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黒環の解析者 ~転生した俺は世界の理を解き明かす~  作者: 流津美
第一部 黒環の目覚め 第三章 異邦人

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第22話 言葉を拾う

目を覚ましたとき、最初に感じたのは違和感だった。


背中が痛くない。


身体を起こしてから、その理由に気づく。藁のようなものを詰めた寝台は、決して上等とは言えない。寝返りを打てば軋むし、毛布も少しごわついている。それでも、冷たい石床や葉を重ねただけの寝床とは比較にならなかった。


「……よく寝たな」


目覚めた瞬間から周囲の気配を探らなかったのは、いつ以来だろう。


警戒を完全に解いたわけではない。大顎から作った簡易ナイフは手の届く場所へ置き、扉にも鍵を掛けていた。それでも夜中に目を覚ましたのは一度だけだった。


遺跡では、小さな物音にも身体が反応していた。


それだけでも大きな違いだ。


窓を開けると、冷たい朝の空気が部屋へ流れ込んできた。


通りでは、すでに人々が動き始めている。籠を抱えた女性。荷車を押す男。店先を掃いている少年。遠くからは、家畜らしき鳴き声も聞こえた。


森とは違う朝だった。


俺は机へ目を向ける。


昨夜練習した文字が残っている。


自分の名前。


見本と比べればまだ不格好だが、最初に書いたものよりはかなりましになっていた。形を眺めながら、対応する音を頭の中で繰り返す。


忘れてはいない。


寝ている間に多少整理されたらしい。


宿でもらった茶色い上着へ袖を通す。少し大きいが、破れた服で町中を歩くよりはずっといい。


次に角へ手を伸ばした。


髪を動かしてみる。


根元の一部は隠せる。


だが、黒い一本角そのものを隠すのは無理だった。


中途半端に隠そうとする方が不自然かもしれない。


「そのままでいいか」


少なくとも昨日まで、角を見ただけで襲われることはなかった。


視線は集める。


人によって反応も違う。


それ以上は、まだ分からない。


情報が足りない段階で行動だけ変える必要はない。


顔を洗おうとして、水差しの前で手が止まった。


この水は飲むものか。


顔を洗うものか。


両方に使っていいのか。


昨日説明された可能性はあるが、当然理解できていない。


「こういうところからか……」


社会の中では、水一つにも使い方の常識がある。


森なら、飲める水かどうかだけ判断すればよかった。


俺は少量を手に取り、匂いを確認してから顔を拭いた。


何も起こらない。


朝からまた一つ、自分が何も知らないことを確認した。


◇


一階へ降りると、宿の女性がすぐに俺を見つけた。


「レイジ!」


名前だけは、もう迷わず分かる。


俺も片手を上げた。


「おはよう」


意味は通じない。


女性が笑顔で短い言葉を返す。


聞いたことのない音だった。


俺が分からずにいると、もう一度同じような調子で言う。


何かを指すわけでもない。


朝。


顔を合わせた直後。


挨拶の可能性は高い。


ただし、今は音だけ覚える。


決めつけない。


食堂にはオルドがいた。


温かい飲み物を前に一人で座っている。俺を見ると片手を上げ、宿の女性が使ったのと同じ音を口にした。


これで意味の候補はかなり絞れた。


俺も聞こえた通りに返してみる。


少し発音が違ったらしい。


オルドが言い直す。


俺も真似する。


今度は笑って頷いた。


通じた。


たった一言の挨拶。


それだけで、昨日とは違う。


宿の女性が朝食を運んできた。


薄い粥のようなもの。


パン。


小さな果実。


夕食より質素だが、十分だった。


俺が食べ始めると、オルドが何か話しかけてくる。


もちろん分からない。


首を横へ振ると、彼は苦笑してから自分の食事を指し、短い言葉を発した。続けて俺の皿も指す。


食事。


朝食。


食べ物。


候補はいくつかある。


俺は音だけ覚えた。


以前なら、意味不明な会話はそのまま流していた。


今は違う。


何が指されていたか。


どんな状況で使われたか。


誰が同じ音を使ったか。


それを一つずつ拾う。


ほかの客の会話にも耳を向けた。


ほとんど分からない。


それでも途中で、知っている音が聞こえた。


アクア。


声を発した男を見る。


給仕を呼んでいる。


その後、水差しが運ばれた。


もう一度。


別の客。


同じ状況。


水。


これでいい。


アクア――水。


かなり確度の高い情報になった。


朝食を半分ほど食べたところで、リシェルが食堂へ入ってきた。


俺を見つけると、先ほど覚えた挨拶を口にする。


今度はすぐに聞き取れた。


俺も返す。


少し間を置いて、リシェルが笑った。


一つ。


意味の通じる言葉が増えた。


◇


朝食のあと、リシェルは木板と筆記具を持ってきた。


食堂の隅にある小さな机を使うらしい。


最初は復習だった。


リシェル。


レイジ。


アクア。


聞く。


指す。


文字を見る。


俺が発音すると、正しければ頷き、違えば言い直される。


そこから新しいものへ移った。


机。


椅子。


扉。


窓。


パン。


人。


対象を指し、音を聞き、文字を見る。


単純な繰り返しだ。


だが、昨日より理解しやすい。


同じ形の記号が別の単語にも現れることがある。


同じような音が含まれる場合もある。


だからといって、一音一文字の体系だと決めるのは早い。


今見えている例が少なすぎる。


それでも規則はある。


その存在だけは分かる。


リシェルは次に、名前をいくつか書いた。


自分。


俺。


ガルド。


セイル。


オルド。


それぞれの音を発しながら文字列を示していく。


人名を並べることで、同じ音と同じ文字の関係を見せようとしているのかもしれない。


俺はリシェルの手元を見る。


教えるのが上手い。


少なくとも、思いついたものを適当に指しているわけではない。


森で初めて見たときも、彼女は何かを観察し、記録していた。


知識を整理することに慣れているのだろう。


俺にとってはありがたい。


しばらくすると、今度は彼女が席を立った。


短い音を発する。


そして歩く。


同じ音。


もう一度歩く。


動作を示している。


俺も立つ。


音を真似し、歩く。


頷かれた。


次は止まる。


座る。


立つ。


手招きして近づかせる。


反対に、離れるよう示す。


名詞だけではない。


動作を示す言葉。


これは大きかった。


物の名前しか分からなければ、できるのは指差しの延長だ。


動詞が分かれば、短い指示を理解できる可能性が出てくる。


リシェルが俺を指し、二つか三つの短い音を続けたあと、自分へ向けて手招きする。


知っている動作語が混じっていた。


俺は彼女へ一歩近づく。


リシェルが頷いた。


全部を理解したわけではない。


それでも、文の一部から行動を推測できた。


昨日まではなかった変化だ。


休憩を挟みながら、しばらく続ける。


さすがに頭が疲れてきた。


覚えた音と文字が混ざり始める。


リシェルも気づいたらしく、筆記具を置いた。


俺は水差しへ手を伸ばす。


「アクア」


これはもう迷わない。


リシェルが頷く。


確実に分かるものが一つ増えるたびに、足場ができるような感覚があった。


今なら。


《解析》はどう判断する。


今日はまだ使っていない。


昨日よりも、音と対象の組み合わせは増えている。


俺は木板に書かれた文字と、頭に残っている音へ意識を向けた。


【解析結果】

対象:未登録文字体系・音声言語


固有名詞対応:複数確認

指示対象―語彙対応:増加

動作語候補:複数確認

音声―文字対応:部分認識


語順傾向:限定的観測

文法構造:解析不能

翻訳:不能


蓄積情報量:増加

解析確度:27%


前より上がっている。


ただ、翻訳不能のまま。


当然だ。


まだ単語をいくつか知っただけなのだから。


それでも「動作語」「語順」という項目が現れた。


俺が集めた情報そのものが変わったから、《解析》が見られるものも増えている。


能力が答えを作っているのではない。


俺が観測したものを、整理している。


この方向でいい。


俺は《解析》を止めた。


頭の奥に軽い重さが残る。


まだ問題ない程度だ。


その直後、リシェルが短い言葉を口にした。


知っている音が一つ入っている。


続けてアクア。


最後に、飲む仕草。


俺は水差しを見る。


「水を飲め……か?」


もちろん日本語は通じない。


俺が水を手に取ると、リシェルが頷いた。


完全な翻訳ではない。


知らない部分はある。


だが、知っている単語と状況を組み合わせれば、文全体の意味を推測できる。


初めてだった。


一語ではなく、短い発話そのものへ反応できた。


俺は水を飲む。


リシェルが満足そうに木板へ何かを書いた。


文字が並んでいる。


一単語ではない。


文。


そう見える。


言葉は単語を覚えれば終わりではない。


順番。


変化。


関係。


そこから先の方がずっと長い。


それでも。


「面白いな」


俺が呟くと、リシェルが首を傾げた。


俺は木板を指し、自分の頭を指してから笑ってみせる。


正確に伝わったかは分からない。


それでも、彼女も笑った。


◇


昼前になると、勉強はいったん終わった。


リシェルが道具を片づけ、外を指した。


続いて俺。


歩く動作。


以前なら少し考えただろう。


今日は知っている音も混ざっている。


外へ行く。


一緒に。


おそらくそんなところだ。


俺は頷いた。


町を見たかった。


宿の中だけでは学べないことの方が多い。


木札。


新しい革の上着。


外殻の水容器。


腰の簡易ナイフ。


外へ出る準備をする。


リシェルの視線が、俺の水容器で止まった。


また笑っている。


「悪かったな」


俺は外殻を軽く叩く。


苦労して作った俺にとっては立派な道具だ。


リシェルが何か言い、前へ手を動かした。


ついて来い。


そのくらいなら、もう仕草だけで分かる。


二人で宿を出た。


昨日は町へ入っただけで精一杯だった。


今日は少し余裕がある。


大通り。


店先。


行き交う人。


荷車。


見るものは同じでも、目的が違う。


言葉。


金。


生活。


この町の仕組み。


まず連れていかれたのは、人の多い広場だった。


布を張った店がいくつも並んでいる。


野菜。


果実。


肉。


魚に似たもの。


布。


革。


金属製の道具。


見たことのないものまで大量に並んでいた。


市場だ。


リシェルが一軒の店へ近づく。


赤い果実を指す。


店主が何か答える。


彼女が指を立てる。


店主も指を使う。


硬貨が出る。


商品が渡される。


俺はやり取りを見る。


品物。


個数。


硬貨。


指。


金額。


今までまったく分からなかった金銭の仕組みへ繋がる情報だ。


リシェルは受け取った果実を、そのまま俺へ差し出した。


「いや」


反射的に断る。


昨日から払ってもらってばかりだ。


だがリシェルは気にせず俺の手へ押しつけた。


赤い果実。


リンゴより少し小さい。


皮は薄そうだ。


彼女が食べる仕草をする。


そこまでされれば意味は分かる。


「また借りか……」


俺は一口かじった。


甘い。


少し酸味がある。


普通にうまい。


リシェルが何か聞く。


昨夜、味について教わった音を思い出した。


意味は完全には確定していない。


それでも、こういう状況で試す価値はある。


俺は果実を指し、その言葉を口にした。


リシェルの表情が明るくなる。


すぐ頷いた。


通じた。


俺が理解した言葉を、自分から使った。


それだけなのに妙に嬉しい。


単に真似するだけではない。


伝えたい意味を選び、そのために覚えた言葉を使った。


小さな違いだ。


だが、重要だった。


市場を進みながら、リシェルは目につくものを次々に指した。


肉。


魚。


野菜。


布。


靴。


刃物。


硬貨。


今度は指を使って数量まで示す。


一本。


二本。


三本。


対応する音。


俺は特に集中して覚えた。


数字は使い道が多い。


金額。


時間。


距離。


数。


商売。


どこへ行っても必要になる。


値札らしい札にも、同じ形が繰り返し使われている。


数量。


音。


文字。


三つが結びつくため、ほかの単語より分かりやすかった。


間違える。


リシェルに直される。


もう一度言う。


子供になったような気分だ。


だが、考えてみれば当然だった。


俺はこの世界の言葉に関しては、幼児以下なのだから。


◇


市場の端へ差しかかったところで、視線に気づいた。


昨日から何度も感じている。


角。


特に珍しいことではない。


そう思って通り過ぎようとしたが、一人の老人だけは少し違った。


男は立ち止まっていた。


俺の顔を見る。


次に角。


そして、もう一度顔。


驚いているというより、確かめているような視線だった。


老人の口が動く。


距離があり、言葉は聞き取れない。


俺が見返すと、男は少しだけ目を細めた。


そのまま何もせず、人混みの中へ消えていく。


横を見る。


リシェルも老人を見ていた。


いつもの表情ではない。


わずかに硬い。


俺は自分の角を指す。


「カルナ」


次に老人が去った方向。


知っているのか。


何を意味する。


そう聞きたい。


リシェルはすぐには答えなかった。


一瞬だけ迷ったあと、何か言う。


当然、ほとんど理解できない。


だが、一つだけ分かった。


説明できないから困っている。


それだけではない気もした。


何を、どこまで伝えるべきか迷っている。


そんな表情にも見える。


俺は追及しなかった。


今聞いたところで、まともに理解できない。


重要な話ほど、曖昧な単語と身振りだけで解釈するべきではない。


一本角。


年配者の反応。


リシェルの迷い。


覚えておく。


まず言葉。


結局そこへ戻る。


◇


宿へ戻る途中、リシェルが革製品を扱う店の前で止まった。


靴。


袋。


ベルト。


鞘。


そして水筒。


俺は自分の外殻容器を見る。


嫌な予感がした。


リシェルが店主と話し、並んでいる水筒をいくつか手に取る。


大きさを確認。


栓を開ける。


紐を見る。


そのうち一つを選んだ。


硬貨を支払う。


俺を見る。


「……やっぱりか」


革製の水筒が差し出された。


俺はすぐには受け取らなかった。


首を横へ振る。


リシェルが俺の外殻容器を指す。


次に水筒。


さらに、歩く仕草。


便利だから使え。


そういうことなのだろう。


問題は金だ。


俺は支払われた硬貨を指し、自分の胸を指す。


首を横へ振る。


金がない。


そんなつもりで示す。


リシェルが少し考える。


そして自分を指し、次に俺。


最後に、何かを手渡すような動作を逆向きに繰り返した。


返す。


あとで返せ。


そう見えた。


俺は水筒を指す。


自分。


リシェル。


最後に、彼女へ戻すような仕草。


リシェルが頷いた。


完全に同じ意味かは分からない。


それでも「無料でくれる」より、「後で返せるもの」と考えた方が今のやり取りには合っている。


なら、受け取る。


「分かった。必ず返す」


俺は水筒を手に取った。


革製。


栓付き。


肩から掛けられる紐もある。


実際につけてみる。


軽い。


身体へ密着する。


歩いてもほとんど揺れない。


俺が何時間もかけ、失敗を繰り返して作ったものより圧倒的に使いやすい。


「……文明、強すぎるだろ」


思わず笑った。


リシェルも、俺の表情を見て笑う。


外殻容器へ目を向ける。


捨てる気にはならなかった。


不便ではある。


それでも、森で生き延びるために自分で作った道具だ。


水を運ぶ以外の使い道もあるだろう。


持ち帰る。


役目が変わるだけだ。


◇


宿へ戻ると、俺は机の上へ今日覚えたものを並べた。


新しい水筒。


門でもらった木札。


木板。


筆記具。


金そのものは持っていない。


だが、市場で硬貨がどう使われているのかは少し見えた。


言葉も増えた。


挨拶らしき言葉。


身近な物。


いくつかの動作。


少しの数字。


まだ会話と呼べるほどではない。


それでも、今朝は短い指示を推測できた。


市場では、自分から覚えた言葉を使えた。


一方的に教えてもらうだけだったものが、少しずつ意思疎通へ変わり始めている。


俺は木板へ、今日教えられた数字の形を思い出しながら書いた。


一つ。


二つ。


三つ。


合っているか自信はない。


あとでリシェルに確認すればいい。


間違えたなら直す。


それでいい。


俺は筆記具を置き、窓の外を見る。


ラティアの向こうには、さらに広い世界がある。領都、国、別の種族、魔術、魔法。そして、俺の知らない歴史。


そのほとんどを、俺はまだ知らない。それでも、知りたいことは山ほどある。角、遺跡、一本角の死者、《魔核》、そしてこの身体。


答えへ手を伸ばすための方法は、少しずつ見えてきた。


聞く。


読む。


比べる。


理解する。


俺一人で森を歩き回るだけでは、決して得られなかった知識へ繋がっていく。


木板へもう一度目を戻す。


昨日より、知っている記号が増えている。


町を歩けば、昨日は模様にしか見えなかった看板にも、知っている形が混じっているかもしれない。


世界そのものは何一つ変わっていない。


変わっているのは俺の方だ。


理解できるものが増えるほど、同じ景色から拾える情報も増えていく。


俺はもう一度、覚えたばかりの文字を書いた。


昨日より少しだけ。


この世界が、読めるものへ変わり始めていた。

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