第17話 言葉の壁
「レイジ」
リシェルが、もう一度俺の名前を口にした。
少しだけ発音が違う。それでも、間違いなく俺を指している。
俺は頷き、自分の胸へ手を当てた。
「玲司」
「レイジ」
今度はかなり近かった。
名前。
たったそれだけだ。
それでも、冷たい石床で目を覚ましてから初めて、自分以外の誰かと意味の通じる言葉を交わした。その事実は、思っていた以上に胸へ残った。
だが、感傷に浸っている場合ではない。
目の前には四人いる。
そのうち二人は武装しており、まだ完全には警戒を解いていない。大柄な男は剣先を下げているものの鞘には戻しておらず、弓を持った男も俺の動きを注意深く追っている。
当然だった。
森から突然現れ、見慣れない槍を持って戦闘へ割り込んできた男。しかも、頭には一本の黒い角がある。
俺の立場でも警戒する。
リシェルはそんな二人を一度振り返ったあと、今度は大柄な男を指差した。
「ガルド」
男がわずかに眉を動かす。
リシェルがもう一度同じ音を発すると、男自身も胸元へ手を当てた。
「ガルド」
名前らしい。
俺は男を見て、同じように繰り返す。
「ガルド」
反応を見る限り、合っている。
次に紹介されたのは弓を持った細身の男だった。
「セイル」
本人が少し早口で同じ音を返す。
「セイル」
俺が発音すると、今度は向こうがわずかに驚いた顔をした。
最後に年上の男。
「オルド」
彼は他の二人より柔らかな表情で、自分の胸を指した。
「オルド」
リシェル。
ガルド。
セイル。
オルド。
俺はそれぞれの顔と音を頭の中で結びつけた。
名前を知ったからといって相手を理解したわけではない。それでも、「大柄な男」や「弓を持った男」だった存在に名前がつくだけで、少し印象が変わる。
リシェルは俺が理解したと判断したのか、何かを話し始めた。
「――――――、レイジ。――――、――――?」
名前以外は、まったく分からない。
音が連続して聞こえるだけで、どこまでが一つの単語なのかさえ判別できなかった。
俺は少し考え、首を横へ振る。
「分からない」
もちろん日本語だ。
言葉そのものは通じていないはずだが、表情と仕草から意図は伝わったらしい。リシェルは口を閉じ、考えるように視線を動かした。
やがて、自分を指す。
「リシェル」
次に俺。
「レイジ」
そこまでは分かる。
続いて彼女は森の奥を指差し、何かを言った。
俺は首を傾げる。
もう一度。
今度は自分たち四人を順番に示し、二本の指を地面の上で交互に動かしたあと、森の向こうを指す。
歩く。
あちらへ。
一緒に来い。
おそらく、その辺りだろう。
俺は自分を指し、次に四人を指してから、彼女と同じ方向を示してみた。
リシェルが強く頷く。
やはり、どこかへ連れていこうとしている。
問題は、どこかだ。
村。
町。
野営地。
それとも俺の知らない別の場所。
今の情報だけでは判断できない。
俺はすぐには返事をしなかった。
ついていく利点は大きい。
文明圏へ入れる可能性がある。食料、言語、この世界の常識。今の俺が欲しい情報のほとんどが、そこにはあるかもしれない。
一方で危険もある。
彼ら自身が今のところ敵対的ではないとしても、その先にいる者まで同じとは限らない。人数も、社会の仕組みも、俺のような姿の者がどう扱われるのかも分からない。
何より、遺跡の場所はまだ知られたくなかった。
黒い記録板。
一本角の男。
俺が目覚めた場所。
あそこには、自分の正体へ繋がる可能性のあるものが残っている。
相手を信用できると判断する前に、それを全部見せる理由はない。
俺が黙っていると、オルドが一歩前へ出た。
彼は俺の顔を注意深く見たあと、何か言った。
「――――、――カルナ?」
聞き取れたのは最後の部分だけだった。
カルナ。
オルドが自分の頭へ指を向け、そのまま俺の右側頭部を示す。
角。
そのことを聞いているらしい。
俺は無意識に少し身体を固くした。
ガルドもこちらへ意識を向けている。
だが、剣を構え直す様子はない。
オルドの表情にも、露骨な敵意は見えなかった。
俺は自分の角へ手を触れる。
「これ?」
オルドが頷く。
「カルナ」
今度は単独ではっきり発音した。
角そのものを指す言葉なのか。
角を持つ何かの名称なのか。
それとも、まったく別の意味なのか。
まだ分からない。
俺は頭の中へ音だけ残した。
カルナ。
意味は未確定。
それでいい。
オルドは続けて何か質問したが、俺が理解できていないと気づいたらしい。途中で言葉を止め、小さく息を吐いた。
困っている。
向こうも同じなのだ。
俺はこの世界のことが分からない。
彼らも、俺が何者なのか分からない。
未知なのは一方だけではない。
その事実に気づくと、わずかに緊張が和らいだ。
そこでリシェルが地面へしゃがみ込んだ。
細い枝を拾い、柔らかな土へ線を引き始める。
何をするのかと見ていると、簡単な絵が出来上がった。
木らしきもの。
その隣に人型を四つ。
少し離して、もう一つ。
俺だろう。
そこから森の向こうへ線を伸ばし、その先に四角い形をいくつも並べる。
建物。
そう見えた。
「……町?」
俺が呟く。
意味は通じていない。
それでもリシェルは四角い集まりを指し、ゆっくり発音した。
「ラティア」
もう一度。
「ラティア」
俺は地面の絵を見る。
建物が集まった場所。
ラティア。
場所の名前だろうか。
町か村かまでは分からないが、目的地を指している可能性は高い。
俺も同じ場所を指した。
「ラティア」
リシェルが笑みを浮かべて頷く。
また一つ、音と状況が結びついた。
まだ確定ではない。
それでも、こうやって増やしていけばいい。
リシェルは四人の人型からラティアへ線を引き、その途中へ俺を示す人型を合流させた。
やはり、一緒に来ないかという誘いらしい。
俺は地面の絵を見ながら考えた。
いつか文明圏へ行く必要はある。
それは間違いない。
ここで断ったところで、遺跡と森だけで永遠に暮らすつもりはない。
むしろ、彼らと出会えた今はかなり条件がいい。少なくとも俺が大型獣との戦いに介入したことで、即座に敵として扱われる状況ではなくなっている。
行くなら今かもしれない。
ただし、その前に遺跡へ一度戻りたい。
俺はリシェルの持っていた枝を指し、貸してほしいというつもりで手を出した。
彼女は少し首を傾げたあと、枝を渡してくれる。
俺は土へ新しい絵を描いた。
自分。
森。
少し離れた場所に小さな丸。
そこまで線を引く。
それから、再び自分を四人のところへ戻し、最後にラティアへ線を伸ばした。
一度どこかへ戻り、その後で合流する。
そう伝えたい。
リシェルは絵を見つめた。
首を傾げる。
やはり、これだけでは足りない。
俺は自分の腰にある食料入れを見せ、水容器を持ち上げる。
次に地面の丸。
荷物。
準備。
そういう意味を込める。
もう一度、自分から丸へ。
丸から彼らへ。
彼らからラティアへ。
何度か繰り返すうち、リシェルの表情が変わった。
「――――?」
丸を指す。
俺は頷き、自分を指してから歩く仕草をする。
オルドも横から絵を見た。
リシェルと短く言葉を交わす。
ガルドも加わる。
四人で何か相談し始めた。
内容はまったく分からない。
ただ、怒っている様子ではない。
やがてガルドが俺を見た。
地面を指す。
次に自分たち四人を示し、もう一度その場を指した。
ここ。
彼ら。
待つ。
そういう意味に見える。
俺は少し驚いた。
俺が戻るまで待つつもりなのか。
先ほどの戦闘で全員少なからず疲れている。大柄な獣に吹き飛ばされたガルドも完全に無傷ではなさそうだ。休息を兼ねてここに留まるなら、不自然ではない。
あるいは、俺を勝手に行かせるより、戻るかどうか確認したいだけかもしれない。
理由はどちらでもいい。
俺にとって都合のいい提案だった。
俺は頷く。
「分かった」
言葉は通じない。
それでも頷きは理解されたらしく、ガルドも短く返事をした。
地面に置いた槍へ目を向ける。
持っていっていいのか。
俺は槍を指し、それから自分を指した。
ガルドが少し考える。
セイルも槍を見る。
緊張が一瞬戻った。
やがてガルドは何か短く言い、頷いた。
許可されたらしい。
だからといって信用されたと考えるのは早い。
大型獣との戦いで俺が彼らを攻撃しなかった。
戦闘後には一度武器を置いた。
そうした行動を含め、「今すぐ敵として扱う必要はない」と判断された程度だろう。
十分だ。
俺は槍を拾った。
そのとき、地面に残る絵がもう一度目に入った。
言葉がなくても、絵と仕草だけでこれだけの情報をやり取りできた。
なら、言葉そのものも不可能ではない。
リシェル。
ガルド。
セイル。
オルド。
ラティア。
カルナ。
確実なものと推測にすぎないものが混ざっているが、すでにいくつかの音には意味の候補が生まれている。
音。
状況。
指差し。
相手の反応。
同じ組み合わせが増えれば、少しずつ規則も見えてくるはずだ。
文字だけを見つめていたときとは違う。
今は、意味を持つ状況そのものが目の前にある。
焦る必要はない。
覚える。
比べる。
間違っていれば修正する。
それでいい。
俺は四人へ向かって軽く手を上げた。
別れの挨拶として通じるかは分からない。
リシェルが俺を見て、少し遅れて同じように手を上げた。
少なくとも、何かしらの意図は伝わったらしい。
◇
遺跡へ戻る道は、いつもより慎重に選んだ。
四人がその場で待っていると言った――ように見えた――からといって、本当に誰も後を追ってこない保証はない。
だから小川沿いをそのまま遺跡へ向かうことはしなかった。
一度上流側へ進み、そこから森へ入り込む。
しばらく歩いたところで方向を変え、後方を確認する。
人影はない。
魔力の反応にも、それらしいものは感じない。
さらに別の経路を使い、また立ち止まる。
念を入れすぎかもしれない。
それでも、遺跡の場所は今の俺が持つ数少ない重要な情報だった。
慎重すぎて困ることはない。
十分に遠回りしてから、いつもの目印へ近づいた。
白い苔をまとった二股の木。
その奥にある岩壁の裂け目。
誰かがついてきた気配はない。
俺はそこでしばらく待ち、最後にもう一度周囲を確認してから内部へ入った。
暗い。
外の森に目が慣れたせいで、以前より闇が濃く感じる。
それなのに、不思議と安心した。
少し前までは、この場所からどうやって出るかばかり考えていた。
今は戻ってきたと感じている。
「勝手なもんだな」
小さく呟き、水場へ向かった。
通路に設置した警報はそのまま残っている。
何かが侵入した形跡もない。
水場へ着くと、壁際に置いた黒い記録板が目に入った。
持っていくか。
少し迷う。
あの四人なら、この文字を読める可能性がある。
見せれば、一本角の男について何か分かるかもしれない。俺自身の正体へ一気に近づく可能性だってある。
だが、まだ早い。
記録板がどういう価値を持つものなのか分からない。
彼らが一本角の存在をどう認識しているのかも分からない。
希少なものなら奪われる可能性もあるし、見せたことで俺の立場が悪くなる可能性もある。
今は置いていく。
まず彼らの社会を知る。
それから判断すればいい。
必要なものだけを選ぶ。
焼けるだけの虫肉。
水。
火起こしに使う黒い石と乾燥繊維。
大顎の簡易ナイフ。
槍。
森で見つけた蔓も少量。
使えそうなものは、それくらいだった。
一本角の男が眠る部屋へ寄ることも考えたが、やめた。
四人が待っている。
時間の感覚が正確ではない以上、余計な寄り道はしない方がいい。
荷物をまとめたあと、俺は水場を見回した。
壁際の寝床。
火を焚いた跡。
自分で作った警報。
巨大な虫から切り出した素材。
ここで、水を飲んだ。
火を起こした。
初めて食料を手に入れた。
魔力を知った。
武器を作った。
何も分からない状態から、どうにか生きられるところまで来た。
戻ってくるつもりだ。
それでも、次にいつここへ来られるかは分からない。
ラティアがどれほど遠いのか。
彼らが俺をどう扱うのか。
一度行けば簡単には戻れない可能性もある。
少しだけ迷いが生まれた。
ここにいれば、とりあえず生きてはいける。
危険はある。
食料にも限りがある。
それでも、自分で把握できる範囲の生活だ。
森の向こうへ行けば、また何も分からなくなる。
言葉。
人間関係。
社会。
法律があるかもしれない。
敵もいるかもしれない。
自分の角が問題になる可能性もある。
それでも。
ここへ留まるという選択肢はなかった。
自分が何者なのか知りたい。
この世界を知りたい。
それには、人のいる場所へ行く必要がある。
俺は黒い記録板へ最後に目を向けた。
「戻ってくる」
誰に言うでもなく口にする。
それから荷物を背負い、槍を手に取った。
冷たい石床で目を覚ましたとき、俺に選べる道などなかった。
生きるしかなかった。
今は違う。
危険だと分かっていても、自分で進む先を選べる。
俺は暗い水場へ背を向け、出口へ向かって歩き始めた。
森の向こうへ。
この世界で初めて。
自分から、人のいる場所へ行くために。




