第27話 街道の先へ
ラティアの姿が見えなくなってからも、道は途切れなかった。
森の中を歩いていた頃は、自分が進んだ分だけ道が生まれるような感覚だった。獣道を利用することはあっても、それがどこへ続いているのかは分からない。目印を残し、太陽の位置を確認し、帰る方向を何度も頭へ刻み込んで、それでも迷わない保証はなかった。
今歩いている場所は違う。
幅のある土の道が丘の向こうまで続き、深く刻まれた轍からは、多くの荷車がここを通っていることが分かる。雨水を逃がすためなのか、道の両脇には浅い溝まで掘られていた。
誰かが造り、誰かが使い、必要なら手入れもしている。
当たり前のことなのかもしれないが、俺にとっては新しい発見だった。
町だけが文明なのではない。町と町を繋ぐ道まで含めて、人の社会は成り立っている。
歩きながら地面へ目を向けると、大きな石は取り除かれ、ぬかるみやすそうな場所には小石が敷かれている。場所によって出来に差はあるものの、自然に踏み固められただけの道とは明らかに違った。
誰が整備しているのだろう。
ラティアの住民か。リュネール側か。それとも、もっと別の仕組みがあるのか。
維持するには人手が要る。人を動かすなら、金も必要になるはずだ。地球と同じような税が存在する可能性もある。
考え始めれば、疑問はいくらでも出てくる。
ただ、今の俺にはそれを尋ねるだけの言葉がない。
その状況にも少しずつ慣れてきた。
分からないなら覚えておけばいい。いつか聞けるようになったときに、聞けばいいだけだ。
俺は前を歩く四人へ目を向ける。
先頭はガルド。その少し後ろをリシェルとオルドが歩き、セイルは俺たちより前へ出たり後ろへ下がったりしながら周囲を見ている。
グラウを移動していたときと似た配置だ。
ただし、森の中ほどの緊張感はない。
あのときは全員がいつでも武器へ手を伸ばせるようにしていた。今も警戒を解いているわけではないが、歩き方にも会話にも余裕がある。
ここは彼らにとって、グラウほど危険な場所ではないらしい。
だからといって、安全だと思い込んでいるわけでもない。
その程度の感覚なのだろう。
俺も槍を肩へ掛けたまま歩く。
荷物は森にいた頃より増えたものの、道が平らな分だけ歩きやすい。ただ、固く踏み締められた地面を長時間歩いていると、今履いている靴では足裏へ少しずつ負担が溜まってきた。
元からこの身体が履いていたものを、森で何度か補修しただけの靴だ。
これも、いずれ何とかした方がいい。
武器。
服。
靴。
宿。
食事。
人の中で暮らすようになればなるほど、必要なものは増えていく。
そして、そのほとんどに金が必要になる。
少し前までなら面倒だと感じたかもしれない。
今は違う。
必要なら稼げばいい。
少なくとも、そういう生き方ができることはラティアで知った。
◇
しばらく進むと、前方から複数の荷車がやってきた。
一台ではない。
三台。
先頭と最後尾には武器を持った男が歩き、荷車の横にも何人か人がついている。
ガルドが道の端へ寄ったので、俺たちも同じように動いた。
荷車同士がすれ違えるだけの幅はある。それでも、徒歩の人間まで中央に残る必要はないらしい。
俺は周囲の動きを真似して道を空ける。
先頭を歩く男がガルドを見ると、片手を上げた。ガルドも同じように返し、短い言葉を交わす。
内容はほとんど分からない。
ただ、男が一度後ろを振り返り、それからラティアの方向を指したことから、街道か町について何か話しているようには見えた。
荷車が近づく。
積まれているのは樽、布を掛けた木箱、大きな袋。中身までは分からない。
御者台には二人。その横にも武器を持った者がいる。
商品を運ぶ者と、それを守る者。
街道があるなら、当然こういう仕事もある。
ラティアの市場に並んでいた品物の中にも、こうして別の場所から運ばれてきたものがあったのかもしれない。
一台目が通り過ぎ、続いて二台目、三台目。
最後尾を歩いていた男が俺を見る。
視線は顔から右側頭部へ移り、そこで僅かに足が遅くなった。
角。
またか。
ただ、それ以上の反応はない。
何かを考えるように一瞬こちらを見ただけで、そのまま通り過ぎていった。
俺も振り返らなかった。
一本角へ向けられる視線自体は、もう珍しくなくなっている。
問題は、その意味だ。
ラティアでは好奇心だけに見える反応も多かった。一方で、一部の年配者やガルドたち、衛兵の反応には明らかにそれ以上の何かが混じっていた。
その違いを知るには、まだ言葉が足りない。
荷車が遠ざかると、セイルが何かを言った。
ガルドが短く返し、少し笑いが起こる。
内容は分からない。
ただ、セイルの視線が一度こちらへ向いた。
「また俺の話か?」
そう言うと、セイルがさらに笑った。
どうやら本当に俺のことだったらしい。
別に構わない。
俺だって言葉が通じるなら、彼らに聞きたいことは山ほどある。
今は一方的に話題にされる程度、我慢するしかなかった。
◇
さらに歩くと、街道が二つに分かれていた。
片方は今までと変わらない幅の広い道で、もう片方は少し細い。分岐の脇には、人の胸ほどの高さがある石が立てられている。
文字が刻まれていた。
俺は自然と歩調を緩める。
リシェルがこちらを見る。
俺は石を指した。
文字。
読みたい。
今なら、それくらいは身振りだけでも伝えられる。
リシェルも石の前まで来ると、刻まれた文字列の一つを指した。
「リュネール」
俺は文字と彼女を見比べる。
「リュネール?」
リシェルが頷いた。
なるほど。
地名を示す標識らしい。
以前、地図でもリュネールの文字を見ている。完全に形を覚えているわけではないが、見覚えのある記号がいくつか含まれているように思えた。
リシェルは次に別の文字列を指し、聞いたことのない音を口にした。それから細い方の道を示す。
別の地名なのだろう。
俺は頷き、今度は文字列の下にある小さな記号を指した。
数字らしきものが並んでいる。
リシェルも数字を口にする。
昨日覚えた音が含まれていた。
そのあと彼女は道を指し、人差し指と中指を歩かせるように動かす。
距離か。
所要時間か。
俺が首を傾げると、リシェルは少し考え、今度は空を指した。
太陽。
続いて歩く仕草。
「時間……なのか?」
当然、日本語は通じない。
この世界の時間単位が地球と同じとも限らないし、そもそも彼女が説明しているのが時間なのかも確定できない。
今は数字の並びを覚えておく。
同じものを地図や別の標識で見つければ、比較材料になる。
そう考えていると、ガルドがこちらへ声をかけた。
そろそろ行くぞ、という意味だろう。
俺は頷き、石から離れる。
読めない標識だった。
それでも、完全に意味不明な石ではなくなった。
一つずつ。
本当に一つずつだが、世界の中に理解できるものが増えている。
◇
昼をかなり過ぎた頃、先頭を歩いていたガルドが突然足を止めた。
後方へ片手を出す。
森でも見た合図だ。
俺もすぐに止まる。
セイルが前へ出て、街道の端に残っていた泥へしゃがみ込んだ。
俺も少し離れた位置から見る。
大きな足跡がある。
人ではない。
街道で何度か見た、荷車を引く動物とも形が違った。
四本の指らしき跡があり、その一つ一つが太い。道の反対側には土が大きく抉れた跡まで残っている。
セイルが指先で泥へ触れ、匂いを確かめる。
そのあと道脇の草へ目を向けた。
何本も折れている。
ガルドと短く言葉を交わした。
そこで空気が変わった。
俺は肩に掛けていた槍を手へ持ち替える。
まだ襲われてはいない。
姿も見えない。
それでも四人の反応を見れば、注意すべき何かが近くにいることは分かる。
セイルが街道の先を指し、次に右側の草地を示した。
ガルドが頷く。
四人が街道を外れ始めた。
俺は一瞬だけ先を見る。
何もいない。
道はそのまま続いている。
わざわざ外れる必要があるのかとも思った。
だが、その考えはすぐに捨てる。
彼らはこの土地を俺より知っている。
判断材料も多い。
今は従う方が合理的だ。
俺も草地へ入り、街道から少し距離を取りながら平行に進む。
しばらくして、風に乗って妙な匂いが届いた。
獣臭い。
しかも強い。
俺は無意識に槍を握る手へ力を入れた。
前方の草が大きく倒れている。
そのさらに先には、何か黒い塊が見えた。
ガルドたちは近づかない。
セイルも遠くから確認しただけで、そのまま迂回を続けていく。
そこでようやく気づいた。
避けているのだ。
危険な生物を見つけたからといって、倒しに行くわけではない。
必要がなければ戦わない。
考えてみれば、俺も森では同じだった。
食料が必要。
道を塞がれた。
向こうから襲われた。
そうした理由がなければ、危険な生物へ自分から近づくことはしなかった。
それなのに、四人が武装して行動している姿を見ているうちに、俺は無意識に「彼らなら戦えるから進む」と考えていたのかもしれない。
戦えることと、戦うことは違う。
当然の話だ。
しばらく迂回したところで、セイルが草の間から街道を確認する。
何もいないことを確かめ、ようやく道へ戻った。
結局、何がいたのかさえ分からなかった。
それでいい。
正体を知るためだけに危険へ近づく必要はない。
ガルドが俺を見る。
そこで、自分がまだ槍を構えるように握っていたことに気づいた。
少し力を抜く。
ガルドが何か言い、口元を僅かに緩めた。
セイルまでこちらを見て笑っている。
「悪かったな。警戒しすぎたよ」
日本語で返す。
リシェルまで少し笑った。
どうやら、俺一人だけ完全に戦闘態勢へ入っていたらしい。
少し恥ずかしい。
だが、悪い経験ではなかった。
街道を歩いているからといって、危険がなくなるわけではない。
そして、危険に対する最善の答えが戦闘とは限らない。
また一つ、この世界で生きるための常識を知った。
◇
夕方が近づく頃、道の脇に少し開けた場所が見えてきた。
自然にできた空き地ではない。
低い草は刈られ、中央には何度も火を焚いた跡が残っている。端には太い木材を横へ渡しただけの簡素な設備まであり、荷物を置くか、荷車を引く動物を繋ぐために使うように見えた。
ガルドがそこへ入っていく。
今日はここで止まるらしい。
つまり、リュネールまでは一日では着かない。
それだけは分かった。
俺も荷物を下ろす。
ラティアへ来る前なら、日が暮れる場所を予想して寝床を探し、周囲を確認し、火を起こすだけでもかなりの時間を使っていた。
四人の動きは早い。
ガルドとセイルが周囲を確認している間に、オルドが荷物を整理し、リシェルは薪を集め始める。
俺も手伝うことにした。
リシェルの持つ薪を指し、次に自分を示す。
彼女はすぐに理解し、周囲を指した。
集めてこい。
おそらく、その意味だ。
俺は街道から離れすぎない範囲で落ちた枝を探す。
森で何度もやった作業だった。
乾いているもの。
中まで湿っていないもの。
太さと長さ。
燃やしやすそうな枝を選んで戻る。
リシェルが俺の持ってきた薪を見て、少し意外そうな顔をした。
「薪くらい集められるぞ」
意味は通じない。
考えてみれば、彼女は俺が森の中でどのように生活していたのか詳しく知らない。
火を起こし、食料を焼き、一人で何日も生きていたこと。その一部は伝わっていても、すべてではない。
やがて火がつき、簡単な食事が用意された。
パンと干した肉。
俺には宿の女性から渡された食料もある。
布包みを開き、自分の前だけではなく皆の手が届く位置へ置いた。
リシェルが何か言う。
自分の分だから食べろ、と言っているのかもしれない。
俺は首を横へ振り、四人を順番に指した。
分ける。
そのつもりだった。
ガルドが少しだけ考えたあと、パンを一つ取った。
それを見て、残りの三人も手を伸ばす。
これで公平になったとは思わない。
彼らから受け取ったものの方が、圧倒的に多い。
それでも、自分から何かを出せるのは気分がよかった。
食事が終わる頃には、空はかなり暗くなっていた。
森で見る夜空と大きく違うようには見えない。ただ、この世界の星をじっくり観察したことはまだない。
俺は火の向こう側へ目を向ける。
ガルドとセイルが何かを話し、途中からオルドも加わった。リシェルは少し離れたところで木板へ何かを書いている。
どこかで見た光景だった。
最初に四人をグラウで見つけたとき、俺は遠くから彼らを観察していた。
声もまともに聞こえない距離から、近づくべきか、離れるべきかを考えていた。
今は同じ火を囲んでいる。
その変化が、妙におかしく感じられた。
俺の視線に気づいたリシェルが顔を上げる。
「レイジ?」
俺は首を横へ振った。
何でもない。
そう伝える言葉はまだ知らない。
少し考え、火を指す。
自分。
次にリシェルたち。
そして笑ってみせる。
リシェルはしばらく俺を見たあと、何か察したのか小さく笑った。
正確に何が伝わったのかは分からない。
それでも、今は十分だった。
◇
完全に日が落ちると、ガルドたちは見張りについて相談を始めた。
セイルが周囲を示したあと、自分を指す。続いて夜空。
意味は想像できる。
交代で見張るのだろう。
俺は自分を指し、目元へ手をやったあと周囲を示した。
自分もやる。
そう伝えたつもりだった。
ガルドはすぐ首を横へ振った。
「いや、できる」
意味は通じない。
俺はもう一度、自分、周囲、見るという仕草を繰り返し、最後にガルドへ寝る動きを示した。
今度はセイルが笑う。
リシェルが少し考え、ガルドへ何か話しかけた。
数回やり取りが続き、最後にガルドが俺を指す。
次にセイル。
二人。
そして周囲。
なるほど。
一人では任せない。
セイルと一緒ならいい。
そういうことらしい。
妥当だった。
俺だって彼らの立場なら、出会って数日しか経っていない正体不明の男へ夜の見張りを一人で任せたりはしない。
俺は頷いた。
夜が深くなってから、俺はセイルと並んで火から少し離れた場所へ座った。
残りの三人は横になっている。
完全に眠っているのかまでは分からない。
セイルは弓を手元へ置き、暗い街道を見ていた。
俺も周囲へ意識を向ける。
火の光から離れれば、暗闇そのものは森と大して変わらない。
違うのは、目の前に人が造った道があることだった。
夜になっても、この道は消えない。
ラティアから伸び、リュネールへ続いている。
しばらく黙っていたセイルが、小さな声で何か言った。
俺を見る。
「レイジ」
続いて自分を指し、そのあとラティアの方向とリュネールの方向を示す。
何を聞かれているのだろう。
どこから来た。
どこへ行く。
それとも、なぜリュネールへ行くのか。
判断できない。
俺が首を傾げると、セイルは少し考えた。
そして俺の右側頭部へ視線を向ける。
「カルナ」
また角か。
俺は軽く触れ、頷いた。
セイルは角を指したあと、今度はリュネールの方向へ顔を向けた。
短く何かを言う。
昼間のように笑ってはいない。
俺は彼の横顔を見る。
向こうへ行けば何か分かる。
リュネールでは気をつけろ。
一本角について知る者がいる。
いくらでも意味は考えられる。
だから、決めない。
分からないものを、自分に都合のいい答えへ変える必要はない。
俺はただ、彼が示した方向を見た。
「リュネール」
セイルがこちらを向き、少し間を置いて頷いた。
それ以上、会話は続かなかった。
再び二人で夜の道を見る。
ラティアを出た。
次に向かう場所は、リュネール。
地図の上の名前だったものが、少しずつ現実の目的地へ変わっていく。
そこへ行けば状況が良くなる保証などない。人が増えれば、それだけ面倒も増えるかもしれないし、一本角へ向けられる視線もラティアより多くなる可能性がある。
それでも、知らないまま森へ戻るつもりはなかった。
火の向こうにはリシェルたちがいる。
隣にはセイル。
目の前には、人が造った街道。
俺は槍を手の届く位置へ置き、暗闇の先を見つめる。
グラウを出た先にラティアがあり、その外にはまた道があった。道の先にはリュネールがあり、おそらく、その先にもまだ世界は続いている。
冷たい石床の上で目を覚ましたとき、俺が知っていた世界はあの部屋だけだった。
今は違う。
少しずつ知り、少しずつ進むたびに、その先が見えてくる。
俺の世界はまだ、広がり始めたばかりだった。




