第18話 ラティアへの道
森へ戻る途中、俺は何度か足を止めた。
忘れ物をしたわけではない。遺跡へ引き返したいわけでもなかった。ただ、これから正体も分からない人間たちについていこうとしているのだと考えると、自然と周囲への警戒が強くなる。
槍。大顎から作った簡易ナイフ。水。焼いた虫肉。火を起こすための石と繊維。
今の俺が頼れるものは、その程度だ。
相手は四人。ガルドとセイルは武装している。オルドは杖を使って見えない衝撃を放ち、リシェルは長い言葉のあとに炎を生み出した。本気で敵対されれば、こちらが圧倒的に不利なのは考えるまでもない。
それでも行く。
遺跡に留まり続けるより、得られるものがはるかに多い。
それに、彼らは待つという意思を示した。少なくとも、俺はそう受け取った。
その解釈が正しかったのかも確認したかった。
小川へ近づくにつれて、見慣れた木々が増えていく。途中からは少し遠回りし、誰かが後を追っていないか何度か確認したが、人影もそれらしい魔力反応も見つからなかった。
やがて水音が聞こえる。
木々の隙間から川辺を覗く。
いた。
四人とも残っている。
ガルドは大木の根元へ背を預け、盾を横に置いていた。セイルは少し離れた場所に立ち、周囲を警戒している。オルドはガルドの腕を診ているらしく、何かを巻きつけていた。
リシェルは地面へしゃがみ込み、手元の板に何かを書いている。
俺はすぐには姿を見せず、しばらく様子を見た。
人数は増えていない。
待ち伏せらしい気配もない。
少なくとも、俺を連れ戻すために誰かを森へ向かわせた様子もなかった。
なら、出る。
槍の先を下へ向けたまま、木々の間から歩み出る。
最初に気づいたのはセイルだった。
反射的に弓へ手を伸ばしたが、俺だと分かったところで止まる。彼が短く声を上げると、残りの三人もこちらを見た。
リシェルが立ち上がった。
「レイジ」
名前を呼ばれる。
まだ二度目なのに、その音が少しだけ馴染み始めているのが不思議だった。
俺も片手を上げる。
「リシェル」
彼女が頷いた。
ガルドは俺の荷物へ視線を向け、そのあと森の奥を見た。どこへ行っていたのか気にしているのかもしれない。
俺は何も説明しない。
説明できる言葉がない。
それに、今のところ詳しく教えるつもりもなかった。
オルドが立ち上がり、こちらへ近づいてくる。
「――――、レイジ。――――?」
何を聞いているのか分からない。
だが、視線が俺の身体を上から下へ動いている。
戦闘のあと。
俺が一度どこかへ戻った。
その状況から考えると、怪我について確認している可能性がある。
俺が答えられずにいると、オルドは自分の腕を指し、苦痛を示すように顔をしかめた。次に俺の腕を見る。
やはり怪我の話らしい。
俺は左腕の古い傷を軽く示してから、大きく首を横へ振った。
問題ない。
そういうつもりだった。
オルドは完全に理解したかどうか分からないものの、俺の身体を無理に調べようとはしなかった。
言葉がなくても、単純なことなら伝えられる。
問題は、そこへ時間や理由、場所が加わったときだ。
「どこで傷ついた」「いつから痛む」「なぜそうなった」
そこまで複雑になると、身振りだけでは難しい。
言葉の必要性を、また一つ実感する。
その横で、リシェルが俺の荷物を見ていた。
特に目を引いたのは、虫の外殻から作った水容器らしい。
彼女は俺の容器を見たあと、自分の腰から革袋のようなものを持ち上げた。口には栓までついている。
自分のもの。
俺のもの。
もう一度、俺を見る。
言いたいことは何となく分かる。
「笑うなよ」
思わず言った。
意味は通じない。
それでも、俺が自分の容器を見て苦笑したことで何か察したらしく、リシェルも少し口元を緩めた。
ガルドが短く声をかける。
空気が変わった。
四人がそれぞれ荷物を整え始める。
出発らしい。
俺も槍を持ち直した。
◇
歩き始めると、俺が置かれた位置はすぐに分かった。
先頭はガルド。
少し後ろにリシェルとオルド。
俺はその後ろ。
最後尾をセイルが歩く。
俺を完全に集団の中央へ入れるわけではない。一方で、好き勝手に離れられる位置にも置かれていない。
後方には弓を持つセイル。
前方には三人。
監視しやすい配置だ。
当然だろう。
俺も彼らを完全には信用していない。
お互い様だった。
小川から離れ、以前見つけた人の通行跡へ入る。
一人で見たときには細い獣道との違いが分かりにくかったが、彼らの後を歩くと人工的な部分がよく見えた。
邪魔になる枝は一定の高さで切られている。
水が溜まりやすい窪みには小石が敷かれ、倒木を避ける場所には木の幹へ印が残されていた。
舗装された道路とは程遠い。
それでも、これは道だ。
誰か一人がたまたま通った痕跡ではなく、複数の人間が繰り返し利用することを前提に整えられている。
森の中で帰路を覚えることに必死だった俺との差を嫌でも感じる。
しばらく進むと、ガルドが突然止まった。
後ろを歩く全員もほぼ同時に足を止める。
俺だけ少し遅れた。
ガルドが地面を指し、何か言った。
セイルがしゃがみ込む。
俺も少し離れた場所から見る。
大きな足跡。
三本指。
俺の手よりかなり大きい。
ガルドとセイルが短く言葉を交わし、セイルが森の右側を指した。
全員の動きが少し慎重になる。
俺も槍を握り直した。
その様子を見ていたリシェルが、足跡を指差す。
「ヴァルグ」
聞き取りやすいように、ゆっくり言った。
俺は足跡と彼女を交互に見る。
「ヴァルグ?」
リシェルが頷き、口元へ二本の指を当てて牙のようにしてみせた。
生物の名前らしい。
少なくとも候補として覚えておく。
ヴァルグ。何らかの牙を持つ獣。
それ以上は決めつけない。
こうして実物と音が結びつけば、言葉は少しずつ増やせそうだった。
さらに歩いていると、今度は最後尾のセイルが片手を上げた。
全員が即座に止まる。
俺も動きを止めた。
静かにしろ。
待て。
おそらく、そういう合図だ。
森の奥から枝が擦れる音がする。
何かが移動している。
セイルはしばらく音の方向を見つめたあと、ゆっくり手を下ろした。
ガルドも歩き始める。
それだけで全員が再び動いた。
言葉だけではない。
手の合図。
立つ位置。
視線。
それぞれの役割。
四人の間には、森を移動するための共通したルールがある。
何度も一緒に行動しているのだろう。
俺の中で、この四人が調査を目的に組まれた集団だという考えがますます強くなっていった。
◇
どれくらい歩いたのか、正確には分からない。
地下にいた頃とは違い、今は太陽の位置を見られる。それでも、この世界の一日が地球と同じ長さなのかすら知らない以上、時計代わりにはならなかった。
ただ、かなりの距離を進んだことは分かる。
森の景色が少しずつ変わってきた。
巨大な木々の密度が減り、地面まで届く光が増えている。人が歩く道も広くなり、最初は一人分しかなかった幅が、今では二人が並べるほどになっていた。
人里に近づいている。
そう考えていたところで、リシェルが振り返る。
「レイジ」
俺を呼んだあと、自分の水筒を持ち上げた。
「アクア」
次に、中身を軽く揺らす。
「アクア」
そして俺の外殻容器を見る。
水。
さすがにこれは分かりやすい。
俺も容器を指した。
「アクア?」
リシェルが笑顔で頷く。
「アクア」
一語。
確実性の高い言葉が増えた。
リシェルは少し楽しそうに、今度は道端の木を指した。
「――――」
聞き取れない。
俺が首を傾げると、もう一度ゆっくり繰り返す。
俺も真似する。
発音が違ったらしく訂正された。
次は石。
葉。
道。
歩く。
止まる。
身近なものを一つずつ指しながら、彼女は音を教えてくれる。
全部覚えようとはしなかった。
一度に詰め込めば混ざる。
まず、状況と結びつきやすいものだけ。
アクア。
水。
ヴァルグ。
獣の名称らしい。
他の音も、何度か繰り返されたものだけ頭に残す。
聞きながら、ふと思った。
今なら《解析》はどう反応する。
以前、文字だけを見てもほとんど意味は得られなかった。
今は違う。
音がある。
対象がある。
指差しがある。
相手の反応もある。
情報量そのものが増えている。
頭痛も今はない。
試す価値はあった。
俺はリシェルとのやり取りを続けながら、聞こえてくる音そのものへ意識を向ける。
解析。
【解析結果】
対象:未登録音声言語
音韻構造:部分認識
反復音:複数確認
固有名詞候補:複数
指示対象との対応:一部推定可能
語彙対応候補:不足
文法構造:解析不能
翻訳:不能
蓄積情報量:不足
解析確度:19%
予想どおりだった。
翻訳などできない。
だが、以前とは違う。
単なる意味不明の音ではなく、一つの言語体系として認識され始めている。
俺は《解析》を止めた。
頭の奥にわずかな重さを感じる。
無理に続ける必要はない。
情報が足りないなら、集めればいい。
すぐに全部分かる必要もない。
リシェルが、急に黙った俺を不思議そうに見ている。
俺は大丈夫だというつもりで頷いた。
彼女もそれ以上追及しなかった。
《解析》は答えを与える能力ではない。
少なくとも今は。
観察して、比較して、情報を積み上げる。
その助けになる。
それで十分だった。
◇
太陽が頭上から少し傾き始めた頃、ガルドが道脇の開けた場所で足を止めた。
休憩らしい。
荷物を下ろすと、セイルだけが少し離れた場所へ移動して周囲を見張る。残りの三人は慣れた様子で地面へ腰を下ろした。
俺も邪魔にならない場所へ座る。
ガルドが袋から何かを取り出した。
黒っぽいパンのようなもの。
それから干した肉。
思わず見てしまった。
地球にいた頃なら、質素な携帯食としか思わなかっただろう。
今は違う。
ちゃんとした食事に見える。
リシェルが自分の分を受け取ったあと、俺を見る。
ガルドへ何か言う。
男は一度俺を見てから、袋の中から同じパンを一つ取り出した。
差し出される。
俺は少し迷った。
食べ物。
見知らぬ世界。
身体も以前とは違う。
安全だという保証はない。
だが、彼ら自身が同じものを食べている。俺を殺すつもりなら、わざわざ食事へ何か仕込む必要もない。
俺は槍を脇へ置き、両手で受け取った。
「ありがとう」
意味は通じない。
それでも、軽く頭を下げる。
ガルドの表情を見る限り、礼だということくらいは伝わったようだった。
パンを観察する。
黒っぽく、かなり硬い。
匂いは穀物に近い。
少しだけちぎって口へ入れた。
「……硬いな」
思った以上に噛み応えがある。
だが。
うまい。
虫の肉以外のものを食べた。
それだけで妙に感動した。
わずかな酸味。
塩気。
素朴な穀物の味。
身体の反応を見るため、最初は少量だけ口にして少し待つ。異常がないことを確認してから、もう一口食べた。
リシェルが不思議そうに見ている。
自分のパンを一口食べ、俺のパンを指す。
大丈夫だから食べろ、とでも言いたいのだろうか。
俺は少し笑い、今度は普通に食べた。
干し肉も少量分けてもらった。
こちらはかなり塩辛いが、保存食として考えれば納得できる。
パンがある。
穀物を育てるか、少なくとも大量に得る手段がある。
粉にする技術があり、焼く設備もある。
塩を使い、肉を保存している。
たった一食でも、その背後にある生活が見える。
俺がそんなことを考えていると、リシェルの視線が俺の腰へ向いた。
外殻で作った食料容器。
嫌な予感がする。
彼女が指差し、首を傾げる。
中身を見せろ、ということらしい。
俺は少し迷ったあと、蓋代わりの外殻を外した。
中には焼いた虫肉。
リシェルが覗き込む。
首を傾げる。
オルドまで興味を示して近づいてきた。
問題は、何の肉なのか説明する言葉がないことだった。
俺は少し考え、両手で大きさを示してから、指を顎のように動かす。
巨大な虫。
伝わるだろうか。
リシェルの表情が固まった。
オルドも何か短く言う。
ガルドまでこちらを見る。
反応があるということは、少なくとも似た生物を知っているらしい。
俺は焼いた肉を指し、自分を指す。
それから食べる仕草。
四人の動きが止まった。
セイルまで振り返っている。
「……そんなに変か?」
当然通じない。
リシェルが何か早口で言い、オルドも続ける。
驚かれていることだけは分かる。
なら、見せた方が早い。
俺は肉を一つ口へ入れた。
噛む。
飲み込む。
リシェルが目を丸くする。
ガルドは何とも言えない顔で額へ手を当てた。
セイルが吹き出すように笑い、何か言う。
意味は分からない。
それでも、たぶん俺をからかっている。
「好きで食ってたわけじゃない」
俺も笑った。
説明できないのが少し悔しい。
だが、悪い気はしなかった。
それまで四人との間にあった張りつめたものが、ほんの少しだけ薄くなった気がした。
言葉が通じなくても、笑う理由くらいは共有できる。
その事実は思った以上に大きかった。
◇
休憩を終えて歩き始めると、道はさらに明確になっていった。
木々の間隔が広がり、切り株が目立つようになる。
自然に折れたものではない。
断面が平らだ。
人が木を切っている。
さらに進むと、森の一部に低い柵まで現れた。細い木材を組み合わせただけの簡素なものだが、明らかに人工物だった。
獣除け。
土地の境界。
目的までは分からない。
それでも、人が日常的に利用している場所へ近づいていることは確かだった。
俺は無意識に周囲を見る。
四人だけなら、それぞれの反応を見ながら対応できる。
この先に何十人、何百人といれば話は変わる。
俺の角。
傷んだ服。
自作の槍。
虫の殻で作った水容器。
どこからどう見ても、彼らと同じ社会から来た人間には見えないだろう。
どう扱われる。
リシェルが振り返った。
「レイジ」
俺を見る。
何か言いながら、自分の胸へ手を当てる。
意味は分からない。
ただ、声の調子は穏やかだった。
安心しろ。
そんな意味ならありがたい。
もちろん、都合よく解釈するつもりはない。
俺は頷くだけにする。
そこからさらに進むと、前方が少しずつ明るくなってきた。
遺跡の出口を見つけたときとは違う。
木々そのものが減っている。
ガルドが最後の低い枝を避けて進む。
俺もそのあとへ続いた。
視界が開ける。
森の外だった。
緩やかな草地が広がり、その向こうに一本の道が伸びている。
俺は足を止めかけた。
明らかに人が作った道だ。
単に土を踏み固めただけではない。場所によっては石が敷かれ、二本の細長い窪みも続いている。
轍。
荷車が通っている。
おそらく。
さらに遠くへ目を向ける。
丘の向こうから煙が上がっていた。
一本ではない。
何本も。
細い煙が空へ伸び、風に流されている。
人がいる。
一人や二人ではない。
生活している。
その光景を見た瞬間、理解が実感へ変わった。
リシェルが煙の向こうを指した。
「ラティア」
俺は黙ってその方向を見る。
まだ建物そのものは見えない。
それでも十分だった。
地下の冷たい石床から始まり、森へ出た。
水を見つけた。
道具を作った。
人の痕跡を見つけた。
そして四人と出会った。
その先に。
ようやく、人が暮らす場所がある。
俺は右側頭部へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
隠したところで、いつかは見られる。
すでに四人には見られている。
問題は、ラティアにいる者たちがこの角を見てどう反応するかだ。
期待はある。
それ以上に不安もある。
だが、戻るつもりはなかった。
遺跡にいた頃なら、目の前に人里へ続く道があるだけで飛びついていたかもしれない。
今は違う。
危険があることも分かっている。
それでも、自分で進むと決めた。
俺は森を出て、初めて人工の道へ足を乗せた。
誰かが作り。
誰かが使い。
誰かの暮らす場所へ続いている道。
土の感触そのものは、森と大して変わらない。
それなのに、一歩の意味は大きく感じた。
リシェルたちはもう先へ進んでいる。
俺も槍を持ち直し、その後を追う。
丘の向こうには、ラティア。
この世界で初めて向かう、人の暮らす場所。
森で一人、生き残るだけの時間は終わりつつあった。
ここから先は。
人の中で、生きる方法を知らなければならない。




