第21話 最初の食卓
日が沈み始めると、ラティアの町は昼とは少し違う顔を見せ始めた。
窓の外を眺めていると、通りを行き交う人の数が減る一方で、建物の窓や軒先には少しずつ明かりが増えていく。ほとんどが油を使った灯りらしく、地球の夜景と比べれば暗い。それでも、遺跡の青白い光と焚き火だけで過ごしてきた俺には、十分すぎるほど人の暮らしを感じさせる光景だった。
机の上には、リシェルから借りた木板が置いてある。
自分の名前。
リシェルの名前。
アクア。
水。
ほかにも教えてもらった言葉がいくつか書かれている。
少し前まで意味の分からない記号にしか見えなかった文字が、今ではごく一部だけとはいえ、音や意味と結びつき始めている。
俺は黒い筆記具を持ち、自分の名前を真似して書いた。
見本を見る。
自分の字を見る。
「……ひどいな」
似せたつもりなのに、線の角度も長さもかなり違う。
もう一度、今度はゆっくり書く。
多少はましになった。
それでも、見本と並べると別人の字にしか見えない。
日本語なら何も考えずに書けた。今は子供のように一つずつ形を真似している。
妙な気分だ。
だが、嫌ではなかった。
分からないものが、少しずつ分かるものへ変わっていく。
森で未知の植物や生物を調べていたときにも似た感覚はあったが、言葉はその先がもっと広い。
三度目を書き終えたところで、扉が叩かれた。
「はい」
反射的に返事をしてから、どうせ意味は伝わらないことを思い出す。
扉を開けると、リシェルが立っていた。
彼女は俺の顔を見たあと、机の上へ視線を向ける。
木板。
見本。
その横に並ぶ俺の文字。
一瞬、動きが止まった。
嫌な予感がする。
リシェルが口元へ手を当てた。
肩がわずかに震える。
「……笑ってるだろ」
もちろん通じない。
だが、不満そうな俺の顔は伝わったらしい。リシェルは慌てたように首を横へ振ったが、目は完全に笑っていた。
俺はため息をつく。
初めて習う文字なのだから仕方がない。
そう説明するための言葉を、今まさに勉強している。
どうしようもなかった。
リシェルは部屋へ入り、俺の書いた文字と見本を見比べると、筆記具を手に取った。俺の字の隣へ、同じ文字をゆっくり書いてみせる。
並べられると違いがよく分かる。
俺は一つの複雑な記号として真似していたが、彼女の手元を見ると、いくつかの決まった形を順番に組み合わせているようにも見えた。
文字そのものに規則がある。
当たり前といえば当たり前だが、今の俺には重要な発見だった。
リシェルが筆記具を返し、今度は自分の口元を指す。
続いて腹。
階下。
さすがに意味は分かった。
「飯か?」
俺も食べる仕草をする。
リシェルが頷いた。
一階へ来い、ということだろう。
俺は木板を机へ戻し、腰の簡易ナイフをどうするか少し迷った。
ここは森ではない。
だが、まだ完全に安心できる場所でもない。
結局、そのまま腰へ残した。リシェルも特に気にした様子はなく、俺は彼女について部屋を出た。
◇
一階へ下りると、昼間よりずっと賑やかになっていた。
空いていた机の多くが埋まり、十数人ほどの客が食事をしている。杯を片手に大声で笑う男たちもいれば、一人で静かに食べている者もいる。
匂いも強い。
焼いた肉。
煮込み料理。
パン。
香草らしきもの。
腹が露骨に反応した。
森を出てまともな食事を口にしてから、自分がどれだけ単調なものばかり食べていたのかを余計に意識するようになった。
俺が食堂へ入ると、何人かがこちらを見た。
最初に服。
次に角。
だが、ほとんどの者は少し見ただけで自分の食事へ戻る。
俺の正体より夕飯の方が重要らしい。
ありがたい。
奥の机には、すでにガルドたちが座っていた。
ガルド。
セイル。
オルド。
空いている席が二つある。
リシェルが一つへ座り、隣の椅子を指した。
俺の席らしい。
少しだけ迷ったあと、腰を下ろす。
四人と同じ机を囲むのは初めてだった。
森では常に少し距離があり、町までの道中でも俺は監視しやすい位置へ置かれていた。
今は同じ食卓にいる。
それだけのことなのに、関係がほんの少し変わったように感じる。
ガルドが俺を見る。
「レイジ」
「ガルド」
名前を返す。
セイルが何か言った。
途中に俺の名前が混ざっている。
表情は笑っている。
内容は分からないが、少なくとも深刻な話ではなさそうだった。
ガルドが短く返すと、セイルがさらに笑う。
オルドまで少し口元を緩めた。
「俺の悪口じゃないだろうな」
日本語で言うと、セイルが俺の声に反応してまた笑った。
何を言われているのか分からないのは不便だ。
だが、敵意がないことくらいなら分かる。
ほどなく宿の女性が料理を運んできた。
大きな木の皿には、茶色い煮込みが入っている。肉に、根菜のようなもの、緑色の葉。横には黒っぽいパンが二切れ。
俺の前にも同じものが置かれた。
湯気が立っている。
女性が何か言う。
最後に「レイジ」と聞こえた。
俺は軽く頭を下げる。
「ありがとう」
まだ言葉としては伝わらない。
それでも女性は俺の態度を見て、小さく手を振って戻っていった。
煮込みを前にする。
木製のスプーンが添えられている。
そんな当たり前のものまで、今は妙にありがたい。
まず汁を少しだけ口にした。
塩気。
肉の旨味。
香草。
温かい。
「……うまい」
思わず声が出た。
森で食べていた巨大な虫の肉も、火を通せば食べられないものではなかった。
だが、これは明らかに違う。
複数の食材を組み合わせ、味を整えた料理だ。
リシェルがこちらを見ている。
俺が気づくと、何か言った。
俺は皿を指す。
もう一口。
少し大げさに満足した顔を作る。
「うまい」
リシェルが首を傾げる。
俺は同じことを繰り返した。
すると彼女は理解したらしく、笑いながら短い言葉を返した。
一度では聞き取れない。
俺が首を傾げると、彼女は自分の煮込みを一口食べ、笑顔を見せてから同じ音を繰り返した。
味への感想。
少なくとも、その類の言葉らしい。
俺も真似して発音する。
少し違ったらしく、リシェルが訂正する。
もう一度。
今度は頷いた。
新しい言葉が一つ増えた。
ただし、まだ「おいしい」なのか「好き」なのか、別の意味なのかまでは決めない。
状況と一緒に覚えておく。
パンを煮込みへ浸して食べる。
硬かったパンが柔らかくなり、さらに食べやすい。
夢中になりすぎないよう注意しながら食事を続けていると、ガルドが自分の杯を持ち上げた。
中には色のついた液体が入っている。
彼は自分で一口飲み、こちらを見る。
セイルまで杯を持ち上げる。
酒。
おそらく。
俺は首を横へ振った。
この身体が酒にどう反応するか分からない。
どれほど強い酒なのかも知らない。
今のところ、飲む理由より飲まない理由の方が多かった。
ガルドは少し意外そうな顔をしたものの、無理に勧めてはこない。
セイルだけは残念そうだった。
その反応が妙に人間臭くて、少し笑えた。
◇
食事が半分ほど進んだ頃、オルドが俺へ話しかけた。
「レイジ、――――カルナ――――?」
聞き取れたのは、自分の名前と角を示す言葉だけだった。
俺はスプーンを止める。
また角の話か。
オルドは自分の頭の横を指したあと、俺の右側頭部へ視線を向ける。
さらに何か尋ねる。
俺は首を横へ振った。
分からない。
オルドは困ったように眉を寄せた。
そこでリシェルが会話へ加わる。
自分の指を一本立てる。
それから俺の角を指す。
続けて、両手の人差し指を頭の左右へ立てた。
二本。
俺はようやく意図を理解した。
問題にしているのは、角があることだけではない。
一本であること。
そういうことらしい。
俺は自分の角へ触れ、次に指を一本立てる。
リシェルが頷く。
そこから彼女は何か説明を続けた。
だが、当然ほとんど分からない。
それでも四人の表情は見られる。
リシェルは説明しようとしている。
オルドは俺の反応を観察している。
セイルは先ほどまでより少し真面目な顔になった。
そしてガルド。
明らかに表情が硬くなっている。
わずかな変化だ。
だが、さっきまで酒を飲んでいたときとは違う。
一本角。
そこには、何か意味がある。
それだけなら、もうかなり可能性は高い。
俺はさらに自分の角を指し、その黒い色を示すように髪と見比べてみた。
リシェルが少し考え、何か言う。
オルドがすぐに会話へ入った。
ガルドも加わる。
話が長くなる。
内容が知りたい。
目の前で自分のことを話されているのに、一割どころか一言二言しか分からない。
もどかしい。
それでも焦って意味を決めつけない。
同じ音。
指差す対象。
表情。
誰が反応したか。
拾えるものだけ拾う。
今はそれでいい。
やがてリシェルが俺を見て、何かゆっくり説明しようとした。
途中で止まる。
言葉が通じなければ、どう説明しても難しいと気づいたのだろう。
少し悔しそうな顔をしている。
たぶん、俺も似た顔をしていた。
「早く話せるようにならないとな」
日本語で呟く。
リシェルには分からない。
そこで俺は、文字を書く仕草をした。
彼女の表情が少し変わる。
意味を理解したのか、小さく頷いた。
結局、角のことを知りたければ。
まず言葉を覚えるしかない。
◇
食事が終わる頃には、店内はさらに賑やかになっていた。
酒の入った客の声は大きくなり、隅では弦を張った楽器のようなものを奏でている男までいる。
俺は周囲の会話を意識して聞いた。
意味はほとんど分からない。
だが、昼より少しだけ音が区切れて聞こえる。
知っている単語が増えたからだ。
リシェル。
ガルド。
セイル。
オルド。
レイジ。
アクア。
カルナ。
意味が確定していない言葉もある。
それでも、完全な雑音だった会話の中に、ところどころ輪郭が現れ始めている。
《解析》を使うか。
一瞬だけ考えた。
やめる。
今日はすでに使っている。
何より、今は能力を使わなくても情報がいくらでも入ってくる。
聞く。
覚える。
比べる。
それで十分だった。
席を立とうとすると、ガルドが俺へ何か言った。
腕を軽く回し、次に寝る仕草。
最後に窓の外を指す。
今日は休め。
明日何かする。
その辺りだろうか。
俺は頷いた。
「分かった」
リシェルも席を立ち、一緒に階段へ向かう。
途中、宿の女性に名前を呼ばれた。
「レイジ」
振り返る。
女性は布のようなものを抱えていた。
広げる。
上着だった。
茶色の簡素な服。
新品ではない。
何度か補修された跡がある。
女性が上着と俺を交互に指す。
着ろ。
おそらく。
俺は自分の服を見る。
汚れている。
破れている。
血の跡まで残っていた。
町中で目立つのも当然だ。
それでも、すぐ受け取るのは少し躊躇した。
金がない。
宿代さえリシェルが払っている。
俺は上着を指し、次に硬貨を表すつもりで指先に丸を作った。
女性は一瞬考え、大きく手を振った。
違う。
いらない。
そんな感じだ。
リシェルも横から何か言う。
女性が笑い、上着を俺の胸へ押しつけた。
断りにくい。
俺は受け取る。
「ありがとう」
頭を下げる。
女性は満足そうに頷いた。
客が置いていった古着かもしれない。
宿で働く者の予備だった可能性もある。
理由は分からない。
それでも今の俺にはありがたかった。
階段を上がりながら上着を見る。
門での料金らしきもの。
宿代。
食事。
木板と筆記具。
そして服。
今日だけでも受け取ったものは多い。
どこまでが好意で。
どこまでが借りなのか。
それすら分からない。
日本なら、正体の分からない相手から物を受け取り続ける状況は警戒する。
だが、ここで何も受け取らなければ生活そのものが成立しない。
社会の常識を知らないことが、これほど不便だとは思わなかった。
早く言葉を覚える必要がある。
◇
部屋へ戻ると、俺はもらった上着を机の上へ広げた。
明るいところで見ると、何度も洗われて色が褪せている。肘や肩には補修の跡があり、やはり中古品らしい。
今着ている服よりは、はるかにまともだった。
俺は古い上着を脱ぐ。
そこで、自分の身体をまともに見たことがないと改めて気づいた。
水面へ映った顔。
手。
角。
部分的には何度も見ている。
だが、全身を確認したことはない。
部屋にも鏡はなかった。
この町では鏡そのものが高価なのかもしれない。
俺は自分の腕を見る。
生前より若い。
体型も違う。
細身だが、森の中を動き回っても耐えられる程度には筋肉がついている。
左腕には傷が残り、脇腹の痣もまだ完全には消えていない。
そして胸の奥には《魔核》がある。
外からは何も見えない。
俺はしばらく自分の身体を眺めた。
今までは、生き残ることが最優先だった。
食料。
水。
危険な生物。
それ以外の問題は、考えてもどうにもならなかった。
今は違う。
食事がある。
寝床がある。
鍵のかかる部屋まである。
少なくとも今夜は、寝ている間に巨大な虫へ襲われる心配をしなくていい。
余裕が生まれた。
だからこそ、後回しにしていた疑問が再び浮かんでくる。
俺は何者なのか。
なぜ若い身体になっている。
なぜ一本の角がある。
なぜ《魔核》を持っている。
地下で見つけた一本角の男と、俺には何か関係があるのか。
知りたい。
そのためにも。
今やることは変わらない。
俺は宿でもらった上着へ袖を通した。
少し大きい。
だが着られないほどではない。
森で拾った素材を身につけていたときより、ずっと人間らしく見えるはずだ。
人の服を着る。
それだけなのに、森で一人だった自分から少し離れたような気がした。
机へ座る。
木板を開く。
今日覚えた音を思い返す。
アクア。
カルナ。
食事中に教わった味に関するらしい言葉。
そして自分の名前。
確実なもの。
まだ仮説にすぎないもの。
分けて覚える。
俺は黒い筆記具を持ち、自分の名前を書いた。
一度。
見本を見る。
もう一度。
さっきより少し整っている。
ほんのわずかな進歩。
それでも昨日の俺にはできなかった。
今日分からないものも、明日には一つくらい分かるかもしれない。
俺は窓の外から聞こえる町の声へ耳を傾けながら、もう一度自分の名前を書いた。
森で生きるために最初に必要だったのは、水だった。
次に食料。
火。
武器。
だが、人の中で生きるなら。
最初に必要な武器は、たぶん違う。
槍でもない。
魔力でもない。
俺は木板に並ぶ、まだ不格好な文字を見た。
まず。
言葉だ。




