第20話 知らない町
門をくぐった途端、世界の密度が変わった。
外からも人の声や金属音は聞こえていた。だが、町の中へ一歩入ると、それまで遠くにあった音や匂いが一度に押し寄せてくる。
行き交う人々の話し声。荷車の車輪が地面を擦る音。店先から響く大声。一定の間隔でどこかから聞こえてくる金属音。焼いた肉の匂いに煙、動物、香草らしき刺激まで混じっている。
俺はリシェルたちの後を追いながら、できる限り周囲を見た。
道は門の外より少し狭いものの、荷車が通るには十分な幅がある。中央には長年使われてできた轍が残り、建物は木造だけでなく、一階部分を石で組んで二階を木で造ったものが多かった。
屋根には板が並び、一部には焼いた土のような素材も使われている。窓には木製の扉がつき、透明なガラスらしきものはほとんど見当たらない。代わりに薄い布か、半透明の素材を張ったものがいくつかあった。
森で暮らしていたときなら、壁と屋根があるだけで十分だと思っただろう。
今は、その向こう側が気になる。
これだけの建物を造るには木材を加工する者がいる。石を切る者も必要になる。釘や金具が使われているなら金属加工もあるし、材料を運ぶ仕組みもなければならない。
俺が一本の槍を作るだけで何度も失敗したことを考えると、町並みそのものが積み重ねられた技術の塊に見えてきた。
「……すごいな」
思わず声が漏れる。
リシェルが振り返った。
「レイジ?」
俺は首を横へ振り、周囲の建物を示してから軽く手を広げた。
上手く伝わったかは分からない。
リシェルは俺の視線を追って町並みを見回し、少し考えたあと笑った。何か言う。
意味は分からない。
それでも、その表情はどこか誇らしげに見えた。
歩いている間にも、こちらへ向けられる視線は多かった。
原因は一つではない。
服は傷んでいる。
腰には巨大な虫の大顎から作った簡易ナイフ。
背中には外殻を利用した水容器。
槍は門で預けたものの、俺が普通の住民に見えないことは自分でも分かる。
そして何より、角。
正面からすれ違う者の多くが、一度は右側頭部へ視線を向けた。
ちらりと見るだけの者もいれば、二度見する者もいる。連れへ何か囁く者や、少し距離を取る者もいた。
ただ、道を歩くだけで騒ぎになるほどではない。
この町の人間にとって、角を持つ存在そのものが理解不能なわけではなさそうだった。
問題は、その先だ。
珍しいだけなのか。
俺の角だから見られているのか。
今はまだ分からない。
途中、建物の軒先に座っていた年配の男と目が合った。
視線はすぐに俺の角へ移る。
そこで男の表情が変わった。
ただ驚いたという感じではない。
何かを思い出そうとしているような顔。
小さく何か呟く。
聞き取れない。
俺が通り過ぎても、しばらく背中へ視線を感じた。
気になる。
だが、今の俺には質問する言葉さえない。
分からないものを見つけるたびに立ち止まっていては何も進まない。
まずは寝る場所。
その次に言葉。
優先順位を間違えない方がいい。
◇
ガルドたちは大通りから一本細い道へ入り、しばらく進んだところで足を止めた。
目の前には二階建ての建物がある。
一階部分は石造りで、その上に木造の二階が載っていた。入口の上には大きな木製看板が吊られ、文字の横に寝台と湯気の立つ器らしき絵が描かれている。
「宿屋……か」
そう考えるのが自然だった。
ガルドが扉を開ける。
中から暖かな空気と食べ物の匂いが流れてきた。
一階は食堂も兼ねているらしい。木製の机と椅子が並び、まだ明るい時間なのに何人かが酒らしきものを飲んでいる。
俺たちが入ると、いくつもの視線が向いた。
正面の大きな台の向こうから、体格のいい中年の女性が顔を出す。
「――――!」
ガルドを見るなり大きな声を上げた。
ガルドも何か返す。
セイル、オルド、リシェルへも順番に声をかけているところを見ると、少なくとも初対面ではなさそうだった。
最後に俺を見る。
女性の動きが一瞬止まる。
服。
水容器。
腰の簡易ナイフ。
そして角。
短く何か言った。
その中に「カルナ」という音が入っている。
ガルドが答え、リシェルも会話へ加わった。
門で見た光景と似ている。
俺について説明しているのだろう。
もっとも、彼ら自身も俺が何者なのか知っているわけではない。
それでどこまで説明になるのかは分からないが、しばらくすると女性は大きく息を吐き、もう一度俺を見た。
今度は少し表情が柔らかい。
何か言う。
「――レイジ?」
名前だけ聞き取れた。
リシェルが伝えたらしい。
俺は自分の胸へ手を当てる。
「玲司」
女性が頷く。
続いて自分の胸を指し、何かを名乗った。
聞き取れない。
もう一度、ゆっくり言ってくれる。
それでも難しかった。
俺が困っていると、女性は一瞬呆れたような顔をして、それから豪快に笑った。
馬鹿にされている感じではない。
本当に何一つ分からないのか、とでも思われたのかもしれない。
俺も苦笑する。
少なくとも、追い出される雰囲気ではなかった。
そのあとリシェルと女性の間で少し長いやり取りが続き、最後にリシェルが小さな硬貨を数枚渡した。
俺は反射的に彼女を見る。
まただ。
門でも払ってもらった。
今回はおそらく宿代。
「……借りが増えてるな」
意味は通じない。
それでも俺の表情を見て察したのか、リシェルは小さく肩をすくめた。
いくらなのかも分からない。
硬貨の価値も知らない。
返す方法どころか、この町でどうやって金を稼ぐのかも知らない。
現状では、覚えておくことしかできなかった。
女性は台の奥から小さな木札を一つ取り出す。
表面には記号が刻まれていた。
数字。
おそらく。
リシェルが札を俺へ見せ、そのあと階段を指す。
部屋。
そう考えてよさそうだった。
ガルドが何か言い、セイルとともに食堂の奥へ移動する。オルドも女性へ短く声をかけてから、別の方向へ向かった。
リシェルだけが俺へ手招きする。
この仕草はもう分かる。
俺は彼女について階段を上った。
◇
二階には細い廊下があり、左右へいくつもの扉が並んでいた。
床は木製で、歩くたびに少し軋む。
リシェルは数枚の扉を通り過ぎ、そのうち一つの前で止まった。
扉には記号が刻まれている。
彼女は手元の木札を示し、次に扉の記号を指した。
同じ形だった。
部屋を示す番号か記号。
その可能性が高い。
木札の端には小さな金属片が固定されている。
リシェルがそれを扉横の穴へ差し込み、回した。
カチッ、と小さな音がする。
扉が開いた。
「鍵か」
思わず呟く。
中へ視線を向ける。
狭い部屋だった。
それでも、俺にとっては十分すぎる。
木製の寝台。
藁か何かを詰めた厚い敷物。
毛布。
小さな机と椅子。
壁際には陶器の水差しと鉢。
窓。
油を使うらしい小さな灯り。
俺はしばらく部屋を見回した。
冷たい石床ではない。
葉を重ねただけの寝床でもない。
ちゃんとしたベッドがある。
「……寝られるな」
それだけでかなり嬉しい。
リシェルには意味が分からない。
俺が寝台を見ていることに気づき、少し首を傾げた。
俺は自分を指し、寝台を示してから、両手を頬の横へ合わせる。
寝る。
さすがに伝わったらしい。
リシェルが何か言って頷いた。
彼女はそのあと、窓の開け方、扉の鍵、灯りの使い方を順に見せてくれた。
灯りは油と芯を使う単純なものだった。
火打ち道具も見せてもらう。
俺が遺跡で使っていた石より、はるかに扱いやすそうだ。
道具一つ見ても差がある。
一通り説明を終えると、リシェルは自分を指し、廊下の向こうへ手を向けた。
自分は別の場所へ行く。
おそらくそういう意味だ。
俺は頷く。
「ありがとう」
この言葉も早く覚えたい。
毎回、頭を下げるだけでは不便だ。
リシェルが扉へ向かいかけたところで、俺は思いついて名前を呼んだ。
「リシェル」
彼女が振り返る。
俺は机を指し、次に彼女の持っている記録用の板を見る。
そして書く仕草をした。
リシェルが眉を寄せる。
もう一度。
板。
自分。
文字を書く。
彼女が持っているものを指し、それから自分の目を指す。
読んでみたい。
教えてほしい。
そこまで伝わればいい。
何度か繰り返すうち、リシェルの表情が変わった。
理解したらしい。
彼女は自分の板を開いて俺へ見せる。
文字が並んでいる。
俺は頷いた。
それ。
それが知りたい。
リシェルは少し驚いたように俺を見たあと、今までよりはっきりと笑った。
そして短く何か言い、頷く。
どうやら伝わった。
彼女は少し待つよう手で示してから、部屋を出ていった。
俺は閉じた扉を見る。
言葉。
文字。
ここへ来た大きな目的の一つ。
思っていたより早く、手がかりを得られるかもしれない。
◇
しばらくすると、扉が叩かれた。
俺は反射的に腰のナイフへ手を伸ばしかけ、途中で止める。
ここは森ではない。
だからといって完全に油断する必要もないが、今の音は明らかに人が扉を叩いたものだった。
「はい」
意味のない日本語で返事をし、扉を開ける。
リシェルが立っていた。
手には薄い木板。
黒い棒状のもの。
布。
部屋へ入ると、それらを机へ置いた。
黒い棒を持ち、木板へ線を引く。
黒い跡が残る。
炭か、それに近い筆記具だろう。
リシェルはまず、自分の胸へ手を当てた。
「リシェル」
それから木板へ文字を書く。
いくつかの記号が並ぶ。
俺は思わず身を乗り出した。
音。
人。
文字。
三つが初めて明確に繋がった。
彼女自身を示す文字列。
リシェルという名前。
次に、俺を指す。
「レイジ」
そして木板の別の場所へ何かを書こうとして、手を止めた。
こちらを見る。
発音を確認したいらしい。
俺はゆっくり言う。
「玲司。レイジ」
「レ……イジ」
「レイジ」
彼女が頷き、文字を書いた。
俺にはまだ、それが何文字なのかさえ正確には分からない。
記号の区切り方が分からないからだ。
それでも。
俺の名前だ。
この世界の文字で書かれた。
俺は文字列を凝視する。
そのとき、門でもらった木札を思い出した。
腰から取り出して机へ置く。
表面に刻まれた文字。
今書かれた俺の名前。
見比べる。
ある。
同じ形が。
完全に同じ並びではない。
それでも、いくつかの記号が一致している。
「……やっぱり」
リシェルが不思議そうに見る。
俺は木札と自分の名前を交互に指す。
彼女も見比べたあと頷いた。
間違いない。
門で渡された札には、少なくとも俺の名前に対応する文字が含まれている。
読めない文字列の中に、初めて意味の分かる部分ができた。
これは大きい。
リシェルは次に水差しを指す。
「アクア」
すでに音は知っている。
木板へ文字を書く。
水。
アクア。
対応する文字列。
三つが繋がった。
次は机。
椅子。
扉。
指す。
発音する。
書く。
俺が繰り返す。
間違えれば、リシェルがもう一度発音する。
思っていた以上に楽しかった。
知らないものが、一つずつ既知へ変わっていく。
森で植物を分類していたときにも似た感覚はあった。
だが、言葉はその先が違う。
これを理解できれば、他人の持っている知識へ直接触れられる。
俺一人で観察できる範囲とは、情報量が桁違いになる。
しばらく続けるうち、音と文字が頭の中で混ざり始めた。
さすがに詰め込みすぎだ。
俺は片手を上げる。
リシェルが首を傾げる。
俺は頭を指し、困った顔をしてみせた。
「もういっぱいだ」
意味は分からないはずなのに、リシェルは少し間を置いて笑った。
どうやら意図は伝わったらしい。
学習はそこで終わった。
リシェルが木板を俺へ差し出す。
黒い棒も一緒に。
俺は少し驚いた。
「いいのか?」
彼女はもう一度こちらへ押し出す。
使え。
そういうことだろう。
俺は両手で受け取った。
今度こそ、礼を言いたかった。
胸へ手を当てる。
軽く頭を下げる。
「ありがとう」
リシェルは言葉の意味こそ分かっていないだろう。
それでも、俺が感謝していることはもう理解しているようだった。
穏やかに頷き、部屋を出ていった。
◇
一人になると、急に町の音がはっきり聞こえた。
窓の外から人の声がする。
荷車。
何かを呼びかける声。
少し遠くで動物が鳴く。
壁一枚向こうにも人がいる。
それだけで不思議な感覚だった。
つい少し前まで、夜に聞こえるものといえば水滴と火の爆ぜる音くらいだった。
俺は机へ向かい、門の木札とリシェルから借りた板を並べた。
リシェル。
文字列。
玲司。
文字列。
アクア。
水。
そのほか、今日覚えたもの。
一つずつ形を追う。
まだ読めない。
音のどの部分がどの記号に対応しているのかも不明だ。
だが、ゼロではなくなった。
比較できる。
ここが大きい。
門の木札にある、自分の名前と一致する部分を見る。
その前後には別の文字が並んでいる。
何が書かれているのか。
入町許可。
一時滞在。
料金。
来訪者。
いくつも候補は浮かぶ。
今は決めない。
比較材料がない。
思いついた答えへ飛びつけば、間違った前提を積み上げることになる。
俺は板と木札、頭の中に残っている音へ意識を向けた。
今なら《解析》はどう見る。
一度だけ確認する。
【解析結果】
対象:未登録文字体系・音声言語
音声―文字対応:一部観測
固有名詞対応:複数確認
指示対象―語彙対応:複数候補
文字単位:未確定
語順規則:解析不能
文法構造:解析不能
翻訳:不能
蓄積情報量:増加
解析確度:24%
前に試したときより、確度は上がっている。
わずかな差だ。
それでも方向は合っている。
玲司という音を聞いた。
文字を見た。
同じ文字が別の場所でも使われている。
水を指してアクアと聞き、その文字も見た。
こうして情報同士を繋げるほど、《解析》も扱えるものを増やしていく。
能力が突然翻訳してくれるわけではない。
俺が覚える。
比較する。
その整理と推測を助ける。
それで十分だった。
俺は《解析》を止める。
頭の奥に軽い重さが残る。
今日はもう使わない方がいい。
窓の外を見ると、陽はかなり傾いていた。
もうすぐ夕方。
この世界へ来て初めて、人の町で夜を迎えることになる。
食事。
寝床。
鍵のかかる部屋。
文字を教えてくれる相手。
状況は間違いなく良くなっている。
だが、分からないことも増えた。
町を歩く人間は、俺の角を見る。
衛兵も。
宿の女性も。
道端の人々も。
中には、ただ珍しがっているだけではないような反応をする者までいた。
黒い一本角。
地下で見つけた一本角の男。
黒い記録板。
今の俺の身体。
どこかで繋がっている可能性はある。
だからこそ、焦る必要はない。
まず言葉を覚える。
文字を読む。
この世界の常識を知る。
そうすれば、いずれ質問できる。
答えを聞いて、それが正しいか自分で判断できる。
俺は木板へ書かれた自分の名前を見る。
この世界の文字で書かれた。
玲司。
まだ一つ。
それでも。
冷たい石床で何も分からず目を覚ました頃を思えば、大きな一歩だった。
知らない町。
知らない言葉。
知らない人々。
そして、まだ何も知らない世界。
理解するための入口が。
ようやく目の前に開き始めていた。




