幕間1 森から来た男
宿の扉が閉まる音を聞いてから、リシェルは一度だけ振り返った。
当然、もうレイジの姿は見えない。入口から漏れる明かりが夜の通りを照らし、その上では先ほどまで本人が何度も見上げていた看板が、風を受けて僅かに揺れている。
「気になるなら、もう少しいてやればよかったんじゃないか?」
隣から聞こえた声に、リシェルは前を向いた。
セイルが笑っている。
「何の話?」
「分かってるだろ」
「分からない」
「そうか。ならいい」
明らかに分かっていないとは思っていない顔だった。
リシェルはそれ以上相手にせず、少し先を歩くガルドとオルドの後を追った。夜になってもリュネールの通りは完全には静まらず、帰宅を急ぐ者や、これから酒場へ向かうらしい者が行き交っている。
ここなら、レイジが一人になっても森で迷うようなことはない。
宿は取った。
食事も頼んだ。
金もある。
探索者としての登録まで済ませている。
少なくとも、今夜すぐ困るようなことはないはずだった。
そう考えているのに、頭のどこかに彼のことが残っている。
「しかし、あいつ。本当に自分で全部やろうとするんだな」
今度は前を向いたまま、セイルが言った。
「宿のこと?」
「それもある。少し前まで、こっちの言葉なんてほとんど分からなかった奴だぞ」
それにはリシェルも反論できなかった。
最初に会ったときのレイジは、自分の名前を伝えることさえ簡単ではなかった。こちらが何を言ってもほとんど理解できず、彼が使う言葉も当然こちらには分からない。
それが今では、簡単な単語なら聞き分け、自分から組み合わせて使おうとしている。宿でも途中で助けは必要だったが、泊まる日数を伝え、食事について聞かれていることまで理解しようとしていた。
「早いんだよな」
前を歩いていたオルドが言った。
セイルが少し歩調を速める。
「やっぱりそう思う?」
「ああ。最初は、聞いた言葉を覚えるのが得意なだけかと思っていた。だが、それだけじゃない」
オルドは少し考えるように間を置いた。
「言葉だけを聞いてるんじゃない。誰が、何を見ながら、どんな状況で使ったかまで一緒に見てる。同じような言葉でも使われ方が違えば、そこも比べてる」
「そこまで分かる?」
リシェルが尋ねると、オルドは振り返った。
「見ていればな。あいつは言葉を教わってるとき、相手の口だけを見てるわけじゃない。手も、目も、周囲にある物も見てる。意味が分からなくても、それで絞ろうとしてるんだろう」
言われてみれば、確かにそうだった。
レイジは教えられた音をただ繰り返すだけではない。前に覚えた言葉と比べ、違う部分があればそこへ意識を向ける。間違えれば訂正された理由を理解しようとし、同じ失敗を繰り返さないようにする。
「頭がいいんだろ」
ガルドが短く言った。
「それで済ませていい速さか?」
セイルが返す。
ガルドはすぐには答えなかった。
四人の中で、レイジを最も慎重に見続けているのはガルドだろうと、リシェルは思っていた。
グラウで最初に出会ったときもそうだった。助けられたからといって無条件に信用せず、それでも敵だと決めつけることもしなかった。ラティアまで同行すると決めてからも、レイジが何を見て、どう考え、何を隠しているのかをずっと確かめていた。
「速いのは確かだ」
しばらくしてガルドが言った。
「だが、覚えられること自体は悪いことじゃない。本人も必死なんだろ」
「相変わらずだな」
「何がだ」
「気にしてるくせに、気にしてないみたいに言うところ」
ガルドが振り返る。
セイルは何もなかったように前を向いた。
◇
しばらく歩いたところで、オルドが口を開いた。
「言葉より、今日のあれだ」
何のことか尋ねる者はいなかった。
探索者協会の訓練場。
魔力へ反応する結晶。
レイジが触れた直後に起きた現象を、全員が思い出していた。
「お前はどう見る?」
ガルドが尋ねる。
オルドは僅かに眉を寄せた。
「分からない」
魔術について四人の中で最も詳しいオルドがそう答えたことで、リシェルの中に残っていた小さな不安が少し重くなった。
「魔力を流せば光る。強ければ反応も大きくなる。それ自体は普通だ。だが、二度目は明らかに変だった」
リシェルも覚えている。
レイジは最初の測定で驚いたあと、二度目には明らかに慎重になっていた。言葉が完全に通じなくても、流す量を減らそうとしていたことくらいは見れば分かる。
それなのに、結晶は普通とは言い難い反応を示した。
「魔力を止めたあとも光ってたよね」
「ああ。長くはないが、反応が残った。少なくとも俺は、あんなものを見たことがない」
リシェルは少し迷ってから、もう一つ尋ねる。
「黒いのも?」
オルドの表情が僅かに険しくなった。
「見えた」
「俺も見たぞ」
セイルも続く。
ガルドは何も言わなかったが、否定もしない。
白く光る結晶の内部を、一瞬だけ黒い筋が走った。
最初は光の加減だと思えた。
だが、二度目にも似たものが現れ、しかも複数の人間がそれを見ている。二度とも偶然だったと片づけるには、少し無理がある。
「結晶の方がおかしかった可能性は?」
セイルが尋ねた。
「だから俺たちでも試しただろう」
オルドが答える。
「壊れてはいない。他の者には普通に反応した」
「じゃあ、やっぱりレイジがおかしい」
「言い方」
リシェルが睨む。
セイルは肩を竦めた。
「でも、そういうことだろ?」
言葉の選び方はともかく、否定はできない。
オルドが少し声を落とした。
「正確には、レイジの魔力が普通とは違う可能性がある、だ。単純に量が多いのか、性質が違うのか、それとも別の理由なのかは分からない」
「本人は?」
「分かってないだろうな」
そこはリシェルも同じ意見だった。
結晶が強く光った瞬間、誰より驚いていたのはレイジ本人だった。
少なくとも、自分の魔力がああいう反応を起こすと知っていたようには見えない。
◇
「それより、あの人」
リシェルが言った。
ガルドが顔を向ける。
「角を見てた」
測定が終わったあと、登録を担当していた灰色の髪の男は何度かレイジを確認していた。
その視線が、明らかに一本角へ向いた瞬間がある。
「気づいてたか」
「気づくよ」
「俺も見た」
セイルが言い、オルドも黙って頷いた。
しばらく誰も続きを口にしなかった。
レイジの一本角。
出会ったときから、ずっとそこにある。
ラティアでも何度も見られていたし、リュネールへ来てからは視線を向けられる回数がさらに増えた。
角を持つ者そのものは珍しくない。
二本角であれば、リュネールでも普通に見かける。
一本だけ。
そこが違う。
そして単に珍しいものを見るだけでは説明できない反応を示す者がいることも、リシェルは知っていた。
「古い話を知ってる人ほど、気にするよね」
リシェルが言うと、セイルの表情から笑みが消えた。
「俺たちだって最初は気にしただろ」
「そうだけど」
「だからって、昔話を全部本気にするのか?」
「そんなこと言ってない」
少し強く返してしまった。
一本角について語られる話はいくつかある。
だが、どれも古い。
しかも内容が一致していない。
災いの前触れのように語る話もあれば、まったく別の意味を持たせた話もある。地方によって内容が変わることさえあり、何が元になった話で、どこからが後世の作り話なのか、リシェルには判断できなかった。
だから、レイジへ詳しく話していない。
本人が何度も角について尋ねようとしていることには気づいている。
それでも、確かではない話を事実のように伝える方が危険だと思っていた。
「協会の記録には残った」
オルドが言う。
リシェルは無意識に眉を寄せた。
「大丈夫かな」
「何がだ」
ガルドが尋ねる。
「変に広まったりしない?」
「今すぐはない」
ガルドは迷わず答えた。
「見たのは登録担当と試験官、それに俺たちだ。あの人も、判断できないことを言いふらすような人間じゃない」
「知ってるの?」
「何度か世話になってる」
それなら少し安心できる。
ただ、いつまでも同じとは限らない。
探索者として活動すれば、レイジはこれから多くの人間と関わる。
一本角は隠せない。
魔力の異常も、別の場所で再び表へ出る可能性がある。
何より本人が、自分について知ろうとしている。
止める理由はない。
むしろ当然だ。
だからいつか、何かには辿り着くだろう。
それが本人にとって望んだ答えなのかは、まだ誰にも分からなかった。
◇
「戦いの方も変だったよな」
少し重くなった空気を変えるように、セイルが言った。
「最初は完全に振り回されてたのに、途中から急に合わせ始めた」
「あれは私も思った」
リシェルは素直に頷いた。
試験が始まった直後のレイジは、明らかに人間との戦いへ慣れていなかった。槍の扱いも洗練されているとは言い難く、相手の誘いに乗せられ、簡単に間合いを潰されていた。
それが途中から変わった。
一度見た動きを次には警戒し、それまで後ろへ下がるしかなかった場面で槍の持ち方を変え、柄の後ろまで使って距離を作った。
「誰かに習った動きには見えなかった」
ガルドが言う。
「俺もそう思う」
セイルがすぐ答える。
「上手いやつの動きじゃないんだよな。でも、一度通じたことが次には通じなくなる。ああいう相手は戦ってる方からすると嫌だ」
「それ、褒めてるの?」
「かなり」
セイルは笑った。
オルドが静かに言う。
「言葉を覚えるときと似てるな」
リシェルは一瞬、意味を考えた。
そして納得する。
見る。
試す。
失敗する。
何が悪かったか考える。
次は少し変える。
もう一度試す。
レイジは、それを何に対しても繰り返している。
「グラウでも、そうやって生きてたのかな」
リシェルが何気なく口にすると、三人が少し黙った。
レイジがグラウの奥で一人だったことは知っている。
どれくらいの期間、どうやって生きていたのかはまだ分からない。
あの森で。
言葉も通じる相手がいないまま。
一人で食料を得て、火を使い、武器まで作った。
改めて考えると、それ自体がかなり異常だった。
「たぶんな」
ガルドが答えた。
それ以上は誰も言わなかった。
◇
通りの分かれ道まで来たところで、四人は足を止めた。
ここから先は、それぞれ帰る方向が違う。
セイルが両腕を上げ、大きく伸びをした。
「明日はどうする?」
「朝、宿へ行く」
ガルドが答える。
「それから協会で、受けられそうな依頼を見せる」
「最初は採取か?」
「そのつもりだ」
セイルが少しだけ残念そうな顔をした。
「戦わせないの?」
「今日登録したばかりだぞ」
「戦えるのは分かっただろ」
「戦えることと、仕事を任せられることは別だ」
ガルドの返事に、セイルは少し考えてから肩を竦めた。
リシェルも同意だった。
探索者の仕事は、敵を倒せれば終わりというものではない。依頼の内容を理解し、目的の場所へ行き、必要なものを見つけ、無理なら退き、無事に帰ってくる。
今のレイジには、まずこの世界で仕事をするということ自体を覚える必要がある。
それ以前に。
依頼書を読めない。
「文字も教えるんだろ?」
セイルがリシェルを見る。
「そのつもりだけど」
「大変だな」
「何が?」
「いや、別に」
また笑っている。
リシェルはため息をついた。
「本人が覚えたいって言ってるんだから、教えるだけでしょ」
「はいはい」
「何、その言い方」
「別に?」
横を見ると、オルドまで僅かに笑っていた。
「何なの?」
誰も答えない。
少し腹が立つ。
本当に少しだけ。
◇
セイルとオルドがそれぞれの道へ消え、最後に残ったのはリシェルとガルドだった。
しばらく二人で歩く。
夜の空気が少し冷たい。
さっきまで四人で話していたせいか、急に周囲が静かになったように感じられた。
「気に掛けるのは構わない」
不意にガルドが言った。
リシェルは横を見る。
「何の話?」
「レイジだ」
またその話か、と返そうとしてやめた。
ガルドの表情が真面目だった。
「ただ、あいつは子供じゃない」
「分かってるよ」
「ならいい」
それだけだった。
いつものガルドらしい。
少し歩いてから、今度はリシェルの方が尋ねた。
「ガルドは、まだ警戒してる?」
答えはすぐには返ってこなかった。
「してる」
やがてガルドが言う。
「そうなんだ」
「当たり前だ。分からないことが多すぎる」
「じゃあ、なんで探索者になるのを止めなかったの?」
「止める理由がない」
ガルドは前を向いたまま答えた。
「あいつが何者なのか分からなくても、自分で生きようとしてることまで否定する理由にはならない。俺たちが決めることでもない」
リシェルは黙った。
妙に納得できた。
同時に、少しだけ嬉しくなった。
なぜ自分が嬉しいのかまでは、今は考えないことにした。
◇
ガルドと別れ、自分の家へ続く道へ入る前。
リシェルは一度だけ、宿のある方角を振り返った。
建物そのものはもう見えない。
それでも、あの部屋でレイジが何をしているのかは何となく想像できた。
たぶん、もう寝てはいない。
借りていった木片を机へ置き、今日教えた文字を何度も確かめているのだろう。
一度で覚えられなければ二度。
二度で駄目なら三度。
分からなければ、前に見たものと比べる。
最初は、ただの正体不明の男だった。
言葉が通じない。
どこから来たのか分からない。
一本角。
見慣れない服。
粗末な槍。
そして、グラウの奥で一人。
警戒する理由なら、いくらでもあった。
それでも一緒にいるうちに、別のことも分かってきた。
助けられることを当然だとは思っていない。
できることがあれば、自分でやろうとする。
金が必要なら働く。
言葉が分からなければ覚えようとする。
知らないことを、分かったふりもしない。
変な男だ。
かなり。
それでも。
嫌いではない。
そこまでなら、もう認めてもいい気がした。
明日になれば、また会う。
きっと今日より少しだけ多くの言葉が通じるようになっている。
そう考えると、リシェルは自分でも気づかないうちに少しだけ笑っていた。
森から来た男が何者なのか。
それはまだ分からない。
けれど少なくとも、リシェルにとって彼はもう、ただの「正体不明の男」ではなくなっていた。




