第26話 ラティアを発つ
目を覚ましたとき、窓の外はまだ薄暗かった。
ラティアの町は完全には目覚めていない。通りを行き交う人影は少なく、遠くから荷車の軋む音と、家畜らしき鳴き声が聞こえてくる程度だった。
俺は寝台から身体を起こし、前日のうちにまとめておいた荷物へ目を向ける。
革製の水筒。大顎から作った簡易ナイフ。火を起こすための道具。森から持ってきた僅かな素材。それに、宿の女性から受け取った食料を入れるための布袋。
ラティアへ来たときと比べれば、ずいぶん人間らしい格好になった。
破れていた服は、宿でもらった古着に替わっている。虫の外殻から作った水容器も残してはいるが、普段使うのはリシェルに買ってもらった革製のものになった。腰の袋には、自分で働いて得た硬貨も入っている。
数は多くない。
それでも、俺にとっては意味があった。
ここへ来たばかりの頃は、金が生活の中でどう使われているのかさえ実感として理解していなかった。今なら、食べることにも、寝ることにも、道具を手に入れることにも金が必要だと分かる。
言葉についても同じだった。
リシェル、ガルド、セイル、オルド。ラティア、グラウ、リュネール。アクア、カルナ。それ以外にも、身近な物や簡単な動作を示す音をいくつか覚えた。
まともな会話には程遠い。それでも、この町へ入ったばかりの頃は、相手の言葉すべてが意味のない音の連続にしか聞こえなかった。
今は、その中に知っている音が混じる。
状況と組み合わせれば、短い指示なら意味を推測できることもある。文字についても、ほんの一部だけだが、音や意味と結びつくものが生まれ始めていた。
長く滞在したわけではないのに、来たときとはかなり違う。
俺は窓の外を見る。
今日、俺はラティアを出る。
昨夜までのやり取りから、それだけは理解できていた。
向かう先はリュネール。
地図の上で見ただけの場所だ。ラティアより大きく描かれ、複数の道が集まっていたことは覚えている。ただ、どれほどの距離があるのか、何日歩くことになるのかまでは正確に理解できていない。
それでも、行くと決めた。
ラティアへ来たことで、分からないことは確実に減った。
同時に、知りたいことは増えた。
俺の角。この身体。《魔核》。地下の遺跡。黒い記録板。そして、あそこで眠っていた一本角の男。
何一つ、まだ答えには辿り着いていない。
なら、ここで止まる理由はなかった。
俺は荷物を持ち上げ、最後に部屋を見回した。
狭く、簡素な部屋だ。
それでも、冷たい石床でもなければ、森で自分なりに作った寝床でもない。この世界へ来て初めて、扉に鍵を掛けて眠ることのできた部屋だった。
「世話になったな」
誰に言うでもなく呟き、俺は扉を開けた。
◇
一階へ降りると、宿の女性はすでに起きていた。
厨房から出てきた彼女が、荷物を持った俺を見る。それだけで事情を察したらしく、何かを話しかけてきた。
全部は分からない。
ただ、その中に俺の名前と「リュネール」という音が入っていた。
俺は頷く。
「リュネール」
女性も頷いた。
そのまま厨房へ戻り、少しして布に包んだものを持ってくる。
差し出された包みを開くと、黒っぽいパンと干した肉、それに小さな果実が入っていた。
旅の途中で食べろ、ということだろう。
「……また貰うのか」
反射的に腰の袋へ手を伸ばす。
昨日働いて得た硬貨がある。十分かどうかは分からないが、せめて食料代くらいは払いたかった。
だが、俺が硬貨を取り出すより先に女性が首を横へ振った。
それでも出そうとすると、今度は手首を押さえられる。
はっきり拒否された。
「分かった。もう出さない」
日本語は通じないが、俺が諦めたことは伝わったらしい。女性は満足そうに頷いた。
俺は布包みを両手で受け取る。
以前なら、ここで頭を下げるだけだった。
今は一つだけ違う。
リシェルから教わった言葉の中に、感謝を伝える短いものがある。
まだ発音に自信があるわけではない。それでも、何度か練習した音を思い出し、ゆっくり口にする。
宿の女性が少し目を見開いた。
俺はそのまま頭を下げる。
一瞬遅れて、女性が大きく笑った。
返ってきた言葉の意味までは分からなかったが、伝わったことだけは分かる。
俺もつられて笑った。
言葉を覚える。
たったそれだけで、昨日までできなかったことができるようになる。
その価値を、改めて実感した。
◇
宿を出ると、四人はすでに待っていた。
ガルド。
セイル。
オルド。
リシェル。
森で初めて見たときに近い装備へ戻っている。
ガルドは剣と盾を持ち、セイルは弓を背負っていた。オルドも杖を携え、リシェルの荷物には見覚えのある記録用の板が収められている。
町で見る彼らより、この姿の方が俺には馴染みがあった。
俺と出会ったとき、彼らはグラウを歩いていた。
今度は、俺もその四人と一緒に町の外へ出る。
リシェルが俺の名前を呼ぶ。
「レイジ」
続けて短く何か言った。
その中に、覚えた動作語の一つが混じっている。
行く。
おそらく、その意味だ。
俺は頷いた。
「行こう」
日本語でも、今度は意図が伝わったらしい。
ガルドが俺の腰へ視線を向け、続いて空いている手を見る。
そこで気づいた。
「槍か」
町へ入るときに門で預けたままだ。
忘れていたわけではない。ただ、町の中では必要になる場面がなく、数日触れていなかっただけで妙に遠いものになっていた。
俺たちはそのまま門へ向かった。
◇
朝のラティアを歩く。
市場はまだ本格的には開いていない。それでも店先では品物を並べる者が動き始め、荷車も通りを行き交っていた。
昨日働いた場所の近くを通る。
見覚えのある男がいた。
向こうも俺に気づいたらしい。
「レイジ!」
名前を呼ばれる。
俺は歩調を少し緩め、片手を上げた。
覚えた挨拶を返すと、男が笑った。続けて何か言われたが、そこから先はまだ分からない。
それでも構わなかった。
この町へ来たとき、俺の名前を知る者はリシェルたちしかいなかった。
今は、昨日一緒に働いた男が通りの向こうから俺を呼ぶ。
ほんの僅かな変化だ。
だが、俺がここで過ごした時間が確かにあったのだと思えた。
歩きながら町を見る。
市場。
宿。
荷物を運んだ場所。
見覚えのある通り。
来たときは何もかもが未知だった。今でも知らないものばかりだが、すべてが未知ではなくなった。
それだけで景色の見え方が変わっていた。
◇
門へ着くと、以前見た衛兵がいた。
ガルドが声をかける。
相手もすぐに返し、短いやり取りが始まった。
やはり、この四人はラティアを初めて訪れた者ではないのだろう。態度にも慣れがある。
衛兵の一人が俺を見る。
視線は自然に右側頭部へ向かった。
角。
この反応にも、少し慣れてきた。
何か言われる。
聞き取れたのは、俺の名前と「リュネール」。
それ以外はまだ分からない。
以前ここへ来たときなら、一音も意味を持たなかった。今は二つだけでも分かる。
その差は小さいようで、大きい。
ガルドが何か答えると、衛兵は頷き、門の脇へ向かった。
持って戻ってきたものを見て、少し懐かしくなる。
俺の槍だ。
木の柄。
蔓と繊維で固定した、大型の虫から切り取った大顎。
町の中で加工された道具や武器を何日か見たあとでは、以前より遥かに粗末に見える。
「よくこれで戦ってたな……」
それでも。
これで生き延びた。
巨大な虫と戦い、大型獣の脚を止めた。満足な道具もない中で、自分なりに考えて作ったものだ。
俺は衛兵から槍を受け取る。
柄、固定部分、先端。
一通り確認する。
使えないほど傷んではいないが、以前の戦闘で受けた負荷は残っている。これからも使い続けるなら、補修するか、いずれ別の武器を用意する必要があるだろう。
そのためにも金が要る。
昨日働いて得た程度の硬貨で、まともな武器へ手が届くとは思えない。それでも、少し前までの俺は金を稼ぐ方法すら知らなかった。
今なら、働けば増やせる。
少なくとも、それだけは知っている。
俺は槍を握り直した。
◇
門を抜け、何歩か進んだところで振り返った。
ラティア。
初めて見たとき、低い石壁と木柵に囲まれたその姿は、俺にとって巨大な文明そのものだった。
森しか知らなかったからだ。
今は少し違う。
あの中には宿がある。
市場がある。
働いた場所がある。
文字を教わった机がある。
俺の名前を知る人間もいる。
ただの「人の町」だったものが、ラティアという知っている場所へ変わった。
リシェルが少し先で立ち止まり、こちらを見ている。
俺は前を向いた。
もう戻らないわけではない。遺跡にも、この町にも、必要になればまた来ればいい。
だから今は、先へ進めばいい。
◇
ラティアから離れるにつれ、道は町へ来たときに通ったものとは違う様子を見せ始めた。
幅が広く、轍も深い。ところどころには平たい石が敷かれ、荷車も何台か行き交っている。徒歩の旅人だけでなく、農作物らしき荷物を積んだ者や、武器を携えた者ともすれ違った。
リュネールへ続く道。
地図で見た太い線を思い出す。
おそらく、今歩いているのがそれなのだろう。
俺は周囲を見る。
人とすれ違うたび、角へ視線を向けられることはある。それでも、もう一つ一つへ過剰に反応することはなかった。
恐怖。
好奇心。
驚き。
反応は人によって違う。
角そのものは知られている。
一本であることを気にする者もいる。
年配者の一部には、何かを思い出すような反応をする者がいた。
今分かっているのは、その程度だ。それ以上は答えではなく、俺の推測にすぎない。
なら、覚えておけばいい。
いつか言葉を理解し、調べられるようになったときに確認すればいい。
歩きながら、四人の様子にも目を向ける。
セイルは周囲へ頻繁に視線を走らせ、ガルドも前方だけを見ているわけではない。オルドとリシェルは時折、何かを確認するように言葉を交わしている。
森で初めて彼らを見つけたとき、俺は木々の陰から四人を観察していた。
敵か。
味方か。
姿を見せるべきか。
それすら分からなかった。
今は同じ道を歩いている。
もちろん、完全に信頼しているわけではない。向こうだって、俺が何者なのかを理解しているわけではないだろう。
そもそも俺自身、自分が何者なのか分かっていない。
それでも、一緒に旅をする程度には互いを知った。
今は、それで十分だった。
◇
太陽が少し高くなった頃、道の脇で短い休憩になった。
俺は水筒から水を飲み、木陰へ腰を下ろす。
リシェルは荷物から地図を取り出し、ガルドと何かを確認していた。
俺も近づく。
見覚えのある地図。
グラウ。
ラティア。
そして、リュネール。
リシェルがラティアから伸びる道の途中を指した。
現在地。
たぶん。
そこから指先を動かし、リュネールまで辿る。
地図の上では短い。
実際にどれほど歩くことになるのかは、まだ分からない。
リシェルが数字らしき音を口にし、指を使って補足する。
昨日より数字も分かるようにはなっているが、日数の話なのか、距離なのか、それとも途中で立ち寄る場所の話まで含まれているのかは判断できなかった。
俺が首を傾げると、リシェルが言い直す。
地図を指す。
歩く仕草。
また数字。
それでも完全には分からない。
俺は無理に理解したふりをしなかった。
今必要なのは、この道がリュネールへ続いていること、四人と一緒に進んでいること、水と食料があり、彼らが道程を把握しているらしいこと。
それくらいだ。
細かいことは、少しずつ聞けるようになればいい。
俺は地図の大きな印を指した。
「リュネール」
リシェルが頷く。
続けて何か言う。
覚えた音らしきものが、いくつか混じっていた。
全部は分からない。
それでも、身振りまで含めて考えると、人が多く、ラティアより大きな場所だと伝えようとしているように見えた。
俺はもう一度、地図に描かれたリュネールを見る。
そこには、もっと多くの人がいる。
もっと多くの知識もあるかもしれない。
今の俺には、それだけでも向かう理由として十分だった。
◇
休憩を終え、再び道を歩き始める。
俺はしばらく黙ったまま、冷たい石床で目を覚ましたときのことを思い出していた。
あのときの俺は一人だった。
ここがどこなのか、この身体が何なのか、なぜ生きているのか。何一つ分からず、まず水を探すことから始めた。
そこから火を起こし、食べ物を得て、戦い、遺跡を出た。森を歩き、四人と出会い、言葉の通じない相手と名前を交換した。
ラティアへ来てからは、人と同じ食卓を囲み、文字を習い、地図を見て、働き、自分で金を得た。
一つ一つは小さな変化だ。
世界を変えるようなことでもなければ、何か特別な使命を果たしたわけでもない。
それでも俺にとっては、生きるため、この世界を理解するため、そして自分が何者なのかを知るために必要な積み重ねだった。
俺は右側頭部へ手を伸ばし、黒い角へ軽く触れる。
一本角が何を意味するのか、まだ分からない。
胸の奥にある《魔核》もそうだ。
遺跡へ残してきた黒い記録板も、地下で眠っていた一本角の男も、すべて手がかりにはなっている。
だが、まだ答えではない。
なら、これからも調べればいい。
俺には《解析》がある。
ただし、《解析》は知らないものから勝手に正解を作り出してくれる能力ではない。
自分で見て、聞いて、比べ、考え、情報を積み上げることで、初めて見えてくるものがある。
言葉もそうだった。
町も、地図も、金も同じだった。
何も分からなかったものを観察し、少しずつ意味を拾い、今では以前より理解できるようになっている。
なら、この世界そのものについても同じことを続ければいい。
俺は前を見る。
道は丘の向こうで緩やかに曲がり、その先は見えなくなっていた。
少し前までなら、見えないこと自体が怖かっただろう。
何がいるのか。
何が起きるのか。
どうやって生き延びればいいのか。
今だって警戒は必要だ。
ただ、それだけではなくなった。
この先には何があるのか。
今は、その気持ちの方が少しずつ強くなっている。
前を歩いていたリシェルが何か言い、振り返った。
聞き取れたのは俺の名前だけだった。
「レイジ」
続く言葉は、まだ分からない。
俺は歩調を少し速め、彼女たちへ追いついた。
分からなくてもいい。
今は。
いずれ分かるようになればいい。
森で一人、生き残るだけだった時間は終わった。
ラティアで俺は初めて人の社会へ触れ、言葉を覚え、自分の力で僅かでも金を稼いだ。
まだ異邦人であることに変わりはない。言葉も不自由で、金も少なく、この世界の常識だってほとんど知らない。
それでも、冷たい石床の上で何も分からず立ち尽くしていた頃とは違う。
今は、自分で進む先を選んでいる。
俺は槍を肩へ掛け直した。
目の前には、リュネールへ続く道がある。
その先に何が待っているのかは、まだ知らない。
だからこそ。
俺は行く。
この世界を、もっと知るために。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
これにて第三章「異邦人」は終了です。
森の中で初めて人と出会い、言葉も常識も分からないままラティアへ辿り着いた玲司。
少しずつ言葉を覚え、町での暮らしや金、仕事、そしてこの世界の広がりを知ることになりました。
次章からは、ラティアを離れ、リュネールへ向かう旅が始まります。
玲司の黒い一本角や遺跡、《魔核》に関する謎も、少しずつ物語の核心へ近づいていきます。
引き続き楽しんでいただければ嬉しいです。
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