第4話 硬い殻
――カリ。
奥の通路から聞こえた音に、俺は足を止めた。
さっき遭遇した小動物が立てていた音に似ている。だが、同じではない。もう少し低く、重いものが硬い床を擦っているような響きだった。
俺は水場から少し距離を取り、右手に持った黒い破片を握り直す。
喉の渇きはかなりましになった。それでも身体はまだ重く、頭の奥には《解析》を使い続けたせいかもしれない鈍痛が残っている。
こんな状態で戦うのは避けたい。
問題は、相手がそれを許してくれるかどうかだ。
しばらく待つ。
音は途切れた。
聞き間違いだったかと思いかけたところで、今度は硬いものが床を叩く音が響いた。
カツ。
少し間を置いて、また一つ。
カリ……カツ。
近づいている。
俺は入ってきた通路へ目を向けた。逃げようと思えば戻れるが、最初に目覚めた部屋まで戻ればその先は袋小路だ。相手の速さも分からない以上、背中を向けて走り出すのは早い。
まず正体を見る。
俺は壁際へ身体を寄せ、暗闇を見つめた。
やがて、通路の奥で何かが青白い光を反射した。
一つではない。
小さな光がいくつも揺れながら、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
輪郭が見え始めた瞬間、思わず息を止めた。
「……虫?」
それ以外に、うまく表現できる言葉がなかった。
ただし、大きさが俺の知っている虫ではない。
体長は一メートルを超えている。胴体は低く、その左右から六本の脚が張り出していた。全身は甲虫を思わせる外殻に覆われているが、その殻は黒や茶色ではなく、半透明の鉱石のような質感をしている。
壁の青白い光を受けるたびに、硬い殻の内部で鈍い輝きが揺れた。
水場の近くに落ちていた半透明の欠片。
あれは、こいつの殻だったのかもしれない。
頭部には左右へ開く大きな顎がある。鋭い先端を見る限り、挟まれれば洒落では済まない。
巨大な虫は通路を抜け、水場の中へゆっくりと入ってきた。
硬い脚先が床を擦り、聞き覚えのある音を立てる。
カリ。
床に残っていた三本の傷も、おそらくこいつのものだ。
俺は動かなかった。
こちらを無視して水だけを飲むなら、わざわざ刺激する必要はない。
虫は数歩進んだところで止まった。
頭部が、ゆっくりこちらへ向く。
どこが目なのかは判然としない。それでも、こちらを認識されたという感覚だけはあった。
前脚が床を掻いた。
次の瞬間、低く構えた身体が弾けるように前へ出た。
「っ!」
俺は横へ跳んだ。
直後、巨大な顎がさっきまで立っていた場所を噛み砕く。
ガチンッ、と硬質な音が室内に響いた。
速い。
見た目から想像していたより、はるかに速かった。
虫はすぐに身体の向きを変える。六本脚と低い重心のせいか、方向転換にもほとんど無駄がない。
逃げる。
その判断に迷いはなかった。
俺は水場を挟むように移動し、相手との距離を取った。
虫も追ってくる。
ただ、水際の湿った床へ脚を乗せた瞬間だけ、動きがわずかに鈍った。
足場の問題か。
水そのものを嫌っているようには見えない。ここへ出入りしていたのなら、なおさらだ。
使えるかもしれない。
俺は水場の縁を回り、入ってきた通路へ走った。
背後から硬い足音が迫ってくる。
こちらより速い。
しかも、今の俺には長く走り続けられる体力がない。
通路まで、あと少し。
背後の音が一気に大きくなる。
俺は反射的に身体を横へずらした。
直後、肩の脇を大顎が通り過ぎる。
風圧だけでも分かる。
まともに受ければ終わる。
そのまま通路へ飛び込んだ。
期待していたわけではないが、巨大な虫も問題なく後を追ってくる。
考えてみれば当然だった。幅が三メートル近くある通路なら、一メートル程度の身体が通れない理由はない。
身体が重い。
水を飲んだ程度で体力が戻るはずもなく、数十メートル走っただけで呼吸が乱れ始めた。
このまま逃げ続ければ、先に俺が止まる。
何か手を打たなければならない。
通路が右へ曲がる。
俺は角を回ったところで足を止め、壁際へ身体を寄せた。
ほんの数秒。
相手の姿が見えなくなる。
それだけでいい。
黒い破片を両手で握り、呼吸を整える。
狙う場所を考える。
大顎のある頭部は避ける。背中の外殻も厚そうだ。
なら脚の付け根。
殻と殻の間。
生物である以上、全身が同じ硬さということはないはずだ。
足音が近づく。
虫の頭部が曲がり角から現れた。
続いて前脚。
胴体。
俺は一歩踏み込み、脚の付け根を狙って黒い破片を突き出した。
ガキンッ!
両腕に強烈な衝撃が返った。
「ぐっ……!」
弾かれた。
硬い。
石材より硬い可能性があると《解析》された黒い破片ですら、外殻にはほとんど通らない。
だが、完全な無駄ではなかった。
ほんの一瞬。
殻の継ぎ目に、黒っぽい膜のような部分が見えた。
柔らかい組織。
そう考えた直後、虫が身体を捻った。
俺は後ろへ退く。
大顎は避けた。
だが続けて振られた前脚までは避け切れない。
左腕に衝撃が走った。
身体が壁へ叩きつけられる。
「っ……!」
息が詰まった。
腕を見る。
服が裂け、その下から血が滲んでいる。
幸い傷は浅い。
指も動く。
骨も折れてはいないと思う。
それでも、一撃でこれだ。
まともに戦う相手ではない。
俺は立ち上がり、再び走り出した。
背後から虫が追ってくる。
さっきより動きが激しい。
攻撃されたことで興奮したのか、それとも単純に獲物を逃がさないだけなのか。
そんなことを考えている余裕はない。
腕が痛む。
呼吸も苦しい。
逃げ続けても先に限界が来る。
情報が必要だ。
《解析》を使えば、頭痛は悪化するかもしれない。
だが、使わずに死ぬよりはいい。
俺は走りながら意識を背後の生物へ向けた。
【解析結果】
対象:未確認大型生物
推定体長:約1.2m
基本構造:節足型
歩脚:6
外装:高硬度外殻
主攻撃器官:大型顎部
移動能力:高
外殻接合部:軟質組織を確認
左後脚:動作異常あり
詳細生態:不明
危険性:高
解析確度:46%
頭の奥へ鋭い痛みが走った。
視界が一瞬揺れる。
それでも、情報は得られた。
左後脚。
水場で動きを見ていたときに感じた違和感は、気のせいではなかった。
振り返って確認する。
六本の脚が高速で動いているせいで分かりにくいが、意識して見れば確かに一つだけ動きが遅れている。
左の一番後ろ。
接地してから持ち上がるまでに、わずかな間がある。
原因は分からない。
傷なのか、生まれつきなのか。
だが相手の動きには確実に偏りがある。
外殻の継ぎ目には柔らかい部分がある。
そして左後脚が遅い。
情報は増えた。
だからといって、今の俺が正面から勝てるわけではない。
狙える場所を知ることと、実際に攻撃を当てられることは別だ。
通路の先に分岐が見えてきた。
床には、自分でつけた矢印が残っている。
ここを曲がれば水場から離れる。
さらに先へ戻れば、最初に目覚めた部屋。
そこへ逃げ込めば終わりだ。
反対側には、まだ入っていない通路がある。
危険は分からない。
だが、袋小路よりはいい。
俺は未探索の方へ進んだ。
青白い発光物が少なくなり、視界が一気に悪くなる。
足元を確認するために速度を落とすしかない。
ところが、背後の虫はほとんど減速しなかった。
視覚に頼っていない?
匂いか。
音か。
床の振動を拾っている可能性もある。
考えながら走っていると、通路の幅が少しずつ狭くなっていることに気づいた。
三メートル近くあった幅が二メートルほどになり、さらに先ではもっと細い。
俺なら通れる。
あいつは。
身体そのものは通るだろう。
ただ、六本の脚を十分に広げて走れる幅ではない。
俺は狭い通路へ飛び込んだ。
数秒後。
ガギッ!
硬いものが壁へぶつかる音がした。
振り返る。
予想通り、虫は入ってきた。
だが動きが明らかに遅い。
左右の脚を大きく広げられず、半透明の外殻を壁に擦りながら進んでいる。
初めて、こちらに有利な条件ができた。
俺は走るのをやめ、距離だけを保ちながら先へ進んだ。
余裕ができた分、周囲を見る。
この一帯は今まで通ってきた場所より損傷が激しい。壁には亀裂が走り、床にも崩れた石材が散らばっている。
天井にも欠けた部分がある。
崩落区域。
そう考えた方がよさそうだった。
危険な場所ではある。
同時に、使えるものも多い。
右側の壁際に、細長い物体が落ちているのが見えた。
黒い石材とは明らかに違う。
鈍い光沢。
金属のように見える。
俺は拾い上げた。
長さは五十センチほど。何かの一部が折れたものらしく、片側が斜めに割れて尖っている。
黒い破片より重い。
だが、武器として使うならこちらの方がいい。
《解析》はしない。
今必要なのは正体ではなく、使えるかどうかだけだ。
軽く振る。
扱える。
俺は黒い破片を捨て、折れた棒状の物体へ持ち替えた。
背後を確認する。
虫はまだ追ってきている。
狭い通路のせいで速度は落ちているが、諦める様子はない。
このまま逃げ切れるか。
出口があるなら。
だが、保証はない。
進んだ先で通路が開けた。
俺はそこへ踏み込む。
そして、すぐに足を止めた。
行き止まりだった。
小さな空間。
天井の一部が大きく崩れ、奥には大小の石材が積み重なっている。右側には斜めに倒れた板状の構造物が残り、その上にも不安定そうな瓦礫がいくつも乗っていた。
一瞬、血の気が引く。
逃げ場がない。
背後には、あの虫。
だが。
俺はすぐに周囲を見直した。
崩れかけた天井。
不安定な瓦礫。
斜めに残った構造物。
狭い入口。
そして、動きの悪い左後脚。
頭の中で、これまで得た情報がつながっていく。
俺自身の力では、あの外殻を破れない。
だったら、自分の力で壊す必要はない。
視線を上げる。
天井近くに残った大きな石材が、細い部分に支えられている。
これが落ちれば。
背後から、硬い足音が近づいてきた。
カリ。
カツ。
虫の頭部が狭い通路の向こうから姿を現す。
大顎が開いた。
俺は手にした尖った棒を握り直し、崩れかけた天井を見上げた。
正面から勝つ必要はない。
俺が相手より強くなる必要もない。
相手が死ぬ状況を作ればいい。




