第38話 聞こえる世界
出発は二日後になった。
すぐに依頼を受けなかったのはガルドの判断だった。北西へ続く街道では獣の目撃が増え、荷車が襲われ、戻ってこない者までいる。討伐対象と数が最初から決められていたガロウの依頼とは違い、今回は何が起きているのかを確認するところから仕事に含まれていた。
原因すら分かっていない以上、準備する時間を惜しむ理由はない。
その二日間で、俺も必要な物を揃えた。水、保存の利く食料、火を起こすための道具、簡単な雨除けに使える布、ロープ、それに少量の薬。以前買った背負い袋へ詰めていくと想像以上の重さになり、探索者の装備というものが武器や防具だけではないことを改めて実感した。
町から離れれば、足りないものを途中で買うことはできない。使う可能性がある物を持てば荷物は増え、その分だけ移動にも影響する。何を持ち、何を置いていくのかも仕事の一部なのだろう。
新しい靴はまだ完全には足へ馴染んでいないが、古いものより遥かに歩きやすい。革の腕当てを付け、職人に作り直してもらった槍を手にすれば、見た目だけなら以前よりかなり探索者らしくなった。
ただ、今回の依頼で一番気になっていたのは装備ではない。
依頼の内容を、俺自身がどこまで理解できるのか。
そこだった。
◇
出発前日の夕方、俺たち五人は探索者協会の一角へ集まり、職員から改めて依頼の説明を受けていた。
机の上には簡単な地図が広げられている。リュネールから北西へ延びる街道、その途中にある小さな集落、さらに先へ続く道。その一部が線で囲われ、問題が起きている範囲として示されているらしかった。
職員が地図を指しながら話し始める。
俺はできるだけ集中して、その声へ意識を向けた。
少し前までなら、理解できるのは単語ばかりだった。北西、街道、獣、荷車、危険、行方不明。聞き取れたものを頭の中へ並べ、相手の表情や仕草、指している場所と照らし合わせながら全体の意味を推測する。
今も基本的には同じことをしている。ただ、これまでに聞いた言葉の数は大きく増え、同じ音がどんな場面で使われるのかも少しずつ分かるようになっていた。
職員の話から、三日前、荷車、戻っていない、という意味までは拾える。そのあとに知らない言葉が入り、続けて二人、護衛、探索者という聞き覚えのある音が続いた。
意味を組み立てようとする。
荷車には二人の護衛がいたのか。それとも、二人の探索者があとから探しに行ったのか。単語の意味は分かっても、それらが文章の中でどう繋がっているのかが曖昧だった。
これまでは、こういうところでリシェルの補足を待つことが多かった。
だが今回は、もう少し自分で考えてみる。
語順。
同じ言葉が使われる位置。
誰が行動する側で、何がその対象なのか。
過去の出来事を話すときに変わる音や、否定するときに付く表現。何度も会話を聞き、自分でも使い、間違えて直される中で、知らないうちに蓄積されているものがある。
俺はこれまで、それを一つの規則として意識したことがなかった。
だが、《解析》が物の特徴を比較できるのなら。
言葉だって、同じように比較できるのではないか。
意識を向ける。
解析。
その瞬間、視界の端に見慣れた表示が浮かんだ。
【解析対象拡張】
対象:音声言語
蓄積音声情報:十分
基礎語彙照合:進行
音韻規則:部分推定
語順規則:部分推定
文法構造:解析開始
推定理解支援:使用可能
注意:
未登録語彙・専門語彙は推定精度低下
固有名詞判別:不安定
文字情報:対象外
俺は思わず瞬きをした。
新しい。
だが、完全に別の能力が突然生まれたようには感じなかった。これまで聞いてきた言葉、使われた状況、相手の反応、自分が間違えて訂正された経験。その蓄積を整理し、共通する規則として拾い始めた。
そう考える方が近い。
職員の説明は続いている。
俺は意識を戻し、もう一度その声を聞いた。
◇
「荷車には商人が二人乗っていた。護衛として探索者が三人同行している。予定なら翌日の夕方までには戻るはずだったが、三日経っても戻っていない」
「……え?」
思わず声が出た。
職員がこちらを見る。
リシェルも俺を見る。
だが、一番驚いていたのは俺自身だった。
今の説明が分かった。
すべての単語を知っていたわけではない。それでも知らない部分を前後から補い、文章全体として意味が繋がった。
以前なら、「荷車」「商人」「二人」「探索者」「三人」「戻らない」という断片を拾い、それを自分で組み合わせるしかなかった。今は、誰が何人いて、いつ戻る予定だったのか、それがどれだけ遅れているのかまで一続きの情報として頭へ入ってくる。
「レイジ?」
リシェルに名前を呼ばれる。
俺はすぐには答えず、自分の耳へ指を当ててから職員を見る。
「もう一回」
覚えている言葉で頼んだ。
発音はまだ不自然なはずだが、意味は通じた。
職員は少し怪訝そうな顔をしながらも、今度は別の説明を続ける。
「荷車が最後に確認されたのは、北西の分岐を越えた先だ。その周辺では、ここ数日で獣の目撃が急に増えている」
分岐。
越える。
周辺。
数日。
獣。
増える。
ほとんど理解できる。
「……分かる」
今度は現地の言葉で呟いた。
リシェルの目が僅かに大きくなる。
横にいたセイルも眉を上げた。
「急にどうした? 昨日までそこまで聞き取れてなかっただろ」
その言葉も、ほぼ意味が取れた。
細かな言い回しには曖昧なところがある。それでも、何を聞かれているのかは明確だった。
俺はセイルを見る。
「俺も……驚いてる」
言葉を選びながら返す。
今度は四人全員が黙って俺を見た。
◇
説明を止めるわけにもいかず、ガルドが職員へ続きを促した。
俺も再び耳を傾ける。
今度は意識して、《解析》の補助を受けながら聞いてみる。
奇妙な感覚だった。
現地の言葉が日本語へ置き換わって聞こえるわけではない。音そのものは以前と同じなのに、その一つ一つが文章の中でどんな役割を持っているのかが分かるようになっている。
誰が行動するのか。
何を対象にしているのか。
過去の話なのか、現在の話なのか。
否定なのか、条件なのか。
これまで何度も聞いてきた表現と照合され、意味が自然に繋がっていく。
職員が説明を続ける。
「今回の目的は、行方不明者の確認と街道周辺の危険の調査だ。原因が討伐可能な獣であれば排除して構わない。ただし、原因を特定できない場合や、こちらの想定を超える危険がある場合は戻って報告してほしい」
ほとんど理解できた。
「討伐可能」に当たる表現は知らなかったし、「想定」という言葉にも確信はない。それでも前後の意味から補うことができる。
以前とは明らかに違う。
ガルドが職員へ尋ねた。
「行方不明になった荷車は一台だけか?」
「確認できているのは一台だ。ただ、その前から同じ街道で獣に追われたという報告が三件ある。しかも、報告された獣の種類が一致していない」
そこが気になった。
ガルドも同じだったらしい。
「同じ獣じゃないのか?」
「違う。一件はガロウに似た小型獣。別の一件では大型の四足獣が目撃されている。最後の一件は群れに追われたらしいが、暗くて種類までは確認できなかったそうだ」
俺は地図へ目を落とした。
一種類の獣が増えたわけではない。
複数の種類が、同じ街道周辺へ現れている。
それなら。
「……何かから逃げてる?」
思わず日本語が出た。
オルドがこちらを見る。
「何だ?」
俺はすぐ現地の言葉へ直そうとする。
以前なら、逃げる、獣、多い、奥、原因、と単語を並べるしかなかっただろう。
今は、もっと形になる。
「獣が増えたんじゃなくて……奥から、こっちへ逃げてきてる可能性は?」
文法が完全に正しい自信はない。
それでも意味は伝わった。
オルドの表情が変わる。
「……あり得る」
ガルドも何も言わず、地図の北西側へ視線を落とした。
◇
協会を出ると、四人は当然のように俺を囲んだ。
最初に口を開いたのはセイルだった。
「何をした?」
以前なら、語気と状況から意味を推測していたかもしれない。
今は普通に分かる。
「何もしてない」
自分でも驚くほど早く返せた。
リシェルが眉を寄せる。
「じゃあ、どうして急に?」
「言葉が前より分かるようになった。全部じゃないけど、知ってる言葉から文章の意味まで分かる」
まだ片言だ。
使える語彙も少ない。
それでも、これだけ長い内容を誰かに助けてもらわず説明できたこと自体が大きな変化だった。
リシェルが少し考えてから聞く。
「ずっと勉強してたから?」
その質問も明確に理解できる。
俺は返答に少し迷った。
《解析》について、四人にはすべてを話していない。
今ここで、蓄積した音声情報から文法規則を推定したなどと説明することもできない。そもそも俺自身、仕組みを完全に理解しているわけではなかった。
「たぶん。ずっと聞いてたからだと思う」
嘘ではない。
むしろ原因の大半は、それだろう。
オルドが俺を見る。
「聞いていただけで、そこまで分かるようになるのか?」
当然の疑問だ。
俺は肩を竦めた。
「俺も分からない」
セイルが吹き出す。
「またそれか」
その言葉まで普通に理解できてしまい、俺も苦笑した。
◇
宿へ戻ったあと、俺は一人で《解析》の状態を確認した。
意識を集中する。
【言語構造解析】
対象:現地共通語
音声情報蓄積量:高
基礎語彙照合率:高
基本文法推定:進行
日常会話理解補助:使用可能
専門語彙:不足
地域語彙:不足
古語:情報不足
文字構造解析:初期
読解補助:限定的
推定精度は入力情報量に依存
やはり万能な翻訳能力が手に入ったわけではない。
俺がこれまで聞いてきた大量の言葉を材料に、《解析》が音や語順、文法の規則を推定している。初めて聞く別の言語を即座に理解することはできず、知らない概念や専門用語も当然分からない。
文字についてはさらに遅れている。
古い資料となればなおさらだ。
それでも、十分すぎる変化だった。
今まで一つずつ覚えてきた言葉が、ようやく文章として繋がり始めた。
俺は机の上に置いてある黒い金属片を見る。
記録所で見た一本角の図。
その周囲に書かれていた文章。
今すぐ自分で読めるようになったわけではないが、少し前より確実に近づいている。
そして、もう一つ気づいたことがあった。
俺は《解析》を、ずっと対象を調べるための能力だと思っていた。
だが、もしかすると違う。
情報を集め、比較し、共通するものを見つけ、そこから規則を導き出す。
それが、この能力の本質に近いのかもしれない。
もしそうなら、言葉だけで終わるとは限らない。
魔術。
魔法。
《魔核》。
この世界で起きるさまざまな現象。
十分な情報さえ集めれば、それらにも同じことができる可能性がある。
そこまで考えて、俺は一度思考を止めた。
まだ仮説にすぎない。
今は目の前の仕事へ集中するべきだった。
◇
翌朝、俺たちは北西方面の調査依頼を正式に受けた。
依頼そのものはガルドたちの組が受け、俺も同行する探索者として登録される形になったらしい。
受付で交わされる会話も、昨日までとはまるで違って聞こえた。
「今回は調査が優先です。獣を発見しても、無理に討伐する必要はありません。行方不明者が生きている可能性もありますから、荷車や装備を発見した場合は、できるだけ現場を荒らさず確認してください」
知らない単語はいくつかある。
それでも全体の意味は十分に取れる。
俺は受付の女性へ頷いた。
「分かりました」
現地の言葉で答える。
女性が一瞬こちらを見る。
昨日までなら、リシェルが説明し直すまで理解できていなかった俺が、そのまま返事をしたのだから驚くのも当然だろう。
発音はまだ不自然で、使う言葉も簡単なものばかりだ。
それでも、説明されるだけではなく。
会話ができる。
その違いは、思っていた以上に大きかった。
◇
リュネールを出たのは、朝の鐘が鳴って間もなくのことだった。
今回は五人で動く。
ガルドが先頭、その少し後ろにセイル。中央付近にリシェルとオルドが入り、俺は後方寄りを進んでいた。
グラウからラティアへ向かった頃と、並びだけならそれほど変わらない。
だが俺にとっては、まったく違う。
あの頃は、彼らが何を話しているのかほとんど分からなかった。「危険」「止まれ」「行く」といった最低限の言葉を拾うだけで精一杯だった。
今は、前を歩くセイルとガルドの会話まで理解できる。
「北西の分岐まで半日くらいか?」
「この速度なら、その少し手前で昼になる」
「じゃあ、問題の場所へ着くのは夕方か?」
「その前に途中の集落へ寄る。そこで話を聞いてからだ。状況によっては今日はそこまででもいい」
普通の会話だった。
それが分かる。
今までなら半分以上が意味のない音として流れていたものが、情報として頭へ入ってくる。
俺は歩きながら、自然と周囲の会話へ耳を向けた。
面白かった。
人が何を考えているのか、何を警戒しているのか、それとも冗談を言っているだけなのか。言葉が理解できるだけで、同じ相手を見ているはずなのに印象まで変わる。
世界が急に広がった。
というより。
今まで見えていなかった部分が、ようやく見え始めたのかもしれない。
◇
昼前には、リュネール周辺に広がっていた畑も少なくなった。
街道そのものは整備されているが、左右には林や草地が目立つようになる。
途中で短い休憩を取った。
セイルがパンを食べながら俺を見る。
「で、どこまで分かる?」
「何が?」
反射的に返した。
セイルの動きが止まる。
俺も一瞬遅れて、自分が何をしたのかに気づいた。
質問を聞き、意味を理解し、日本語へ置き換えるような意識もなく、そのまま返事が出た。
セイルがにやりと笑う。
「昨日までとは別人だな」
「俺もそう思う」
横にいたリシェルまで笑った。
言葉が分かるようになったせいで、今まで以上にセイルの面倒な性格まで理解できるようになった気がする。
そう思った瞬間。
「今、何か失礼なこと考えただろ」
「考えてない」
「返事まで早くなってるぞ」
俺は答えず、残りのパンを食べた。
少し離れたところで、ガルドまで笑っていた。
◇
午後になると、街道を通る人間が目に見えて減ってきた。
時折荷車とすれ違うものの、そのほとんどがリュネール方面へ向かっている。俺たちと同じように北西へ進む者はほとんどいない。
今回の異変が、人の流れにも影響し始めているのだろう。
しばらく進むと、小さな集落が見えてきた。
十数軒ほどの建物と畑があり、その外側を簡素な柵が囲っている。街道沿いには馬や荷車を止めるための場所も作られていた。
ガルドは集落へ入ると、近くにいた男へ声を掛けた。
依頼について説明する。
俺も横で聞く。
男は集落の住人らしい。
「三日前から北へ向かう商人はほとんどいない。戻ってきた連中が、林の近くで獣に追われたと話している」
内容は問題なく分かる。
ガルドが尋ねる。
「どんな獣だった?」
男は首を横へ振った。
「人によって話が違う。一人はガロウだと言っていたし、別の者は鹿より大きな黒い獣だったと言っている」
「群れを見た者は?」
「いる。ただ、同じ種類の群れじゃなかったという話だ」
また複数種だ。
同じ地域で。
同じ時期に。
俺は自分から尋ねてみた。
「獣は、この辺りにも来る?」
男の視線が一度だけ俺の一本角へ向いたが、すぐに質問へ答える。
「ここまではほとんど来ない。畑を荒らされることはあるが、それはいつものことだ」
俺は少し考える。
異常が起きている範囲は、この集落よりさらに北西なのだろう。
「じゃあ、北西からこっちへ逃げてくる獣は?」
最初の言い方では伝わりきらなかったらしく、男が眉を寄せた。
俺はもう一度言い直す。
「北西から来て、そのまま南へ逃げる獣」
今度は伝わった。
男はしばらく考えてから頷く。
「二日前に見た。森から小型の獣が何匹か飛び出してきて、そのまま街道を横切って南へ走っていった」
俺はガルドを見る。
ガルドも俺を見ていた。
オルドが低い声で言う。
「やっぱり、単純に数が増えたわけじゃないかもしれないな」
獣が集まっているのではなく、何かを避けて移動している。
その可能性が、少しずつ高くなってきた。
◇
集落を出たとき、日はまだ傾き始めたばかりだった。
ガルドはここで一泊することも考えたようだが、問題が起きている場所の手前までは確認しておきたいらしい。
もちろん、無理に進むつもりはない。
暗くなる前に戻れる範囲まで。
それだけだ。
再び街道を北西へ進む。
人の痕跡が少しずつ減っていく。
荷車の轍は残っているが、新しいものは明らかに少なかった。
しばらくして、ガルドが片手を上げる。
全員が同時に止まった。
少し先の街道脇に、何かが落ちている。
近づくと、それが壊れた車輪の一部だと分かった。
さらに先では荷車の轍が大きく乱れ、道の外へ向かって草が倒れている。
「荷車か」
セイルが呟く。
ガルドはすぐ周囲を確認した。
俺も視線を走らせる。
街道から外れた場所には、何かを引きずったような跡が残っていた。途中には折れた木片や破れた布、壊れた箱まで落ちている。
さらに進むと、横倒しになった荷車が見つかった。
◇
全員が武器を構えた。
周囲に動くものはない。
ガルドが先に進み、俺たちも互いに距離を空けながら続く。
血の匂いがした。
強くはない。
時間が経っている。
荷車の近くには乾きかけた血痕が残っていたが、人の姿はなく、死体も見当たらない。
ガルドが荷台を確認する。
中には布、乾燥した食料、金属製品などがかなり残されていた。少なくとも、価値のありそうな物がすべて持ち去られた形跡はない。
盗賊が金品を目的に襲ったようには見えなかった。
セイルが地面を指す。
「足跡が多い」
俺もしゃがんだ。
確かに多い。
しかも一種類ではない。
四足の跡がいくつも重なっており、ガロウに近い大きさのもの、それより遥かに大きいもの、さらに細い脚を持つらしい別の種類まで混じっている。
複数種の獣が、同じ場所を通っている。
最初は、ここで群れが荷車を襲ったのだと思った。
だが、足跡の向きを見ているうちに違和感が強くなる。
「……待って」
四人がこちらを見る。
俺は地面に残る跡を順番に指した。
荷車の周囲には確かに大量の足跡があるが、その大半が同じ方向へ向いている。
北西から南東。
リュネール側へ。
「襲いに来た跡じゃないかもしれない」
ガルドが眉を寄せる。
俺は言葉を選びながら説明した。
「獣は荷車へ来たんじゃなくて、向こうから走ってきた」
北西を指す。
「荷車が道にあった。そこへ獣が来た。たぶん……ぶつかったか、巻き込んだ」
断定はできない。
だが、複数種類の獣が荷車の周囲へ集まって人間を狙ったと考えるより、北西から大量の獣が移動する途中で荷車と衝突したと考える方が、足跡の向きには合う。
ガルドが俺の横へしゃがみ込み、地面を確認する。
セイルも別の場所を調べ始めた。
オルドは黙ったまま、北西側の林へ目を向ける。
リシェルが小さな声で言った。
「だったら……何から逃げてたの?」
その問いに答えられる者はいなかった。
◇
俺たちはさらに周囲を調べた。
血痕、壊れた荷車、獣の足跡、人間が移動した痕跡。行方不明者がどこへ行ったのかを確認するため、一つずつ拾っていく。
荷車から少し北西へ進んだ場所で、人間らしい足跡が見つかった。
一人ではない。
複数。
ただ、途中から地面が硬くなり、跡は急に分かりにくくなる。その近くでは草が倒れ、枝も何本か折れていた。
ガルドが一枚の布を拾う。
衣服の一部らしく、血が付いていた。
完全に黒く変色してはいない。
今回の行方不明と時期が一致する可能性は高い。
少なくとも何人かは、荷車から離れて林の方へ向かった。
自分で逃げたのか、何かに追われたのか、それとも別の理由があるのか。
今の情報だけでは判断できない。
オルドが空を確認してから言った。
「今日はここまでにした方がいい」
夕方が近い。
このまま正体の分からない林へ入れば、調査より危険の方が大きくなる。
ガルドもすぐ頷いた。
俺にも反対する理由はない。
依頼は行方不明者の確認と危険の調査だ。
暗くなる直前に、正体の分からない場所へ突っ込むことではない。
◇
戻ろうとした、そのときだった。
胸の奥に僅かな違和感が走った。
俺は足を止める。
《魔核》。
強い反応ではない。
黒い金属片へ初めて触れたときのような震えでもない。
それでも、何かが引っ掛かる。
「レイジ?」
リシェルに呼ばれる。
俺は北西へ目を向けた。
林の先に、見える範囲では何もない。
背負い袋へ手を伸ばし、黒い金属片を取り出す。
見た目に変化はなかった。
それでも《魔核》の奥にある微かな違和感は消えない。
俺は意識を周囲へ広げた。
解析。
【広域解析】
対象:周辺環境
生体反応:複数
通常魔力反応:散在
北西方向:
微弱な魔力偏差を検出
性質:判定不能
距離:特定不能
発生源:不明
既知情報との照合:
一致なし
微弱で、性質は不明。
黒い金属片との一致も出ていないし、《魔核》と関係しているとも表示されない。
だから、まだ何も繋げられない。
それでも、何もないわけでもなかった。
俺は北西を見たまま、ガルドへ伝える。
「向こう。魔力が……少し変だ」
以前なら、こんな説明をするだけでもかなり苦労したはずだ。
オルドがすぐに反応した。
「感じるのか?」
「少しだけ。何かは分からない」
今度は迷わず答えられた。
オルドも北西へ意識を向ける。
しばらくして首を横へ振った。
「俺には分からない」
ガルドは林の奥を見たあと、静かに言った。
「今日は戻る。明日の朝、ここから先を調べる」
誰も反対しなかった。
俺も黒い金属片を背負い袋へ戻す。
依頼で聞いていたのは、街道周辺で獣が増えているという話だった。
だが実際に見つかったのは、複数種類の獣が同じ方向から逃げるように移動した痕跡と、その途中で巻き込まれた可能性のある荷車だった。
さらに、その獣たちが来た北西には、正体の分からない微かな魔力の偏りがある。
黒い金属片と関係しているのか。
古い記録や一本角と繋がっているのか。
まだ何一つ分からない。
ただ、少なくとも今回、俺たちが探すべきものは見えてきた。
街道へ出てきた獣そのものではない。
その獣たちを、本来いた場所から追い出した何か。
明日は、その先へ進む。




