第29話 領都の門
昨日、遠くにリュネールの姿を見つけてからも、俺たちはしばらく街道を進んだ。
夕暮れが迫る頃には、町を囲んでいるらしい壁の輪郭まで見えるようになっていたが、ガルドたちはそのまま向かおうとはしなかった。日が落ちてから知らない町へ入るより、街道沿いの野営地で一晩を過ごした方がいいと判断したのだろう。
そして翌朝、再び歩き始めてからそれほど時間も経たないうちに、昨日は霞の向こうにぼんやりと浮かんでいた町が、はっきりとした形を持って目の前に現れた。
「……近くで見ると、全然違うな」
最初に目につくのは、町を囲む石壁だった。ラティアにも石壁と木柵はあったが、こちらは規模がまるで違う。人の背丈を遥かに超える壁が左右へ長く伸び、その上には一定の間隔で見張りらしい人影が立っている。
壁の向こうからは数えきれないほどの屋根が突き出し、中には町を囲む壁よりさらに高い建物もあった。昨日遠くから塔のように見えていたものも、近づいた今ならそれぞれ別の建造物だと分かる。ただし、何のための施設なのかまでは判断できない。
それでも、ラティアとは比較にならない規模の町だということだけは、説明されるまでもなかった。
違うのは建物だけではない。リュネールへ近づくほど街道を行き交う人の数が急速に増え、荷車を引く者、大きな荷物を背負った者、馬に似た動物へ乗る者、武器を携えた集団まで途切れることなく続いている。
ラティアからこちらへ向かう途中でも人とは何度もすれ違ったが、今では人影が途切れている時間の方が短いほどだった。俺は周囲を眺めながら歩いていたが、その中で前方を進む一人の男へ思わず視線が止まる。
見た目の大半は人間と変わらない。背丈も俺より少し低い程度で、服装も普通の旅人に見える。
ただ、髪の間から毛に覆われた耳が二つ突き出していた。
飾りには見えない。歩くたびに僅かに向きが変わり、周囲の音へ反応するように動いている。
「……本当にいるんだな」
この世界へ来てから巨大な虫や見たことのない獣には何度も遭遇しているし、何より俺自身の頭にも一本の角がある。地球と同じ生物しか存在しないなどとは、とっくに考えていなかった。
それでも、人間と同じ服を着て、荷物を背負い、同じ街道を歩いている明らかに人間とは違う特徴を持つ者を見るのは初めてだった。
少し見すぎたらしい。
相手が振り返る。
目が合った。
まずいと思ったが、向こうも俺を見たまま、視線を右側頭部へ移した。一本角の位置で止まり、互いに数秒ほど相手を観察するような時間が続く。
先に表情を緩めたのは向こうだった。何か短く言って小さく笑い、そのまま前へ向き直る。
意味は分からないが、少なくとも敵意はなさそうだ。
俺も軽く頭を下げ、歩きながら小さく息を吐いた。
「……人のこと言えないか」
俺自身、十分に珍しい姿をしている。むしろ、この場所では俺の方が見られる側なのだろう。
改めて周囲へ注意を向けてみると、人間とは違う特徴を持った者は一人ではなかった。耳の形が明らかに長い者、人間よりかなり小柄ながら横幅のある身体で大きな荷物を担ぐ者、額の左右に二本の角を持つ者までいる。
ラティアではほとんど目にしなかった姿だ。
どこまでを同じ種族として扱い、どこからを別の種族と呼ぶのか。この世界の人々自身がどのように区別しているのかも分からない以上、勝手に地球の分類へ当てはめるべきではないだろう。
今は、見たままを覚えておけばいい。
少なくとも、ラティアで見ていた社会が、この世界のほんの一部分だったことだけは確かだった。
◇
リュネールへ近づくにつれて、街道の両側にも建物が増えていった。
まだ町を囲う壁の外だというのに、宿らしき建物や大きな倉庫、家畜を入れるための柵、何台もの荷車を止められそうな広場まである。町というものが石壁の内側だけで完結しているわけではなく、周囲にも人と物の流れを支えるための施設が広がっているらしい。
大きな倉庫の前では何台もの荷車から荷物が下ろされていた。木箱や樽、布袋を十人以上の男たちが次々に運び、その横では別の男が声を上げて指示を出している。さらに少し離れた場所では、板へ何かを書き込みながら荷物の数を確認しているような者もいた。
ラティアで俺がやった荷運びと仕事そのものは似ている。
ただ、規模がまるで違う。
一つの荷車に対して、荷物を運ぶ者、数を確認する者、御者、指示を出す者、武器を持って周囲を見る者までいる。市場で一つの商品を買うだけでは分からなかったが、物が町へ届くまでには何人もの人間が関わっているのだろう。
ここなら仕事の種類も、ラティアより遥かに多そうだ。
自分がこれから何をして暮らしていくのかについて、まだ答えはない。荷運びなら今の俺にもできるし、当面の生活費を稼ぐ手段としては現実的だと思う。
だが、それだけを続けるつもりもなかった。
ラティアで荷運びを選んだのは、言葉も技術もほとんど持たない俺が、その時点ですぐにできる仕事だったからだ。この世界について知り、言葉を覚え、《解析》の使い方についても理解が進めば、できることは少しずつ増えるはずだ。
そのためにも、まず情報が必要になる。
俺は石壁の向こうに広がる町へ視線を向けた。
ラティアより遥かに大きなこの場所なら、得られるものも増えるだろう。その分、面倒まで増える可能性は高いが、それも含めて人の社会なのだと思うしかない。
◇
門へ近づくと、人の流れが少しずつ整理されていることに気づいた。
町へ入る者と外へ出る者で進む場所が分けられ、荷車と徒歩の人間も完全ではないが別の流れになっている。石を並べた低い仕切りや木製の柵が使われており、大勢が無秩序に門へ押し寄せないよう工夫されているらしい。
ガルドたちは迷う様子もなく一つの列へ入ったため、俺もその後ろへ続く。
前には十人以上が並び、途中には荷車も数台ある。それでも流れは止まっておらず、ラティアの門より多くの人員を使って処理していることが分かった。
近くまで来ると、門そのものの大きさもよく見える。
分厚い木材を何本も組み合わせた巨大な扉には大きな金属部品が使われ、その両側を高い石壁が挟んでいる。門の上にも武装した人影があり、地上にも何人もの男が配置されていた。
防具の形はかなり似ている。槍や剣のほか、弓を持った者もおり、個人が好き勝手に用意した装備というより、ある程度統一されたもののように見えた。
俺は列に並びながら、前の人間がどのように通過しているのか観察する。
小さな板を見せる者。
紙のようなものを出す者。
硬貨を渡す者。
何も払わず、そのまま通る者。
荷車は止められることが多く、ときには積み荷の中身まで確認されている。
全員が同じ手続きをしているわけではない。
住民、旅人、商人、荷物の種類。
区別の条件はいくつも考えられる。
俺は腰の袋へ触れた。
ラティアの門でもらった木札が入っている。
名前らしき文字が含まれていることは確認しているが、これが正確に何を証明するものなのかは、まだ理解できていない。入町記録なのか、一時的な身分証のようなものなのか、それとも別の用途なのか。
ここでも使えるのだろうか。
列は思っていたより早く進み、やがてガルドの番になる。
彼は何かを衛兵へ見せた。
衛兵は一目確認しただけで返す。
セイル、オルド、リシェルもほとんど同じだった。
四人とも手続きに慣れている。
そして、俺の番が来る。
衛兵がまず顔を見たあと、視線を右側頭部へ移した。
一本角。
そこから服、腰の簡易ナイフ、手に持った槍へ順番に目を向ける。
何か尋ねられた。
全部は理解できない。
ただ、聞き覚えのある音が一つ含まれていた。
名前。
おそらく。
俺は自分の胸を指した。
「レイジ」
衛兵が僅かに眉を動かし、頷く。
たったそれだけのやり取りだ。
それでも、ラティアへ入ったときとは違う。
あのときは、何を聞かれているのかさえ分からず、ほとんどすべてをリシェルたちへ任せるしかなかった。今は少なくとも、自分で答えられる質問がある。
俺は腰から木札を取り出し、衛兵へ差し出した。
男が受け取って表と裏を確認する。
一度俺を見たあと、隣にいた別の衛兵へ何かを言い、二人で短く言葉を交わした。
内容は分からない。
ただし、緊張した様子はなかった。
少なくとも、木札を出したこと自体が問題になったわけではなさそうだ。
しばらくすると木札は返され、最初の衛兵が何か説明を始めた。
俺の名前らしき音。
数字。
リュネール。
いくつかは拾える。
だが、文章全体の意味にはならない。
俺が首を傾げると、リシェルが横から言葉を挟んだ。
衛兵は彼女へ説明し直し、今度はリシェルが俺を見ながら、知っている言葉を選ぶようにゆっくり話してくれる。
それでも完全には理解できなかった。
何らかの手続き。
滞在。
確認。
その辺りに関係しているような気はする。
ただ、確信はない。
ここで分かったふりをしても意味がないので、俺は首を横へ振った。
衛兵も少し困った顔をする。
リシェルと何度か話したあと、男は門の内側を指し、次にリシェル、最後に俺を示した。
リシェルが頷く。
少なくとも、今は彼女についていけば問題ないらしい。
それなら十分だ。
最後に衛兵が俺の槍へ視線を向けた。
ラティアでは門で預けたため、ここでも同じかと思ったが、男は取り上げようとはしなかった。
代わりに自分の腰の剣を指し、次に町の中へ手を向けながら何かを言う。
俺が分からずにいると、ガルドが自分の剣へ手を置いたあと、抜く仕草をしてすぐ首を横へ振った。
なるほど。
武器を持ち込むこと自体は禁止されていない。
ただし、町の中で勝手に使うな。
少なくとも、そのような意味だと考えるのが自然だった。
俺が頷くと、衛兵も頷き、横へ退いた。
ようやく。
リュネールの門を通れる。
◇
石壁の下へ足を踏み入れると、外から見ていたよりも門が長いことに気づいた。
頭上には厚い石組みがあり、壁そのものが一つの巨大な建物のようにも感じられる。人の声や荷車の車輪、動物の足音が狭い空間へ反響し、出口へ近づくほど向こう側から聞こえる喧騒が大きくなっていった。
そして、その短い通路を抜けたところで視界が一気に開ける。
俺は思わず歩調を緩めた。
ラティアへ初めて入ったときも、人の多さには驚いた。
だが、ここは比べものにならない。
門の先には広い通りが真っ直ぐ伸び、その左右に建物が並んでいる。人と荷車が絶えず行き交い、店先から客を呼ぶ声、車輪が石や土を擦る音、金属を叩く音、動物の鳴き声、意味の分からない無数の会話が重なっていた。
匂いまで多い。
焼いた肉。
パンに似たもの。
煙。
香草。
家畜。
それ以外にも、何なのか分からない匂いが混ざっている。
道幅そのものはラティアの大通りより広い。それなのに、人と荷車で埋まっているため狭く感じるほどだった。
建物の高さも違う。
二階建ては珍しくなく、三階までありそうなものも複数見える。石を使う割合も高く、一階だけでなく上階まで石造りの建物まであった。
軒先には文字と絵を組み合わせた看板が並び、店頭には食べ物、布、陶器、金属製品、刃物、それ以外にも用途の分からない品物が大量に置かれている。
窓の一部には、透明度こそ低いもののガラスらしき素材まで使われていた。
見るものすべてが情報だった。
そして、人も違う。
街道で見た獣の耳を持つ者。
耳の長い者。
小柄で頑丈そうな身体の者。
角を持つ者。
そうした者たちが特別に分けられるでもなく、同じ道を歩き、同じ店へ入り、同じように荷物を運んでいる。
少なくとも、目の前の光景だけを見る限り、姿の違う者たちが同じ町の中で普通に暮らしている。
その中で、俺は少し先にいた男へ目を止めた。
頭の左右から二本の角が伸びている。
リシェルが何度も身振りで示していた形と同じだった。
やはり、角を持つこと自体は珍しくない。
だとすれば、俺が見られる理由は一本しかないことにある可能性が高い。
そう考えたところで、男がこちらを向いた。
目が合う。
そして次の瞬間、男の視線が俺の右側頭部へ移った。
表情が変わる。
ほんの一瞬だった。
それまで緩んでいた口元が消え、目が僅かに細くなる。
驚きなのか。
警戒なのか。
それとも、まったく別の感情なのか。
判断できない。
男はすぐに視線を逸らし、人混みの中へ消えていった。
俺は追いかけず、その背中が見えなくなるまで眺める。
今の反応一つだけで何かを決めるべきではない。
覚えておけばいい。
二本角の男が俺の一本角を見て、明らかに表情を変えた。
今分かるのは、それだけだ。
「レイジ」
リシェルの声で我に返った。
四人はすでに少し先へ進んでいる。
俺はすぐに歩調を速め、その後を追った。
◇
大通りを歩き始めても、情報の多さにはなかなか慣れなかった。
聞こえてくる会話の中から知っている単語を探してみると、水、食べる、行く、数字、地名など、ときどき意味の分かる音が拾える。
それだけでもラティアへ来た初日とは大きく違う。
一方で、似た状況なのに聞き覚えのある言葉とは少し違う音が使われていることもあった。話す人による違いなのか、地域差なのか、種族によって発音が異なるのか、それとも単純に俺が聞き間違えているだけなのか。
今の情報量では判断できない。
ただ、不思議なことに、以前ほど「分からない」という状態自体が苦痛ではなくなっていた。
完全に意味不明だった頃と違い、今は知っているものと知らないものを分けられる。観察し、比較し、次に同じものを見たときの材料へできる。
ラティアで得た僅かな知識が、自分の中で基準になり始めているのだ。
ガルドたちは迷うことなく通りを進み、大通りから途中で別の道へ入った。こちらは少し人が減ったものの、それでもラティアの中心部くらいの人通りはありそうだった。
リシェルが歩きながら何か言う。
俺。
場所。
行く。
寝る。
知っている音と仕草を組み合わせる。
宿。
おそらく。
まず泊まる場所を確保するつもりなのだろう。
俺としても二晩続けて地面で眠ったあとなら、寝台はありがたい。
そこで、金のことを思い出した。
腰の袋には、ラティアで働いて得た硬貨がまだ残っている。
しかし、リュネールの宿代がいくらなのかは知らない。ラティアより大きな町なのだから、同じ金額で泊まれるとも限らない。
またリシェルに払ってもらうことになるのは避けたい。
俺は彼女の名前を呼んだ。
「リシェル」
振り返った彼女へ腰の袋を示し、硬貨を見せる。次に寝る仕草をしてから、自分を指した。
自分で払う。
そう伝えたい。
リシェルは俺の手にある硬貨を見て、少し考えたあと何かを言った。数字らしき音が含まれていたが、全部は理解できない。
俺が持っている硬貨を数える仕草をすると、彼女は首を横へ振った。
「……足りないのか」
おそらく、その意味だ。
俺は小さく息を吐いた。
ラティアで一日働いて得た金でも、ここでは宿代に足りない可能性がある。もちろん宿にも種類があるだろうし、彼女が別のことを説明している可能性も残っている。
それでも、金がもっと必要だという結論は変わらない。
俺は周囲へ目を向ける。
荷物を運ぶ者。
店で働く者。
道具を作っているらしい職人。
通りの端で何かを大声で呼びかける男。
仕事そのものは大量にありそうだ。
問題は、今の俺の言葉と技能で何ができるか。
ラティアでやった荷運びなら可能だろう。
だが、ここまで来た以上、生活費を得ることだけが目的ではない。
自分のことを知りたい。
この世界を知りたい。
そのためには、金だけでなく情報へ近づける場所も必要になる。
都合よく見つかる保証はない。
それでも。
探す価値はある。
◇
しばらく進んだところで、ガルドが大通りから少し外れた道へ曲がった。
俺もその後へ続く。
先ほどまでより店は減ったが、その代わりに大きな建物が増えている。倉庫らしきもの、中庭を持つ石造りの施設、何に使うのか分からない建物まで様々だった。
その中の一つへ、ガルドたちは迷うことなく向かっていく。
俺は少し歩調を緩めた。
横幅のある二階建てで、中央部分だけはさらに高く見える。石を多く使った頑丈そうな建物で、入口には大きな扉が開かれていた。
何より目につくのは、出入りしている者たちだ。
多くが武器を持っている。
剣。
槍。
弓。
杖。
防具も統一されていない。
門の衛兵とは明らかに違う。
年齢も装備もばらばらで、一人で入る者もいれば、数人でまとまって出てくる者もいる。大きな袋を抱えている者や、何かの素材らしきものを運んでいる者までいた。
入口の横には、大きな板が掲げられている。
文字。
そして、その上には一つの印。
俺には意味が分からない。
ただ、人の出入りを見る限り、普通の宿や店ではない。
ガルドがそのまま入口へ向かい、セイル、オルド、リシェルも続いた。
俺だけが少し遅れて建物を見上げる。
ラティアでは見なかった場所だ。
リシェルが振り返り、俺へ何か言う。
続けて建物を指し、一つの言葉を口にした。
聞いたことのない音だった。
俺が首を傾げると、彼女は今度はゆっくり繰り返す。
俺も真似した。
発音が違うらしく訂正される。
もう一度言うと、今度は頷いた。
意味まではまだ分からない。
建物の名前なのか。
そこにいる組織を指すのか。
あるいは、この種の施設そのものを示す言葉なのか。
今の俺には判断できない。
ただ、ガルドたちがリュネールへ着いて最初に迷わずここへ来た以上、少なくとも俺に無関係な場所ではないのだろう。
ガルドが入口の前で振り返り、俺を見る。
続いて建物の中を指した。
その程度なら、言葉がなくても分かる。
俺は槍を持ち直し、改めて入口へ目を向けた。
リュネールへ入ってから、まだそれほど時間は経っていない。それなのに、人、種族、建物、仕事、言葉と、知らないものは一気に増えた。
そして今度は、武器を持った者たちが絶えず出入りしている正体不明の場所。
知りたいことへ近づいているのか。
それとも、新しい面倒へ近づいているのか。
おそらく、その両方なのだろう。
俺は一度だけ小さく息を吐き、四人の後に続いて建物の中へ足を踏み入れた。




