第5話 勝てる状況
正面から勝つ必要はない。
俺があいつより強くなる必要もない。
必要なのは、あいつが自分の強さを発揮できない状況を作ることだ。
狭い通路の向こうから、巨大な虫がゆっくりと姿を現し始めている。左右へ張り出した脚が壁に引っかかり、半透明の外殻を擦るたびに、ガリガリと不快な音が響いた。
俺は行き止まりの小部屋をもう一度見渡した。奥では天井の一部が崩れ、大量の石材が積み重なっている。右側には板状の構造物が斜めに残り、その上へ大小の瓦礫が不安定に乗っていた。
崩れそうに見える。
ただ、それだけでは使えない。
「どこを崩せばいい……」
視線を走らせる。
右奥の天井を支えている部分に、縦へ大きな亀裂が入っている。完全に折れてはいないが、周囲より明らかに細く、そこへ上部の荷重が集中しているように見えた。
目だけで判断するには危険すぎる。
頭痛は残っているが、ここで情報を惜しんでも意味がない。
俺は崩落部分へ意識を集中した。
【解析結果】
対象:崩落構造部
構造状態:著しく不安定
荷重集中:右側支持部周辺
支持部損傷:大
亀裂進行:確認
外力付加時:追加崩落の可能性あり
崩落範囲:正確な推定不能
解析確度:41%
頭の奥がずしりと重くなる。
すぐに《解析》を止めた。
予想は当たっていた。右側の細い支持部へ十分な力を加えれば、上の瓦礫が落ちる可能性が高い。
問題は二つ。
本当に狙った範囲だけが崩れるのか分からないこと。そして、俺の力であれを壊せる保証がないことだ。
背後を見る。
巨大な虫は、まだ狭い通路を進んでいる。身体を壁へ擦りつけながら移動しているため、こちらへ来るまでわずかに時間がある。
その間にやるしかない。
さっき拾った棒状の金属片を持って支持部へ近づいた。長さは五十センチほど。先端は折れて斜めに尖っている。
亀裂へ差し込めそうだった。
金属片の先端を支持部の割れ目へ押し込み、体重をかける。
動かない。
角度を変える。
もう一度。
今度は数センチ入った。
「……入る」
両手で柄を握り、てこの要領で押す。
ギッ、と嫌な音がした。
亀裂がわずかに広がる。
同時に、頭上から細かな砂埃が落ちてきた。
俺はすぐに力を抜いた。
これ以上やれば、先に自分の上へ落ちてくるかもしれない。
それでいい。
壊す必要はない。
虫の力で壊せるところまで弱くすればいい。
俺は金属片を引き抜き、入口の方へ目を向けた。
ちょうど巨大な虫の頭部が狭い通路を抜けるところだった。
大顎が左右へ開く。
俺を見つけたのか、その動きが明らかに変わった。
狭い場所から解放されるにつれて六本の脚が大きく開き、移動速度が上がっていく。
ここからは時間がない。
俺は頭の中でやることを整理した。
1. 虫を支持部の正面へ誘導する。
2. 突進をぎりぎりまで引きつける。
3. 直前で回避し、支持部へ衝突させる。
単純だ。
だからこそ、一つでも失敗すれば死ぬ。
俺は亀裂の入った支持部を背にして立った。
巨大な虫がこちらを向く。
距離は十メートルほど。
左後脚。
やはり動きが少し遅い。
方向転換するとき、左側だけわずかに身体が流れる。
使える。
それでも真正面から迫ってくる速度は変わらない。
虫が身体を低くした。
来る。
床を蹴る音が一気に近づく。
俺は動かなかった。
逃げたい。
身体はそう訴えている。
だが、早く避ければ相手も軌道を変える。
まだだ。
大顎が開く。
距離が縮まる。
六メートル。
四メートル。
三。
怖い。
当たり前だ。
あんなものに挟まれれば、まともに助かるとは思えない。
それでも待つ。
二メートルを切ったところで、俺は右へ全力で跳んだ。
巨大な顎が服の端を掠める。
その直後。
轟音。
虫の巨体が、背後の支持部へまともに衝突した。
亀裂が一気に広がる。
石材の割れる音が室内へ響き、頭上から砂埃と小さな破片が降ってきた。
だが。
崩れない。
「……っ!」
虫は支持部へぶつかった反動で体勢を崩したものの、すぐに脚を踏ん張り直そうとしている。
一撃で落ちると思っていた。
読みが甘かった。
ただ、支持部を見る。
亀裂は明らかに深くなっている。
もう一度。
そう考えた瞬間、虫がこちらへ向きを変えた。
左後脚が遅れる。
そのせいで身体が外側へ流れる。
さっきより大きい。
衝突の衝撃で悪化したのかもしれない。
俺は金属片を構えた。
天井を落とすだけなら、もう一度突進させればいい。
だが、同じ方法が通じる保証はない。
相手がこちらへ向き直る途中。
今なら。
俺は虫の左側へ走った。
狙うのは左後脚。
外殻ではない。
脚の付け根にある、黒い軟質部分。
巨大な虫が身体を捻る。
動きの遅い後脚が、一瞬だけ置き去りになる。
そこへ金属片を突き込んだ。
硬い外殻を擦る。
少しずれた。
もう半歩踏み込む。
今度は先端が隙間へ入った。
ぐに、と生々しい抵抗が手へ伝わる。
「入った……!」
そのまま体重をかける。
虫の身体が激しく跳ねた。
金属片を持つ両手ごと振り回されそうになる。
無理だ。
俺は手を離した。
次の瞬間、巨大な前脚が目の前を薙いだ。
一歩遅ければ直撃していた。
床へ転がりながら距離を取る。
立ち上がる。
虫は激しく暴れている。
左後脚の付け根に金属片が刺さったまま、黒っぽい液体が流れ始めていた。
だが、倒れない。
それどころか、残った脚でこちらへ進もうとしている。
「五本でも動けるのかよ……」
当然といえば当然だ。
俺は一本の脚を潰せば、もっと動きが鈍ると期待していた。
実際には速度が落ちただけで、戦闘能力そのものは十分残っている。
ただ。
方向転換は明らかに悪化した。
俺が左へ移動すると、虫の身体は大きく外側へ膨らむ。
それを見た瞬間、考えが変わった。
もう一度、支持部へ誘導する必要はない。
向きを変えさせればいい。
俺は虫の左側を回り込みながら、亀裂の入った支持部へ近づいた。
虫もこちらを追う。
だが左後脚が使えないため、綺麗には曲がれない。
身体が外側へ流れ、そのたびに支持部との距離が縮まる。
あと少し。
俺は支持部の前を横切った。
虫が追ってくる。
狙いどおり、大きく膨らんだ身体の側面が、亀裂の入った構造物へぶつかった。
ゴンッ、と低い音。
一瞬。
何も起きない。
次の瞬間、支持部の中央から亀裂が走った。
「まずい!」
俺は反射的に崩落箇所から離れた。
背後で石が砕ける。
最初は小さな破片だった。
続いて、その上に載っていた大きな石材が傾く。
虫が身体を引こうとする。
だが左後脚が動かない。
間に合わない。
巨大な石材が落ちた。
轟音。
床が揺れる。
空気が押し出され、粉塵が一気に広がった。
俺は腕で頭を庇いながら、できるだけ壁際へ身体を寄せる。
細かな石片が背中へ当たる。
痛い。
だが、大きなものは飛んでこない。
数秒間、崩落音が続いた。
やがて。
静かになった。
俺はしばらく身体を丸めたまま動かなかった。
耳鳴りがする。
喉に粉塵が入り、咳が出た。
「げほっ……」
ゆっくり顔を上げる。
視界は白く霞んでいる。
青白い発光物の光さえ、粉塵の向こうではぼやけていた。
虫は。
目を凝らす。
少しずつ空気が澄んでいく。
崩れた石材。
その下。
半透明の外殻が見えた。
巨大な虫の胴体後半が、複数の瓦礫に挟まれている。
完全に潰れてはいない。
外殻が予想以上に硬い。
前脚はまだ動いている。
大顎も何度も開閉していた。
生きている。
「……あれで死なないのか」
思わず呟いた。
だが、動けない。
少なくとも、こちらへ突進してくることはもうできない。
そこでようやく、膝から力が抜けそうになった。
いや。
まだ終わっていない。
生きている以上、瓦礫から抜け出す可能性がある。
この場所を通らなければ、水場へも戻れない。
確実に止める必要がある。
俺は虫との距離を保ったまま、周囲を見る。
さっき刺した金属片が、左後脚から抜けて床へ転がっていた。
拾える位置だ。
大顎の届く範囲を避けながら、左後方へ回り込む。
虫はこちらへ頭を向けようとするが、胴体が瓦礫に固定されていて動けない。
前脚を伸ばしてくる。
届かない。
俺は金属片を拾った。
先端には黒い液体が付いている。
改めて相手を見る。
外殻を破る必要はない。
すでに分かっている。
殻と殻の間。
そこを狙えばいい。
問題は、どこが致命傷になるかだ。
頭部と胴体の境目。
大きな外殻同士が接する部分に、細い黒い隙間が見える。
そこなら。
俺は慎重に距離を詰めた。
大顎が何度も開閉する。
前脚も床を掻いている。
届かない位置を確認し、金属片を両手で構えた。
一度、深く息を吸う。
こいつに恨みがあるわけではない。
たぶん。
向こうも、ただ生きているだけなのだろう。
俺を餌だと思ったのか、縄張りへ入った敵と見たのか、それすら分からない。
ただ。
「俺も死にたくないんでな」
金属片を突き下ろした。
先端が外殻へ当たり、わずかに滑る。
一度引く。
角度を変える。
今度は黒い隙間へ入った。
柔らかい抵抗。
そのまま全体重を乗せる。
虫の身体が大きく震えた。
黒い液体が溢れ出す。
大顎が何度も空を噛み、前脚が床を削る。
俺は金属片から手を離さず、さらに押し込んだ。
数秒。
十秒。
少しずつ抵抗が弱くなる。
やがて大顎の動きが遅くなり、前脚が止まった。
最後に身体全体が一度だけ大きく震える。
それきり。
動かなくなった。
俺はすぐには手を離さなかった。
しばらく待つ。
反応はない。
金属片を少し動かしてみる。
それでも動かない。
ようやく力を抜いた。
その場へ腰を落とす。
「……勝った、のか」
呼吸が荒い。
手も震えている。
左腕は痛むし、背中には落石が当たった。頭痛もひどい。
勝ったという実感より、まだ生きているという事実の方が大きかった。
もし正面から戦っていたら。
考えるまでもない。
俺が死んでいた。
外殻にはほとんど攻撃が通らなかった。
相手の方が速い。
一度前脚を受けただけで腕を傷つけられた。
それでも倒せた。
相手の左後脚に異常があった。
狭い通路なら速度を落とせた。
崩れかけた場所があった。
使える金属片もあった。
一つだけなら、大した意味のない情報だったかもしれない。
だが、それらを組み合わせれば状況は変わった。
俺は瓦礫に挟まれた死骸を見つめる。
《解析》は、敵を見ただけで勝ち方を教えてくれたわけではない。
左後脚の異常。
外殻の継ぎ目。
不安定な構造物。
拾ったのは、あくまで情報だ。
どう使うかを考えたのは俺自身だった。
「なるほどな……」
少しだけ分かった気がした。
この能力は、答えそのものではない。
判断材料を増やすもの。
なら俺がやるべきことは単純だ。
見る。
知る。
考える。
そして、自分に有利な条件へ変える。
相手より強くなくてもいい。
勝てる状況を作ればいい。
俺は壁へ手をつき、ゆっくり立ち上がった。
一度では膝に力が入らず、もう一度やり直す。
さすがに限界が近い。
まず水場へ戻る。
傷を洗う。
休む。
頭痛が引くまでは《解析》も控える。
そこまで考えたところで、腹の奥から低い音が響いた。
ぐう。
緊張が切れた途端、忘れていた空腹が一気に戻ってきたらしい。
俺は腹を押さえ、それから目の前の死骸へ視線を移した。
一メートルを超える巨大な虫。
硬い外殻。
その内側には、生体組織がある。
少なくとも、それはさっき自分で確認した。
「……いや、待て」
頭に浮かんだ考えを、思わず否定する。
いくら腹が減っているからといって。
虫だ。
しかも巨大な。
見たこともない生物。
だが、視線は死骸から離れなかった。
水は見つかった。
次に必要なのは食料だ。
この場所に、都合よくパンや果物が落ちているとは思えない。
目の前にあるものを食べられるかどうか。
それを調べる価値はある。
俺は大きく息を吐いた。
好き嫌いを言える状況ではない。
食べられるなら食べる。
食べられないなら、別のものを探す。
問題はそれだけだ。
ただし。
「生は絶対嫌だな……」
巨大な虫の死骸を眺めながら呟く。
次に必要なのは食料。
その次に。
どうやら火も探さなければならないらしい。




