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黒環の解析者 ~転生した俺は世界の理を解き明かす~  作者: 流津美
第一部 黒環の目覚め 第一章 覚醒

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第3話 水面に映るもの

通路の先へ足を踏み入れると、それまで壁に遮られていた空間が一気に開けた。


俺は入口から数歩進んだところで立ち止まり、まず周囲を見渡した。


最初に目覚めた部屋よりも広い。左右の壁は緩やかに湾曲し、天井もかなり高いようだ。壁面には青白く発光する粒がこれまでより多く点在していて、薄暗いながらも室内の輪郭を確認できる程度の明るさがある。


そして、その左奥。


床が浅く窪んだ場所に、液体が溜まっていた。


天井近くから落ちる雫が水面を叩き、そのたびに淡い光が揺れる。


「……あった」


思わず声が漏れた。


水。


少なくとも、見た目はそうだ。


乾ききった喉が、それを認識した途端に強く痛み始めた。今すぐ駆け寄って飲みたいという衝動が湧く。


だが、足は動かさなかった。


水場には生き物が集まる。


さっき遭遇した小動物も、この場所を利用している可能性がある。そうであれば、それを狙う別の生物が現れても不思議ではない。


まず周囲を確認する。


黒い破片を握ったまま目を凝らし、耳を澄ませる。


動くものは見えない。


聞こえるのは、一定の間隔で落ちる水滴の音だけ。


腐敗臭や血の臭いもしない。


ただ、それだけで安全だとは言えない。


頭の奥には、先ほどから鈍い痛みが残っている。


《解析》を何度も使った影響かもしれない以上、無駄に使うつもりはない。


だが、水は生きるために必要だ。


ここは確認しておくべきだろう。


俺は空間全体へ意識を向けた。


【解析結果】

対象:周辺空間

移動物体:確認できず

明確な危険要因:確認できず

未観測領域:あり

安全性:判定不能

解析確度:28%


予想通りだった。


見つからないことと、存在しないことは同じではない。


それでも、今のところ目立った危険は確認できない。


俺は壁沿いに進み、水場へ近づいた。


幅は二メートルほど。深さもそれほどないらしく、青白い光を受けた底がぼんやりと見えている。


壁の高い位置から水滴が落ち、溜まった液体は反対側にある細い溝へ少しずつ流れ出しているようだった。


完全な溜まり水ではない。


多少は安心材料になる。


水際へしゃがみ込んだ。


濁りはほとんどなく、表面に油膜らしきものも見えない。鼻を近づけても異臭は感じなかった。


黒い破片の先端を浸してみる。


変化はない。


次に、左手の人差し指だけを液体へつけた。


「冷た……」


刺激はない。


痺れも感じない。


見た目も、触れた感覚も、俺の知っている水そのものだった。


だが、飲めるかどうかは別だ。


俺は液体へ意識を集中する。


【解析結果】

対象:透明液体

液体特性:水に類似

透明度:高

可視異物:極少

異臭:確認されず

未知成分:判定不能

微小生物:判定不能

飲用安全性:判定不能

解析確度:40%


「そこまでは分からないか」


むしろ、その結果には納得できた。


見ただけで未知の成分まで完全に判別できるなら、《解析》は俺が考えているものとはまるで違う能力になる。


今のところ、情報が足りない部分にはきちんと「分からない」という答えが返ってくる。


問題は、最終的な判断を俺自身がしなければならないことだ。


1. 飲まずに別の水源を探す

今の体調では、探索中に動けなくなる危険がある。


2. 少量だけ飲み、様子を見る

危険を排除はできないが、摂取量は抑えられる。


3. 必要な量を一気に飲む

水分は確保できるが、異常があった場合の影響が大きい。


選ぶなら2だ。


完全に安全な方法がないなら、少なくとも危険は小さくする。


俺は掌にほんの少しだけ水をすくい、鼻先へ近づけた。


やはり臭いはない。


舌先へわずかに触れさせても、妙な苦味や刺激は感じなかった。


そのまま、一口だけ飲み込む。


冷たい水が乾いた喉を通っていく。


「……っ」


たった一口なのに、身体がもっとよこせと訴えてきた。


思っていた以上に喉が渇いていたらしい。


すぐに次へ手を伸ばしたくなるのを堪え、少し待つ。


急な痺れもなければ、呼吸に異常もない。


もちろん、それで安全だと証明できたわけではない。時間が経ってから症状が出る可能性もある。


だが、完全な検査手段が手に入るまで飲まないという選択肢も現実的ではなかった。


もう一口。


今度は少し多めに飲む。


冷たさが喉を通り、胸の奥へ落ちていく。


三口目を飲んだところで、ようやく張り詰めていた身体から少し力が抜けた。


「……うまいな」


味など、ほとんどないはずなのに。


それでも、これまで飲んだどんな飲み物よりもうまく感じた。


一度に飲みすぎないよう、少し間を置きながら水を口にする。


しばらくすると、焼けるようだった喉の痛みが和らぎ、頭もわずかに冴えてきた。


俺は水場の横へ腰を下ろし、壁へ背を預けた。


水を確保できた。


それだけでも大きい。


目覚めた直後と比べれば、生き延びる可能性は確実に上がっている。


そのまま目を閉じ、これまで見てきたものを頭の中で並べる。


正体不明の石造施設。


意味の分からない文字。


見たことのない小動物。


青白く発光する何か。


そして、事故前とは明らかに違う俺自身の身体。


現代日本のどこかにいると考えるには、説明できないことが増えすぎていた。


異世界。


そんな言葉が頭をよぎる。


生前なら、漫画や小説の中でしか使わないような単語だ。


事故に遭い、目を覚ませば見知らぬ場所。


身体まで変わっている。


筋書きだけ並べれば、笑ってしまうほどそれらしい。


だが、自分の身に起きているとなれば笑えない。


「……まだ証拠が足りないな」


今の段階で答えを決める必要もない。


俺に必要なのは、この場所の正体を言い当てることではなく、まず生き延びることだ。


水は見つけた。


次は食料。


その次に、安全に休める場所と出口。


調べるべきことはいくらでもあるが、一つずつ片づければいい。


俺はもう数口だけ水を飲んだ。


少し余裕が出たせいか、顔にまとわりついている埃っぽさが急に気になった。


両手で水をすくい、顔へかける。


「っ、冷た……」


だが気持ちいい。


もう一度水をすくい、額から頬、首筋まで軽く拭う。


ようやく少し、生き返ったような気がした。


顔についた水滴を手の甲で拭いながら、何となく水面へ目を落とす。


広がっていた波紋が、ゆっくりと消えていく。


揺れていた青白い光が静まり、水面が鏡のようになった。


そこに、一人の若い男が映っていた。


「……?」


俺は動きを止めた。


最初に浮かんだのは、


誰だ。


という疑問だった。


水面に映る男は若い。


少年というほど幼くはないが、どう見ても三十四歳には見えない。十代後半――せいぜいそのくらいだろう。


頬は細く、顎の線も違う。


鼻も目元も、記憶にある久世玲司の顔とは一致しない。


俺は自分の頬へ手を当てた。


水面の男も同じ動きをする。


右へ顔を傾ければ向こうも傾く。


「……俺、なのか」


身体が違うことには、目覚めたときから気づいていた。


手。


腕。


声。


身体の重さ。


どれも事故前とは違っていた。


だが、自分の顔を見るというのは、それらとはまるで違う。


曖昧だった違和感が、急に形を持った。


俺は水面へ顔を近づける。


髪は黒い。


ただ、青白い光が当たった部分だけ、わずかに青みを帯びて見えた。長さも事故前よりかなりある。


そして、目。


「……こんな色じゃなかったよな」


瞳は黒でも茶色でもない。


琥珀色。


暗い場所でも、それだけは分かった。


光の加減だけでは説明できそうにない。


若返った。


それだけなら、まだそう表現することもできた。


だが、顔立ちも骨格も違う。


これは事故前の俺が若くなっただけではない。


身体そのものが別物になっている。


その事実がようやく腹に落ちかけたとき、水面に映った頭部の一部が目に留まった。


右側。


髪の間から、黒いものが覗いている。


「……なんだ?」


汚れかと思い、髪をかき上げた。


指先に硬いものが触れる。


俺は眉を寄せ、もう一度同じ場所を確かめた。


硬い。


髪ではない。


皮膚の上に何かが付着している感触でもなかった。


少し後ろへ向かうように伸びている。


水面へ顔を寄せ、髪を押さえる。


そこで、はっきりと見えた。


右の側頭部から、小さな黒い突起が生えている。


長さは数センチ程度。


髪を下ろせば大部分が隠れるほど小さい。


だが、その形を別の言葉で表現するのは難しかった。


「……角?」


しばらく、それを見つめる。


左側にもあるのかと思い、手で探る。


ない。


右だけだ。


黒い突起へもう一度触れる。


表面は硬い。


試しに根元を軽く動かそうとすると、頭皮の奥へ鈍い痛みが走った。


「痛っ」


思わず手を離す。


作り物ではない。


少なくとも、外から貼り付けられただけのものではなさそうだ。


知らない場所で目覚めた。


身体が変わっていた。


正体不明の《解析》まで使える。


一つ一つなら、理解できなくても事実として切り分けることができた。


だが、自分の頭から角が生えている。


その事実は、俺が無意識に残していた前提そのものを崩した。


「……俺、人間なのか?」


声に出してみても、当然答えは返らない。


聞こえるのは、水滴が落ちる音だけだった。


俺は右側頭部へ手を当てたまま考える。


頭痛は残っている。


《解析》を使うべきではないかもしれない。


それでも、これは俺自身の身体に関わる。


確認しておく価値はある。


俺は角状の突起へ意識を集中した。


【解析結果】

対象:右側頭部・角状組織

分類:生体組織

自己組織との連続性:確認

機能:不明

成長性:判定不能

除去時影響:判定不能

解析確度:43%


頭の奥が、ずしりと重くなる。


俺はすぐに《解析》を止めた。


やはり、使うほど何らかの負荷がかかっている可能性が高い。


だが、今はそれよりも結果の方が重要だった。


「生体組織……か」


つまり、この角は最初から今の身体の一部として存在している。


少なくとも、そう考えるのが自然だ。


俺は水場の横へ座り直し、改めて水面を見る。


黒い髪。


琥珀色の瞳。


若い顔。


そして、右側頭部の小さな黒い角。


これが今の俺だ。


すぐに受け入れられるはずもない。


それでも、存在しているものを無視しても何も変わらない。


俺は目を閉じ、確認できている事実だけを整理した。


1. 事故前と現在では、身体の外見と年齢が明らかに異なる。


2. 現在の身体には、俺の知る人体では説明できない器官と角が存在する。


3. 周囲には、俺の知識にない生物や文字、構造物が存在する。


そこから先は、まだ仮説だ。


別人の身体へ意識が移ったのか。


別の身体として生き直したのか。


あるいは、本当に俺の知る世界とは違う場所へ来たのか。


どれも普通なら馬鹿げている。


だが今は、普通ではない可能性まで候補に残さなければ、目の前の事実を説明できなかった。


「異世界……」


小さく口にしてみる。


現実感はない。


それでも、その可能性を笑い飛ばすことはもうできなかった。


とはいえ、今ここで答えを決める意味もない。


俺がどこにいるのか。


この身体が何なのか。


調べる材料が増えれば、いずれ判断できる。


今はそれでいい。


俺は水をもう数口飲み、立ち上がった。


喉の渇きはかなりましになっている。身体の重さは残っているが、休めば多少は動けそうだった。


この水場は、一時的な拠点として使えるかもしれない。


水がある。


入口も限られている。


少なくとも、最初に目覚めた何もない部屋よりは条件がいい。


ただし、水が必要なのは俺だけではない。


そこだけは忘れてはいけない。


俺は水場の周囲をゆっくり確認する。


入ってきた通路とは反対側にも、細い通路が一本続いていた。


その入口へ近づいたところで、足が止まる。


床に傷がある。


三本。


硬い床を何かが引っ掻いたような筋が、平行に近い形で残されていた。


俺が目印を刻むのにも苦労した床だ。


その表面が、はっきり削れている。


しかも、一か所だけではない。


同じような跡が間隔を置いて、奥の通路へ続いていた。


俺はしゃがみ込み、触れずに観察する。


傷の近くに、小さな欠片が落ちている。


半透明。


薄い板のような形で、青白い光を受けると鈍く輝いた。


黒い破片の先端で軽く動かしてみる。


カチ。


硬質な音。


石とは少し違う。


「……殻?」


そう見えなくもない。


生き物の外皮か。


それとも、まったく別のものか。


今は調べない。


頭痛も残っている。


重要なのは、ここへ何かが出入りしている可能性が高いということだ。


さっきの小動物が残した傷とは思えない。


俺は立ち上がり、通路の奥へ目を向けた。


青白い光が届くのは数メートル先まで。


その向こうは黒い闇に沈んでいる。


水は見つかった。


自分の身体についても、少しだけ分かった。


だが、その分だけ新しい疑問も増えた。


ここはどこなのか。


今の俺は何なのか。


そして、この水場に何が出入りしているのか。


今すぐ確かめに行く必要はない。


今の身体で無理に探索を続ける方が危険だ。


まず休む。


体力を戻す。


次に動くのは、その後でいい。


そう判断し、水場へ戻ろうとした。


そのときだった。


――カリ。


奥の通路から、小さな音がした。


俺の足が止まる。


聞き覚えのある、硬いもの同士が擦れるような音。


ただ。


さっき遭遇した小動物が立てていた音よりも、


低い。


俺はゆっくり振り返り、黒い破片を握り直した。


暗闇を見つめる。


しばらく待っても、次の音は聞こえない。


それでも。


水場を使うのが俺だけではない。


その可能性だけは、もう疑う必要がなかった。

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