第32話 測れないもの
結晶の光が元の淡さへ戻ってからも、すぐに誰かが口を開くことはなかった。
灰色の髪の男は俺ではなく、石台の上に置かれた結晶を見つめている。試験役の男も同じ場所へ視線を固定し、さっきまで俺が木剣を食らったことを楽しそうに笑っていたセイルからも、その表情が消えていた。
俺自身も、何が起きたのか分かっていない。
流した魔力は多くなかった。少なくとも俺の感覚ではかなり抑えたつもりだったのに、結晶は灰色の髪の男が触れたときとは比較にならないほど強く発光した。
さらに気になるのは、白い光の中へ一瞬だけ混じった黒い筋だ。急激に明るくなったせいで、結晶内部の影がそう見えただけかもしれない。《魔核》や一本角との関係も頭には浮かぶが、現時点で結びつけられる根拠は何もなかった。
だからこそ、周囲の反応が気になる。
特に灰色の髪の男は、結晶を確認したあと俺の手を見て、最後に右側頭部の一本角へ視線を向けていた。何かを知っているのか、それとも正体の分からない異常が起きたから、俺の特徴を改めて確認しただけなのか。それすら判断できない。
しばらくして、男がようやく口を開いた。
試験役の男へ短く何かを告げ、二人の間で数回言葉が交わされる。そのあと試験役の男が石台の前へ進んだため、俺は場所を空けるように横へ退いた。
男が結晶へ手を置く。
数秒すると、内部の淡い光が少しだけ強くなった。
灰色の髪の男が最初に見せたものと、ほとんど変わらない反応だった。手を離せば光量も徐々に落ち、やがて最初の状態へ戻っていく。
次に呼ばれたのはオルドだった。
「オルド?」
俺が名前を口にすると、彼はこちらへ一度だけ目を向け、そのまま杖を壁際へ立て掛けて石台の前に立った。手を置いて魔力を流すと、結晶は先ほどの二人より少し強く光ったが、それでも俺のときのように全体が白く染まることはない。
灰色の髪の男はその反応を見届けると、結晶へ顔を近づけた。表面へ指を滑らせ、角度を変えながら内部まで確認している。
壊れてはいない。
少なくとも、その確認をしているように見えた。
他の人間なら普通に反応する。
だとすれば、問題は結晶ではなく俺の側にある可能性が高くなる。
その結論は、あまり嬉しいものではなかった。
◇
予想した通り、灰色の髪の男は俺を手招きした。
再確認するつもりらしい。
俺は石台の前へ戻りながら、自分の指先を見る。同じ量を流せば、同じ反応が出るかもしれない。それなら今度は、さっきよりさらに減らしてみればいい。
そもそも、俺が「少量」だと思っている基準自体が、この世界の人間とは大きく違っている可能性もある。
灰色の髪の男も俺へ何かを言いながら、親指と人差し指の間を僅かに開いてみせた。
少し。
おそらく、その意味だろう。
俺は頷き、結晶へ手を置いた。
表面の冷たさは変わらない。すぐには魔力を流さず、一度呼吸を整えて胸の奥へ意識を向ける。《魔核》はいつもと変わらず、そこに存在している感覚だけがあった。
今度は本当に僅かでいい。
さっきよりさらに少なく、自分でも動かしたことを辛うじて感じ取れる程度。《魔核》から指先へ、ごく細く流す。
結晶内部の一本の筋が淡く光った。
そこで止めた。
「……?」
俺は目を細める。
魔力はもう流していない。
それなのに、最初に光った筋がすぐには消えなかった。
淡い光は結晶の内部をゆっくりと移動し、近くにある別の筋へ伝わるように広がっていく。やがて全体の光量まで少しずつ増し、白く染まるほどではないものの、灰色の髪の男が触れたときより明らかに強い状態まで達した。
男の眉が寄る。
俺も同じことを考えていた。
流した量は、最初より明らかに減らした。
それなのに反応は、投入した量に比例して小さくなったようには見えない。
先ほど《解析》したとき、結晶には外部から入力された魔力と発光量の間に相関があると出ていた。ただし、それは得られた情報から推定した結果にすぎず、この結晶が単純な魔力量だけを測っていると確定したわけではない。
俺の魔力だけ、何か別の条件で反応しているのか。
そう考えた瞬間、結晶の中心付近を何かが走った。
黒。
ほんの一瞬だった。
髪の毛ほどの細さで白い光の中へ現れ、そのまま消える。
今度は見間違いではない。
俺の視線だけではなく、隣にいた灰色の髪の男も同じ位置を見ていた。試験役の男も黙り込み、少し離れていたリシェルが僅かに息を呑む音まで聞こえた。
俺一人の錯覚ではなかった。
その事実だけで、さっきより状況が悪くなったような気がした。
◇
灰色の髪の男は、すぐに俺へ質問しなかった。
代わりに結晶の横に置いてあった小さな板を取り、何かを書き始める。いくつかの文字と数字らしきものを書いたあと、一度だけ手を止めて俺を見る。
続いて一本角。
それから、また板へ視線を戻した。
「……また角か」
日本語で呟く。
なぜ魔力の異常を確認したあとに角を見るのか。
一本角と魔力に何か関係があると考えたくなるが、まだ断定するには早い。そもそも、彼ら自身もこの反応を予想していたようには見えなかった。
もし一本角を持つ者なら必ず同じ現象が起きると知っていたなら、最初の測定からもっと違う対応をしていたはずだ。
少なくとも今回の反応が、彼らにとっても普通ではないことだけは考えてよさそうだった。
灰色の髪の男がオルドへ何かを尋ねる。
オルドは俺を見たあと、自分の胸から手先へ何かを送るような仕草をした。
魔力をどの程度流したのか。
そう聞かれているのだろうか。
俺は胸を指し、次に指先へ向かって手を動かす。さらに親指と人差し指の間をほんの少しだけ開け、流した量が僅かだったことを示した。
「少ししか流してない。本当に」
日本語では意味が通じない。
それでも仕草は伝わったらしく、オルドの表情が僅かに変わった。彼は俺へ何かを確認するように言い、もう一度同じ仕草をする。
俺が頷くと、オルドは灰色の髪の男へ顔を向け、少し早口で何かを話し始めた。途中から試験役の男も会話へ加わり、リシェルまで何度か言葉を挟む。
俺だけが内容を理解できない。
今までにも何度もあったことだ。
ただ、今回はこれまで以上にもどかしかった。
彼らが話しているのは、俺自身のことなのだから。
◇
しばらく話し合ったあと、灰色の髪の男は結晶へ布を掛けた。
これ以上は測らないらしい。
別の測定器を持ってくるか、条件を変えて何度も試すことも考えたが、原因が分からない状態で繰り返すことに意味があるとも限らない。結晶が壊れていないことは確認できたし、他の人間では普通に反応する。そして、俺だけが同じ条件で異なる反応を示した。
現時点で確認できることは、その程度なのだろう。
灰色の髪の男は、さっき記録していた板と俺が記入した登録用らしい紙を見比べたあと、何かを書き足した。
何を書かれているのか非常に気になる。
自分についての記録なのに、その内容を読めないことが急に腹立たしく感じた。今までも言葉が分からないことで何度も不便を感じてきたが、これほど文字を読みたいと思ったことはない。
一本角。
魔力反応。
黒い光。
どこまで記録されたのかは分からない。
読めるようになったら必ず確認する。
また一つ、文字を覚える理由が増えた。
隣へ来たリシェルが俺の顔を覗き込み、何かを尋ねる。
俺は自分の胸へ手を当てたあと、首を横へ振った。
身体に異常はない。
頭痛もなく、《魔核》も普段と変わらない。特に何かを消耗した感覚もなかった。
俺の様子をしばらく確認していたリシェルも、それが伝わったのか少しだけ表情を緩める。
少なくとも、すぐに身体へ問題が出るようなものではないらしい。
それだけは安心してよさそうだった。
◇
建物の中へ戻ると、探索者協会は何事もなかったように動き続けていた。
壁に貼られた紙を読む者、受付で職員と話す者、素材を持ち込む者。訓練場で俺の結晶だけが妙な反応を示したところで、この場所全体が止まるわけではない。
そのことが少しありがたかった。
誰も俺の周囲へ集まってこないし、大騒ぎにもなっていない。少なくとも今のところ、あの場にいた人間以外には知られていないようだった。
灰色の髪の男は元の台へ戻ると、登録用の紙をもう一度確認した。そのあと台の下へ手を伸ばし、先ほど見せられたものと同じ形の金属板を取り出す。
手のひらに収まる程度の大きさで、端には小さな穴が一つ開いている。表面には文字といくつかの記号が刻まれていた。
男が俺を指す。
「レイジ」
続けて金属板。
もう一度、俺。
今度は意味を推測する必要もなかった。
俺のものだ。
差し出された板を受け取る。
見た目より少し重い。
鉄に似ているが色味が違い、何の金属なのかは分からなかった。
表面へ目を落とすと、いくつか並んだ文字の中に知っている形がある。
俺の名前。
玲司。
リシェルに教えてもらい、自分でも何度も練習した文字列だった。
自分の名前が刻まれている。
それだけなのに、少し妙な感覚があった。
冷たい石床の上で目を覚ましたとき、この世界で俺の存在を証明するものなど何一つなかった。自分が誰なのか説明する言葉すら持たず、人と会っても名前を伝えるだけで苦労した。
その俺が今、この世界の文字で自分の名前を刻まれたものを持っている。
金属板の下側には、まだ読めない文字と小さな印が並んでいた。
試験結果なのか。
登録区分なのか。
それとも別の情報なのか。
俺はリシェルを呼び、板の文字を指して首を傾げる。
彼女は覗き込み、ゆっくり説明してくれた。
探索者を示す言葉。
俺。
最初。
低い。
知っている単語と仕草を繋げると、登録したばかりの者には何らかの区分があるらしい。具体的な呼称や細かい制度までは理解できないが、この金属板が探索者協会の中で俺を示す証明になることだけは分かった。
今はそれで十分だった。
◇
俺が金属板を見ている間に、灰色の髪の男はガルドへ小さな袋を渡していた。
受け取った袋の中から金属同士が触れ合う音がする。
硬貨だ。
ガルドが中身を確認すると、セイル、オルド、リシェルも近くへ集まった。何かを話しながら袋の中身を分け始めたところを見ると、グラウでの仕事に対する報酬なのだろう。
彼らが森へ入り、戻って報告する。
探索者協会が内容を確認し、金を支払う。
ここまで見れば、少なくとも仕事の流れの一部は理解できる。
俺には関係のない報酬だと思い、少し離れたところで待っていた。
だが、ガルドがこちらへ歩いてくる。
手には数枚の硬貨があり、そのまま俺へ差し出した。
「……俺に?」
自分を指す。
ガルドが頷く。
俺はすぐには手を伸ばさなかった。
彼らが何の依頼を受けてグラウへ入っていたのかは知らないが、少なくとも俺はその仕事を依頼されたわけではない。彼らと遭遇したのも偶然で、大型獣との戦いへ加わったのも、その後に接触する機会を作るという俺自身の目的があった。
彼らが正式に受けた報酬なら、俺が受け取るものではない。
硬貨を指し、次にガルドたち四人を示して首を横へ振る。
ガルドの眉が少し寄った。
そのあと俺を指し、大型獣を示すような仕草をしてから武器を振る動きをする。続いて硬貨を示し、こちらへ差し出した。
俺が戦った。
その分を渡す。
おそらく、そういう意味だ。
少し考える。
確かに俺は戦った。
彼らだけであの大型獣を倒せたのか、それとも危険な結果になっていたのかは分からない。だが、少なくとも俺が途中から加わり、その結果として戦況が変わったことは事実だった。
好意で一方的に渡される金なら、受け取りたくない。
だが、自分の働きに対する分け前なら話は別だ。
俺はようやく手を伸ばした。
「ありがとう」
今度は日本語ではなく、覚えたこの世界の礼の言葉を使う。
まだ発音は完璧ではないはずだが、ガルドには伝わった。
彼は僅かに頷き、それ以上何も言わない。
手の中の硬貨を見る。
ラティアで一日荷物を運んで得た金より多い。
正確な価値はまだ分からないが、少なくとも使える金が増えたことは間違いない。
宿。
食事。
靴。
必要なものはいくらでもある。
少し前までなら、それらの多くを誰かに頼るしかなかった。
今は完全ではなくても、自分で用意できるものが増え始めている。
◇
灰色の髪の男が再び俺を呼び、壁に貼られた依頼らしき紙を指した。
次に俺が受け取った金属板を示し、そこから掲示板の端に近い一角へ手を向ける。
俺もそちらを見る。
他の場所より貼られている紙は少なく、一枚ごとの文字量も比較的短い。植物の絵が描かれたもの、小さな獣らしき図があるもの、何かの荷物を示しているように見えるものまであった。
男はその一角と俺、そして金属板を順番に指す。
今の俺が受けられる依頼。
おそらく、その意味だ。
何でも好きに選べるわけではないらしい。
登録したばかりの人間へ、いきなり危険な魔物を相手にする仕事を任せるような仕組みではない。
むしろ、その方が信用できる。
実力を確認した意味もある。
問題は別にあった。
紙が読めない。
どれが安全で、どれが危険で、何をすればいくら貰えるのか。何一つ自分では判断できない。
受付へ持っていけば説明してもらえるのかもしれないが、今の俺の言葉では、その説明を理解すること自体が難しい。結局、しばらくはリシェルたちへ頼らなければ仕事を選ぶこともできないだろう。
探索者として登録された。
仕事を受ける資格らしきものも手に入れた。
それでも、言葉と文字が追いつかなければ、自分一人でできることには限界がある。
また同じ問題へ行き着く。
言葉と文字。
今の俺にとっては、戦う力と同じくらい早く身につける必要があるものだった。
◇
探索者協会を出ると、外はまだ十分に明るかった。
リュネールへ入ってから、思っていたほど時間は経っていない。それなのに、今朝この町を遠くから見ていた頃と比べれば、俺を取り巻く状況はかなり変わっている。
俺は腰へ取り付けた金属板へ触れた。
探索者。
その言葉が、この世界でどんな意味や立場を持つのかはまだ完全には理解していない。それでも、この町で自分の名前が刻まれた証明を一つ手に入れた。
誰かに連れてこられただけの、正体不明の異邦人。
そこからほんの少しだけ、この世界の社会へ自分の足を置いたような気がする。
同時に疑問も増えた。
魔力へ反応する結晶。
他の者とは明らかに違う発光。
白い光の中を走った黒い筋。
そして、それを見た灰色の髪の男が一本角へ向けた視線。
すべてが繋がっているのか。
いくつかは無関係なのか。
今はまだ分からない。
ただ、分からないことそのものは、以前ほど怖くなくなっていた。
情報を集め、比較し、確かめる。
答えが出ないなら、答えを出せるだけの材料を集めればいい。
俺は歩きながら右側頭部へ軽く触れ、そのあと腰の金属板へ指を移した。
まずは宿を確保する。
それから言葉と文字を覚え、仕事を探して、自分で生活できるだけの金を稼ぐ。
一本角。
《魔核》。
あの黒い光。
自分自身についても調べなければならない。
やるべきことは増える一方だ。
それでも、冷たい石床の上で目を覚ました頃とは決定的に違う。
あの頃の俺には、選択肢そのものがなかった。
今はまだ細くても、自分で選べる道が少しずつ増え始めていた。




