第22話 言葉を拾う
目を覚ましたとき、最初に感じたのは違和感だった。
背中が痛くない。
身体を起こしてから、その理由に気づく。藁のようなものを詰めた寝台は、決して上等とは言えない。寝返りを打てば軋むし、毛布も少しごわついている。それでも、冷たい石床や葉を重ねただけの寝床とは比較にならなかった。
「……よく寝たな」
目覚めた瞬間から周囲の気配を探らなかったのは、いつ以来だろう。
警戒を完全に解いたわけではない。大顎から作った簡易ナイフは手の届く場所へ置き、扉にも鍵を掛けていた。それでも夜中に目を覚ましたのは一度だけだった。
遺跡では、小さな物音にも身体が反応していた。
それだけでも大きな違いだ。
窓を開けると、冷たい朝の空気が部屋へ流れ込んできた。
通りでは、すでに人々が動き始めている。籠を抱えた女性。荷車を押す男。店先を掃いている少年。遠くからは、家畜らしき鳴き声も聞こえた。
森とは違う朝だった。
俺は机へ目を向ける。
昨夜練習した文字が残っている。
自分の名前。
見本と比べればまだ不格好だが、最初に書いたものよりはかなりましになっていた。形を眺めながら、対応する音を頭の中で繰り返す。
忘れてはいない。
寝ている間に多少整理されたらしい。
宿でもらった茶色い上着へ袖を通す。少し大きいが、破れた服で町中を歩くよりはずっといい。
次に角へ手を伸ばした。
髪を動かしてみる。
根元の一部は隠せる。
だが、黒い一本角そのものを隠すのは無理だった。
中途半端に隠そうとする方が不自然かもしれない。
「そのままでいいか」
少なくとも昨日まで、角を見ただけで襲われることはなかった。
視線は集める。
人によって反応も違う。
それ以上は、まだ分からない。
情報が足りない段階で行動だけ変える必要はない。
顔を洗おうとして、水差しの前で手が止まった。
この水は飲むものか。
顔を洗うものか。
両方に使っていいのか。
昨日説明された可能性はあるが、当然理解できていない。
「こういうところからか……」
社会の中では、水一つにも使い方の常識がある。
森なら、飲める水かどうかだけ判断すればよかった。
俺は少量を手に取り、匂いを確認してから顔を拭いた。
何も起こらない。
朝からまた一つ、自分が何も知らないことを確認した。
◇
一階へ降りると、宿の女性がすぐに俺を見つけた。
「レイジ!」
名前だけは、もう迷わず分かる。
俺も片手を上げた。
「おはよう」
意味は通じない。
女性が笑顔で短い言葉を返す。
聞いたことのない音だった。
俺が分からずにいると、もう一度同じような調子で言う。
何かを指すわけでもない。
朝。
顔を合わせた直後。
挨拶の可能性は高い。
ただし、今は音だけ覚える。
決めつけない。
食堂にはオルドがいた。
温かい飲み物を前に一人で座っている。俺を見ると片手を上げ、宿の女性が使ったのと同じ音を口にした。
これで意味の候補はかなり絞れた。
俺も聞こえた通りに返してみる。
少し発音が違ったらしい。
オルドが言い直す。
俺も真似する。
今度は笑って頷いた。
通じた。
たった一言の挨拶。
それだけで、昨日とは違う。
宿の女性が朝食を運んできた。
薄い粥のようなもの。
パン。
小さな果実。
夕食より質素だが、十分だった。
俺が食べ始めると、オルドが何か話しかけてくる。
もちろん分からない。
首を横へ振ると、彼は苦笑してから自分の食事を指し、短い言葉を発した。続けて俺の皿も指す。
食事。
朝食。
食べ物。
候補はいくつかある。
俺は音だけ覚えた。
以前なら、意味不明な会話はそのまま流していた。
今は違う。
何が指されていたか。
どんな状況で使われたか。
誰が同じ音を使ったか。
それを一つずつ拾う。
ほかの客の会話にも耳を向けた。
ほとんど分からない。
それでも途中で、知っている音が聞こえた。
アクア。
声を発した男を見る。
給仕を呼んでいる。
その後、水差しが運ばれた。
もう一度。
別の客。
同じ状況。
水。
これでいい。
アクア――水。
かなり確度の高い情報になった。
朝食を半分ほど食べたところで、リシェルが食堂へ入ってきた。
俺を見つけると、先ほど覚えた挨拶を口にする。
今度はすぐに聞き取れた。
俺も返す。
少し間を置いて、リシェルが笑った。
一つ。
意味の通じる言葉が増えた。
◇
朝食のあと、リシェルは木板と筆記具を持ってきた。
食堂の隅にある小さな机を使うらしい。
最初は復習だった。
リシェル。
レイジ。
アクア。
聞く。
指す。
文字を見る。
俺が発音すると、正しければ頷き、違えば言い直される。
そこから新しいものへ移った。
机。
椅子。
扉。
窓。
パン。
人。
対象を指し、音を聞き、文字を見る。
単純な繰り返しだ。
だが、昨日より理解しやすい。
同じ形の記号が別の単語にも現れることがある。
同じような音が含まれる場合もある。
だからといって、一音一文字の体系だと決めるのは早い。
今見えている例が少なすぎる。
それでも規則はある。
その存在だけは分かる。
リシェルは次に、名前をいくつか書いた。
自分。
俺。
ガルド。
セイル。
オルド。
それぞれの音を発しながら文字列を示していく。
人名を並べることで、同じ音と同じ文字の関係を見せようとしているのかもしれない。
俺はリシェルの手元を見る。
教えるのが上手い。
少なくとも、思いついたものを適当に指しているわけではない。
森で初めて見たときも、彼女は何かを観察し、記録していた。
知識を整理することに慣れているのだろう。
俺にとってはありがたい。
しばらくすると、今度は彼女が席を立った。
短い音を発する。
そして歩く。
同じ音。
もう一度歩く。
動作を示している。
俺も立つ。
音を真似し、歩く。
頷かれた。
次は止まる。
座る。
立つ。
手招きして近づかせる。
反対に、離れるよう示す。
名詞だけではない。
動作を示す言葉。
これは大きかった。
物の名前しか分からなければ、できるのは指差しの延長だ。
動詞が分かれば、短い指示を理解できる可能性が出てくる。
リシェルが俺を指し、二つか三つの短い音を続けたあと、自分へ向けて手招きする。
知っている動作語が混じっていた。
俺は彼女へ一歩近づく。
リシェルが頷いた。
全部を理解したわけではない。
それでも、文の一部から行動を推測できた。
昨日まではなかった変化だ。
休憩を挟みながら、しばらく続ける。
さすがに頭が疲れてきた。
覚えた音と文字が混ざり始める。
リシェルも気づいたらしく、筆記具を置いた。
俺は水差しへ手を伸ばす。
「アクア」
これはもう迷わない。
リシェルが頷く。
確実に分かるものが一つ増えるたびに、足場ができるような感覚があった。
今なら。
《解析》はどう判断する。
今日はまだ使っていない。
昨日よりも、音と対象の組み合わせは増えている。
俺は木板に書かれた文字と、頭に残っている音へ意識を向けた。
【解析結果】
対象:未登録文字体系・音声言語
固有名詞対応:複数確認
指示対象―語彙対応:増加
動作語候補:複数確認
音声―文字対応:部分認識
語順傾向:限定的観測
文法構造:解析不能
翻訳:不能
蓄積情報量:増加
解析確度:27%
前より上がっている。
ただ、翻訳不能のまま。
当然だ。
まだ単語をいくつか知っただけなのだから。
それでも「動作語」「語順」という項目が現れた。
俺が集めた情報そのものが変わったから、《解析》が見られるものも増えている。
能力が答えを作っているのではない。
俺が観測したものを、整理している。
この方向でいい。
俺は《解析》を止めた。
頭の奥に軽い重さが残る。
まだ問題ない程度だ。
その直後、リシェルが短い言葉を口にした。
知っている音が一つ入っている。
続けてアクア。
最後に、飲む仕草。
俺は水差しを見る。
「水を飲め……か?」
もちろん日本語は通じない。
俺が水を手に取ると、リシェルが頷いた。
完全な翻訳ではない。
知らない部分はある。
だが、知っている単語と状況を組み合わせれば、文全体の意味を推測できる。
初めてだった。
一語ではなく、短い発話そのものへ反応できた。
俺は水を飲む。
リシェルが満足そうに木板へ何かを書いた。
文字が並んでいる。
一単語ではない。
文。
そう見える。
言葉は単語を覚えれば終わりではない。
順番。
変化。
関係。
そこから先の方がずっと長い。
それでも。
「面白いな」
俺が呟くと、リシェルが首を傾げた。
俺は木板を指し、自分の頭を指してから笑ってみせる。
正確に伝わったかは分からない。
それでも、彼女も笑った。
◇
昼前になると、勉強はいったん終わった。
リシェルが道具を片づけ、外を指した。
続いて俺。
歩く動作。
以前なら少し考えただろう。
今日は知っている音も混ざっている。
外へ行く。
一緒に。
おそらくそんなところだ。
俺は頷いた。
町を見たかった。
宿の中だけでは学べないことの方が多い。
木札。
新しい革の上着。
外殻の水容器。
腰の簡易ナイフ。
外へ出る準備をする。
リシェルの視線が、俺の水容器で止まった。
また笑っている。
「悪かったな」
俺は外殻を軽く叩く。
苦労して作った俺にとっては立派な道具だ。
リシェルが何か言い、前へ手を動かした。
ついて来い。
そのくらいなら、もう仕草だけで分かる。
二人で宿を出た。
昨日は町へ入っただけで精一杯だった。
今日は少し余裕がある。
大通り。
店先。
行き交う人。
荷車。
見るものは同じでも、目的が違う。
言葉。
金。
生活。
この町の仕組み。
まず連れていかれたのは、人の多い広場だった。
布を張った店がいくつも並んでいる。
野菜。
果実。
肉。
魚に似たもの。
布。
革。
金属製の道具。
見たことのないものまで大量に並んでいた。
市場だ。
リシェルが一軒の店へ近づく。
赤い果実を指す。
店主が何か答える。
彼女が指を立てる。
店主も指を使う。
硬貨が出る。
商品が渡される。
俺はやり取りを見る。
品物。
個数。
硬貨。
指。
金額。
今までまったく分からなかった金銭の仕組みへ繋がる情報だ。
リシェルは受け取った果実を、そのまま俺へ差し出した。
「いや」
反射的に断る。
昨日から払ってもらってばかりだ。
だがリシェルは気にせず俺の手へ押しつけた。
赤い果実。
リンゴより少し小さい。
皮は薄そうだ。
彼女が食べる仕草をする。
そこまでされれば意味は分かる。
「また借りか……」
俺は一口かじった。
甘い。
少し酸味がある。
普通にうまい。
リシェルが何か聞く。
昨夜、味について教わった音を思い出した。
意味は完全には確定していない。
それでも、こういう状況で試す価値はある。
俺は果実を指し、その言葉を口にした。
リシェルの表情が明るくなる。
すぐ頷いた。
通じた。
俺が理解した言葉を、自分から使った。
それだけなのに妙に嬉しい。
単に真似するだけではない。
伝えたい意味を選び、そのために覚えた言葉を使った。
小さな違いだ。
だが、重要だった。
市場を進みながら、リシェルは目につくものを次々に指した。
肉。
魚。
野菜。
布。
靴。
刃物。
硬貨。
今度は指を使って数量まで示す。
一本。
二本。
三本。
対応する音。
俺は特に集中して覚えた。
数字は使い道が多い。
金額。
時間。
距離。
数。
商売。
どこへ行っても必要になる。
値札らしい札にも、同じ形が繰り返し使われている。
数量。
音。
文字。
三つが結びつくため、ほかの単語より分かりやすかった。
間違える。
リシェルに直される。
もう一度言う。
子供になったような気分だ。
だが、考えてみれば当然だった。
俺はこの世界の言葉に関しては、幼児以下なのだから。
◇
市場の端へ差しかかったところで、視線に気づいた。
昨日から何度も感じている。
角。
特に珍しいことではない。
そう思って通り過ぎようとしたが、一人の老人だけは少し違った。
男は立ち止まっていた。
俺の顔を見る。
次に角。
そして、もう一度顔。
驚いているというより、確かめているような視線だった。
老人の口が動く。
距離があり、言葉は聞き取れない。
俺が見返すと、男は少しだけ目を細めた。
そのまま何もせず、人混みの中へ消えていく。
横を見る。
リシェルも老人を見ていた。
いつもの表情ではない。
わずかに硬い。
俺は自分の角を指す。
「カルナ」
次に老人が去った方向。
知っているのか。
何を意味する。
そう聞きたい。
リシェルはすぐには答えなかった。
一瞬だけ迷ったあと、何か言う。
当然、ほとんど理解できない。
だが、一つだけ分かった。
説明できないから困っている。
それだけではない気もした。
何を、どこまで伝えるべきか迷っている。
そんな表情にも見える。
俺は追及しなかった。
今聞いたところで、まともに理解できない。
重要な話ほど、曖昧な単語と身振りだけで解釈するべきではない。
一本角。
年配者の反応。
リシェルの迷い。
覚えておく。
まず言葉。
結局そこへ戻る。
◇
宿へ戻る途中、リシェルが革製品を扱う店の前で止まった。
靴。
袋。
ベルト。
鞘。
そして水筒。
俺は自分の外殻容器を見る。
嫌な予感がした。
リシェルが店主と話し、並んでいる水筒をいくつか手に取る。
大きさを確認。
栓を開ける。
紐を見る。
そのうち一つを選んだ。
硬貨を支払う。
俺を見る。
「……やっぱりか」
革製の水筒が差し出された。
俺はすぐには受け取らなかった。
首を横へ振る。
リシェルが俺の外殻容器を指す。
次に水筒。
さらに、歩く仕草。
便利だから使え。
そういうことなのだろう。
問題は金だ。
俺は支払われた硬貨を指し、自分の胸を指す。
首を横へ振る。
金がない。
そんなつもりで示す。
リシェルが少し考える。
そして自分を指し、次に俺。
最後に、何かを手渡すような動作を逆向きに繰り返した。
返す。
あとで返せ。
そう見えた。
俺は水筒を指す。
自分。
リシェル。
最後に、彼女へ戻すような仕草。
リシェルが頷いた。
完全に同じ意味かは分からない。
それでも「無料でくれる」より、「後で返せるもの」と考えた方が今のやり取りには合っている。
なら、受け取る。
「分かった。必ず返す」
俺は水筒を手に取った。
革製。
栓付き。
肩から掛けられる紐もある。
実際につけてみる。
軽い。
身体へ密着する。
歩いてもほとんど揺れない。
俺が何時間もかけ、失敗を繰り返して作ったものより圧倒的に使いやすい。
「……文明、強すぎるだろ」
思わず笑った。
リシェルも、俺の表情を見て笑う。
外殻容器へ目を向ける。
捨てる気にはならなかった。
不便ではある。
それでも、森で生き延びるために自分で作った道具だ。
水を運ぶ以外の使い道もあるだろう。
持ち帰る。
役目が変わるだけだ。
◇
宿へ戻ると、俺は机の上へ今日覚えたものを並べた。
新しい水筒。
門でもらった木札。
木板。
筆記具。
金そのものは持っていない。
だが、市場で硬貨がどう使われているのかは少し見えた。
言葉も増えた。
挨拶らしき言葉。
身近な物。
いくつかの動作。
少しの数字。
まだ会話と呼べるほどではない。
それでも、今朝は短い指示を推測できた。
市場では、自分から覚えた言葉を使えた。
一方的に教えてもらうだけだったものが、少しずつ意思疎通へ変わり始めている。
俺は木板へ、今日教えられた数字の形を思い出しながら書いた。
一つ。
二つ。
三つ。
合っているか自信はない。
あとでリシェルに確認すればいい。
間違えたなら直す。
それでいい。
俺は筆記具を置き、窓の外を見る。
ラティアの向こうには、さらに広い世界がある。領都、国、別の種族、魔術、魔法。そして、俺の知らない歴史。
そのほとんどを、俺はまだ知らない。それでも、知りたいことは山ほどある。角、遺跡、一本角の死者、《魔核》、そしてこの身体。
答えへ手を伸ばすための方法は、少しずつ見えてきた。
聞く。
読む。
比べる。
理解する。
俺一人で森を歩き回るだけでは、決して得られなかった知識へ繋がっていく。
木板へもう一度目を戻す。
昨日より、知っている記号が増えている。
町を歩けば、昨日は模様にしか見えなかった看板にも、知っている形が混じっているかもしれない。
世界そのものは何一つ変わっていない。
変わっているのは俺の方だ。
理解できるものが増えるほど、同じ景色から拾える情報も増えていく。
俺はもう一度、覚えたばかりの文字を書いた。
昨日より少しだけ。
この世界が、読めるものへ変わり始めていた。




