第25話 自分で稼ぐ
翌朝、目を覚ました俺が最初に手に取ったのは、昨日宿の女性から渡された硬貨だった。
小さな金属片。表と裏には違う模様が刻まれ、縁は完全な円ではなく僅かに歪んでいる。市場では似た硬貨を何度も見たが、これがどれほどの価値を持つのかはまだ分からない。
昨日、市場でいくつかの商品と比べたことで、大金ではないことだけは想像できた。
それでも、俺にとっては特別だった。
誰かに恵んでもらったものではない。荷物を運び、その対価として受け取った。この世界へ来て初めて、自分の行動が金という形へ変わったものだ。
俺は硬貨を机へ戻し、壁際の水筒へ目を向ける。
宿代。
食事。
服。
この水筒。
ラティアへ来てから、自分一人では用意できなかったものが一気に増えた。
森にいた頃は、必要なものを自分で得るしかなかった。水を探し、食料を確保し、道具を作る。それができなければ困るのは俺だけだった。
町では違う。
誰かが作り、誰かが運び、誰かが売る。
俺はその中から必要なものを受け取る。
なら当然、こちらからも何かを返さなければならない。
今のところ、ほとんど返せていない。
「やっぱり、仕事は必要だな」
問題は、何ができるかだ。
地球で得た知識は残っている。《解析》という、この世界へ来てから目覚めた力もある。
ただ、知っていることと、それを金に換えられることは別だった。
鉄製品を使ったことがあるからといって、鉄を精錬できるわけではない。農作物を食べていたからといって、畑を管理できるわけでもない。完成品の知識だけ持ち込んでも、材料も技術も道具も違えば、そのまま再現できるとは限らない。
森で道具を作ったときにも思い知らされた。
知識は便利だ。
だが、それだけで何でもできるわけではない。
今すぐ確実に使えるものといえば、若い身体くらいだった。
歩ける。
荷物を運べる。
少なくとも昨日のような仕事なら役に立てる。
まずはそこからでいい。
昨日、俺が働きたいという意思を身振りで伝えたとき、リシェルは町の奥を指していた。
何があるのかは分からない。
それでも、行けば何か分かる。
俺は硬貨を腰へしまい、部屋を出た。
◇
朝食を済ませる頃には、リシェルも宿へ来ていた。
俺を見るなり、いつものように短い挨拶をする。昨日までなら音を真似するだけだったが、今では使われる状況もかなり分かってきた。
俺も同じ言葉を返す。
リシェルが自然に頷いた。
こういう小さなやり取りでも、積み重なると違う。出会ったばかりの頃は、名前以外のすべてが意味のない音だった。
今は、その中から少しだけ拾える。
俺は朝食を終えると、自分を指した。
次に荷物を持つ仕草。
昨日受け取った硬貨。
最後に、リシェルが町の奥を示したときの方向へ手を向ける。
彼女は少し考え、すぐ頷いた。
伝わったらしい。
二人で宿を出る。
昨日までより、町を歩くことへの緊張は少なかった。
視線は相変わらず感じる。
俺の角を見る者もいる。
それでも、一日過ごしただけで「視線を向けられること」自体には少し慣れた。反応のすべてを敵意だと考える必要がないことも分かってきている。
リシェルは市場を通り抜け、その先へ進んだ。
建物の雰囲気が少し変わる。
店先に商品を並べる場所より、大きな扉を持つ建物が増えていた。軒先には木箱や袋が積まれ、荷車も何台か止まっている。
人の動きも違う。
客を呼び込む声より、荷物を運ぶ者同士の短いやり取りが多い。
「なるほど」
昨日、宿の裏でやった仕事を大きくしたような場所だ。
荷運び。
積み下ろし。
特別な技術がなくても、身体を使えればできる。
今の俺にはちょうどいい。
リシェルは、その中でも比較的大きな建物の前にいた男へ声をかけた。
四十代くらいだろうか。太い腕を持ち、腰には文字の書かれた板と筆記具を下げている。
二人が話し始める。
ほとんど理解できない。
それでも途中で、自分の名前が聞こえた。
「レイジ」
続いて。
「グラウ」
森の名前。
男が俺を見る。
まず顔。
次に角。
服。
腰の簡易ナイフ。
順番に視線が動く。
何か質問する。
リシェルが答える。
大型獣との戦いについて話しているのか、森で見つけた経緯を説明しているのか、それすら判断できなかった。
俺は黙って待つ。
やがて男が少し離れたところへ置かれていた袋を指した。
続いて、建物の奥。
最後に俺を見る。
運べ。
分かりやすい。
俺は頷いた。
男がもう一度何か言う。
今度は硬貨を取り出し、俺へ見せた。
仕事。
報酬。
そこまでなら理解できる。
金額は分からない。
だが、働けば金がもらえる。
今必要なのはそれだった。
「やる」
当然、日本語は通じない。
それでも腕まくりをして荷物へ向かった俺を見て、男は意味を理解したらしい。
◇
仕事そのものは単純だった。
荷車から降ろされた袋や木箱を、指定された場所まで運ぶ。
昨日宿でやったことと基本は変わらない。
違うのは量だ。
荷車が来る。
荷物が降ろされる。
それを運ぶ。
積み終わる頃には別の荷車が入ってくる。
最初は何をどこへ持っていけばいいのか分からず、そのたびに周囲を見る必要があった。
だが、何度か繰り返すうちに規則が見えてくる。
同じ種類の袋は同じ場所へ。
瓶らしきものが入った箱は壁際。
薪は屋外。
荷物そのものにも簡単な印があり、置き場にも似た印がある。
文字を読めなくても、形なら比べられる。
俺は一つの箱にある記号を見て、同じ形の札がついた場所へ運んだ。
担当の男が頷く。
正解。
次も同じ。
三度目には、指示される前に運べた。
「レイジ!」
名前を呼ばれる。
振り返ると、朝に話した男が別の荷物を指している。
短い言葉。
その中に、昨日覚えた動作語に似た音が混じっていた。
持つ。
行く。
正確な意味はまだ分からない。
だが男が示した方向を見れば十分だった。
木箱を抱え、指定された場所へ運ぶ。
男がまた頷く。
こうして働いていると、言葉の覚え方も変わる。
机の上では、物を指して名前を覚えた。
ここでは行動と一緒に音を聞く。
同じ指示。
同じ動作。
何度も繰り返される。
記憶に残りやすい。
俺は荷物を運びながら、周囲で交わされる言葉へ意識を向けた。
持つ。
置く。
待つ。
こっち。
まだ仮説にすぎない。
それでも、音と状況が重なるたびに意味の候補が絞られていく。
《解析》を使う必要はなかった。
今は自分で拾える。
それに、この程度の情報まで毎回能力へ頼る必要もない。
頭と身体で覚えた方がいい。
◇
昼近くになると、一度作業が止まった。
他の男たちが壁際や木箱へ腰を下ろす。
休憩らしい。
俺も邪魔にならない場所へ座り、革の水筒を手に取った。
栓を抜く。
飲む。
「便利だな……」
改めて実感する。
外殻から作った容器では、水を飲むたびに固定を気にする必要があった。形も悪く、歩けば揺れる。
これは違う。
肩へ掛けて歩ける。
栓を外せばすぐ飲める。
森で苦労していたことが、町では道具一つで解決している。
文明というのは、こういう小さな便利さの積み重ねなのかもしれない。
隣へ誰かが腰を下ろした。
朝から何度か一緒に荷物を運んでいた男だった。俺より少し年上に見える。
男が自分の水筒を持ち上げ、何か言う。
俺は中身を示すつもりで口にした。
「アクア」
男が少し驚いたあと、笑った。
「アクア」
通じた。
たった一語。
それでも、もう意味のない音ではない。
男は自分の胸を指して名前を言った。
一度では聞き取れない。
俺が首を傾げると、今度はゆっくり繰り返してくれる。
俺も真似する。
少し違ったらしい。
もう一度。
三度目で男が頷いた。
次は俺。
「玲司」
「レイジ」
ほぼ正しい。
俺も頷く。
名前を交換する。
ただそれだけのやり取りが、以前よりずっと簡単になっていた。
男の視線が俺の右側頭部へ移る。
「カルナ」
俺は自分の角へ触れた。
「カルナ」
ここまでは分かる。
男が今度は両手の人差し指を頭の左右へ立てた。
二本。
続いて俺。
一本。
まただ。
宿でも。
市場でも。
角があること以上に、一本だけであることを気にする者がいる。
俺は一本指を立て、自分の角を示す。
男が何か言う。
表情に恐怖はない。
どちらかといえば好奇心が強い。
それでも、意味は分からなかった。
俺が首を横へ振ると、男も言葉が通じないことを思い出したらしい。それ以上は聞かず、水を一口飲んだ。
助かる。
今の俺自身。
なぜ角が一本なのか。
その答えを持っていない。
◇
午後になると、疲労がはっきり出始めた。
腕が重い。
肩も張る。
掌にも痛みがある。
今の身体が若いからといって、無限に動けるわけではない。当たり前のことだが、その方が安心した。
重いものを持てば疲れる。
休めば少し戻る。
限界はある。
この身体も、生き物としての基本から外れているわけではない。
俺は午前中より少し速度を落とした。
疲れた状態で無理に急げば、荷物を落とす。
瓶が入った箱なら中身を壊すかもしれない。
それでは働いた意味がない。
速さより、失敗しないことを優先する。
二人で持つ大きな箱では、相手の歩調を見る。
持ち上げるタイミング。
曲がる方向。
下ろす位置。
言葉が十分に通じなくても、視線と動きで合わせられる。
箱を置いたあと、一緒に運んでいた男が短い言葉を発した。
何度か聞いたことがある。
意味はまだ確定していないが、「いい」「終わった」その辺りだろうか。
俺も同じ音を返してみる。
男が笑った。
大きくは間違っていないらしい。
ほんの少しずつ。
言葉が、音ではなく道具になり始めていた。
◇
作業が終わったのは、太陽がかなり傾いてからだった。
朝に俺を受け入れた男が、一人ずつ名前を呼んでいる。
呼ばれた者が前へ出る。
男が何かを確認し、硬貨を渡す。
報酬。
俺にも分かった。
順番を待つ。
「レイジ」
呼ばれた。
前へ出る。
男は俺の顔を一度見たあと、手のひらへ硬貨を載せた。
一枚。
さらに数枚。
昨日宿でもらったものと同じ種類に見える。
俺は思わず手の中を見る。
何枚ある。
今日覚えた数字を頭の中で使いながら数える。
一。
二。
三。
まだ滑らかとは言えない。
それでも数えられた。
そして、昨日の一枚より多い。
朝から身体を動かした対価として考えれば当然なのかもしれない。
大金ではない。
おそらく。
市場で見た物価から考えても、これだけで長く暮らせるような額ではなさそうだ。
それでいい。
簡単な荷運びだけで大金が手に入る方が不自然だ。
俺は男へ頭を下げる。
「ありがとう」
この世界の礼の言葉は、まだ自信を持って使えない。
それでも、俺が感謝していることは伝わったらしい。
男も短く返した。
俺はもう一度、手の中の硬貨を見る。
昨日とは違う。
偶然目の前で困っていた人を手伝い、その礼としてもらった金ではない。
今日は最初から働くために来た。
任された仕事をした。
一日動いた。
そして報酬を受け取った。
自分から働いて。
自分で稼いだ。
この世界で初めて。
社会の中から得た金だった。
◇
建物を出ると、少し離れた場所にリシェルがいた。
朝からずっと待っていたわけではないだろう。
何か別の用事を済ませ、頃合いを見て戻ってきたらしい。
彼女は俺の汚れた上着と汗を見て、それから手の硬貨へ視線を落とした。
「レイジ?」
俺は硬貨を見せる。
次に建物。
荷物を持つ仕草。
最後にもう一度硬貨。
意味はすぐ伝わったらしい。
リシェルが笑った。
俺も少し笑う。
今日は説明しやすい。
昨日より知っている言葉も増えている。
俺は硬貨を一枚取り出し、リシェルへ差し出した。
彼女はすぐ首を横へ振った。
予想どおりだ。
俺は革の水筒を持ち上げる。
次に硬貨。
リシェル。
返す。
今度は昨日より意味が伝わりやすかった。
彼女は少し困ったように俺を見る。
それでも俺は手を引かない。
「全部返せてないのは分かってる」
意味は通じない。
もちろん、水筒一つの価値さえ正確には知らない。
宿代も。
食事も。
ほかにも世話になっている。
一枚で返せるとは思っていない。
ただ。
ゼロのままにはしたくなかった。
しばらく俺の顔を見ていたリシェルは、最後に小さく息を吐いた。
そして、差し出していた硬貨を受け取る。
「……よし」
思わず声が出た。
一枚。
それだけ。
借りが消えたわけではない。
むしろほとんど残っているはずだ。
それでも。
返し始めることはできた。
リシェルは受け取った硬貨を眺めたあと、俺へ何か言った。
声の調子は穏やかだった。
内容は分からない。
でも、怒ってはいない。
それで十分だった。
◇
宿へ戻る途中、リシェルが足を止めた。
「レイジ」
呼ばれて振り返る。
彼女はまず自分を指した。
次に俺。
そして、道の先。
歩く仕草。
さらに何かを言う。
その中に、知っている名前があった。
「リュネール」
俺は顔を上げる。
「リュネール?」
リシェルが頷いた。
以前見せてもらった地図を思い出す。
ラティアから道を辿った先にあった、大きな印。
リシェルは指を使って何か数え、もう一度道を示す。
日数。
出発までの日数。
移動にかかる日数。
候補はいくつかある。
今の俺には区別できない。
だが、自分と俺を順番に指してからリュネールという名前を出した以上、一緒に向かう話である可能性は高い。
俺は自分を指す。
次に、遠くを指した。
「リュネール」
リシェルが頷いた。
いつか。
ではない。
思っていたより近いうちに、その話が現実になるらしい。
俺はラティアの通りを見る。
まだ来たばかりだ。
言葉もまともには話せない。
金の価値も完全には分からない。
今日ようやく、一日働いて報酬を得たばかり。
それでも。
ラティアへ来たことで、森にいた頃には手に入らなかったものを得た。
人。
言葉。
文字。
金。
地図。
社会。
リュネールへ行けば、また知らないものが増える。
不安はある。
だが、それ以上に欲しいものもある。
情報。
俺の角。
この身体。
《魔核》。
遺跡に残る文字。
今のラティアだけで、すべての答えへ辿り着けるとは思えない。
俺は腰へしまった硬貨へ触れた。
昨日まで価値さえ分からなかった金。
今日は、自分で働いて手に入れた。
知らなかったものを一つ理解した。
次も同じだ。
分からないなら、調べる。
足りないなら、学ぶ。
必要なら、自分で動く。
俺はリシェルを見る。
自分を指し。
次に、道の先。
「リュネール」
そして頷いた。
リシェルの表情が明るくなる。
まだ出発する日も、道のりも、向こうで何をするのかも分からない。
それでも。
次に進む方向だけは決まった。
ラティアの先。
リュネール。
俺は歩き始めたリシェルの隣へ並ぶ。
手元には、自分で稼いだ硬貨が残っている。
小さな一歩だ。
それでも。
誰かに生かしてもらうだけだった俺が。
この世界で、自分の力で生き始めた最初の一日だった。




