第23話 地図の上の世界
市場から戻ってしばらくすると、リシェルがまた部屋を訪ねてきた。
今日は木板だけではない。
脇に抱えていたものを机の上へ置き、丁寧に広げていく。
紙だった。
何枚かを繋ぎ合わせたような大きな一枚。その上には文字だけでなく、曲がりくねった線や大小さまざまな印、細かな模様が描かれている。
俺は思わず椅子から立ち上がった。
「……地図か?」
もちろん日本語は通じない。
だが、俺の反応を見たリシェルが少し笑った。
形を見れば分かる。
縮尺がどこまで正確なのかは判断できない。それでも、地形や場所を上から見た形で表していることは明らかだった。
この世界へ来て初めて見る地図。
俺は机へ身を寄せる。
リシェルが地図の一角にある印を指した。
周囲のものより少し大きな四角。
横には文字が並んでいる。
「ラティア」
聞き慣れた音だった。
俺も同じ場所を指す。
「ラティア」
リシェルが頷いた。
今いる場所。
名前だけだったものが、初めて地図上の位置と結びついた。
改めて見ると、ラティアからはいくつかの線が伸びている。昨日通った道も、このどれかだろう。その周囲には区切られた模様があり、町の外で見た畑を表しているようにも見えた。
そしてラティアの片側。
地図のかなり広い範囲を、不規則な線と木を簡略化したような印が埋めている。
森。
俺はそこを指した。
「グラウ」
リシェルが答える。
聞いたことのない音だった。
「グラウ?」
もう一度確認する。
リシェルは頷き、指先で森の範囲を広くなぞった。
「グラウ」
森そのものを意味する言葉なのか。
それとも、あの森につけられた名前なのか。
俺は少し考え、両手で木が生えているような形を作ってから、地図の別の場所にある小さな木の印を指した。
リシェルは違う音を返す。
次に、この広い森を指した。
「グラウ」
なるほど。
少なくとも単純に「森」という意味ではなさそうだ。
グラウ。
あの森につけられた名前。
そう考えるのが一番自然だった。
俺にとっては、ただの「外」だった。
遺跡を出た先に広がり、水を探し、獣を警戒し、初めて人と出会った場所。
だが、ラティアに住む人間からすれば、昔から名前を持つ土地の一つなのだ。
その事実が妙に新鮮だった。
俺が知らなかっただけで、世界は最初から存在していた。
リシェルは次に、ラティアから伸びている太い線を指で辿った。
グラウとは反対方向。
線は地図の上を長く伸び、やがて大きな印へ繋がっている。
ラティアより明らかに大きい。
周囲からも複数の線が集まっていた。
「リュネール」
リシェルが言う。
「リュネール?」
「リュネール」
彼女がもう一度頷く。
場所の名前らしい。
俺はラティアを指し、次にリュネール。
人差し指と中指を机の上で歩かせる。
移動。
リシェルはすぐ意図を理解した。
頷き、何か説明する。
途中に数字らしき音も混ざっていた。
距離か。
日数か。
あるいは別の話か。
まだそこまでは分からない。
俺が困っていることに気づいたのか、リシェルは指を使って数を示し、それから地図上の道をなぞった。
何日かかるのかを説明している可能性はある。
だが、数字すら完全には覚えていない。
中途半端に理解したつもりになる方が危険だ。
今は、ラティアから道が続き、その先にリュネールという大きな場所がある。
それだけ分かれば十分だった。
俺は地図をさらに見る。
ラティア。
グラウ。
リュネール。
それ以外にも名前のついた場所がいくつもある。
川。
小さな集落らしき印。
道。
俺が知っていた世界とは比べものにならない。
ほんの少し前まで、俺にとって世界とは遺跡と小川、その周囲の森だけだった。
今は違う。
ラティアがある。
そこから道が伸びている。
その道の先にも、人の暮らす場所がある。
そして地図の端まで見ても、世界がそこで終わっているようには見えなかった。
俺は紙の端を指し、そのまま外側へ手を動かした。
「この先も?」
日本語では意味がない。
それでも意図は伝わったらしい。
リシェルは少し考えたあと、頷いた。
両手を広げる。
やはり。
これは世界全体を描いた地図ではない。
今いる地域の一部。
おそらく、その程度なのだろう。
胸の奥が少し高鳴った。
世界は。
思っていたより、ずっと広い。
◇
地図を眺めていると、今度はリシェルが俺を指した。
「レイジ」
続いて地図。
何かを尋ねる。
分からない。
彼女はもう一度、自分を指す。
次にラティア。
そして俺。
地図の上を探すような仕草。
そこでようやく意味の候補が浮かんだ。
どこから来た。
そう聞いている?
リシェルはグラウを指す。
次に俺。
可能性は高い。
俺は地図へ視線を落とした。
どこまで話す。
森から来たことは隠す意味がない。
彼女たちは俺を森の中で見つけている。
問題は、その先。
遺跡。
あの場所はまだ教えない。
少なくとも、彼らが何者なのかをもっと知るまでは。
俺はグラウの範囲を指し、それから自分の胸へ手を当てた。
リシェルが頷く。
そこまでは知っている、という反応に見える。
続いて彼女は、ラティアに近い森の外縁を指した。
俺を見る。
俺は首を横へ振った。
違う。
もう少し内側。
ただし、正確な方向は示さない。
指先で広い範囲をなぞる。
この辺り。
その程度。
リシェルの表情が変わった。
もう一度俺を見る。
森。
俺。
彼女が何か確認する。
俺は頷いた。
すると、リシェルは少し早口で何か言い始めた。
ほとんど理解できない。
だが、声の調子は明らかに変わっている。
驚いている。
どうやら、グラウの中にいたこと自体より、森の奥側から出てきたことの方が重要らしい。
リシェルは椅子から立ち上がり、扉を開けて誰かを呼んだ。
しばらくすると足音が近づく。
入ってきたのはオルドだった。
少し遅れてガルドも現れる。
リシェルが地図を指しながら説明する。
「レイジ」
「グラウ」
知っている音がところどころ混ざる。
オルドが地図を見る。
次に俺。
ガルドも同じだった。
リシェルが俺の示した辺りを指すと、二人の表情が変わった。
俺を見る目。
最初に森で出会った頃とは少し違う。
疑っている。
それだけではない。
どうやって生きていた。
そんなことを考えているようにも見えた。
まあ、当然か。
あの森には巨大な虫がいた。
赤い結晶を持つ獣もいた。
俺が遠くからしか感知できなかった、さらに強い何かもいる。
彼ら自身、四人で武装して森へ入っていた。
そんな場所から。
まともな装備も持たない。
言葉すら通じない男が。
一人で出てきた。
俺が逆の立場でも怪しむ。
ガルドが俺へ何か質問した。
腕を大きく広げる。
次に剣を振るような仕草。
獣。
戦闘。
その辺りの話だろうか。
俺は少し考え、腰の簡易ナイフへ手を伸ばした。
三人の身体がわずかに固くなる。
当然か。
俺はすぐ刃先を自分側へ向け、柄を持つようにして机へ置いた。
巨大な虫の大顎から作った刃。
ガルドが見る。
手に取る。
角度を変える。
オルドも覗き込む。
リシェルには、焼いた肉を見せたときにある程度伝わっていたはずだ。
俺は両腕を広げて、大きさを示す。
指で巨大な顎を表す。
次に大顎の刃。
自分。
戦う仕草。
伝わっただろうか。
リシェルが俺を指す。
大顎。
森。
何か聞く。
俺は頷いた。
少なくとも一体は、自分で倒した。
その程度の意味は伝わったらしい。
ガルドの目つきが変わった。
好意的になった、とは限らない。
単純に評価を改めただけかもしれない。
警戒が増した可能性だってある。
それでいい。
俺も彼らをまだ完全には信用していない。
重要なのは、自分を必要以上に強く見せないことだった。
あの虫との戦いは余裕などなかった。
一つ間違えば死んでいた。
その事実を今は説明できない。
だからこそ、余計な誇張もしない。
俺は机に置いた大顎を静かに引き寄せた。
◇
オルドが地図へ視線を戻した。
今度はグラウのさらに奥を指す。
俺が示した場所より深い。
何か言う。
ガルドが短く返した。
リシェルも会話へ加わる。
同じ音が何度か繰り返された。
知らない言葉だ。
意味は分からない。
ただ、三人の表情を見る限り、気軽に行く場所の話をしているようには見えなかった。
危険。
深部。
強い生物。
立ち入るべきではない場所。
いくらでも想像できる。
だが、想像は答えではない。
音だけ覚えておく。
地図へ目を戻しているうちに、別のことへ気づいた。
ラティアの周辺には情報が多い。
道。
畑。
川。
いくつもの印。
ところが、グラウの内部へ入るほど描写が少なくなる。
特に奥。
道らしい線がほとんどない。
建物や集落を示していそうな印もない。
森の形は描かれている。
だが、その中身は薄い。
「……詳しく分かってないのか?」
少なくとも、この地図を作った者が森の全域を把握しているようには見えない。
俺が暮らしていた範囲がどこなのか、この地図だけでは特定できない。
そして。
遺跡らしき印も見当たらなかった。
胸の奥で、何かが引っかかった。
もし、あの遺跡がこの地域で広く知られている場所なら。
普通は何らかの印があってもおかしくない。
もちろん、この地図が単純すぎて省略されている可能性もある。
古い地図かもしれない。
そもそも遺跡を記載する種類の地図ではない可能性もある。
まだ結論は出せない。
だが。
少なくとも、誰でも知っている場所ではなさそうだった。
黒い記録板。
一本角の死者。
地下に残された施設。
俺が目を覚ました部屋。
あそこには、今の俺にとって重要な情報が残っている。
場所を軽々しく話さなかった判断は、やはり間違っていない。
リシェルがこちらを見ていた。
何か尋ねる。
俺は首を横へ振る。
分からない。
それは嘘ではない。
グラウの全体についてなら、本当に何も知らない。
俺が知っているのは、遺跡と小川、その周辺。
広大な森のほんの一部だけだ。
今は。
それで十分だった。
◇
ガルドとオルドが部屋を出たあとも、リシェルは残った。
地図を畳む前に、もう一度ラティアを指す。
続いて。
リュネール。
そして俺。
何かをゆっくり言う。
知っている動作語に近い音が混じっていた。
行く。
そう聞こえる。
俺は自分を指す。
次にリュネール。
「俺が、ここへ?」
リシェルが頷いた。
ただし、それだけではない。
続けて何か説明する。
指を使う。
別の場所も示す。
今すぐ行くという意味ではなさそうだった。
理由も分からない。
彼女自身がリュネールへ向かう予定なのか。
俺を連れていく必要があるのか。
もっと大きな場所なら、この角について知る者がいるのか。
考えても答えは出ない。
今分かるのは一つだけ。
ラティアは終点ではない。
この先がある。
俺は地図の大きな印を見る。
リュネール。
名前しか知らない場所。
そして、その地図の外にも世界は続いている。
少し前までなら。
考える余裕すらなかった。
今日を生きる。
水を探す。
食べ物を得る。
獣から逃げる。
それだけだった。
今は。
知らない場所へ行ける可能性がある。
自分で選んで。
リシェルが地図を畳み始める。
俺はその手元を見ながら、改めて考えた。
言葉を覚える。
町を知る。
金を知る。
地図を知る。
一つ分かれば。
その先に、さらに知らないものが見える。
森にいた頃、世界が狭かったわけではない。
俺に見えていた範囲が狭かっただけだ。
俺は窓の向こうへ視線を向ける。
ラティアの屋根。
その向こうへ続く道。
さらに先にあるリュネール。
そして反対側には。
地図の上でも情報の薄いグラウ。
その奥に、俺が目を覚ました遺跡がある。
どちらへ進んでも。
まだ答えはない。
だからこそ。
調べる価値がある。
俺は畳まれていく地図を見ながら、小さく息を吐いた。
冷たい石床で目を覚ましたとき。
俺の世界は、あの部屋だけだった。
今は。
地図の上にまで広がっている。
まだ読めない文字ばかりだ。
知らない場所ばかりだ。
それでも。
少しずつ。
この世界の形が、見え始めていた。




