮かぶ。
すぐに立ち上がりそうになり、思い直した。
今の身体で追うべき情報ではない。
水を飲んだ。
食事もした。
ようやく休める条件が整い始めたところだ。
焦る理由はない。
まず十分に休息する。
動くのは、その後だ。
俺は小さくなってきた火を見ながら、水場へ戻る準備を始めた。
そこで、もう一度風が流れた。
炎が揺れる。
その瞬間。
奥の通路で何かが光った。
俺は手を止める。
壁に点在する青白い光とは違う。
ほんの一瞬だけ。
暗闇の奥に、赤い光が瞬いたように見えた。
じっと通路を見る。
何もない。
火の反射だったかもしれない。
疲労で目がおかしくなった可能性もある。
しばらく待ってみても、赤い光は二度と現れなかった。
俺は金属片を手元へ引き寄せる。
確認には行かない。
今はその必要がない。
ただ、覚えておく。
風がある。
そして、その先で何かが光った。
それだけでいい。
俺は火を消すための水を用意しながら、暗い通路へもう一度だけ目を向けた。
ここで目を覚ましてから、分かったことがある。
未知というものは、答えを一つ見つけるたびに減っていくわけではない。
むしろ。
一つ理解するたび、その向こうに新しい分からないものが見えてくる。
それでも進むしかない。
生きるために必要なら。
分かるところから、一つずつ。




