第14話 人の痕跡
魔力らしきものを右手まで動かせたからといって、急に何かができるようになったわけではなかった。
休息を取ったあと、同じ感覚を再現できるかだけ確認してみた。胸の《魔核》へ意識を向け、右肩から腕、掌へと感覚を辿る。一度目は何も起こらなかったが、二度目には前と似た違和感が掌まで届いた。それ以上を試そうとしたところで頭の奥が重くなり始めたため、そこでやめる。
一度成功したからといって、限界まで繰り返す必要はない。負担の正体すら分かっていないのだから、当面は体調のいいときに数回試し、再現性を確かめる程度で十分だった。
それより、今の俺には森で生きるためにやるべきことがある。
水を運べるようになった。
槍も作った。
外部の水源までの経路も覚えた。
なら、次は行動範囲を少し広げる。
前に小川を調べたとき、上流側は木々が密集し、地面の起伏も大きかった。一方、下流側は比較的開けていた。水の流れに沿って進めば帰路も失いにくい。
今回はそちらを調べることにした。
森から持ち帰った蔓も確認しておく。切り取った直後より乾いていたが、極端に脆くなった様子はない。強く引いてもすぐには切れず、地下の巨大な虫から取った繊維より柔らかいため、紐の材料としては十分期待できそうだった。
大きな葉の方はかなり萎れている。容器として長く使うのは難しそうだが、食料を包んだり敷物にしたりする程度なら役に立つかもしれない。
思いついたものを作るだけではなく、実際に使った後で結果を見る。
使えなければ方法を変える。
そうやって少しずつ判断材料を増やしていく。
俺は水容器を背中寄りへ固定し、腰へ簡易ナイフを吊るした。右手には槍。焼いた虫肉も少量だけ葉で包み、小さな外殻の容器へ入れてある。
準備を終え、いつもの出口から森へ出た。
白い苔をまとった二股の木を確認し、小川までの経路を辿る。何度か往復したことで、この辺りの景色にはかなり見覚えができていた。
最初に外へ出たとき、森は何もかもが異質に見えた。
今では少し違う。
避けるべき植物。
虫食いの多い草。
魔力の濃い青い花。
小型動物の足跡。
水の流れる場所。
名前を知っているものは一つもない。それでも、一つの巨大な「未知」だった森が、少しずつ別々の情報へ分かれ始めている。
小川へ着くと、まず周囲の音を確認した。
森の鳴き声は普段と変わらない。大型生物が近づいたときのような不自然な静けさもなく、水際には小型動物の足跡がいくつか増えている程度だった。
水容器の中身を入れ替え、下流へ向かう。
小川から大きく離れない。
それだけは決めていた。
流れを見失わなければ、少なくとも水源までは戻れる。そこから先は、すでに覚えている道を辿れば遺跡へ帰れる。
慎重に進むうち、俺は水辺そのものが探索路としてかなり便利なことに気づいた。森の奥へ無秩序に進むより方向を把握しやすく、地面にも多くの生物の痕跡が残っている。
水が必要なのは俺だけではない。
生物が集まる分だけ危険は増えるが、同時に情報も増える。
しばらく下流へ進んだところで、一本の低い枝が目に留まった。
枝自体は珍しくない。
だが、途中から先がなくなっている。
最初は折れただけだと思った。しかしよく見ると、断面が不自然に平らだった。
俺はその場で立ち止まり、先に周囲を確認する。動くものは見えず、近くに大型生物の気配もない。
槍の先で枝を少し動かし、断面が見える角度へ変えた。
斜めに切れている。
風で折れたような裂け方ではない。
動物が身体をぶつけて折ったにしても、妙に整いすぎている。
「……切った跡か?」
自分の大顎ナイフを見る。
近くへ落ちていた同程度の太さの枯れ枝へ刃を当て、数回引いてみる。出来上がった断面は完全に同じではないが、形としては似ていた。
何か鋭い道具を使えば、こういう跡になる。
俺は周囲へ目を向けた。
少し離れた枝にも、同じような切断痕がある。
さらに先にも一つ。
高さも似ている。
しかも、小川から森の内側へ続く一定の範囲に集中していた。
偶然にしては規則的だった。
誰かが通りやすくするために枝を払った。
そんな可能性が浮かぶ。
だが、まだそれだけでは弱い。
俺は枝ではなく地面を見ることにした。
切断痕が続く方向には、細長く植物の少ない場所がある。
一見すると獣道だ。
この森でも何度か似たものを見た。
ただ、近づかずに観察しているうち、少し違うことに気づいた。
幅が比較的一定している。
左右の枝が切られている。
そして地面には、蹄や爪とは明らかに違う跡が混ざっていた。
俺は道らしき場所の端へしゃがんだ。
楕円形。
長さは二十五センチ前後。
先端側が少し広く、指の形は残っていない。
俺の靴――今の身体が目覚めたときから履いているもの――とは形が違う。
それでも、似た種類のものに見える。
「履物……か」
同じ跡が先へ続いていた。
一つだけではない。
大きさにもわずかな違いがある。
複数の個体が通っている可能性が高い。
ここまで揃うと、最初に考えた仮説の重みが増す。
二本脚で歩く。
足に何かを履いている。
枝を切るための道具を使っている。
少なくとも、それだけの能力を持つ存在がこの辺りを通っている。
人間。
真っ先に浮かんだのはその言葉だった。
だが、すぐに訂正する。
一本角の男を見ている。
人型だからといって、人間とは限らない。
それでも、知的存在である可能性はかなり高い。
胸の奥に、これまでとは違う感情が湧いた。
期待。
たぶん、それが一番近い。
もし言葉が通じる存在なら、この世界について知ることができる。
文字。
魔力。
この森。
そして、自分の身体。
俺一人では何十日かけても分からないことを、知っている相手がいるかもしれない。
だが同時に、警戒も必要だった。
相手が友好的とは限らない。
この世界で、一本角が何を意味するのかも分からない。
俺は右側頭部へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
角の大部分は髪に隠れている。
それでも完全ではない。
もし角を持つ存在が敵視されているなら、自分から姿を晒すのは危険だ。
逆に、俺の外見の別の特徴が相手にとって異質である可能性もある。
文明の痕跡を見つけた。
だから助かった。
そんな単純な話ではない。
「まずは相手を知る、か」
結局、やることは今までと同じだった。
分からないものへ不用意に触れない。
観察する。
情報を集めてから判断する。
俺は道らしき場所の中央には入らず、少し離れた木々の間から並行して進んだ。誰かが戻ってきたときに、道の真ん中で鉢合わせするのを避けるためだ。
道は小川から離れ、緩やかな斜面を上っていく。
水辺から大きく離れるつもりはない。
ある程度まで進んだところで引き返す。
そう決めて周囲を見ていると、木々の間に不自然に開けた場所があった。
地面の一部だけ落ち葉が少ない。
中央には黒くなった木片。
その周囲に、拳ほどの石が円形に並んでいる。
俺は足を止めた。
「焚き火……」
自分で火を起こすようになったからこそ、すぐに分かった。
誰かが意図的に石を並べ、その中で木を燃やしている。
自然にできたものではない。
俺は周囲を慎重に確認してから、近づける範囲まで距離を詰めた。
火は完全に消えている。
煙もない。
灰の上には何枚か落ち葉が乗っているため、ついさっき使われたものではなさそうだった。
かといって、長い年月が経過したようにも見えない。
木陰には、細い枝が何本かまとめて置かれている。
燃料として集めたものだろうか。
焚き火の近くには小さな骨も落ちていた。
表面に傷がある。
何かを食べた跡かもしれない。
ここまで来れば、枝一本の切断痕とは話が違う。
誰かがいる。
しかも、今の森を利用している誰かだ。
一本角の遺体。
読めない文字。
地下施設。
それらから文明が存在したこと自体は推測できた。
だが、どれも過去の痕跡だった。
目の前の焚き火跡は違う。
森の中を移動し、道具を使い、火を扱う存在が今もこの近くにいる可能性を示している。
俺は焚き火跡には触れなかった。
壊す必要はない。
むしろ、そのまま残しておいた方が今後の比較に使える。
次に来たとき灰や薪の状態が変わっていれば、どれほど頻繁にここが利用されているのか推測できるかもしれない。
その考えに至ったところで、近くの木の幹に傷が刻まれていることに気づいた。
縦に一本。
そこへ交差するように、斜めの線が二本。
単純な形だった。
自然の裂け目には見えない。
さらに道の先を見ると、別の木にも同じ形がある。
俺が地下で帰路の目印を刻んだのと似ている。
目的は分からない。
進行方向か。
場所の識別か。
縄張りの表示かもしれない。
ただし、同じ記号を複数の場所へ意図的に残している。
それだけは分かる。
俺はそこで探索を打ち切った。
これ以上進めば小川から離れすぎる。
それに、人の活動範囲へ入っている可能性が高い以上、先へ進むほど誰かと遭遇する危険も増える。
今の俺が望んでいるのは接触ではない。
相手を知ることだ。
道がある。
焚き火を使う。
履物を身につける。
刃物のような道具を持っている。
複数で行動している可能性が高い。
それだけでも十分な収穫だった。
俺は目印の形と道の向きを覚え、来た方向へ引き返した。
しばらく進むと、木々の隙間から小川の光が見えてくる。
そこでようやく少し緊張が緩んだ。
水の流れまで戻れば、遺跡への経路は分かる。
水容器を補充してから帰るつもりで川辺へ近づき、ふと足を止めた。
水際の柔らかい土に、足跡がある。
さっきまで見ていたものと似ていた。
履物の跡。
一つ。
少し先にもう一つ。
そのまま浅い場所を渡り、対岸へ続いている。
これが前からあったものなのかは分からない。
だが、窪みの縁ははっきり残っている。
雨や風で崩れた様子も少ない。
俺は槍を持つ手に力を入れた。
もしかすると。
それほど遠くにはいない。
そう考えた瞬間、森の音へ意識が向く。
風。
葉。
水。
鳥の鳴き声。
しばらく何もない。
俺が警戒しすぎているだけかと思いかけたところで、遠くから別の音が聞こえた。
声。
俺は動きを止めた。
一度だけではない。
短い音がいくつか続き、少し間を置いて別の声が返る。
距離があるため内容はまったく聞き取れない。
使われている音が言葉なのかも分からない。
それでも、獣の鳴き声とは違って聞こえた。
少なくとも二つ。
声の高さも違う。
俺は近くの木陰へ身体を寄せた。
見に行きたい。
そう思う気持ちは強かった。
この世界へ来てから、初めて生きている知的存在へ辿り着けるかもしれない。
だが、その衝動だけで動くほど追い詰められてはいない。
水がある。
食料もある。
帰る場所もある。
今すぐ誰かに助けてもらわなければ死ぬ状況ではなかった。
なら、危険を冒して接触する必要もない。
まず見る。
相手が何者なのか。
何人いるのか。
どんな装備を持ち、どう行動しているのか。
その上で接触するかを決める。
これまでと同じだ。
未知のものを前にしたときこそ、順番を間違えない。
俺は木々の陰へさらに身体を寄せ、槍を邪魔にならない位置まで下げた。
遠くから再び声が聞こえる。
誰かがいる。
それだけは、もうほぼ間違いなかった。
一本角の死者ではない。
文字でも、遺跡でもない。
この森のどこかに、今を生きている誰かがいる。
俺は呼吸を静かに整えながら、その声が聞こえてくる方向へ意識を集中した。
次に知るべきなのは。
彼らが、何者なのかだった。




