第33話 自分の部屋
探索者協会を出たあと、俺たちは再びリュネールの通りを歩いていた。
腰には、ついさっき受け取ったばかりの金属板がある。歩くたびに服へ軽く触れる感触があり、そのたびに自分が探索者として登録されたことを思い出した。
もっとも、探索者という立場について理解していることはまだ少ない。依頼を受けて町の外へ出ること、獣や魔物の素材を持ち帰れば金になること、登録したばかりの俺が受けられる仕事には何らかの制限があるらしいこと。その程度なら分かってきたが、細かな規則や登録区分についてはほとんど理解できていない。
それでも、何も持っていなかった頃と比べれば大きな違いだった。
腰の板へ指を当てる。
そこには、この世界の文字で俺の名前が刻まれている。文字を完全には読めない俺でも、自分の名前だけはもう見分けられるようになっていた。
前を歩いていたリシェルが振り返り、何かを言った。聞き覚えのある単語がいくつか含まれており、寝ることを示す言葉も拾える。
俺が寝る仕草をしてみせると、リシェルが頷いた。
宿の話らしい。
「ようやくベッドか」
二晩続けて地面で眠った身体にはありがたい。
ただ、今度は自分で払うつもりだった。
腰の袋にはラティアで働いて得た硬貨が残っているうえ、先ほどガルドから受け取った分け前も加わっている。リュネールの宿代がどの程度なのかはまだ分からないが、少なくとも町へ入った直後より余裕はある。
誰かに泊めてもらうのではなく、自分で稼いだ金を使って、自分が眠る場所を確保する。
地球にいた頃なら意識することさえなかっただろう。
今は、その当たり前が妙に重要に感じられた。
◇
大通りから何本か細い道へ入ると、人通りが少し落ち着いてきた。
それでもラティアの中心部よりは賑やかで、一階を店として使っている建物が何軒も並んでいる。食べ物を売る店、布を扱う店、金属製の道具を並べた店など、商品そのものを見れば俺にも用途を推測できる場所は多かった。
一方で、何を扱っているのかまったく分からない店もある。
文字が読めれば、看板からある程度判断できるのだろう。
町へ入ってから、同じ問題へ何度も突き当たっている。
やはり文字だ。
言葉も必要だが、これだけ大きな町で自分から情報を探すなら、読む力は想像していた以上に重要になる。
そんなことを考えているうちに、リシェルたちは一軒の建物の前で立ち止まった。
三階建てで、一階部分は石造り。その上は木材と白っぽい壁を組み合わせた造りになっている。入口の上には大きな看板が吊られており、読めない文字の横には麦の穂らしきものと、寝台に見える絵が描かれていた。
おそらく宿だ。
文字を読めない旅人でも用途が分かるようにしているのかもしれない。
「これは助かるな」
俺が看板を眺めている間に、ガルドは扉を開けて中へ入っていった。
中はラティアで泊まった宿より少し広い。入口の正面には受付らしい台があり、その向こうには五十歳前後に見える女性が立っていた。壁際にはいくつか机が並び、時間が早いせいか人数は少ないものの、食事をしている客もいる。
女主人らしい女性はガルドを見ると表情を緩め、何か声を掛けた。
ガルドも自然に返す。
セイルまで軽く手を上げているところを見ると、以前から利用している宿なのだろう。
やがて女性の視線が俺へ向かった。
顔から服、手にしている槍へ移り、最後に右側頭部の一本角で僅かに止まる。ただ、それ以上の反応はなく、すぐガルドへ何かを尋ねた。
ガルドが答え、その途中で俺の名前が聞こえた。
「レイジ」
続いてリシェルも会話へ加わる。
俺はしばらく黙って聞いていたが、途中で少し引っかかった。
俺が泊まるための話なのに、結局また全部を彼らへ任せようとしている。
それでは、いつまで経っても同じだ。
「リシェル」
俺が名前を呼ぶと、彼女がこちらを向いた。
自分を指す。
次に宿の女性。
腰の袋から硬貨を取り出す。
もう一度、自分。
できる範囲で自分でやる。
そこまで伝わればいい。
リシェルは少し意外そうな顔をしたあと、すぐに頷いた。
女性もこちらを見る。
さて。
どこまで通じる。
覚えた言葉は増えてきた。数字も完全ではないが、簡単なものなら分かる。寝ることを示す言葉も聞いたことがある。
俺は自分を指した。
「レイジ」
女性が頷く。
次に指を一本立て、自分を示してから寝る仕草をした。
一人。
泊まる。
部屋を示す単語までは知らない。
女性は少し考えたあと、何かを言いながら同じように指を一本立てた。
一人なのか、一部屋なのか、一泊なのか。
そこまでは判断できない。
リシェルが横から短く一言だけ補足した。
聞き取れたのは、寝ることを示す言葉と数字だった。
一泊。
おそらく、その確認だ。
俺は少し考え、指を三本立てた。
「三」
覚えた発音で口にする。
女性の眉が僅かに上がり、今度は別のことを尋ねてきた。
聞き覚えのある音があった。
食べる。
朝。
もう一つは、おそらく夜。
宿泊に食事を付けるかどうかを聞いているのだろう。
俺は朝と夜を示されたところで、それぞれ頷いた。
すると女性が数字を口にする。
金額らしい。
一度では聞き取れなかったため、俺が首を傾げると、女性は少し考え、手元から何枚か硬貨を取り出して台へ並べてくれた。
これは分かりやすい。
俺も腰の袋を開き、同じ種類の硬貨を必要な枚数だけ取り出した。
足りる。
しかも全部なくなるわけではない。
台へ置く。
女性が数える。
そして頷いた。
成立したらしい。
俺は横にいるリシェルを見る。
彼女も小さく笑って頷いた。
「……できたな」
途中で助けてもらった。
まだ一人で完結したわけではない。
それでも、ラティアへ初めて入った頃の俺なら、何を聞かれているか一つも理解できなかった。今は自分で金を出し、数字を使い、何日泊まりたいのかを伝えられた。
大した進歩ではないのかもしれない。
だが、こういう小さなことの積み重ねが、今の俺には必要だった。
◇
女主人から渡された鍵を持って二階へ上がった。
リシェルがついてきて、廊下の奥から三番目の扉を指す。鍵に付けられた木片と扉には同じ印が刻まれており、文字か数字かは分からないが、部屋を識別するためのものらしい。
鍵を差し込み、少し力を入れて回す。
扉が開いた。
部屋は広くない。
寝台、小さな机と椅子、荷物を置くためらしい木箱。壁には小さな窓があり、そこから下の通りを見ることができる。
必要なものはそれだけだった。
「十分だな」
雨も風も防げる。
地面ではなく寝台で眠れる。
扉には鍵まで掛かる。
森で一人暮らしていた頃を考えれば、十分すぎるくらいだった。
俺は荷物を木箱の上へ置き、槍を壁際へ立て掛けた。それから寝台を片手で押してみる。
少し硬い。
だが、地面とは比べものにならない。
入口に立っていたリシェルが、そんな俺を見ている。
俺は腰の袋を指し、次に自分、最後に部屋を示した。
自分で払った。
そう伝えたかった。
意図は理解されたらしく、リシェルが何か短く答える。
聞いたことのある音だった。
良い。
あるいは、よくできた。
その程度の意味だろうか。
「子供扱いされてる気もするけどな」
日本語で返すと、当然リシェルは首を傾げた。
俺は少し笑った。
不思議と嫌ではなかった。
◇
荷物を置いたあと一階へ戻ると、ガルドたちは机の一つを囲んで座っていた。
俺とリシェルも加わる。
少し早い時間だったが、しばらくすると食事が運ばれてきた。肉と野菜を煮込んだものに、黒っぽいパン、温かい汁物まである。
森で肉を焼くだけだった生活を思えば、十分すぎる。
俺は食べながら、周囲の会話へ耳を向けた。
すべてを理解しようとはしない。
知っている言葉だけを拾う。
食べる。
水。
明日。
行く。
仕事。
一つ一つなら分かるものが増えている。
以前は単語を一つ聞き取れても、その前後がすべて意味不明だった。今は誰が何をしているのか、どこにいるのかという状況そのものが手掛かりになるため、分からない言葉が混じっていても全体の意味を推測できることがある。
食事の途中、ガルドが俺を指した。
続いて腰の金属板。
それから探索者協会の方向らしき場所を示し、最後に明日を意味するらしい言葉を使う。
「明日……協会?」
俺も現地の単語を混ぜながら確認すると、ガルドが頷いた。
明日、探索者協会へ行く。
そこまでは合っている。
続いて彼は、壁へ何かが貼られているような仕草をした。
依頼の紙。
仕事。
俺は金属板を指し、働く仕草をする。
「仕事?」
ガルドがもう一度頷いた。
どうやら明日は、俺が受けられる仕事を一緒に見てくれるらしい。
ありがたい。
だが、その前に俺がやりたいことがあった。
「リシェル」
彼女が顔を上げる。
俺は机の上を指先でなぞり、文字を書く仕草をした。そのあと自分の目を示し、もう一度文字を書く。
読む。
書く。
覚えたい。
最後にリシェルと自分を順番に指した。
教えてほしい。
彼女はしばらく俺の動きを見ていたが、やがて意味を理解したらしく、小さく声を上げた。
自分の荷物から木板を取り出し、指で空中へ文字を書く。
次に俺を指す。
俺も頷いた。
伝わった。
「頼む」
そこでセイルが横から何かを言った。
リシェルが返す。
セイルが笑う。
嫌な予感がする。
案の定、奴は俺を指し、空中へ何かを書く真似をしたあと、わざとらしく首を傾げた。
たぶん、俺が文字を読めないことをからかっている。
「お前は本当に分かりやすいな」
日本語で返すと、意味も分からないのにセイルはさらに笑った。
ガルドまで口元を僅かに緩めている。
俺も苦笑する。
この程度なら、悪くなかった。
◇
食事を終えると、リシェルはそのまま木板を机の中央へ置いた。
最初に簡単な文字を一つ書き、指で示してから音を発する。俺も同じ形を指でなぞり、発音を真似した。
違うらしい。
すぐに言い直される。
もう一度。
今度は頷かれた。
次の文字へ進む。
一度に大量に覚えようとはしなかった。
形。
音。
似ている文字との差。
数個だけでも確実に覚えた方がいい。
この世界の文字体系がどうなっているのかはまだ分からない。地球のアルファベットのように音を組み合わせて単語を作るのか、一つの文字そのものが意味を持つ場合があるのか、それとも別の仕組みなのか。
ただ、リシェルが文字を一つずつ示しながら一定の音を教えてくるところを見る限り、少なくとも音と文字の間には何らかの対応がある。
俺は木板の文字を眺め、頭の中へ形と音を結びつけていった。
しばらくすると、リシェルが別のものを指す。
俺の腰にある探索者の金属板だった。
外して渡すと、彼女はそこに刻まれた俺の名前を示す。
これはもう分かる。
続いて、その下にある一つの記号を指した。
木板へ同じものを書く。
俺は二つを見比べる。
どこかで見た。
少し考えてから、探索者協会の掲示板を思い出した。
端の一角に貼られていた依頼の紙。
似た印が付いていたような気がする。
俺は紙を壁へ貼る仕草をし、続けて木板の印を指した。
リシェルが頷く。
やはり関係がある。
今の俺が受けられる仕事を示すものなのか、探索者としての区分を示す印なのか、そこまではまだ分からない。
彼女がその印を指して一つの音を教える。
俺も真似する。
一度目は違う。
二度目も少し修正される。
三度目でようやく頷かれた。
文字を一つ覚えただけで、探索者協会で見たものの意味が少し増えた。
言葉。
文字。
探索者の仕組み。
別々だった情報が、少しずつ繋がり始めている。
それが面白かった。
何も知らないから、何も分からないのではない。
知っていることが増えたからこそ、どこが分からないのかまで見えるようになってきた。
◇
文字の練習を続けているうちに、窓の外はすっかり暗くなっていた。
ガルドが立ち上がる。
セイルとオルドも荷物を持ち、リシェルも木板を片づけ始めた。
ここへ泊まるわけではないらしい。
考えてみれば当然だった。
彼らには彼らの生活がある。
リュネールへ帰ってきた以上、俺につきっきりでいる必要などない。むしろ、ここまで世話をしてもらったことの方が特別なのだろう。
それでも、四人が帰ろうとしているのを見た瞬間、胸の奥に少しだけ妙な感覚が生まれた。
グラウで出会ってから、ラティア、街道、リュネールと、ずっと一緒にいた。
今夜はここで一人になる。
森にいた頃も一人だった。
むしろ、一人でいることには慣れているつもりだった。
だが、あの頃とは違う。
一人しかいなかったから一人でいることと、一緒にいる相手ができたあとで一人になることは、同じではないらしい。
寂しい。
おそらく、それに近い。
自分がそんな感情を持ったことに、少しだけ驚いた。
ガルドが俺を見る。
窓の外を指し、太陽が昇るような仕草をする。
朝。
続いて探索者協会の方向。
明日の朝に迎えに来る。
あるいは、協会で会う。
細かいところまでは分からない。
俺は頷き、覚えた肯定の言葉を返した。
セイルが片手を上げ、オルドも何か短く言う。
最後にリシェルが、片づけた木板を指してから俺を示した。
明日も続き。
たぶん、そういう意味だ。
俺は笑った。
「頼むよ」
意味そのものは通じなくても、返事をしたことは伝わったらしい。
四人が宿を出る。
扉が閉まった。
俺はしばらく、その扉を眺めていた。
それから小さく息を吐く。
今夜から、ここが俺の部屋だった。
◇
二階へ戻り、扉に鍵を掛けた。
一人になった部屋で、机の上へ持ち物を並べていく。
残っている硬貨。
大顎から作った簡易ナイフ。
探索者の金属板。
そして、さっきリシェルから教えられた文字を練習するために借りた、小さな木片。
これが今の俺の財産だった。
多いとは言えない。
それでも、冷たい石床の上で目を覚ましたときには、本当に何も持っていなかった。
服。
身体。
一本角。
それだけだった。
そこから食料を探し、水を確保し、武器を作った。森を出て人と出会い、少しずつ言葉を覚え、自分で働いて初めて金を得た。
今では、自分で金を払った部屋にいる。
腰には探索者としての証明まである。
俺は椅子へ座り、金属板を手に取った。
まだ読めない文字の方が圧倒的に多い。
試験で自分がどう評価されたのかも分からないし、あの魔力測定の異常が記録されているのかどうかさえ確認できない。
だから覚える。
言葉を話し、文字を読む。
探索者として仕事をし、自分の生活を維持できるだけの金を得る。
そのうえで、一本角と《魔核》について調べる。
黒い光の意味も知りたい。
そして、いつかはあの地下遺跡へ戻る。
やることを並べれば多い。
だが、全部を同時に片づける必要はない。
順番に進めればいい。
俺は木片を机へ置き、今日覚えた文字を指でゆっくりなぞった。
一度。
もう一度。
形と音を頭の中で合わせる。
窓の外からは、まだ人の声が聞こえていた。ラティアなら静かになっていたような時間でも、リュネールという町は完全には眠らないらしい。
知らない人間がいる。
知らない種族がいる。
知らない仕事があり、知らない知識がある。
そのどこかに、俺が探している答えもあるのだろう。
すぐに見つかるとは思っていない。
誰かが都合よく全部教えてくれるとも考えていない。
なら、自分で探せばいい。
俺は探索者の金属板を机へ戻し、もう一度木片へ目を落とした。
明日は探索者として初めて、自分が受ける依頼を選ぶことになる。
そのためにも今夜は、あと少しだけ文字を覚えてから眠ることにした。




