第39話 逃げる理由
集落へ戻った頃には、空の半分以上が夕闇に沈んでいた。
俺たちはそのまま借りた一室へ集まり、その日見つけたものを順番に整理した。横倒しになった荷車、残された商品、複数種類の獣の足跡、人間が林へ向かった痕跡。そして何より気になるのは、北西から南東へ向かって集中していた獣の移動跡だった。
最後に、俺が感じた魔力の違和感についても伝える。
以前なら、ガルドたちの会話から知っている単語だけを拾い、自分の考えを説明するにはリシェルの助けが必要だった。今は知らない言葉こそ残っているものの、話し合いそのものへ自分から加われる。
それだけで、調査に参加している感覚まで大きく変わった。
「荷車を襲うために集まったなら、足跡の向きが揃いすぎてる」
俺が言うと、セイルが机に広げた簡単な地図へ目を落とした。
「俺もそう思う。少なくとも、あそこで待ち伏せしてたようには見えなかった」
その返事も普通に理解できる。
まだ時々、そのこと自体に違和感がある。
オルドは地図の北西側を指した。
「問題は、違う種類の獣が同じ方向へ逃げるほどの原因があるってことだ。火事なら煙が見えるし、大型の魔物が一頭入ってきただけで、ここまで広い範囲の獣が動くかは分からない」
ガルドが俺を見る。
「お前が感じた魔力の異常は?」
俺は少し考えてから答えた。
「弱かった。意識して探さないと分からないくらいで、何なのかまでは判断できない」
危うく《解析》という言葉を口にしそうになったが、途中で飲み込んだ。
ガルドは一瞬だけ俺を見たものの、そこへは触れなかった。
「明日は荷車の場所から人の痕跡を追う。ただし、獣が逃げた原因を調べるために奥へ入りすぎない。まずは行方不明者だ」
全員が頷く。
その順番には俺も異論がなかった。
黒い金属片、古い記録、北西にある閉鎖された場所、それに正体の分からない魔力の偏り。気になるものはいくらでもあるが、今回の依頼は俺の謎を解くためのものではない。
戻らない者を探し、街道で何が起きているのかを確認する。
その線だけは越えない。
少なくとも、そのつもりだった。
◇
翌朝は、日の出とほぼ同時に集落を出た。
昨日調べた場所までは、それほど時間は掛からない。
横倒しになった荷車は当然そのまま残っていた。夜の間に獣が近づいた形跡も警戒したが、少なくとも荷台が新しく荒らされた様子はなく、周囲の足跡にも目立った変化はない。
ガルドは昨日見つけた血の付いた布を確認し、そこから林へ向かう人間の痕跡を探し始めた。
俺も地面を見る。
朝の光の方が昨日より見やすい。
人間の足跡は複数あるが、全員がまとまって同じ方向へ移動したようには見えなかった。一部は林へ向かい、別の跡は街道側へ戻ろうとして途中で消えている。そこへ獣の足跡まで重なっているため、どれが行方不明になった者たちのものなのかを見分けるのは簡単ではない。
少し先を調べていたセイルが声を上げた。
「こっちに血がある」
近づいてみると、草の葉に乾いた血が付着していた。
量は多くない。
だが、その先にも点々と続いている。
「怪我したまま歩いたのかな」
リシェルが呟く。
ガルドは周囲を確かめてから、林へ続く跡を指した。
「まず、これを追う」
俺たちは互いに距離を取りながら林へ入った。
◇
昨日まで歩いていた場所と比べると、木の密度は少し高い。
それでもグラウほど深い森ではなく、日中であれば十分に光が入る。地面には低い草や落ち葉が広がり、人が通った跡も場所によっては見分けられた。
先頭はガルド。
俺は後方から周囲を確認する。
林へ入って間もなく、妙なことに気づいた。
静かだった。
鳥の声はする。
小さな虫もいる。
完全に生き物が消えたわけではない。
それでも、昨日街道周辺で見た大量の四足獣の痕跡と比べると、この辺りには新しい足跡がほとんど残っていなかった。
「獣が少ないな」
俺が言うと、オルドが振り返る。
「気づいたか」
どうやら彼も同じことを考えていたらしい。
「街道にはあれだけ跡があったのに、こっちは古いものばかりだ」
ガルドは足を止めずに答えた。
「逃げたあとだからかもしれない」
それなら説明はつく。
ただ、大量の獣が一度に移動したのなら、その原因がどこかにあるはずだ。
今のところ。
それらしい痕跡は何も見つからない。
◇
しばらく進むと、血の跡が少しずつ増えてきた。
地面には膝をついたような痕が残り、近くの木には手で掴んだらしい血まで付着している。
怪我をした者が、かなり苦しい状態で進んだのだろう。
そこから先で、進路が少し西寄りへ変わっていた。
ガルドが周囲を見回す。
「水を探したのか?」
耳を澄ませると、近くから小さな水音が聞こえた。
俺たちは痕跡を追って緩い斜面を下りる。
その先に細い沢があった。
水辺には倒れた木があり、その陰に何かが見える。
ガルドが片手を上げる。
全員が武器を構えた。
動かない。
俺は目を凝らす。
人だ。
「生きてる?」
リシェルが小声で言う。
ガルドとセイルが先に近づき、俺たちも続いた。
三十代くらいの男だった。
服は破れ、左脚が酷く腫れている。脇腹にも血が付いていたが、胸は僅かに上下している。
生きている。
リシェルがすぐ膝をつき、呼吸と傷を確認した。
男の目が薄く開く。
「……水……」
その言葉が。
俺にもはっきり理解できた。
◇
男へ少しずつ水を飲ませ、リシェルが持ってきた薬と布で応急処置を行う。
脇腹の傷は深そうに見えたが、出血そのものはすでにほとんど止まっていた。むしろ問題は左脚で、折れている可能性があるらしい。
オルドが固定を手伝う間、ガルドは男へゆっくり質問した。
「荷車に乗っていた商人か?」
男が弱く頷く。
「……そうだ」
「何があった?」
返事が来るまで少し時間が掛かった。
男は息を整えながら、途切れ途切れに話し始めた。
以前なら、ほとんど理解できなかったはずだ。
今は違う。
「街道を走っていたら……前から獣が来た。最初は二、三頭だと思った。でも、その後ろから次々に来た。種類なんて関係なく、全部こっちへ走ってきたんだ」
俺は昨日見た足跡を思い出した。
予想は合っていた。
獣が荷車を狙って集まったのではない。
移動していた獣の群れへ、荷車が巻き込まれた。
男は続ける。
「馬が驚いて道を外れた。車輪が壊れて……そのあとのことは、よく覚えてない」
「他の四人は?」
ガルドが尋ねる。
男の表情が曇った。
「商人仲間が一人と護衛が三人いた。俺が気づいたときには二人が近くにいた。残りの二人は分からない」
「近くにいた二人は?」
「三人で森へ入った。街道にはまだ獣が走っていたから、少し離れて待つつもりだった」
そこで言葉が止まる。
ガルドは急かさなかった。
しばらくして。
男が再び口を開く。
「でも、森の中もおかしかった」
全員が黙る。
俺は思わず尋ねた。
「何が?」
男がこちらを見る。
◇
男の視線が、俺の一本角で一瞬止まった。
だが、今はそれを気にしている余裕がないらしい。
「音が……しなかった」
「音?」
「急にだ。鳥も虫も、風の音までなくなったように感じた。実際に全部消えたのかは分からない。ただ、耳を塞がれたみたいになった」
俺は眉を寄せた。
そんな話は依頼の説明には出ていなかった。
男は震える手を握り締める。
「それから頭が重くなって、吐き気がして……護衛の一人が、ここから離れろって言った」
ガルドが尋ねる。
「何か見たのか?」
男はしばらく黙った。
「……黒いものを」
胸の奥が僅かに反応した。
俺はそれを表情に出さないよう気をつける。
「黒いものって?」
「分からない。獣じゃない。人でもない。木の間に、影みたいなのがあった。でも……動いてた」
セイルが眉を寄せる。
「大きさは?」
「人より大きかったと思う。でも、はっきり見えなかった」
情報が曖昧すぎる。
怪我。
疲労。
恐怖。
男自身が正常な状態でなかったことも考えなければならない。
俺は、黒いという言葉だけで金属片や《魔核》へ結びつけそうになる自分を止めた。
黒い。
それだけでは何の証拠にもならない。
◇
「それからどうした?」
ガルドが続きを促す。
「逃げた。三人で。途中でまた獣が来て……俺は斜面から落ちた」
男が左脚を見る。
「気を失って、目が覚めたら一人だった。歩こうとしたけど無理で……水だけでもと思って、ここまで来た」
「一緒にいた二人は?」
「分からない」
まだ生きている可能性はある。
そして、事故の直後から行方が分からない残りの二人も、どこか別の場所へ逃げているかもしれない。
少なくとも一人を生存した状態で発見できたことで、全員死亡という最悪の可能性は一つ消えた。
同時に。
調べるべきことは増えた。
音が消えたように感じる場所。
頭痛と吐き気。
黒い影。
獣たちが逃げる原因。
そして、俺が感じた魔力の偏り。
それぞれが偶然重なっているだけなのか。
それとも。
同じ原因から起きているのか。
今の段階では判断できなかった。
◇
次に問題になったのは、この男をどうするかだった。
左脚を傷めた状態で、そのまま奥へ連れていくことはできない。
かといって一人で残すのも危険だ。
ガルドたちはすぐに相談を始めた。
今の俺なら内容も理解できる。
最初に出た案は、セイルが男を背負って集落まで戻り、残る四人がこの場所で待つか、周辺だけを確認するというものだった。
だが。
怪我人を一人で背負いながら林と街道を戻るのは、何かあったときの危険が大きい。
俺は口を挟んだ。
「二人で戻った方がいいんじゃない?」
ガルドが俺を見る。
「誰が?」
少し考えてから答える。
「セイルとリシェル。怪我してるから、途中で悪くなったら治療できる人がいた方がいい」
言葉を探しながらになるため、まだ完全に滑らかではない。
それでも、自分の考えを文章として伝えられる。
リシェル自身も少し考え、ガルドが最後に頷いた。
「そうしよう」
決まった。
リシェルは男の状態をもう一度確認し、動かしても問題が出にくいよう左脚の固定を補強する。
セイルが男を背負った。
出発する前。
リシェルが俺を見る。
「無理しないで」
今なら。
その意味を迷わず受け取れる。
「分かってる」
俺が答えると、リシェルは少しだけ安心したように頷いた。
二人と負傷者が集落の方向へ戻っていく。
残ったのは。
ガルド。
オルド。
そして俺。
三人になった。
◇
「どうする?」
俺が尋ねる。
ガルドは少し考え、地面に残る痕跡を見た。
「まだ四人が見つかってない。この近くから遠くへは行かない。まず、さっきの男と一緒にいた二人の跡を探す」
俺も賛成だった。
三人で沢の周辺を調べる。
男が落ちてきたと思われる斜面には、倒れた草や折れた枝が残っている。そこを登ると、上の方で人間の足跡が見つかった。
三人分。
おそらく。
少し進んだ先で、足跡が分かれている。
一つは男が落ちた斜面へ。
残る二人分は北寄りへ続いていた。
「二人はこっちだな」
ガルドが言う。
俺たちはその跡を追った。
林は進むほど静かになっていく。
俺は違和感に気づいてから、意識して耳を澄ませた。
鳥の声が減っている。
虫の音も少ない。
風はある。
木の葉も揺れている。
それなのに。
どこか音が薄い。
さっきの男が話していたことを思い出した。
◇
「オルド」
俺が呼ぶと、彼が振り返る。
「何だ?」
「何か感じる?」
オルドは質問の意味を察したらしく、その場で立ち止まった。
目を閉じる。
しばらく周囲へ意識を向ける。
「……魔力のことか?」
「うん」
彼はもう一度集中したあと、僅かに眉を寄せた。
「妙だな。普段と違う気はする。でも、どこが違うのかは分からない」
昨日は感じないと言っていた。
今は。
僅かながら違和感を感じている。
つまり。
昨日より発生源へ近づいている可能性がある。
俺も意識を広げる。
解析。
【広域解析】
対象:周辺環境
生体反応:減少
通常魔力分布:不均一
北方向への偏差:増大
魔力密度:局所的変動あり
性質:判定不能
生体への影響:情報不足
既知情報との照合:一致なし
昨日より反応が強い。
さらに、生体反応そのものが減っている。
実際に見ている状況とも一致する。
「北へ近づくほど、魔力の偏りが強くなってる」
俺が言うと、ガルドはすぐに答えた。
「なら、深入りはしない」
判断は早かった。
原因がありそうな方向が分かったとしても、そこへ直行する必要はない。
最優先は行方不明者。
それを忘れるべきではなかった。
◇
二人の足跡を追ってさらに進むと、一本の木の根元に剣が落ちていた。
鞘から抜かれた状態だ。
血は付いていない。
少し先には盾も落ちている。
さらに地面には、何かを引っ掻いたような跡まで残っていた。
人間が転んだのか。
何かに引きずられたのか。
ガルドが痕跡を確認する。
俺も近くを見る。
そこから先は二人の足跡が大きく乱れていた。
だが。
周囲に獣の跡がない。
オルドが小さく呟く。
「何と戦った?」
俺にも分からない。
武器を抜いている。
盾まで捨てている。
それなのに、相手らしい足跡が見つからない。
空を飛ぶものか。
木の上から襲ったのか。
それとも。
そもそも足跡を残さない何かなのか。
◇
そのとき。
胸の奥が強く震えた。
昨日までとは明らかに違う。
俺は反射的に背負い袋へ手を伸ばし、黒い金属片を取り出した。
触れた瞬間。
表面に刻まれた途切れた環が、一瞬だけ黒く沈む。
光ったわけではない。
その線だけ。
周囲の明るさを吸い込んだように見えた。
今回は見間違いではない。
「……反応した」
ガルドが俺を見る。
「何が?」
俺はすぐには答えず、金属片へ視線を落とした。
すでに元へ戻っている。
だが。
《魔核》の反応は消えていない。
むしろ北へ意識を向けるほど、何かに引かれるような感覚が強くなる。
俺は金属片へ《解析》を使った。
【解析結果】
対象:黒色金属片
主成分:解析不能
残留魔力:増加
外部魔力との共鳴反応:確認
共鳴方向:北北西
発生源:特定不能
性質照合:不能
追加情報不足
共鳴。
初めて表示された言葉だった。
昨日までは、極僅かな魔力が残っているだけだった金属片が、今は外部に存在する何かへ反応している。
これで、この金属片と森で起きている異常が同じ原因だと証明されたわけではない。
だが。
少なくとも。
この周囲にある何らかの魔力現象へ反応している可能性は、一気に高くなった。
◇
「これが何かに反応してる」
俺はガルドたちへ伝え、北北西の方向を指した。
オルドが金属片を近くから覗き込む。
「魔力に?」
「たぶん。でも、何かまでは分からない」
ガルドの表情が厳しくなる。
「行くか?」
尋ねられる。
俺はすぐには答えなかった。
気になる。
当然だ。
黒い欠片。
一本角。
古い記録。
北西にある閉鎖された場所。
そして今。
金属片そのものが、北北西にある何かへ反応している。
このまま進めば。
自分について何か分かるかもしれない。
だが。
俺は地面を見る。
二人の行方不明者が残した足跡。
落ちている剣と盾。
そして今回の依頼。
俺は首を横へ振った。
「先に人を探す」
ガルドの口元が僅かに緩む。
「それでいい」
自分でも。
少しだけ安心した。
◇
そこから先、足跡はさらに分かりにくくなった。
それでも、折れた枝や踏み倒された草、時折落ちている装備の一部を追えば、二人が進んだ方向そのものは見失わずに済んだ。
やがて前方に低い岩場が見えてくる。
岩と木の根が重なった奥に、狭い隙間があった。
洞穴。
自然にできたものなのか。
人が掘ったものなのか。
遠目では判断できない。
入口へ近づいたところで、血痕が見つかった。
新しい。
そして。
奥から声がした。
「……誰か……」
小さい。
弱い。
だが。
確かに人の声だ。
ガルドがすぐに動く。
俺たちも続いた。
洞穴の入口まで近づき、ガルドが中へ声を掛ける。
返事がある。
二人。
いる。
少なくとも生きている。
「助けに来た!」
ガルドが声を張ると、奥から弱い返事が返ってきた。
これで。
さらに二人。
見つけた。
◇
すぐに中へ入ろうとしたところで、オルドが俺の腕を掴んだ。
「待て」
彼が見ているのは、洞穴の奥ではない。
入口脇の岩壁だった。
そこに。
何かが刻まれている。
古い。
長い時間で削られ、ほとんど形を失いかけている。
だが。
輪郭は残っていた。
一部が途切れた環。
俺は息を止めた。
手元の黒い金属片を見る。
完全に同じではない。
けれど。
似ている。
偶然で片づけるには。
似すぎていた。
さらに環の下には、何本もの細い線が刻まれている。
文字。
古いものだ。
今の俺には読めない。
胸の《魔核》が。
今までよりはっきりと脈打つ。
俺は洞穴の奥へ視線を向けた。
生存者がいる。
まず助ける。
それが先だ。
ただ。
一つだけ。
もう分かっていた。
ここは。
ただの自然洞窟ではない。




