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黒環の解析者 ~転生した俺は世界の理を解き明かす~  作者: 流津美
第一部 黒環の目覚め 第一章 覚醒

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第4話 硬い殻

――カリ。


奥の通路から聞こえた音に、俺は足を止めた。


さっき遭遇した小動物が立てていた音に似ている。だが、同じではない。もう少し低く、重いものが硬い床を擦っているような響きだった。


俺は水場から少し距離を取り、右手に持った黒い破片を握り直す。


喉の渇きはかなりましになった。それでも身体はまだ重く、頭の奥には《解析》を使い続けたせいかもしれない鈍痛が残っている。


こんな状態で戦うのは避けたい。


問題は、相手がそれを許してくれるかどうかだ。


しばらく待つ。


音は途切れた。


聞き間違いだったかと思いかけたところで、今度は硬いものが床を叩く音が響いた。


カツ。


少し間を置いて、また一つ。


カリ……カツ。


近づいている。


俺は入ってきた通路へ目を向けた。逃げようと思えば戻れるが、最初に目覚めた部屋まで戻ればその先は袋小路だ。相手の速さも分からない以上、背中を向けて走り出すのは早い。


まず正体を見る。


俺は壁際へ身体を寄せ、暗闇を見つめた。


やがて、通路の奥で何かが青白い光を反射した。


一つではない。


小さな光がいくつも揺れながら、ゆっくりこちらへ近づいてくる。


輪郭が見え始めた瞬間、思わず息を止めた。


「……虫?」


それ以外に、うまく表現できる言葉がなかった。


ただし、大きさが俺の知っている虫ではない。


体長は一メートルを超えている。胴体は低く、その左右から六本の脚が張り出していた。全身は甲虫を思わせる外殻に覆われているが、その殻は黒や茶色ではなく、半透明の鉱石のような質感をしている。


壁の青白い光を受けるたびに、硬い殻の内部で鈍い輝きが揺れた。


水場の近くに落ちていた半透明の欠片。


あれは、こいつの殻だったのかもしれない。


頭部には左右へ開く大きな顎がある。鋭い先端を見る限り、挟まれれば洒落では済まない。


巨大な虫は通路を抜け、水場の中へゆっくりと入ってきた。


硬い脚先が床を擦り、聞き覚えのある音を立てる。


カリ。


床に残っていた三本の傷も、おそらくこいつのものだ。


俺は動かなかった。


こちらを無視して水だけを飲むなら、わざわざ刺激する必要はない。


虫は数歩進んだところで止まった。


頭部が、ゆっくりこちらへ向く。


どこが目なのかは判然としない。それでも、こちらを認識されたという感覚だけはあった。


前脚が床を掻いた。


次の瞬間、低く構えた身体が弾けるように前へ出た。


「っ!」


俺は横へ跳んだ。


直後、巨大な顎がさっきまで立っていた場所を噛み砕く。


ガチンッ、と硬質な音が室内に響いた。


速い。


見た目から想像していたより、はるかに速かった。


虫はすぐに身体の向きを変える。六本脚と低い重心のせいか、方向転換にもほとんど無駄がない。


逃げる。


その判断に迷いはなかった。


俺は水場を挟むように移動し、相手との距離を取った。


虫も追ってくる。


ただ、水際の湿った床へ脚を乗せた瞬間だけ、動きがわずかに鈍った。


足場の問題か。


水そのものを嫌っているようには見えない。ここへ出入りしていたのなら、なおさらだ。


使えるかもしれない。


俺は水場の縁を回り、入ってきた通路へ走った。


背後から硬い足音が迫ってくる。


こちらより速い。


しかも、今の俺には長く走り続けられる体力がない。


通路まで、あと少し。


背後の音が一気に大きくなる。


俺は反射的に身体を横へずらした。


直後、肩の脇を大顎が通り過ぎる。


風圧だけでも分かる。


まともに受ければ終わる。


そのまま通路へ飛び込んだ。


期待していたわけではないが、巨大な虫も問題なく後を追ってくる。


考えてみれば当然だった。幅が三メートル近くある通路なら、一メートル程度の身体が通れない理由はない。


身体が重い。


水を飲んだ程度で体力が戻るはずもなく、数十メートル走っただけで呼吸が乱れ始めた。


このまま逃げ続ければ、先に俺が止まる。


何か手を打たなければならない。


通路が右へ曲がる。


俺は角を回ったところで足を止め、壁際へ身体を寄せた。


ほんの数秒。


相手の姿が見えなくなる。


それだけでいい。


黒い破片を両手で握り、呼吸を整える。


狙う場所を考える。


大顎のある頭部は避ける。背中の外殻も厚そうだ。


なら脚の付け根。


殻と殻の間。


生物である以上、全身が同じ硬さということはないはずだ。


足音が近づく。


虫の頭部が曲がり角から現れた。


続いて前脚。


胴体。


俺は一歩踏み込み、脚の付け根を狙って黒い破片を突き出した。


ガキンッ!


両腕に強烈な衝撃が返った。


「ぐっ……!」


弾かれた。


硬い。


石材より硬い可能性があると《解析》された黒い破片ですら、外殻にはほとんど通らない。


だが、完全な無駄ではなかった。


ほんの一瞬。


殻の継ぎ目に、黒っぽい膜のような部分が見えた。


柔らかい組織。


そう考えた直後、虫が身体を捻った。


俺は後ろへ退く。


大顎は避けた。


だが続けて振られた前脚までは避け切れない。


左腕に衝撃が走った。


身体が壁へ叩きつけられる。


「っ……!」


息が詰まった。


腕を見る。


服が裂け、その下から血が滲んでいる。


幸い傷は浅い。


指も動く。


骨も折れてはいないと思う。


それでも、一撃でこれだ。


まともに戦う相手ではない。


俺は立ち上がり、再び走り出した。


背後から虫が追ってくる。


さっきより動きが激しい。


攻撃されたことで興奮したのか、それとも単純に獲物を逃がさないだけなのか。


そんなことを考えている余裕はない。


腕が痛む。


呼吸も苦しい。


逃げ続けても先に限界が来る。


情報が必要だ。


《解析》を使えば、頭痛は悪化するかもしれない。


だが、使わずに死ぬよりはいい。


俺は走りながら意識を背後の生物へ向けた。


【解析結果】

対象:未確認大型生物

推定体長:約1.2m

基本構造:節足型

歩脚:6

外装:高硬度外殻

主攻撃器官:大型顎部

移動能力:高


外殻接合部:軟質組織を確認

左後脚:動作異常あり


詳細生態:不明

危険性:高

解析確度:46%


頭の奥へ鋭い痛みが走った。


視界が一瞬揺れる。


それでも、情報は得られた。


左後脚。


水場で動きを見ていたときに感じた違和感は、気のせいではなかった。


振り返って確認する。


六本の脚が高速で動いているせいで分かりにくいが、意識して見れば確かに一つだけ動きが遅れている。


左の一番後ろ。


接地してから持ち上がるまでに、わずかな間がある。


原因は分からない。


傷なのか、生まれつきなのか。


だが相手の動きには確実に偏りがある。


外殻の継ぎ目には柔らかい部分がある。


そして左後脚が遅い。


情報は増えた。


だからといって、今の俺が正面から勝てるわけではない。


狙える場所を知ることと、実際に攻撃を当てられることは別だ。


通路の先に分岐が見えてきた。


床には、自分でつけた矢印が残っている。


ここを曲がれば水場から離れる。


さらに先へ戻れば、最初に目覚めた部屋。


そこへ逃げ込めば終わりだ。


反対側には、まだ入っていない通路がある。


危険は分からない。


だが、袋小路よりはいい。


俺は未探索の方へ進んだ。


青白い発光物が少なくなり、視界が一気に悪くなる。


足元を確認するために速度を落とすしかない。


ところが、背後の虫はほとんど減速しなかった。


視覚に頼っていない?


匂いか。


音か。


床の振動を拾っている可能性もある。


考えながら走っていると、通路の幅が少しずつ狭くなっていることに気づいた。


三メートル近くあった幅が二メートルほどになり、さらに先ではもっと細い。


俺なら通れる。


あいつは。


身体そのものは通るだろう。


ただ、六本の脚を十分に広げて走れる幅ではない。


俺は狭い通路へ飛び込んだ。


数秒後。


ガギッ!


硬いものが壁へぶつかる音がした。


振り返る。


予想通り、虫は入ってきた。


だが動きが明らかに遅い。


左右の脚を大きく広げられず、半透明の外殻を壁に擦りながら進んでいる。


初めて、こちらに有利な条件ができた。


俺は走るのをやめ、距離だけを保ちながら先へ進んだ。


余裕ができた分、周囲を見る。


この一帯は今まで通ってきた場所より損傷が激しい。壁には亀裂が走り、床にも崩れた石材が散らばっている。


天井にも欠けた部分がある。


崩落区域。


そう考えた方がよさそうだった。


危険な場所ではある。


同時に、使えるものも多い。


右側の壁際に、細長い物体が落ちているのが見えた。


黒い石材とは明らかに違う。


鈍い光沢。


金属のように見える。


俺は拾い上げた。


長さは五十センチほど。何かの一部が折れたものらしく、片側が斜めに割れて尖っている。


黒い破片より重い。


だが、武器として使うならこちらの方がいい。


《解析》はしない。


今必要なのは正体ではなく、使えるかどうかだけだ。


軽く振る。


扱える。


俺は黒い破片を捨て、折れた棒状の物体へ持ち替えた。


背後を確認する。


虫はまだ追ってきている。


狭い通路のせいで速度は落ちているが、諦める様子はない。


このまま逃げ切れるか。


出口があるなら。


だが、保証はない。


進んだ先で通路が開けた。


俺はそこへ踏み込む。


そして、すぐに足を止めた。


行き止まりだった。


小さな空間。


天井の一部が大きく崩れ、奥には大小の石材が積み重なっている。右側には斜めに倒れた板状の構造物が残り、その上にも不安定そうな瓦礫がいくつも乗っていた。


一瞬、血の気が引く。


逃げ場がない。


背後には、あの虫。


だが。


俺はすぐに周囲を見直した。


崩れかけた天井。


不安定な瓦礫。


斜めに残った構造物。


狭い入口。


そして、動きの悪い左後脚。


頭の中で、これまで得た情報がつながっていく。


俺自身の力では、あの外殻を破れない。


だったら、自分の力で壊す必要はない。


視線を上げる。


天井近くに残った大きな石材が、細い部分に支えられている。


これが落ちれば。


背後から、硬い足音が近づいてきた。


カリ。


カツ。


虫の頭部が狭い通路の向こうから姿を現す。


大顎が開いた。


俺は手にした尖った棒を握り直し、崩れかけた天井を見上げた。


正面から勝つ必要はない。


俺が相手より強くなる必要もない。


相手が死ぬ状況を作ればいい。

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