第16話 異邦人
森の奥から、もう一度叫び声が響いた。
合理的に考えれば、ここで引き返すべきだった。相手は名前を一つ知っただけの他人で、俺が助けなければならない義理はない。彼らがどれほど強いのかも、何に襲われているのかも分からず、俺自身が姿を見せた瞬間に敵と判断される可能性さえある。
それでも、その場を離れる気にはなれなかった。
助けるかどうかを決めるには、まだ情報が足りない。
なら、まず状況を見る。
俺は槍を持ったまま、声のした方向へ移動を始めた。走って一直線には向かわない。木々を遮蔽物にしながら距離を詰め、相手がこちらへ逃げてきた場合にも正面から鉢合わせしない位置を選ぶ。
近づくにつれて、音がはっきりしてきた。男の怒鳴り声、枝が折れる音、何か重いものが地面を蹴る振動。そして、その合間に腹の底へ響くような低い唸り声が混じっている。
木々の向こうに少し開けた場所が見えたところで、俺は足を止めた。
戦っている。
大柄な男が盾を構え、その正面に巨大な四脚獣がいた。
体長は二メートルを超えている。肩の高さだけでも俺の胸近くまであり、全身を黒褐色の粗い毛が覆っていた。頭部から肩にかけては白っぽい硬質な板が何層にも重なり、天然の鎧を着ているように見える。口からは短剣ほどもありそうな二本の牙が突き出し、前脚の爪も太く長い。
厄介なのは、その大きさだけではなかった。
速い。
獣が身体を沈めたかと思うと、一気に大柄な男へ突っ込む。男は盾を正面へ出して受けたが、鈍い衝撃音とともに数歩後ろへ押し込まれた。
倒れない。
あの男もかなり強い。
俺が同じ攻撃をまともに受ければ、槍を持っていたところで吹き飛ばされるだろう。
細身の男が横へ回り込み、弓から矢を放った。一本目は肩の白い外装へ当たって弾かれ、二本目は首元へ刺さったものの、深くは入っていない。
頭部から肩にかけての防御が硬い。
大柄な男が何か叫び、再び盾を構える。獣がもう一度突進し、今度は受け切れなかった。盾ごと身体を押し流され、男が横へ倒れる。
獣が追おうとした瞬間、年上の男が杖を向けた。
短い言葉を数音。
杖の先端に刻まれていた模様が淡く光る。
俺は思わず目を凝らした。
周囲の魔力が杖へ集まっている。
次の瞬間、透明な何かが獣の側面へ叩きつけられた。
ドンッ、と低い音が響き、巨体がわずかに横へずれる。
威力そのものは大きくない。
それでも、倒れた男が起き上がるには十分な時間だった。
「……人も使うのか」
魔力。
赤い結晶を持つ生物が放っていたものとは違う。それでも、今の現象が単なる物理攻撃でないことは、俺にも分かった。
もっと見たい。
そんな感情が一瞬だけ湧いたが、今は観察だけしている場合ではなかった。
少し離れた場所で、リシェルが両手を胸の前へ構えていた。
逃げているわけではない。
何かを唱えている。
年上の男が使ったものより長い。
一つ一つの音を繋げるように、途切れず言葉を続けている。
意味はまったく分からない。
だが、周囲で何が起きているかは見えた。
魔力が彼女へ集まっている。
少しずつ。
確実に。
他の三人よりリシェルの魔力反応が強かった理由と関係しているのかもしれない。ただ、今判断すべきことはそこではない。
遅い。
あの現象を成立させるまでに時間がかかっている。
大柄な男と弓を持つ男、年上の男の三人が戦っているのも、単に獣を倒そうとしているだけではない。
時間を稼いでいる。
そう見えた。
そして獣も、何かを感じ取ったらしい。
大きな頭が突然リシェルの方へ向いた。
大柄な男が叫ぶ。
獣が身体を沈める。
次に何をするのかは、もう分かる。
リシェルまでの距離は十数メートル。
男が割って入るには少し遠い。
獣が地面を蹴った。
その瞬間、俺は介入する条件を考えた。
真正面から受ける必要はない。
倒す必要もない。
突進さえ止めれば、残りは四人が戦える。
それなら。
俺にもできる可能性がある。
俺は木陰から走り出した。
いきなり獣の前へは出ない。右後方から斜めに距離を詰める。
槍を両手で握りながら、相手の動きを見る。
どこを狙えばいい。
頭部は硬い。
肩も駄目。
脚。
関節。
既にどこかを傷めていないか。
使うなら今だ。
《解析》。
【解析結果】
対象:未確認大型四脚生物
推定体長:約2.3m
基本構造:大型四脚型
頭部・肩部:高硬度外装
腹部:外装薄
四肢関節部:防御低
右後肢:軽度損傷あり
荷重時:動作遅延
魔力反応:中
危険性:高
解析確度:42%
右後脚。
狙う場所が決まる。
リシェルへ向かう獣の進路を横切るように走る。正面へ立てば俺が轢かれるだけだ。
獣がこちらに気づき、頭部がわずかに動いた。
それでも進路は変わらない。
リシェルの方を優先している。
なら、そのままでいい。
俺は右側から踏み込み、槍を突き出した。
先端の大顎が後脚へ当たる。
硬い。
わずかに滑る。
狙いがずれた。
すぐに槍を引く。
もう一度。
今度は関節の後ろ。
外装の切れ目。
大顎の先端が柔らかい部分へ入った。
「っ……!」
強烈な衝撃が両腕へ返ってくる。
槍の柄がしなり、先端を固定している蔓が軋んだ。
深くは刺さらない。
だが、獣の右後脚が一瞬崩れた。
高速で走っていた巨体が大きく傾き、前脚が地面を滑る。そのまま身体が横方向へ流れ、リシェルの数メートル手前で激しく倒れ込んだ。
俺は槍を引き抜き、そのまま距離を取る。
固定部分を見る余裕はない。
感触だけで分かる。
少し緩んだ。
何度も使える攻撃ではない。
獣が吠えた。
至近距離で聞くと、身体の奥まで震える。
倒したわけではない。
むしろ怒らせただけだ。
獣が立ち上がろうとする。
右後脚を庇っている。
頭が俺の方へ向く。
目が合った。
俺は槍を構え直したが、戦うつもりはなかった。
こちらへ来れば逃げる。
正面から勝てる相手ではない。
だが、獣が俺へ向き直るより先に、大柄な男が動いた。
盾で頭部を横から殴りつけ、続けて剣を首の下へ突き込む。獣が暴れ、剣は浅くしか入らなかったが、注意は完全に俺から外れた。
弓の男も矢を放つ。
今度は脇腹。
一本が深く刺さった。
年上の男が杖を構え、短い言葉を発する。再び透明な衝撃が獣へぶつかり、その身体をわずかに揺らした。
四人は弱くない。
俺がいなければ全滅するような集団ではない。
ただ、リシェルへ攻撃が届く数秒だけ。
その数秒が足りなかった。
そこへ俺が入った。
それだけだ。
そして、その数秒で十分だったらしい。
リシェルの声が止まった。
俺は彼女を見る。
両手の間に淡い赤色の光が浮かんでいる。
赤い結晶を持つ生物が放ったものを思い出すが、性質は少し違って見えた。あのときほど光は濃くない代わりに、周囲の魔力が一定の形へまとめられている。
リシェルが片手を前へ出し、何かを叫んだ。
赤い光が飛ぶ。
一直線。
獣の脇腹へ命中した。
一瞬遅れて火が弾ける。
大きな爆発ではない。
それでも毛が燃え、皮膚の一部が黒く焼けた。
獣が苦鳴を上げる。
明らかに効いている。
大柄な男が再び踏み込み、先ほどと同じ首の下へ剣を突き込んだ。
今度は深い。
獣が激しく身体を振るい、男が盾ごと弾き飛ばされる。弓の男が声を上げ、年上の男も杖を構え直した。
俺は動かなかった。
もう俺が入る必要はない。
獣は右後脚へまともに体重をかけられず、脇腹も焼けている。首からも血が流れていた。
まだ危険ではある。
だが、攻勢は完全に止まっている。
俺は逃げ道と全員の位置を確認した。
獣が大きく頭を振る。
一歩。
さらに一歩。
後ろへ下がる。
大柄な男は追わなかった。
弓も撃たない。
獣を殺すことより、生き残ることを優先したらしい。
俺もその判断には賛成だった。
追い詰める理由はない。
獣はしばらくこちらを睨みながら低く唸っていたが、やがて身体を反転させた。負傷した右後脚を引きずりながら森の奥へ消え、枝の揺れる音も少しずつ遠ざかっていく。
誰も追わなかった。
しばらくして、森に静けさが戻った。
そこで初めて、別の問題が残っていることを思い出した。
完全に姿を見られている。
俺は槍を持ったまま立っている。
向こうには四人。
互いに動かない。
最初に反応したのは大柄な男だった。
盾を前へ出し、剣を構える。
刃先が俺へ向いた。
弓の男もこちらへ身体を向けた。まだ矢はつがえていないものの、いつでも背中の弓へ手を伸ばせる姿勢だ。
当然の反応だった。
森の中から突然、見知らぬ男が妙な槍を持って飛び出してきた。
しかも。
右側頭部には角がある。
俺でも警戒する。
年上の男だけは武器を向けず、俺の全身を注意深く観察している。
リシェルも同じだった。
その視線が俺の顔から服、槍へ移り、最後に側頭部で止まる。
角に気づいた。
四人の反応を見逃さないよう注意しながら、俺は槍の先端をゆっくり下げた。
片手を離し、空いた右手を見える位置へ出す。
敵意はない。
少なくとも、その意思だけは伝えたい。
「敵じゃない」
日本語で言う。
通じないことは分かっている。
それでも、声の強さや態度まで無意味ではないはずだ。
理解した様子はなかった。
大柄な男が短く何かを言う。
「――――!」
鋭い口調。
内容は分からないが、状況から推測できる候補は少ない。
動くな。
武器を捨てろ。
その辺りだろう。
俺は少し迷った。
槍を手放せば完全に無防備になる。
だが、よく考えれば大差はない。
相手は四人。
剣。
弓。
杖。
そして、あの赤い光を放ったリシェル。
本気で敵対された場合、槍一本を持っていることが生存率を大きく変えるとは思えなかった。
むしろ持ち続ける方が危険だ。
俺はゆっくり槍を地面へ置いた。
大柄な男の表情がわずかに緩む。
少なくとも、完全に間違った判断ではなかったらしい。
弓の男はまだ警戒を解いていない。
年上の男が何か話し、大柄な男へ短く言葉を続ける。その後で俺を見る。
声は落ち着いていた。
何を言っているのかは分からないが、今すぐ殺すつもりではなさそうだった。
そこでリシェルが一歩前へ出た。
大柄な男が何か言って止める。
リシェルが振り返って答える。
男がもう一度言う。
彼女は首を横へ振った。
遠くから見ていたときにも似たやり取りをしていた。
止められると、自分で確かめたくなるタイプなのかもしれない。
リシェルは俺から五メートルほど離れた場所まで来ると、そこで止まった。
近くで見ると、森の向こうから観察していたときより幼さが残って見える。
灰色がかった青い目。
栗色の髪。
頬には土がつき、額には薄く汗が浮かんでいた。
呼吸も少し速い。
さっきの長い詠唱が負担だったのかもしれない。
彼女は俺を見る。
俺も見る。
角に向けられる視線には気づいている。
だが、そこに露骨な恐怖や憎悪があるようには見えなかった。
驚き。
警戒。
それと。
好奇心。
俺にはそう見えた。
しばらく沈黙が続いたあと、リシェルが自分の胸へ手を当てた。
「リシェル」
ゆっくり。
はっきり発音する。
俺は少し驚いた。
やはり名前だった。
彼女はもう一度、自分を指す。
「リシェル」
次に、俺へ指を向ける。
意味は分かる。
言葉が通じなくても、これくらいなら理解できた。
俺も自分の胸へ手を当てる。
「玲司」
リシェルが眉を少し動かした。
「……レイジ?」
ほぼ合っている。
俺は頷いた。
「玲司」
「レイジ」
今度はかなり近かった。
妙な感覚だった。
冷たい石床で目を覚ましてから、自分の名前を声に出したことはあった。
頭の中でも何度も使っている。
それでも。
誰かに呼ばれたことは一度もなかった。
この世界で初めて。
他人の声で、自分の名前を聞いた。
ただそれだけのことなのに、思っていた以上に胸へ残った。
リシェルは俺の反応を確認すると、ほんの少し表情を緩めた。
笑った、と呼べるほど大きな変化ではない。
それでも、最初に向けられていた警戒だけではなくなっていた。
後ろの三人は、まだ俺を注意深く見ている。
当然だ。
俺だって同じだった。
何も分からない。
彼らがどこから来たのか。
この森をなぜ調査しているのか。
俺の角を見て何を思ったのか。
彼らが使った力は何なのか。
そして、この先俺をどう扱うつもりなのか。
分からないことばかりだ。
それでも。
一つだけ分かった。
目の前の女はリシェル。
そして俺は、彼女たちにとって玲司になった。
それは小さな変化だった。
だが。
冷たい石床で一人目を覚ましてから続いていた世界が、そこで初めて誰かと繋がった気がした。
言葉はまだ通じない。
互いに何者なのかも知らない。
信頼など当然ない。
それでも俺は、この世界の誰かと初めて名前を交換した。
森の向こうにいるだけだった人々が。
ようやく、俺の目の前まで来た。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
これにて第二章「森の向こう」は終了です。
遺跡の外へ出て、少しずつこの世界を知り始めた玲司。
そしてついに、この世界で生きる人々との接触まで辿り着きました。
次章からは、これまでとはまた違った形で、玲司の世界が大きく広がっていきます。
引き続き楽しんでいただければ嬉しいです。
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