第15話 森の向こうから来た者たち
遠くから聞こえる声に耳を澄ませながら、俺は木の陰へ身体を寄せた。
一度だけなら、鳥か獣の鳴き声を聞き間違えた可能性も考えただろう。だが、しばらく待っていると短い声のあとに別の声が返り、ときにはそれが数往復する。内容はまったく分からない。それでも、複数の誰かが意思を交わしているように聞こえた。
姿を確認したい。
その気持ちは強かった。
一本角の男の遺体を除けば、この世界で人型の存在を見たことは一度もない。もし生きた人間、あるいはそれに近い種族なら、この世界について知るための情報量は一気に増える。
ただし、期待だけで姿を晒すわけにはいかない。
相手が友好的かどうかも、言葉が通じるかどうかも分からない。何より、今の俺自身がこの世界でどう見られる存在なのかさえ知らない。
意識が右側頭部の角へ向く。
髪を下ろしていれば大部分は隠れるものの、近距離なら気づかれる可能性は高い。一本角の遺体を見つけたことで、角を持つ存在そのものは俺だけではないと分かったが、それが安心材料になるとは限らなかった。
普通に暮らしている種族なのか。珍しいだけなのか。それとも、敵視されるような存在なのか。
今は何も分からない。
だから、まず見る。
俺は声のする方向へ、ゆっくりと移動し始めた。
真正面からは近づかない。木々と低木を遮蔽物にし、小川を挟んで相手の斜め後方へ回り込むように進む。乾いた枝を踏まないよう足元にも気を配り、槍は右手に持ったまま先端を地面へ向けておいた。
遠くからでも武器を構えていると分かれば、敵意と受け取られる可能性がある。
声は少しずつ近くなる。
幸い風はこちらへ流れている。人型の相手に匂いがどれほど意味を持つのかは分からないが、少なくともこちらの臭いを運ぶ方向ではない。
やがて、木々の向こうで何かが動いた。
俺はその場で止まる。
葉の隙間から最初に見えたのは茶色い布だった。
続いて、人影。
呼吸が止まりかける。
二本の脚。
二本の腕。
服。
髪。
遠目に見る限り、ほとんど人間だった。
一人ではない。
位置を少し変えながら確認すると、全部で四人いる。
先頭を歩いているのは、大柄な男だった。革のような素材で作られた防具の上に金属板をいくつか重ね、腰には剣を下げている。片手には小さめの盾もあった。
少し後ろには細身の男がいる。こちらも武装していたが、防具は軽い。背中には弓らしきものを背負い、腰には短い刃物が見える。
剣。
弓。
防具。
どれも俺の知識にある形に近い。
もちろん地球のどこかで再現された装備という可能性を、理屈の上で完全に否定できるわけではない。だが、これまで見てきたものまで含めれば、その仮説へ固執する意味はもうなかった。
残る二人は、明らかに役割が違っていた。
一人は四十代から五十代ほどに見える男で、目立った武器は持っていない。肩から大きな鞄を下げ、手には細長い杖のようなものを持っていた。
そして、その隣に若い女がいる。
年齢は、今の俺とそれほど離れていないように見える。十代後半くらいだろうか。
赤みを帯びた栗色の髪を肩より少し下まで伸ばし、一部を後ろでまとめている。森の中を歩くためなのか、服装に派手さはない。濃色の衣服の上から短い外套を羽織り、腰にはいくつか小さな鞄をつけている。
手にしているのは、薄い板か冊子のようなものだった。
女は他の三人より頻繁に立ち止まる。周囲を警戒するというより、植物や地面、木の幹そのものを見ているようだった。
何かを見つけるたびに、手元の板へ細い棒を走らせる。
書いている。
そう見えた。
「調査……か?」
声には出さず、頭の中だけで呟く。
この四人は、森をただ移動しているわけではないのかもしれない。
女が足元を指差した。
他の三人も立ち止まる。
会話が聞こえた。
「――――、――――?」
何一つ分からない。
大柄な男が返す。
「――――――。――、――――」
音の区切りすら、まともには拾えなかった。
当然か。
ここが本当に異世界なら、日本語が通じる方が不自然だ。
それでも、心のどこかでは都合よく理解できる可能性を期待していたらしい。
少しだけ落胆した。
だが、言葉が通じないからといって、何も分からないわけではない。
若い女が地面へしゃがみ込む。足跡か何かを見ているらしい。弓を持つ男が隣へ寄り、森の奥を指差す。
大柄な男は首を横へ振った。
女が何か言う。
男が返す。
表情を見る限り、意見が一致しているようには見えない。
そこへ年上の男が加わり、短く何かを告げた。女は納得していない様子だったが、最後には立ち上がった。
言葉そのものは分からない。
それでも、誰が何をしたがっていて、誰が止めようとしているのかくらいは何となく伝わってくる。
世界が違っても、人の表情や仕草まで完全に別物というわけではないらしい。
そこで、もっと基本的な違いに気づいた。
四人には角がない。
少なくとも見える範囲では、耳や顔立ちにも俺が知る人間との大きな違いはなかった。
一本角の男。
今の俺。
目の前の四人。
角が種族による違いなのか、もっと別の要因なのかは分からない。それでも、俺と彼らがまったく同じではない可能性は高くなった。
接触するなら、なおさら慎重にした方がいい。
四人が再び歩き始めた。
俺はその場から進行方向を確認する。
幸い、遺跡へ直接向かっている様子はない。
今の俺にとって、水場も黒い記録板も重要なものだ。彼らが友好的だったとしても、何者か分からない段階で拠点の位置を知られたいとは思わなかった。
しばらくすると、若い女がまた立ち止まった。
今度は木の幹を見ている。
以前見つけたものと同じような記号が刻まれていた。
女がその印へ触れ、年上の男へ何かを告げる。男は鞄から折り畳まれたものを取り出し、広げた。
遠くて細部までは見えない。
だが紙のように見える。
形から考えれば、地図の可能性もある。
俺は目を細めた。
やはり森を調べている。
少なくとも、ただ通過しているだけではなさそうだった。
もし調査対象が遺跡まで含まれているなら、状況は少し変わる。
一本角の遺体。
黒い記録板。
俺が目覚めた地下施設。
いずれ彼らがあそこへ辿り着く可能性もある。
だからといって、今すぐ何かをする必要はない。まだ彼らの目的すら分かっていない。
覚えておく。
それでいい。
俺は改めて彼らの装備へ目を向けた。
水を入れていると思われる容器。
縫製された袋。
衣服。
剣。
弓。
紙らしきもの。
俺が何度も失敗しながら作った道具とは、比較するまでもない。
加工された品が当たり前に存在している。
つまり、これらを作る技術がある。
技術を持つ者がいる。
材料を集め、生産し、交換する仕組みもあるのかもしれない。
その先にあるのは、社会だ。
村や町。
もしかすれば国。
地下遺跡で一本角の死者を見つけたときとは、感じ方がまるで違った。
文明が「存在した」のではない。
今も続いている。
そう考えられるものが、目の前を歩いている。
その事実に気を取られかけたところで、胸の《魔核》が小さく脈打った。
俺は四人へ意識を向ける。
魔力らしき揺らぎがある。
全員に。
ただし、同じではない。
大柄な男と弓を持つ男は比較的弱い。年上の男はそれより少し濃く感じる。
そして、若い女。
明らかに他の三人より強かった。
赤い結晶を持つ蜥蜴ほどではない。それでも、身体の周囲にまとわりつく揺らぎがはっきりしている。
特に胸から腹の辺り。
何か理由があるのか。
俺の《魔核》と似た器官を持っているのか。
あるいは、単純に体内の魔力量が多いのか。
《解析》を使うことも考えた。
だが、やめる。
距離がある。
相手の情報をどこまで拾えるのかも分からない。
今の目的は能力を試すことではない。
観察だけで十分だった。
そのとき、大柄な男が若い女へ声をかけた。
「――リシェル、――――」
俺は意識を集中した。
今の音。
周囲の言葉とは、明らかに区切られて聞こえた。
呼ばれた女が振り返る。
何か返事をする。
名前。
おそらく。
リシェル。
俺はその音を忘れないよう、頭の中で繰り返した。
この世界へ来てから初めて、意味を推測できた言葉だった。
誰かの名前。
たったそれだけなのに、不思議な感覚があった。
リシェルと呼ばれた女は大柄な男へ何か言い返し、少し不満そうな表情のまま歩き始めた。
四人はそのまま森の奥へ進んでいく。
俺は追わなかった。
もう十分だ。
人型の存在がいる。
少なくとも見た目は人間とほとんど変わらない。
言葉を使い、文字を書き、道具と武器を持っている。
そして社会が存在する可能性が高い。
それだけでも、今日得た情報としては大きすぎるくらいだった。
四人の姿が完全に木々の向こうへ消えても、俺はしばらく動かなかった。
声が遠ざかる。
枝の揺れも止まる。
森が元の音を取り戻したところで、ようやく息を吐いた。
接触しなかった判断は間違っていない。
そう思う。
それでも、胸の中には少しだけ引っかかるものが残った。
話してみたかった。
たぶん、それだけだ。
事故に遭ってからどれほど時間が経ったのか分からない。目を覚ましてから俺が相手にしてきたのは、小動物、巨大な虫、赤い蜥蜴、そして一本角の死者だった。
まともに言葉を交わした相手は一人もいない。
今初めて、会話できるかもしれない相手を見た。
実際には言葉すら通じない可能性が高い。
敵になるかもしれない。
それでも、人がいる。
その事実だけで、思っていた以上に安心している自分がいた。
俺は小さく息を吐いた。
焦る必要はない。
彼らはこの森を調査しているらしい。
道も使っている。
焚き火跡もあった。
今日を逃しても、接触する機会は作れるかもしれない。
それまでに相手をもう少し観察する。
言葉を聞く。
角をどう見られるのか考える。
接触するなら、できるだけ危険を減らしてからだ。
俺は槍を持ち直し、小川へ戻ろうとした。
そのときだった。
森の奥から、短い叫び声が聞こえた。
俺の足が止まる。
さっきまで聞こえていた会話の調子とは違う。
もう一度。
今度は複数の声が重なった。
続いて、枝が激しく折れる音が響く。
周囲の鳥らしき生物が一斉に飛び立った。
俺は反射的に木陰へ戻り、胸の《魔核》へ意識を向ける。
四人が消えていった方向。
複数の魔力反応がある。
その近くに、別の反応が一つ。
大きい。
以前、森の奥を横切った強い反応と同じものかどうかは分からない。それでも、今まで近距離で感じたどの野生生物より濃かった。
しかも、動いている。
四人の方へ。
俺は槍を握る手に力を込めた。
助けに行く義理はない。
彼らがどれほど強いのかも分からないし、俺が姿を見せれば敵と誤認される可能性もある。そもそも、この槍一本で何ができるのかという話でもある。
合理的に考えれば、離れるべきだ。
頭では分かっている。
それでも脳裏に、さっき聞いたばかりの名前が浮かんだ。
リシェル。
森の奥から、もう一度だけ叫び声が響いた。




