第24話 最初の報酬
地図を見せてもらったあと、俺はしばらく一人で部屋に残った。
机の上には木板と筆記具。腰には門でもらった木札があり、壁際にはリシェルに買ってもらった革製の水筒が掛かっている。今着ている上着も、宿の女性から譲ってもらったものだった。
改めて考えると、自分のものと呼べる物はほとんどない。
大顎から作った簡易ナイフ。
虫の外殻から作った水容器。
森から持ってきた僅かな素材。
それくらいだ。
寝床も、食事も、町へ入るときに必要だったらしい金も、今は誰かの助けで成り立っている。
「……このままってわけにはいかないな」
リシェルたちが、なぜここまで俺を助けているのかはまだ分からない。
大型獣との戦いで手を貸したことへの礼かもしれない。事情の分からない異邦人を放っておけないだけかもしれないし、俺自身に興味を持っている可能性だってある。
少なくとも、今のところ敵意は感じない。
それでも、いつまでも好意へ寄りかかるつもりはなかった。
町では食べ物にも宿にも金が必要になる。服や道具も同じだろう。
森にいた頃は、水を探し、食料を得て、寝る場所を作ればよかった。必要なものは、基本的に自分で確保するしかなかった。
町では違う。
自分では作れないものを誰かから受け取る。
代わりに、何かを渡す。
その間にあるのが金だ。
当たり前の仕組み。
だが今の俺は、その当たり前の外側にいる。
金の価値も知らない。
稼ぎ方も知らない。
どんな仕事があるのかも分からない。
そして、まともに言葉も話せない。
「まずは、できることからか」
地球で得た知識はある。
《解析》もある。
ただし、知識を持っていることと、それを今すぐ金へ換えられることは別だった。
鉄を一から作れるわけではない。
農業の専門家でもない。
何か便利な道具の完成形を知っていても、必要な材料や加工方法まで自分で再現できなければ意味はない。
森で何度も思い知らされた。
知っていることと。
作れることは違う。
なら、今すぐ使えるものから考えるしかない。
今の身体は若い。
森を歩き回り、荷物を運ぶくらいならできる。
特別なことができなくても、身体を使う仕事なら何かあるかもしれない。
問題は。
「仕事をしたい、が伝えられるかだな」
結局また。
言葉だった。
◇
一階へ降りると、リシェルの姿はなかった。
宿の女性が厨房の近くで大きな鍋を動かしている。
俺を見ると名前を呼んだ。
「レイジ」
俺も軽く手を上げる。
少しずつ、この人に名前を呼ばれることにも慣れてきた。
女性は何か言いながら、鍋を持ち上げようとする。
見るからに重そうだった。
俺は反射的に近づき、鍋を指した。
次に自分。
持ち上げる仕草。
女性が首を傾げる。
もう一度。
俺。
鍋。
運ぶ。
ようやく伝わったらしい。
女性は少し迷ったあと、鍋の片側をこちらへ向けた。
俺も持つ。
重い。
だが、二人なら問題ない。
中身をこぼさないように歩き、厨房の奥まで運ぶ。
女性が何か言った。
表情からすれば、礼だろう。
「どういたしまして」
意味の通じない日本語で返す。
それでも、やり取りとしては成立している。
厨房から出ようとしたところで、建物の裏から大きな音が聞こえた。
木と木がぶつかったような音。
続いて男の声。
宿の女性が裏口へ向かったので、俺も少し遅れてついていく。
建物の裏には小さな空き地があり、荷車が一台止まっていた。
荷台には木箱や袋、薪の束が積まれている。
食材や燃料の搬入らしい。
男が二人で、大きな木箱を荷台から下ろそうとしていた。
若い方の男が足を滑らせる。
箱が大きく傾いた。
俺は考えるより先に動いた。
箱の端へ手を差し込み、落ちる方向を支える。
一気に重さが両腕へ掛かった。
「っ……!」
重い。
一人で持ち上げられるようなものではない。
それでも、一瞬支えるだけならできる。
若い男が体勢を立て直し、もう一人も箱を持ち直す。
三人になれば負担はかなり減った。
宿の女性が何か指示する。
建物の奥。
運ぶ場所だろう。
俺たちは歩調を合わせ、箱を物置らしい場所まで運んだ。
ゆっくり下ろす。
床へ置いた瞬間、腕から力が抜けた。
「ふう……」
思った以上にきつい。
若い男がこちらを見ている。
視線は角へ向かい、次に俺の腕、最後に木箱へ移った。
何か言う。
御者らしい男も返事をする。
宿の女性が笑っていた。
内容は分からない。
だが、少し驚かれていることくらいは分かる。
俺自身も、自分の身体についてはまだ判断できていない。
地球にいた頃より若い。
森で動き回っていた分、多少身体が慣れてきた可能性もある。
それ以上の違いがあるのか。
今のところ比較する方法がない。
無理に理由を決める必要はなかった。
戻ろうとしたところで、宿の女性に呼び止められる。
「レイジ」
振り返る。
女性が俺の手を取り、小さな金属片を載せた。
硬貨。
市場で何度か見たものと似ている。
「……え?」
俺は女性を見る。
硬貨。
自分。
もう一度女性。
彼女は頷いた。
「いや、ちょっと待って」
首を横へ振る。
金を貰うつもりで手を貸したわけではない。
そもそも俺は、この宿の代金すら自分で払えていない。
返そうとする。
女性は受け取らなかった。
むしろ俺の手を押し返し、さっき運んだ木箱を指す。
次に俺。
最後に硬貨。
何度か同じように繰り返す。
さすがに分かった。
手伝った。
だから払う。
そういうことらしい。
俺は手のひらの硬貨を見る。
価値は分からない。
これでパンが買えるのか。
もっと少ないのか。
それすら知らない。
ただ。
俺が身体を動かした。
誰かの役に立った。
その結果として。
金が手の中にある。
「……これが、俺の金か」
この世界へ来て初めて、自分の行動に対して受け取った報酬だった。
女性が何か言って笑う。
俺も小さく笑った。
硬貨は軽い。
それなのに。
妙に重く感じた。
◇
まだ荷車には荷物が残っていた。
俺は手の中の硬貨を見てから、荷台へ向かった。
一箱だけ手伝って金を受け取り、そのまま部屋へ戻るのも落ち着かない。
自分を指す。
荷物。
運ぶ仕草。
御者の男が少し驚いたあと、頷いた。
そこからは単純な作業だった。
木箱。
袋。
薪。
順番に運ぶ。
箱によって重さが違う。
穀物らしきものが入った袋。
瓶の入った箱。
薪の束。
御者たちは中身に合わせて扱い方を変えていた。
俺も真似する。
壊れそうなものは慎重に。
重いものは無理に一人で持たない。
何度か往復するうち、言葉も少しずつ耳へ入ってくる。
同じ方向へ運ぶときには、何度も同じ音が使われる。
荷物を置くときにも、別の音が繰り返される。
待つ。
持つ。
こっち。
置く。
まだ正確な意味は分からない。
ただ、状況と音が何度も一致する。
こういう作業は、言葉を覚えるには意外と向いているのかもしれない。
相手の動きを見れば、意味の候補を絞りやすい。
途中、若い男が俺を指した。
「レイジ?」
宿の女性から聞いたのだろう。
俺は頷く。
「玲司」
男も自分を指し、名前らしき音を口にする。
一度では聞き取れない。
もう一度。
俺も真似する。
発音が違うらしく訂正される。
三度目。
男が笑った。
どうやら通じた。
また一人。
名前を知る相手が増えた。
少し前まで、生きている誰かに会うことすらできなかった。
今は、知らない男と荷物を運びながら名前を交換している。
変化の速さに、自分でも少し戸惑う。
最後の薪を運び終える頃には、額に汗が浮かんでいた。
御者が空になった荷台を確認する。
宿の女性と何かを話し始める。
その中に数字らしき音が混ざった。
硬貨も動く。
俺は自然と耳を澄ませる。
荷物。
運ぶ。
支払い。
誰かが品物を作る。
別の誰かが運ぶ。
宿がそれを買う。
料理や燃料として使う。
そして客が金を払う。
森では、自分と食料だけでほとんど完結していた。
町では違う。
一つの食事の後ろに、何人もの人間がいる。
俺が手伝ったのは、その流れのほんの一部分。
それでも。
その一部分にも価値がある。
だから金が動く。
少しだけ、この町の仕組みが見えた気がした。
◇
昼を過ぎた頃、リシェルが宿へ戻ってきた。
食堂へ入ってきた彼女が俺を見つける。
その視線が、手元で止まった。
俺はさっきから何度も硬貨を眺めていた。
「レイジ?」
リシェルが近づく。
俺は硬貨を見せた。
次に自分。
大きな箱を持つ仕草。
宿の女性。
もう一度硬貨。
リシェルは途中で理解したらしい。
少し目を見開き。
それから笑った。
何か言う。
意味は分からない。
だが、悪い反応ではなかった。
俺は硬貨を指す。
次に彼女。
返すような仕草をする。
リシェルが首を傾げた。
市場で買ってもらった水筒を示す。
自分。
リシェル。
硬貨。
もう一度、返す。
今度は理解したようだった。
だがリシェルは首を横へ振る。
受け取らない。
俺は眉を寄せた。
借りたつもりだった。
返す。
その意思を伝えたい。
リシェルは少し考え、俺の持つ硬貨を指した。
次に荷物。
宿の女性。
そして俺。
そのあと自分を指し、水筒へ触れる。
何か説明している。
意味は分からない。
ただ、今すぐ返す必要はないと言っているようにも見える。
少なくとも。
俺が受け取ったこの一枚を、そのまま渡してほしいわけではなさそうだった。
俺は少し考え、硬貨を握る。
「それでも返す」
胸へ手を当てる。
次にリシェル。
硬貨。
返す仕草。
最後に頷く。
約束。
そこまで正確には伝わらなくてもいい。
返したい。
その意思だけ分かればいい。
リシェルはしばらく俺の顔を見ていた。
やがて小さく笑う。
そして、頷いた。
それで十分だった。
俺は硬貨を腰の袋へしまった。
今すぐ使うつもりはない。
価値を知らないから。
それに。
初めて自分で得た金だ。
少しくらい、大事にしてもいいだろう。
◇
午後、俺はリシェルへ市場を指した。
次に硬貨。
商品。
数字。
何度か身振りを繰り返す。
最初は首を傾げていたが、途中で理解したらしい。
二人でもう一度市場へ向かった。
目的は買い物ではない。
この一枚に、どれほどの価値があるのか知りたかった。
まずパン。
店主が値段を言う。
リシェルが指を使って補足する。
硬貨。
枚数。
俺は集中して見る。
次に果実。
干し肉。
布。
革製品。
いくつか値段を比べる。
市場では一種類だけでなく、大きさや色の違う硬貨も使われていた。
同じ硬貨を複数枚渡す者。
別の硬貨一枚で済ませる者。
価値に差がある。
そこまでは間違いない。
俺が持っている硬貨は、少なくとも高額なものではなさそうだった。
「そりゃそうか」
荷物運びを少し手伝っただけだ。
それで何日も暮らせる方がおかしい。
重要なのは。
一日に必要な金だ。
俺は自分を指す。
宿。
寝る仕草。
食べる。
最後に硬貨。
リシェルが少し考え、指を使って数字を示した。
俺も確認する。
まだ数字を完全に使いこなせるわけではない。
だが。
今持っている一枚だけでは、宿と食事を賄うには足りない。
そこだけは分かった。
現実的だ。
そして。
まだ自立には遠い。
今の俺は、リシェルたちの助けで生活している。
それ自体が悪いとは思わない。
できないことは頼ればいい。
一人で何でもできると思う方が危険だ。
だが。
返せるようにはなりたい。
自分の飯代も払えない状態を、当然にはしたくない。
ラティアで暮らすなら。
継続して金を得る方法が必要だった。
◇
市場から宿へ戻る途中、俺は町を歩く人々を朝とは少し違う目で見ていた。
店で品物を売る者。
荷を運ぶ者。
金属を叩く職人。
畑から作物を運び込む者。
布を縫う女性。
刃物を研ぐ男。
それぞれが何かをして。
その対価で生活している。
俺だけが、まだそこから外れている。
異邦人だから。
言葉が話せないから。
今は助けてもらっている。
だが、いつまでもそのままではいられない。
俺は自分の手を見る。
森で生き延びた。
巨大な虫を倒した。
粗末でも道具を作った。
魔力らしきものを僅かに動かせる。
《解析》もある。
地球で得た知識も残っている。
使えるものが何もないわけではない。
ただ。
この社会で、それらが何の価値を持つのか。
俺はまだ知らない。
隣を歩くリシェルがこちらを見た。
「レイジ?」
俺は少し考える。
市場で働く人々を指す。
次に自分。
荷物を持つ仕草。
硬貨。
もう一度、自分。
働く。
金を得る。
そう伝えたい。
リシェルはしばらく俺の動きを見ていた。
やがて、表情が変わる。
理解したらしい。
何か言う。
まだ聞き取れない。
それから、町の奥へ視線を向けた。
一つの方向を指す。
俺。
働く仕草。
硬貨。
そして、もう一度その方向。
何かある。
仕事に繋がる場所か。
誰か紹介できる相手がいるのか。
今の俺にもできることがあるのか。
そこまでは分からない。
ただ。
次に進めるらしい。
それだけは伝わった。
俺はリシェルが示した先を見る。
「行ってみろ、ってことか?」
リシェルが頷いた。
腰の袋へ入れた一枚の硬貨に、指先で触れる。
森では、生きるために水を探し、食料を得て、獣と戦った。
町では。
食べて。
眠って。
人の中で暮らすために。
働く。
当たり前のことだ。
ただ、その当たり前を。
俺はこの世界で、これから一つずつ覚えていく。
まずは。
自分の飯代くらい。
自分で払えるようになろう。




