第19話 門の向こう
森を抜けてから、景色は急速に変わっていった。
最初に目についたのは道だった。森の中にも人が通るために整えられた場所はあったが、今歩いているものとは規模が違う。二台の荷車がすれ違えそうな幅があり、地面は固く踏み締められている。場所によっては平たい石まで敷かれ、二本の轍が遠くまで続いていた。
誰かが一度通った程度では、こうはならない。
多くの人間が、長い間使い続けている道だ。
リシェルたちの後ろを歩きながら周囲を見ていると、道の両側に広がっていた草地にも規則性があることに気づいた。植物の高さが揃い、同じものが一定の間隔で並んでいる。地面には細い溝が何本も伸びていた。
畑だ。
何を育てているのかは分からないが、人の手が入っていることだけは間違いない。
「農業も普通にあるのか……」
パンを食べた時点で、穀物を継続的に得る仕組みがあることは予想していた。それでも実際に耕作地を見ると、そこから連想できるものは多い。
土地を使い続ける。
種を蒔き、育て、収穫する。
収穫物を保存し、必要な場所へ運ぶ。
それを毎年繰り返すなら、生活の拠点も必要になる。
森で食料を探していた俺とは、そもそもの生き方が違う。
考えていると、前方から木の軋む音が聞こえてきた。
続いて、規則正しい足音。
ガルドたちの様子に変化はない。
危険ではないらしい。
やがて道の向こうから一台の荷車が現れた。
木製の荷台に大きな車輪が二つ。布袋のような荷物がいくつも積まれ、それを馬に似た四脚の生物が引いている。
俺は思わず目で追った。
体格や脚の形は馬によく似ている。ただし首が太く、額には短く平たい突起が二本ある。灰褐色の身体は頑丈そうで、足先も俺が知る馬の蹄とは少し違っていた。
荷車を操る男は、ごく普通の人間に見える。
向こうから近づくと、ガルドが片手を上げた。
御者も同じように手を上げる。
挨拶らしい。
そのまますれ違う――と思ったところで、御者の視線が俺へ向いた。
服。
槍。
虫の外殻から作った水容器。
そして顔。
通り過ぎかけた視線が戻り、右側頭部で止まった。
男の目が少し見開かれる。
角だ。
俺も振り返ったが、男は何か叫ぶわけでも、怯えて逃げるわけでもなかった。少し気にするようにこちらを見ただけで、荷車はそのまま遠ざかっていく。
俺は小さく息を吐いた。
少なくとも、角を見ただけで即座に敵と判断されるわけではないらしい。
もちろん、一人の反応だけで決めつけることはできない。
珍しいものを見ただけかもしれないし、関わりたくないから通り過ぎただけかもしれない。
それでも情報としては悪くない。
俺の様子に気づいたのか、リシェルが振り返った。
俺は自分の角を指す。
「カルナ?」
彼女は一瞬だけ俺の指先を見てから頷いた。
「カルナ」
今度は自分の頭の横に指を立てる。
ほぼ間違いない。
カルナ――角。
以前から意味の候補には入れていたが、これでかなり確度が上がった。
リシェルはそのあとも何か続けた。
「カルナ、――――、――――――」
残念ながら、そこから先は分からない。
むしろ知りたいのはそちらだった。
角が珍しいのか。
誰が持っているのか。
俺の黒い一本角を見てどう思っているのか。
今は聞く術がない。
覚えておくしかなかった。
歩き続けるにつれ、人の姿が増えてきた。
畑で作業する者。
籠を背負って道を歩く女性。
荷物を積んだ小さな手押し車を運ぶ男。
子供までいる。
服装は全体的に質素だった。茶色や灰色、くすんだ緑が多く、素材も麻や毛織物に近く見える。
これが一般的な生活水準なのか、ここが特別なのかはまだ判断できない。
比較対象がないからだ。
それでも、少なくとも生活が崩壊している土地には見えなかった。
畑は手入れされている。
荷物は道を行き交い、人々は普通に働いている。
子供たちも痩せ細っているようには見えない。
何人かが俺を見る。
やはり視線は角へ向かった。
中には露骨に足を止める者もいる。小さな子供が俺を指差し、隣にいた女性に手を下ろされていた。
反応はある。
だが、恐慌ではない。
俺はその違いを覚えておく。
珍しい。
そう見られている可能性は高い。
ただし、珍しいことと受け入れられることは別だ。
そこを混同しない方がいい。
歩きながら、妙な感覚に気づいた。
懐かしい。
この場所へ来たことなどない。
風景も、服も、道も、俺が知っている日本とはまるで違う。
それでも、人が普通に暮らしている景色そのものが懐かしかった。
誰かが働いている。
誰かと話している。
子供が走る。
荷車が通る。
たったそれだけのことを、目を覚ましてから一度も見ていなかった。
森では、自分が今日を生きることで精一杯だった。
ここには、俺がいてもいなくても続いている日常がある。
その事実が、不思議なくらい胸へ残った。
道はやがて緩やかな坂へ入った。
ガルドたちは慣れた様子で上っていく。
頂上付近まで来たところで、前方の視界が一気に開けた。
俺は思わず歩調を緩める。
「あれが……」
ラティア。
ようやく全体が見えた。
大都市というほどではない。
だが、俺が想像していた小さな村よりははるかに大きかった。
町の周囲には低い石壁と木柵が組み合わされ、その内側に数多くの屋根が並んでいる。大半は一階か二階建てで、木と石を組み合わせた建物らしい。
中心付近には周囲より少し高い建物も見える。
何の施設かは分からない。
煙突から立ち上る煙。
金属を叩くような遠い音。
人の声。
森の中では存在しなかった種類の音が、風に乗って届いてくる。
道はそのまま町の入口へ続いていた。
門がある。
木材を厚く組んだ大きな扉が左右へ開かれ、その手前を人や荷車が出入りしている。
俺は無意識に歩調を落とした。
リシェルが振り返る。
「レイジ?」
俺は首を横へ振った。
体調が悪いわけではない。
ただ、急に現実味が増しただけだ。
四人なら、まだ相手を見ながら判断できる。
あの門の向こうには、おそらく何百人という人間がいる。
そこへ俺は入ろうとしている。
言葉は話せない。
身分を証明するものもない。
どこから来たのか説明できない。
金もない。
頭には一本の黒い角。
装備は虫の素材を寄せ集めて作ったものばかり。
「俺が門番なら、止めるな……」
間違いなく怪しい。
それでもガルドは足を止めない。
リシェルたちも同じだ。
俺もついていく。
門へ近づくにつれて、周囲から向けられる視線が増えた。
角だけではない。
自作の槍も目立つ。
虫の外殻で作った水容器まで含めれば、普通の旅人にはまず見えないだろう。
一人の男が連れへ小声で何かを言い、こちらを見る。
子供がまた指差す。
好奇心。
警戒。
少しの驚き。
いろいろな反応がある。
俺はできるだけ顔を動かさず、それだけを観察した。
そして、門の前まで来る。
左右に武装した男が立っていた。
全部で四人。
革製らしき防具。
槍。
腰には剣。
装備の形が揃っている。
個人で用意したというより、同じ組織から支給されているように見えた。
衛兵。
そう考えるのが自然だった。
ガルドが一人へ声をかける。
向こうもすぐに返事をした。
表情は硬くない。
知り合いなのか、頻繁にここを利用しているから顔を覚えられているのか。
短い会話が続く。
セイル。
オルド。
リシェル。
特に問題なく応じている。
そして、衛兵の視線が俺へ向いた。
表情が変わった。
予想どおりだ。
男が俺を指し、何か尋ねる。
ガルドが答える。
衛兵の視線が槍へ移る。
腰の簡易ナイフ。
外殻の水容器。
最後に角。
「カルナ」
聞き取れた。
衛兵が俺の右側頭部を示しながら、ガルドへ何か聞いている。
ガルドが答える。
オルドも会話に加わった。
少し遅れてリシェルまで口を挟む。
会話の内容は理解できない。
ただ、俺のことを説明しているのは明らかだった。
途中でリシェルが森の方向を指し、腕を大きく動かす。
戦った獣のことだろうか。
続いて俺を指す。
衛兵がこちらを見る。
さっきよりわずかに表情が変わった。
俺が彼らを助けたことまで話しているのなら、その情報は少なくとも悪い方向には働いていないらしい。
しばらく話したあと、一人の衛兵がこちらへ近づいてきた。
目線は槍。
手を出し、短く何か言う。
内容は分からなくても、意図は分かりやすい。
武器を渡せ。
そういうことだろう。
俺は念のためガルドを見る。
彼が頷く。
なら従う。
町へ入る以上、ルールがあるのは当然だ。
俺は槍の先端を相手へ向けないよう横向きに持ち替え、両手で差し出した。
衛兵が受け取る。
一瞬、手元が沈んだ。
思ったより重かったらしい。
続いて先端へ目を向ける。
巨大な虫の大顎。
枝。
蔓と繊維を使った固定部。
見る。
俺を見る。
もう一度槍を見る。
横にいた衛兵まで覗き込んできた。
二人で短く何かを話す。
「……そんなに珍しいか?」
自分でも十分珍しい武器だとは思う。
リシェルが何か説明すると、二人の視線が俺へ戻った。
その反応から察するに、素材の正体まで話した可能性がある。
俺は何も言わず待った。
衛兵は槍を門脇へ持っていく。
返してはこない。
一時的に預けるらしい。
腰の簡易ナイフにも視線を向けられたが、ガルドと少し言葉を交わしたあと、そちらはそのままでいいというように手を振った。
長い武器だけが対象なのかもしれない。
あるいは、槍の方だけが問題なのか。
今は分からない。
次に別の衛兵が俺へ質問した。
「――――?」
首を横へ振る。
もう一度聞かれる。
やはり分からない。
リシェルが間へ入った。
オルドも何か補足する。
衛兵が少し困った表情になった。
この反応も当然だ。
名前以外まともに話せない正体不明の男を、町へ入れようとしている。
俺が相手でも面倒だと思う。
衛兵は腰に下げていた小さな板を取り出した。
木札のように見える。
表面には文字が刻まれていた。
俺には読めない。
彼は木札を指し、次に俺を示す。
さらに何か言う。
入町の許可。
身分の確認。
一時的な証明。
候補はいくつか浮かぶが、決め手がない。
俺が持っていない何かを求められている可能性もある。
ガルドが少し長く説明した。
衛兵が腕を組む。
考える。
やがて掌を上に向けて手を差し出した。
俺は一瞬迷った。
金か。
その可能性に気づいて、困る。
当然ながら一枚も持っていない。
ポケットらしい場所を探したところで何もない。
遺跡で目を覚ましたときから、俺は無一文だ。
俺の様子を見ていたリシェルが衛兵へ何か言い、小さな金属片を取り出した。
硬貨に見える。
それを男の掌へ載せた。
「おい」
思わず声が出た。
リシェルがこちらを見る。
俺は彼女。
硬貨。
自分。
順番に指す。
俺の分を払ったのか。
そう聞きたい。
リシェルは少し考えたあと、小さく笑って何か言った。
当然分からない。
ただ、今は気にするなという雰囲気には見える。
俺は硬貨を指し、次に自分からリシェルへ返すような仕草をしてみた。
彼女は首を傾げた。
伝わっていないらしい。
仕方ない。
借りとして覚えておく。
衛兵は硬貨を確認すると、別の板へ何かを書き始めた。
俺を見る。
リシェルが言う。
「レイジ」
衛兵が何か記す。
自分の名前が書かれているのかもしれない。
見たい。
かなり見たい。
だが、今は余計な動きをしない方がいい。
やがて衛兵が一枚の小さな木札を俺へ差し出した。
手のひらより小さい。
表にはいくつかの文字。
裏には簡単な刻印が入っている。
何なのかは分からない。
ただ、俺にだけ渡された。
無くさない方がいいことくらいは想像できる。
俺は腰の紐へ慎重に挟み込み、落ちないことを確認した。
それで手続きが終わったらしい。
衛兵の一人が横へ退く。
ガルドが先に門をくぐる。
オルドとセイルも続いた。
リシェルが少し先へ進んだところで振り返り、俺へ手招きする。
入っていい。
そう受け取ってよさそうだった。
俺は一歩進みかけ、もう一度だけ衛兵たちを見た。
彼らの視線は、まだ俺へ向いている。
特に。
角。
一人の衛兵が隣の男へ低い声で何か言った。
聞き取れない。
その男も俺の右側頭部を見る。
二人とも、さっきの御者や道沿いの住民とは少し違う顔をしていた。
ただ珍しがっているだけではない。
何かを考えている。
知っているものと照合しているような。
そんな印象だった。
俺は角を隠さなかった。
ここで下手に反応すれば、余計に不審に見える。
そのまま前を向く。
今は入ることを認められた。
それで十分だ。
分からないことは、これから調べればいい。
俺は門をくぐった。
その瞬間。
音が変わった。
外から聞いていたものとは比べものにならない。
人の話し声。
子供の声。
木の車輪が地面を転がる音。
どこかから聞こえる金属音。
動物の鳴き声。
何かを売るような大声。
そして匂い。
煙。
焼いた肉。
土。
動物。
香辛料らしき刺激。
一度に入ってくる情報が多すぎる。
俺は思わず足を止めそうになった。
門の先には、建物が並んでいる。
木と石で作られた家。
店らしき場所。
荷物を運ぶ人々。
道端で話す男たち。
走る子供。
森の中で想像していた「社会」が、目の前にあった。
何人かがこちらを見る。
一人。
二人。
すぐに視線が増える。
当然だ。
森から来た四人と一緒に、傷んだ服を着た角のある男が入ってきたのだから。
ざわめきの中で、意味の分からない言葉が飛び交う。
その中に、覚えたばかりの音が混じった。
「……カルナ……」
やはり俺の角について話している。
恐怖一色ではない。
好奇心。
驚き。
警戒。
そして、中には明らかに怪訝そうな顔をする者もいた。
この町で角そのものが知られていないわけではない。
だが、普通でもない。
今分かるのは、その程度だった。
リシェルが少し前で俺を待っている。
ガルドたちはすでに人混みの中へ進み始めていた。
俺は一度だけ門の外を振り返った。
道の向こうには森がある。
そのさらに奥には、俺が目を覚ました遺跡がある。
数日前まで。
世界は、あの冷たい石床から始まる狭い範囲しかなかった。
今は。
知らない人々に囲まれている。
言葉は分からない。
金もない。
身分もない。
この社会の常識も知らない。
そして、この黒い角が何を意味するのかも分からない。
森で生きるために必要だったのは、水と食料と武器だった。
ここでは、それだけでは足りない。
俺は人々の視線を感じながら、リシェルの後を追って歩き出した。
ラティア。
この世界で初めて足を踏み入れた、人の町。
ここから俺は。
人の中で生きる方法を、一から覚えなければならなかった。




