第28話 道の上の言葉
目を覚ましたとき、焚き火はほとんど消えていた。
灰の奥にはまだ赤い光が僅かに残り、ときおり小さく音を立てている。空は薄暗いものの、東の方だけが少しずつ明るくなり始めていた。
身体を起こすと、背中に軽い張りを感じる。宿の寝台に慣れ始めたところで再び地面の上へ戻れば当然なのだろうが、森にいた頃はこの程度の硬さなど気にもしていなかった。人間というのは、快適な環境へ順応するのも随分早いらしい。
「やっぱりベッドは偉大だな……」
誰に聞かせるでもなく呟きながら肩を回す。
昨夜はセイルと見張りをしたあと、交代してから眠った。森で一人だった頃より睡眠時間そのものは短いはずなのに、周囲のすべてを自分だけで警戒する必要がない分、身体は思ったより軽かった。
すでに起きている者もいる。ガルドは街道の方を確認し、オルドは荷物をまとめていた。セイルの姿は見えないが、おそらく周囲を見回りに行っているのだろう。
リシェルは焚き火のそばに座り、木板へ何かを書いていた。
俺が起きたことに気づいて顔を上げると、短い言葉を口にする。ラティアで覚えた朝の挨拶だった。
俺も同じ言葉を返す。
リシェルが自然に頷いた。
最初に教えられたときは、聞こえた音を真似するだけで精一杯だった。今では、どんな状況で使うものなのかを考える必要すらない。こうやって少しずつ、言葉が知識ではなく習慣へ変わっていくのだろう。
俺は水筒から水を飲み、残っていたパンと干し肉で腹を満たした。
食べ終える頃にはセイルも戻ってきた。ガルドへ何かを報告し、二人で街道の先を確認する。特に緊張した様子はないので、周囲に問題はなかったらしい。
やがて全員が荷物をまとめ始め、俺も水、食料、火を起こすための道具、簡易ナイフ、槍と順番に確認していく。
必要なものは揃っている。
ラティアを出た直後より、旅をする感覚も少し戻ってきた。ただし、森にいた頃とは決定的に違う。今は目的地へ続く道があり、その道を知る人間たちと一緒に歩いている。
一人で生き残るための移動とは、根本から違っていた。
◇
野営地を離れる前、ガルドは焚き火の跡へ土を掛けた。セイルも残った燃えさしを靴で崩し、本当に火が消えているか念入りに確かめている。
俺も火の近くに落ちていた細い枝を離れた場所へ移した。
森で自分が焚き火を使っていたときも火事には注意していたが、ここは旅人が繰り返し利用する場所らしい。一人が雑に使えば、次に訪れる誰かが困る。
そんな小さなことにも、人が同じ場所を共有して生きる社会の存在が見える。
俺たちは再び街道へ出た。
朝の空気は冷たい。昨日から長く歩き続けたせいで足裏には疲労が残っているものの、行動に支障が出るほどではなかった。
しばらくは誰もほとんど話さず、俺も周囲の景色を眺めながら歩く。
昨日より畑が増えている。街道から少し離れたところには、小さな家が数軒まとまって建っている場所もあった。村と呼べるほどなのかは分からないが、ラティア以外にも人が生活する場所が点在していることは確かだった。
畑ではすでに何人もの人が働いている。街道を通る俺たちへ顔を向ける者もいるが、距離があるため角まで見えているかは分からない。
進めば進むほど、人の手が入った土地が増えていく。その一方で、グラウは完全に見えなくなっていた。
振り返っても、もう森の姿はない。
地下遺跡も、小川も、何日も一人で過ごした場所も、ずいぶん昔のことのように感じられる。
もちろん、忘れたわけではない。黒い記録板の文字を読む手段を得られたなら、いずれ必ず戻って調べたいと思っている。
そのためにも、今は前へ進む必要があった。
◇
太陽がある程度高くなった頃、リシェルが俺の隣へ並んだ。
何かを話しかけてくる。
最初は意味を取れなかったが、途中に聞き覚えのある音が含まれていた。歩くことを示すらしい言葉と、リュネールという地名だ。
俺が考えている間に、リシェルは自分を指し、歩く仕草をしてから街道の先へ手を向けた。
もう一度、同じ言葉を繰り返す。
「……リュネールへ行く?」
日本語で呟きながら、自分を指して街道の先を示す。続けて、これまで何度か聞いた「行く」に近い音を自分でも使ってみた。
語順は分からないし、発音にも自信はない。
それでもリシェルの表情が明るくなり、すぐに頷いた。
通じたらしい。
俺は思わず笑った。
これまでにも、アクアやカルナ、名前や数字など、覚えた単語を使って意思を伝えたことはある。ただ、今回は人、場所、動作という複数の情報を組み合わせ、自分から意味を作って伝えた。
この世界の人間からすれば幼児以下の会話だろうが、俺にとっては明確な進歩だった。
リシェルも何か嬉しそうに言いながら俺を指し、何度か頷く。内容は全部分からないものの、少なくとも間違いを指摘されている雰囲気ではない。
「三十過ぎて言葉を覚えただけで褒められるとは思わなかったな」
苦笑しながら日本語で言うと、当然リシェルは首を傾げた。
その反応が少しおかしい。
彼女は続けて、自分、俺、リュネールの順に指しながら別の短い言葉を口にした。
聞いたことのない音も混ざっている。
一緒に行く。
おそらく、そのような意味だろう。
俺は自分とリシェルを順番に指し、最後に街道の先へ手を向ける。
リシェルが頷いた。
完全な会話には程遠いが、一方的に単語を教わっていた頃と比べれば、やり取りとして成立し始めている。
少しずつ、言葉が俺と彼女たちの間を繋ぎ始めていた。
◇
その後もしばらく、歩きながら言葉を教えてもらった。
これまでのように物を一つずつ指すだけではない。リシェルは前を歩くガルドを示し、次に自分、俺、セイル、オルドと順番に指していく。
そこから、歩く、止まる、見る、飲む、食べるといった動作へ移った。
知っている単語と新しい音を混ぜながら短い発話を繰り返し、俺も理解できる範囲で答える。意味を間違えれば首を横へ振られ、発音が悪ければ何度でも言い直される。
何が違うのかすら分からず、同じ音を何度も繰り返すこともあった。
それでも、以前よりは明らかに進んでいる。
特に興味深かったのは、同じ動作を示しているはずなのに、聞こえる言葉の形が少しずつ違うことだった。
俺が歩く場合。
リシェルが歩く場合。
二人で歩く場合。
完全に同じ音ではない。
語尾が変化しているのか、前後に別の語がついているのか、それとも俺がまだ正確に音を聞き分けられていないだけなのかは判断できない。
だが、何らかの規則が存在する可能性は高い。
俺は歩きながら、聞こえた音を頭の中で並べていく。同じ部分と違う部分、誰を指していたか、どんな動作をしていたか。その組み合わせを覚えておけば、あとから比較できる。
考えることへ集中しすぎて、リシェルの次の言葉を聞き逃した。
「悪い。もう一回」
日本語で言いながら耳へ手を当てる。
意図は伝わったらしく、リシェルが同じ言葉を今度はゆっくり繰り返した。
知っている音が二つ。
知らない音が一つ。
それでも文全体の意味には届かない。
俺が困っていると、リシェルは地面を指し、次に空の太陽を見る。それから水筒へ手を伸ばした。
俺も止まる仕草をする。
「……休憩か?」
リシェルが頷く。
全部の単語を理解できなくても、知っている部分と状況を組み合わせれば、発話全体の意味を推測できる。
その精度は確実に上がっていた。
一瞬、《解析》を使えば音の共通部分や語順をもっと細かく整理できるかもしれないと思った。
だが、今は使わない。
能力を使わなくても理解できるところまでは、自分で覚えた方がいい。
何より、俺は言葉を《解析》するために学んでいるのではない。
人と話すために覚えているのだから。
◇
昼前になると、道の先に川が見えてきた。
森で利用していた小川とは比べものにならないほど幅が広く、水量も多い。その川を横切るように、一つの橋が架かっている。
俺は自然と歩調を落とした。
石造りだった。
巨大な橋というほどではないが、荷車が通れるだけの幅があり、川の中には複数の橋脚が並んでいる。
「これを造ったのか……」
近づくほど、その規模が実感できた。
石を切り出し、ここまで運び、大きさや形を整える。それだけでもかなりの労力が必要になるはずだ。
さらに、流れる水の中で橋脚を築き、その上へ荷車が通れる道を造る。
一人や二人でできる仕事ではない。
橋の手前には何台かの荷車が並び、反対側からも人が渡ってきていた。一度に無理に通ろうとはせず、互いの流れを見ながら順番に進んでいるらしい。
俺たちも列へ加わった。
待っている間に橋を観察する。
ところどころ石の色が違っていた。
補修された跡なのだろうか。
橋の端では数人の男が作業している。傷んだ場所を確かめ、欠けた石を外して別のものへ交換しているように見えた。
造って終わりではない。
使い続けるために維持している。
昨日から何度も同じことへ行き着く。
道も。
標識も。
野営地も。
この橋も。
人が集まって建物を造れば、それだけで社会が成立するわけではない。誰かが造り、誰かが使い、壊れれば誰かが直している。
地球にいた頃は、道路があることも橋が架かっていることも、ほとんど意識していなかった。あまりにも当たり前だったからだ。
失ってから改めて見ると、その当たり前の一つ一つに、とてつもない手間が掛かっていることが分かる。
俺は橋脚へ目を向けた。
この世界の技術水準を判断する材料にもなりそうだ。
石の加工精度。
接合方法。
構造。
詳しく観察してみたい気持ちはある。
ただ、列を離れて勝手に調べるわけにもいかない。
今は見るだけでいい。
やがて前の荷車が動き、俺たちも橋へ足を踏み入れた。
◇
川の中央付近まで来ると、風が少し強くなった。
水面が陽光を反射しながら細かく揺れている。
下を見ると、かなりの水量が流れていた。
この川が複数の町を通っているなら、船による移動や輸送も行われているかもしれない。見える範囲には小さな舟が数艘あるだけだが、少なくとも水路として利用できない規模ではない。
俺が川へ気を取られていると、前を歩いていたセイルが振り返った。
何か言う。
聞き取れた音が一つあった。
「アクア」
水。
続けて川そのものを指し、今度は別の言葉を口にする。
なるほど。
水はアクア。
川には別の単語がある。
俺も真似して発音してみた。
すぐにセイルが首を横へ振る。
違うらしい。
もう一度。
まだ違う。
三度目で、ようやくセイルが頷いた。
新しい単語を頭へ残す。
その様子を見ていたリシェルが何か言い、セイルが笑って返した。
内容までは分からないが、俺の発音について話している可能性は高い。
「お前も最初は何を言ってるのか分からなかったからな」
日本語で言い返す。
意味は通じない。
それでも言い返されたことだけは理解したらしく、セイルがさらに笑った。
完全にからかわれている。
不思議と腹は立たなかった。
グラウで初めて見たとき、セイルは俺が特に警戒していた相手の一人だった。
弓を持ち。
周囲を観察し。
いつでもこちらを射られる位置にいた。
それが今では、俺の発音を聞いて笑っている。
人との距離は、こんな何でもないやり取りの中で少しずつ縮まっていくものなのかもしれない。
◇
橋を渡り終えると、街道沿いの景色はさらに変わっていった。
畑の範囲が広くなり、人家も増えている。荷車とすれ違う回数も昨日より明らかに多く、歩いている者たちの服装や目的も様々だった。
農作業をしている者。
大きな荷物を背負った者。
武器を携えた者。
荷車の脇で板へ文字を書きながら、積み荷を確認しているらしい者。
ラティアでは町の中へ入ってから見たような人々が、街道上にも普通にいる。
リュネールへ近づいている。
そう考えるのが自然だった。
そして、人が増えるほど、俺へ向けられる視線も増えていく。
ほとんどの者が一度は右側頭部を見る。
反応は様々だ。すぐに目を逸らす者もいれば、二度見する者、隣の人間へ何か話す者、遠慮なく見続ける子供もいる。
だが、ここでも俺を見て逃げ出すような者はいない。
視線を向けられるだけなら、俺自身もかなり慣れてきた。
問題は、一本角がこの社会で何を意味しているのかだった。
その答えを知ったあとでも、同じように平然としていられるのかは分からない。
俺は隣を歩くリシェルを見る。
今なら、以前より少しくらいは聞けるかもしれない。
自分の角へ触れる。
「カルナ」
リシェルが頷く。
俺は指を一本立て、角を示した。続いて街道を歩く人々、目、自分の角という順番に指し、最後に首を傾げる。
なぜ見るのか。
何が違うのか。
そこまで伝えたい。
リシェルは俺の動きをじっと見つめた。
もう一度。
人。
目。
一本角。
疑問。
やがて彼女の表情が変わる。
伝わったらしい。
ただし、すぐには答えなかった。
少し考えたあと、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始める。
分かる音もいくつかあった。
カルナ。
数字の一。
人を示しているらしい言葉。
それから、知らない音。
リシェルは途中で両手の人差し指を頭の左右へ立てた。
二本。
次に俺を指し、一本。
さらに二本、一本と繰り返す。
比較している。
普通は二本。
俺は一本。
そこまでは、かなり確度が高い。
問題はその先だった。
単に珍しいだけなのか。
一本角そのものに別の意味があるのか。
リシェルはそこまで説明しているのだろうが、今の俺が知っている言葉だけでは届かない。
「……惜しいな」
以前なら、何を説明されているのかさえ分からなかった。
今は、どこまで理解できて、どの部分から分からないのかが分かる。
それも進歩なのだろう。
俺は無理に答えを作らなかった。
中途半端に理解した情報ほど危険なものはない。
もう少し言葉が増えてから、改めて聞けばいい。
◇
午後、街道沿いの開けた場所で休憩を取ることになった。
昨日の野営地ほど整備されてはいないが、平らな地面と木陰がある。他にも何人か旅人がおり、家族らしい三人組や、大きな荷物を背負った男たち、小さな荷車も見えた。
俺たちは空いている場所へ座り、水を飲んでパンを食べる。
身体には疲れが溜まってきているが、昨日より街道を歩くこと自体には慣れていた。
食事の途中、少し離れたところにいる子供がこちらを見ていることに気づいた。
五歳か六歳くらいだろうか。
視線の先は、もちろん俺の角だった。
母親らしき女性が気づいて何かを言うと、子供はいったん目を逸らす。
だが、すぐにまたこちらを見た。
そして、自分の頭へ指を一本立てる。
俺を見る。
母親が慌ててその手を下ろし、何か注意していた。
俺は思わず笑った。
分かりやすい。
悪意などない。
ただ、珍しいだけだ。
自分の角へ軽く触れる。
「カルナ」
子供の表情が明るくなる。
同じ言葉を返してきた。
俺より遥かに自然な発音だった。
「そりゃ負けるよな」
日本語で呟く。
子供は意味も分からず笑っている。
母親は困ったような表情で俺へ頭を下げた。
俺も軽く返す。
それだけで終わった。
何も起きない。
ただの小さなやり取りだった。
それでも、この出来事から分かることはある。
一本角を見る者全員が、何か深刻な意味を考えているわけではない。単純に珍しいものとして見る人間もいる。
だからこそ、ガルドたちや一部の年配者が見せた反応が余計に気になる。
知識なのか。
年齢なのか。
立場なのか。
何か条件があるのかもしれない。
今は、その違いを覚えておけばいい。
◇
休憩を終えてからも、言葉の練習は続いた。
今度はリシェルだけではなく、セイルまで時々口を挟んでくる。俺が発音を間違えるとセイルが笑い、リシェルが訂正する。
もう一度言う。
それでも違う。
今度はガルドまで後ろから何か短く言い、結局全員に笑われた。
「そんなに違うのかよ」
もちろん答えは分からない。
ただ、悪意のある笑いではない。
俺も笑うしかなかった。
そんなやり取りの途中、リシェルが何かを尋ねた。
最初の部分は聞き取れない。
だが、後半には知っている音がいくつも含まれていた。
レイジ。
リュネール。
行く。
そして、以前にも何度か聞いた音。
疑問を作る言葉なのか、それとも理由を尋ねる言葉なのか。
俺は歩きながら考える。
玲司。
リュネール。
行く。
なぜ。
もし解釈が合っているなら、質問の意味はおそらく一つ。
なぜ、リュネールへ行くのか。
身振りにほとんど頼らず、相手が何を聞いているのかをかなり高い確度で理解できたのは初めてだった。
俺はリシェルを見る。
どう答える。
自分のことを知りたい。
一本角。
地下遺跡。
黒い記録板。
《魔核》。
すべてを説明するための言葉はないし、そもそも遺跡について詳しく話すつもりもない。
なら、今伝えられる範囲だけでいい。
俺は自分の角を指す。
「カルナ」
次に目を指す。
見る。
調べる。
知る。
その言葉はまだ知らない。
そこで文字を書く仕草を加え、最後にリュネールの方向を示した。
リシェルは黙って俺の動きを見ている。
もう一度。
角。
文字。
リュネール。
自分のことを知りたい。
そこまで伝わればいい。
しばらくして、リシェルが頷いた。
完全に理解したかどうかは分からない。それでも、俺がリュネールへ向かう理由の一つが、自分自身について何かを調べるためだという程度には伝わったように見える。
彼女は何か答え、その中でカルナとリュネールという二つの言葉を使った。
さらに、知らない単語を一つ、俺へ聞かせるようにゆっくり繰り返す。
俺はその音を覚える。
意味はまだ分からない。
ただ、リュネールへ行けば、その言葉が何かへ繋がるのかもしれなかった。
◇
日が傾き始める頃には、街道の交通量がさらに増えていた。
前を進む荷車。
後ろから追いついてくる騎乗者。
道の両側には柵で囲まれた畑が続き、その向こうにもいくつもの屋根が見えている。
ラティアを出た直後とは明らかに違う。
大きな人の集まる場所へ近づいていることが、景色そのものから伝わってきた。
やがて街道が少し高い場所へ差しかかる。
先頭を歩いていたガルドが足を止めた。
危険を知らせる動きではない。
彼はただ、街道の先を見ていた。
俺も同じ方向へ視線を向ける。
遠い。
まだかなり距離がある。
夕方の霞の向こう、地平線近くに何かが見えていた。
最初は低い山かと思った。
だが、線が不自然なほど真っ直ぐだった。
人工物。
横へ長く伸び、その上からいくつもの高い影が突き出している。
塔のように見える。
さらに、その向こうから空へ昇る煙があった。
一本や二本ではない。
ラティアで見たものより遥かに多く、いくつもの細い煙が夕空へ溶けている。
「あれが……」
思わず声が出た。
隣へ来たリシェルが、街道の先を指した。
そして一言。
今なら間違えない。
「リュネール」
俺は黙って遠くを見る。
地図の上で、ラティアより大きな印として描かれていた場所。
これまで何度も耳にした名前。
まだ一度も見たことのなかった町が、今では自分の目で確認できる場所まで近づいている。
「リュネール……」
俺が繰り返すと、リシェルが頷いた。
今日中に着ける距離なのかはまだ分からない。
それでも、もう名前だけの場所ではなかった。
あそこにはラティアよりも多くの人間が暮らし、多くの物や知識が集まっている可能性が高い。俺がまだ知らないこの世界の常識もあれば、一本角について何か知っている人間がいるかもしれない。
もちろん、知りたいことばかりが待っている保証はない。
知りたくなかった事実を知る可能性もあるし、人が増えれば俺を見る目も増える。
それでも、森から初めてラティアを見たときとは違った。
あのときの俺は、人の社会へどう入ればいいのかすら知らなかった。
今は僅かでも言葉を知り、自分で得た金を持ち、働くという選択肢も知っている。
何より、一人ではない。
それだけで、不安の質が以前とは違っていた。
俺は夕暮れの向こうに見える町を眺めながら、小さく息を吐く。
リュネール。
地図の上でしか知らなかった次の場所が、ようやく現実の景色として俺の前に姿を現していた。




