第10話 外の世界
出口を見つけたからといって、何の準備もせず外へ出るつもりはなかった。
森に何がいるのか分からない以上、施設へ戻れなくなる可能性も考えておく必要がある。特に問題なのは水だった。出口までの往復ならともかく、その先まで探索範囲を広げるには、水場から離れて行動できる手段が必要になる。
俺は巨大な虫から外しておいた腹部の外殻を、もう一度手に取った。
浅い鉢のように湾曲しており、水を入れてもしばらく漏れないことは確認している。問題は持ち運び方だった。
片手で抱えれば武器が使えない。かといって服を裂いて紐にし続ければ、いずれ着るものまでなくなる。
何か代わりになるものはないかと死骸を調べ直し、脚の付け根にある白っぽい筋状の組織へ目が留まった。
金属片で長く切り出し、水で黒い体液を洗い落とす。両手で強く引いてみると多少伸びはしたが、簡単には切れなかった。
「これなら使えそうだな」
外殻の両端には、別の殻と繋がっていた小さな穴が残っている。そこへ筋を通し、何度か折り返して固定した。
結び目を引っ張って確認してから水を半分ほど入れ、肩から下げてみる。
歩けば揺れるし、見た目もひどい。それでも両手は空く。今の俺に必要なのはそれで十分だった。
焼いた虫肉も少量だけ持っていく。薄い殻片へ載せ、同じ筋状組織で簡単に包んだ。
水場には黒い記録板を残した。
一本角の男について知るための重要な資料ではあるが、森へ持ち出す理由はない。落としたり壊したりする危険を増やすだけだ。
最後に身体を確認する。
左腕の傷はまだ痛むものの、新しい出血はほとんどない。脇腹には尾で打たれた痣が残っているが、歩くことに支障はなかった。《魔核》も胸の奥で静かに脈打っている。
万全にはほど遠い。
それでも、短時間の探索ならできる。
俺は金属片を右手に持ち、水を入れた外殻を肩へ掛けて出口へ向かった。
◇
出口に近づくにつれ、空気の匂いが変わっていった。
湿った土。植物。そして、何かの花なのか、微かに甘い香りも混じっている。
前にも感じたはずの匂いだったが、「今から外へ出る」と意識しているせいか、一つ一つが妙にはっきりしていた。
壁の亀裂から入り込んだ根を越え、床へ刻んだ目印を辿る。
その先には光があった。
崩れた構造物の隙間まで来ると、俺はすぐには外へ出ず、しばらく耳を澄ませた。風に揺れる葉の音や、遠くで鳴く生き物の声は聞こえるが、近くに大型生物がいる気配はない。
前に空を横切った大きな影も見えなかった。
金属片を先に外へ出し、水の容器を岩へぶつけないよう身体を横にする。
狭い隙間を抜けた瞬間、暖かな光が全身へ降り注いだ。
思わず目を閉じる。
熱いわけではない。
ただ、長く薄暗い施設にいた目には強すぎた。
風が頬を撫でる。
冷たくはない。湿り気を含んだ、柔らかい風だった。
少しずつ目を開く。
森が広がっている。
隙間越しに見た景色とは、まるで違った。
高い木々が幾重にも枝葉を重ね、その間から差し込んだ陽光が苔や落ち葉の上にまだらな模様を作っている。幹には太い蔓が絡みつき、低木の間には大小さまざまな植物が密集していた。
葉の色も一様ではない。
濃い緑。淡い緑。黄味を帯びたもの。青く見えるものまである。
俺はしばらく、その景色を眺めた。
「……すごいな」
それしか出てこなかった。
地球で森を見たことがないわけではない。
それでも、この場所には知っている森とは違う密度がある。
生命が多い。
そう感じた。
そして、それは目に見える生物だけの話ではなかった。
胸の《魔核》が、施設内部にいたときよりはっきり反応している。
壁の発光物の周囲だけに感じていた揺らぎが、ここでは至るところに存在していた。
木の幹。
葉。
地面。
空気。
すべてに薄く何かがまとわりついている。
真正面から見れば曖昧なのに、《魔核》へ意識を向けると存在だけが浮かび上がる。
「これが……魔力?」
まだ仮称だ。
それでも、施設内部の限られた場所にしか存在しないものではないらしい。
俺は出口から十歩ほどの範囲だけを歩いた。
最初から森の奥へ入るつもりはない。まずは戻る場所を見失わないための確認が必要だった。
外から見た施設の入口は想像以上に分かりにくい。
大きな岩壁の下部が崩れ、そこを木の根や蔓が覆っている。知らずに通りかかれば、ただの岩の裂け目としか思わないだろう。
これは拠点として考えれば悪くない。
外部から見つかりにくい。
一方で、自分まで場所を失えば意味がない。
出口のすぐ近くには特徴的な木が一本あった。太い幹が途中で二股に分かれ、片側だけを白い苔のようなものが覆っている。
その木と、岩壁上部にある三角形の欠け。
二つを位置の目印にする。
念のため、入口近くの岩にも金属片で三本の傷を刻んだ。
自然の傷には見えにくい。
今のところ誰かに発見される危険より、帰路を失う危険を優先する。
準備を終えてから、ようやく森へ少しだけ踏み込んだ。
硬い石床ではなく、柔らかな土が足の下で沈む。
落ち葉が擦れる。
ただそれだけの感覚が妙に懐かしかった。
俺は出口を視界に残したまま、円を描くように周辺を歩いた。
最初は狭く。
問題がなければ、少しだけ範囲を広げる。
森には思っていた以上に音が多い。
高い枝から聞こえる鳴き声。
低木の間を飛ぶ小さな何かの羽音。
遠くで枝が揺れる音。
施設内部の静けさに慣れた耳には、落ち着かないほどだった。
やがて、一本の木の幹を小さな動物が駆け上がった。
栗鼠ほどの大きさ。
ただし尾が二本ある。
数秒後には枝葉の中へ姿を消した。
別の枝には鮮やかな青い羽を持つ鳥らしき生物が止まっている。嘴は細長く、額には小さな突起が一本あった。
さらに、木の根元には拳ほどの大きさをした青黒い甲殻の虫が張りついている。
どれも、俺の知識にはない。
現代日本。
その可能性を考え続ける意味は、もうほとんどないように思えた。
地球のどこかだと仮定するためには、説明しなければならないことが多すぎる。
角を持つ俺自身。
胸の《魔核》。
巨大な甲殻生物。
赤いエネルギーを放つ蜥蜴。
未知の文字。
一本角の人型遺体。
そして今、目の前にいる生物たち。
「異世界、か」
以前なら口にすることすら馬鹿げていると思った言葉だった。
今は違う。
証明されたわけではない。
だが、今まで得た事実を最も少ない無理で説明できる仮説は、それだった。
なら今後は、ここが自分の知る地球ではないことを前提に行動した方がいい。
常識が通用すると決めつけない。
植物も。
動物も。
食べ物も。
毒も。
すべて一から確認する。
俺は近くに生えていた腰ほどの高さの植物へ目を向けた。
細長い葉に赤紫色の葉脈が走り、先端には白い実のようなものがいくつもついている。
食料になる可能性はある。
だが、触れなかった。
今の目的は採集ではない。
まず周辺環境を把握する。
そこで一度だけ《解析》を使うことにした。
個別の植物ではなく、自分の周囲全体へ意識を広げる。
【解析結果】
対象:周辺森林環境
温度:生体活動に適した範囲
湿度:高
植生密度:高
周辺生物活動:多数確認
未知エネルギー反応:広域に存在
分布:不均一
高反応領域:複数
即時危険要因:特定不能
解析確度:31%
大気の詳細な成分までは分からない。
それでいい。
少なくとも今の俺が普通に呼吸できていて、意識や身体にも異常はない。その事実の方が確実だ。
気になったのは、未知エネルギーの分布だった。
魔力らしきものは森全体に存在しているが、均一ではない。
近くの大木の根元には比較的濃い反応がある。逆に、何も感じない場所もある。
生物が持っているのか。
植物が集めているのか。
土地そのものに偏りがあるのか。
新しい疑問が増える。
《解析》を止める。
頭痛はほとんど出なかった。
以前より負担が軽くなったようにも感じるが、休息の影響かもしれないし、《魔核》が活動を始めたことと関係している可能性もある。
今は結論にしない。
さらに少しだけ歩くと、森の奥から水の流れる音が聞こえた。
俺は足を止めた。
小川。
あるいは泉。
もし近くに安定した水源があるなら、遺跡内部の水場だけに依存する必要がなくなる。
探索範囲を広げる上では大きな意味を持つ。
ただし、今回は追わなかった。
水場には生物が集まる。
それは地下で嫌というほど学んだ。
方向だけ覚えておく。
次に来るとき、十分に警戒した上で調べればいい。
俺は別方向へ進んだ。
出口からまだそれほど離れていない。
そこで地面に残された大きな窪みが目に入った。
最初は倒木か落石の跡だと思った。
近づかずに見る。
形が揃っている。
一つ。
その先にも。
さらに奥にも。
足跡だった。
長さは四十センチほど。
三本の指が前へ伸び、それぞれの先端には土へ深く食い込んだ爪跡がある。
かなり大きい。
巨大な鳥類。
爬虫類。
あるいは、まったく別の生物か。
何なのかは分からない。
ただ、この足跡を残したものが小型ではないことだけは確かだった。
土の縁も大きく崩れてはいない。
それほど昔のものには見えない。
追う理由はなかった。
むしろ、出口周辺にも大型生物が出入りすることが分かった時点で十分な収穫だった。
「地下より安全ってことはないよな」
当たり前だ。
森には資源がある。
同時に、それを利用する生き物もいる。
俺は出口へ戻る方向へ身体を向けた。
外へ出る前より、ずっと多くのものが手に入る可能性が見えてきた。
水。
植物。
動物。
燃料。
もしかすれば、薬になるものもあるかもしれない。
だが、利用できるかどうかを一つずつ確かめる必要がある。
資源が増えた分だけ、危険も増えた。
それだけのことだ。
出口へ向かって歩き始めて間もなく、違和感に気づいた。
森が静かになっている。
完全な無音ではない。
遠くではまだ何かが鳴いている。
だが、さっきまで近くで聞こえていた小鳥の声や羽音が減っていた。
俺は足を止め、金属片を握り直した。
こういう変化には理由がある。
周囲を見る。
木々。
低木。
地面。
見える範囲に異常はない。
それでも近くにいた小型生物が警戒する何かがいる可能性は考えておくべきだ。
俺は出口へ向かって歩き出した。
走らない。
不用意に音を立てる必要はない。
だが歩調は速める。
そのとき。
森の奥から、低い音が響いた。
俺は止まった。
唸り声。
そう聞こえた。
距離はかなりある。
それでも、胸の奥まで震えるような低い音だった。
続いて、太い枝が折れる。
バキッ、と乾いた音が森に響く。
音のした方向から、何羽もの小さな生物が一斉に飛び立った。
「戻るか」
迷う理由はなかった。
姿を見るために近づく必要などない。
大型の何かがいる。
それだけ分かれば十分だ。
俺は出口へ向かう。
一度だけ後ろを確認した。
木々の奥には何も見えない。
だが、また枝が折れる音がした。
最初より近いのか。
それとも音が通っただけなのか。
判断できない。
出口が見える。
白い苔に覆われた二股の木。
その奥に、岩壁の裂け目。
自分でつけた三本の傷。
間違いない。
周囲を確認してから、水の入った外殻を先に内部へ押し込む。続いて身体を横にし、狭い隙間へ滑り込んだ。
暗い。
外の光に目が慣れたせいで、施設内部が以前よりずっと暗く感じる。
俺はその場でしばらく動かなかった。
呼吸を整える。
耳を澄ませる。
何かが追ってくる音はない。
そこでようやく肩から力を抜いた。
振り返ると、崩れた岩の隙間から森の光が差し込んでいる。
外へいた時間は長くない。
歩いた範囲も狭い。
それでも得たものは大きかった。
森には水がある可能性が高い。
食料や燃料になる資源も豊富にありそうだ。
一方で、足跡を残した大型生物もいる。
そして、魔力と仮称しているものは施設の中だけに存在する特殊な現象ではなく、この世界の環境そのものに広く存在している可能性が高い。
俺は森を見ながら、小さく息を吐いた。
怖くないわけではない。
一歩間違えれば死ぬことは、すでに十分理解している。
それでも。
「……面白いな」
自然に言葉が出た。
自分でも少し意外だった。
生き残ることだけを考えていたときにはなかった感情だ。
あの森の向こうには何がある。
人はいるのか。
町はあるのか。
俺と同じ角を持つ者は、今も存在するのか。
魔力とは何なのか。
知りたい。
そのためには、まず生き残らなければならない。
順番は変わらない。
携帯できる水をもう少し確実にする。
森の水源を確認する。
出口周辺の安全な範囲を広げる。
食べられるものを探す。
少しずつでいい。
俺は暗い通路へ向き直った。
背後では、陽の光を受けた葉が風に揺れている。
冷たい石床で目を覚ましたとき、世界は暗い部屋の中だけだった。
今は違う。
俺の知らない世界が、その向こうに広がっている。
そして初めて。
そこへ進んでみたいと思った。




