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黒環の解析者 ~転生した俺は世界の理を解き明かす~  作者: 流津美
第一部 黒環の目覚め 第三章 異邦人

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第17話 言葉の壁

「レイジ」


リシェルが、もう一度俺の名前を口にした。


少しだけ発音が違う。それでも、間違いなく俺を指している。


俺は頷き、自分の胸へ手を当てた。


「玲司」


「レイジ」


今度はかなり近かった。


名前。


たったそれだけだ。


それでも、冷たい石床で目を覚ましてから初めて、自分以外の誰かと意味の通じる言葉を交わした。その事実は、思っていた以上に胸へ残った。


だが、感傷に浸っている場合ではない。


目の前には四人いる。


そのうち二人は武装しており、まだ完全には警戒を解いていない。大柄な男は剣先を下げているものの鞘には戻しておらず、弓を持った男も俺の動きを注意深く追っている。


当然だった。


森から突然現れ、見慣れない槍を持って戦闘へ割り込んできた男。しかも、頭には一本の黒い角がある。


俺の立場でも警戒する。


リシェルはそんな二人を一度振り返ったあと、今度は大柄な男を指差した。


「ガルド」


男がわずかに眉を動かす。


リシェルがもう一度同じ音を発すると、男自身も胸元へ手を当てた。


「ガルド」


名前らしい。


俺は男を見て、同じように繰り返す。


「ガルド」


反応を見る限り、合っている。


次に紹介されたのは弓を持った細身の男だった。


「セイル」


本人が少し早口で同じ音を返す。


「セイル」


俺が発音すると、今度は向こうがわずかに驚いた顔をした。


最後に年上の男。


「オルド」


彼は他の二人より柔らかな表情で、自分の胸を指した。


「オルド」


リシェル。


ガルド。


セイル。


オルド。


俺はそれぞれの顔と音を頭の中で結びつけた。


名前を知ったからといって相手を理解したわけではない。それでも、「大柄な男」や「弓を持った男」だった存在に名前がつくだけで、少し印象が変わる。


リシェルは俺が理解したと判断したのか、何かを話し始めた。


「――――――、レイジ。――――、――――?」


名前以外は、まったく分からない。


音が連続して聞こえるだけで、どこまでが一つの単語なのかさえ判別できなかった。


俺は少し考え、首を横へ振る。


「分からない」


もちろん日本語だ。


言葉そのものは通じていないはずだが、表情と仕草から意図は伝わったらしい。リシェルは口を閉じ、考えるように視線を動かした。


やがて、自分を指す。


「リシェル」


次に俺。


「レイジ」


そこまでは分かる。


続いて彼女は森の奥を指差し、何かを言った。


俺は首を傾げる。


もう一度。


今度は自分たち四人を順番に示し、二本の指を地面の上で交互に動かしたあと、森の向こうを指す。


歩く。


あちらへ。


一緒に来い。


おそらく、その辺りだろう。


俺は自分を指し、次に四人を指してから、彼女と同じ方向を示してみた。


リシェルが強く頷く。


やはり、どこかへ連れていこうとしている。


問題は、どこかだ。


村。


町。


野営地。


それとも俺の知らない別の場所。


今の情報だけでは判断できない。


俺はすぐには返事をしなかった。


ついていく利点は大きい。


文明圏へ入れる可能性がある。食料、言語、この世界の常識。今の俺が欲しい情報のほとんどが、そこにはあるかもしれない。


一方で危険もある。


彼ら自身が今のところ敵対的ではないとしても、その先にいる者まで同じとは限らない。人数も、社会の仕組みも、俺のような姿の者がどう扱われるのかも分からない。


何より、遺跡の場所はまだ知られたくなかった。


黒い記録板。


一本角の男。


俺が目覚めた場所。


あそこには、自分の正体へ繋がる可能性のあるものが残っている。


相手を信用できると判断する前に、それを全部見せる理由はない。


俺が黙っていると、オルドが一歩前へ出た。


彼は俺の顔を注意深く見たあと、何か言った。


「――――、――カルナ?」


聞き取れたのは最後の部分だけだった。


カルナ。


オルドが自分の頭へ指を向け、そのまま俺の右側頭部を示す。


角。


そのことを聞いているらしい。


俺は無意識に少し身体を固くした。


ガルドもこちらへ意識を向けている。


だが、剣を構え直す様子はない。


オルドの表情にも、露骨な敵意は見えなかった。


俺は自分の角へ手を触れる。


「これ?」


オルドが頷く。


「カルナ」


今度は単独ではっきり発音した。


角そのものを指す言葉なのか。


角を持つ何かの名称なのか。


それとも、まったく別の意味なのか。


まだ分からない。


俺は頭の中へ音だけ残した。


カルナ。


意味は未確定。


それでいい。


オルドは続けて何か質問したが、俺が理解できていないと気づいたらしい。途中で言葉を止め、小さく息を吐いた。


困っている。


向こうも同じなのだ。


俺はこの世界のことが分からない。


彼らも、俺が何者なのか分からない。


未知なのは一方だけではない。


その事実に気づくと、わずかに緊張が和らいだ。


そこでリシェルが地面へしゃがみ込んだ。


細い枝を拾い、柔らかな土へ線を引き始める。


何をするのかと見ていると、簡単な絵が出来上がった。


木らしきもの。


その隣に人型を四つ。


少し離して、もう一つ。


俺だろう。


そこから森の向こうへ線を伸ばし、その先に四角い形をいくつも並べる。


建物。


そう見えた。


「……町?」


俺が呟く。


意味は通じていない。


それでもリシェルは四角い集まりを指し、ゆっくり発音した。


「ラティア」


もう一度。


「ラティア」


俺は地面の絵を見る。


建物が集まった場所。


ラティア。


場所の名前だろうか。


町か村かまでは分からないが、目的地を指している可能性は高い。


俺も同じ場所を指した。


「ラティア」


リシェルが笑みを浮かべて頷く。


また一つ、音と状況が結びついた。


まだ確定ではない。


それでも、こうやって増やしていけばいい。


リシェルは四人の人型からラティアへ線を引き、その途中へ俺を示す人型を合流させた。


やはり、一緒に来ないかという誘いらしい。


俺は地面の絵を見ながら考えた。


いつか文明圏へ行く必要はある。


それは間違いない。


ここで断ったところで、遺跡と森だけで永遠に暮らすつもりはない。


むしろ、彼らと出会えた今はかなり条件がいい。少なくとも俺が大型獣との戦いに介入したことで、即座に敵として扱われる状況ではなくなっている。


行くなら今かもしれない。


ただし、その前に遺跡へ一度戻りたい。


俺はリシェルの持っていた枝を指し、貸してほしいというつもりで手を出した。


彼女は少し首を傾げたあと、枝を渡してくれる。


俺は土へ新しい絵を描いた。


自分。


森。


少し離れた場所に小さな丸。


そこまで線を引く。


それから、再び自分を四人のところへ戻し、最後にラティアへ線を伸ばした。


一度どこかへ戻り、その後で合流する。


そう伝えたい。


リシェルは絵を見つめた。


首を傾げる。


やはり、これだけでは足りない。


俺は自分の腰にある食料入れを見せ、水容器を持ち上げる。


次に地面の丸。


荷物。


準備。


そういう意味を込める。


もう一度、自分から丸へ。


丸から彼らへ。


彼らからラティアへ。


何度か繰り返すうち、リシェルの表情が変わった。


「――――?」


丸を指す。


俺は頷き、自分を指してから歩く仕草をする。


オルドも横から絵を見た。


リシェルと短く言葉を交わす。


ガルドも加わる。


四人で何か相談し始めた。


内容はまったく分からない。


ただ、怒っている様子ではない。


やがてガルドが俺を見た。


地面を指す。


次に自分たち四人を示し、もう一度その場を指した。


ここ。


彼ら。


待つ。


そういう意味に見える。


俺は少し驚いた。


俺が戻るまで待つつもりなのか。


先ほどの戦闘で全員少なからず疲れている。大柄な獣に吹き飛ばされたガルドも完全に無傷ではなさそうだ。休息を兼ねてここに留まるなら、不自然ではない。


あるいは、俺を勝手に行かせるより、戻るかどうか確認したいだけかもしれない。


理由はどちらでもいい。


俺にとって都合のいい提案だった。


俺は頷く。


「分かった」


言葉は通じない。


それでも頷きは理解されたらしく、ガルドも短く返事をした。


地面に置いた槍へ目を向ける。


持っていっていいのか。


俺は槍を指し、それから自分を指した。


ガルドが少し考える。


セイルも槍を見る。


緊張が一瞬戻った。


やがてガルドは何か短く言い、頷いた。


許可されたらしい。


だからといって信用されたと考えるのは早い。


大型獣との戦いで俺が彼らを攻撃しなかった。


戦闘後には一度武器を置いた。


そうした行動を含め、「今すぐ敵として扱う必要はない」と判断された程度だろう。


十分だ。


俺は槍を拾った。


そのとき、地面に残る絵がもう一度目に入った。


言葉がなくても、絵と仕草だけでこれだけの情報をやり取りできた。


なら、言葉そのものも不可能ではない。


リシェル。


ガルド。


セイル。


オルド。


ラティア。


カルナ。


確実なものと推測にすぎないものが混ざっているが、すでにいくつかの音には意味の候補が生まれている。


音。


状況。


指差し。


相手の反応。


同じ組み合わせが増えれば、少しずつ規則も見えてくるはずだ。


文字だけを見つめていたときとは違う。


今は、意味を持つ状況そのものが目の前にある。


焦る必要はない。


覚える。


比べる。


間違っていれば修正する。


それでいい。


俺は四人へ向かって軽く手を上げた。


別れの挨拶として通じるかは分からない。


リシェルが俺を見て、少し遅れて同じように手を上げた。


少なくとも、何かしらの意図は伝わったらしい。


◇


遺跡へ戻る道は、いつもより慎重に選んだ。


四人がその場で待っていると言った――ように見えた――からといって、本当に誰も後を追ってこない保証はない。


だから小川沿いをそのまま遺跡へ向かうことはしなかった。


一度上流側へ進み、そこから森へ入り込む。


しばらく歩いたところで方向を変え、後方を確認する。


人影はない。


魔力の反応にも、それらしいものは感じない。


さらに別の経路を使い、また立ち止まる。


念を入れすぎかもしれない。


それでも、遺跡の場所は今の俺が持つ数少ない重要な情報だった。


慎重すぎて困ることはない。


十分に遠回りしてから、いつもの目印へ近づいた。


白い苔をまとった二股の木。


その奥にある岩壁の裂け目。


誰かがついてきた気配はない。


俺はそこでしばらく待ち、最後にもう一度周囲を確認してから内部へ入った。


暗い。


外の森に目が慣れたせいで、以前より闇が濃く感じる。


それなのに、不思議と安心した。


少し前までは、この場所からどうやって出るかばかり考えていた。


今は戻ってきたと感じている。


「勝手なもんだな」


小さく呟き、水場へ向かった。


通路に設置した警報はそのまま残っている。


何かが侵入した形跡もない。


水場へ着くと、壁際に置いた黒い記録板が目に入った。


持っていくか。


少し迷う。


あの四人なら、この文字を読める可能性がある。


見せれば、一本角の男について何か分かるかもしれない。俺自身の正体へ一気に近づく可能性だってある。


だが、まだ早い。


記録板がどういう価値を持つものなのか分からない。


彼らが一本角の存在をどう認識しているのかも分からない。


希少なものなら奪われる可能性もあるし、見せたことで俺の立場が悪くなる可能性もある。


今は置いていく。


まず彼らの社会を知る。


それから判断すればいい。


必要なものだけを選ぶ。


焼けるだけの虫肉。


水。


火起こしに使う黒い石と乾燥繊維。


大顎の簡易ナイフ。


槍。


森で見つけた蔓も少量。


使えそうなものは、それくらいだった。


一本角の男が眠る部屋へ寄ることも考えたが、やめた。


四人が待っている。


時間の感覚が正確ではない以上、余計な寄り道はしない方がいい。


荷物をまとめたあと、俺は水場を見回した。


壁際の寝床。


火を焚いた跡。


自分で作った警報。


巨大な虫から切り出した素材。


ここで、水を飲んだ。


火を起こした。


初めて食料を手に入れた。


魔力を知った。


武器を作った。


何も分からない状態から、どうにか生きられるところまで来た。


戻ってくるつもりだ。


それでも、次にいつここへ来られるかは分からない。


ラティアがどれほど遠いのか。


彼らが俺をどう扱うのか。


一度行けば簡単には戻れない可能性もある。


少しだけ迷いが生まれた。


ここにいれば、とりあえず生きてはいける。


危険はある。


食料にも限りがある。


それでも、自分で把握できる範囲の生活だ。


森の向こうへ行けば、また何も分からなくなる。


言葉。


人間関係。


社会。


法律があるかもしれない。


敵もいるかもしれない。


自分の角が問題になる可能性もある。


それでも。


ここへ留まるという選択肢はなかった。


自分が何者なのか知りたい。


この世界を知りたい。


それには、人のいる場所へ行く必要がある。


俺は黒い記録板へ最後に目を向けた。


「戻ってくる」


誰に言うでもなく口にする。


それから荷物を背負い、槍を手に取った。


冷たい石床で目を覚ましたとき、俺に選べる道などなかった。


生きるしかなかった。


今は違う。


危険だと分かっていても、自分で進む先を選べる。


俺は暗い水場へ背を向け、出口へ向かって歩き始めた。


森の向こうへ。


この世界で初めて。


自分から、人のいる場所へ行くために。

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