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忘名墓所と名前を持たない侵入者

 ノクティアの門が閉じた瞬間、悠真は自分の中から何かが抜け落ちる感覚を覚えた。


 名前だけではない。


 それに結びついていた記憶や感情までもが、霧の向こうへ溶けていく。


 目の前には、白い外套を着た少女が立っていた。


 少女は不安そうにこちらを見つめている。


 隣には、眼鏡をかけた男がいた。手には記録板を抱えている。


 二人とも、見覚えがある。


 だが、名前が出てこない。


「……あなたは、誰?」


 少女が訊いた。


 その声を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。


 大切な人だった。


 それだけは分かる。


 しかし、名前も、出会った理由も思い出せなかった。


「分からない」


 悠真は正直に答えた。


「俺は……誰なんだ?」


 眼鏡の男が、顔を青ざめさせる。


「契約の侵食が始まっている。名前を捨てた影響で、自己認識まで書き換えられているんだ」


「あなたは?」


「僕は……」


 男は言葉を詰まらせた。


 自分の名前を答えようとして、何度も口を開閉する。


「エ……エド……」


 それ以上が出てこない。


 少女も自分の胸元を押さえた。


「私も、名前が……」


 三人は、霧に包まれた門前で立ち尽くした。


 その時、門の上部に刻まれた契約文字が赤く輝いた。


```text

都市外記憶の照合を開始


侵入者:記録外の一名

同行者:未登録二名


警告:

名前を確認できない者は、

ノクティア市民として仮登録されます。

```


 少女が息を呑む。


「仮登録されたら、どうなるの?」


 男が記録板を確認した。


「都市の契約に組み込まれる。記憶、身体、行動……すべてがノクティアの規約に従わされるはずだ」


「それを止める方法は?」


「名前を取り戻すことだ」


 男は記録板を裏返した。


 そこには、三人分の空欄が表示されている。


```text

身元照合:


対象A:名無し

対象B:名無し

対象C:名無し

```


 悠真は、足元に落ちていた黒い札を見つめた。


 札にはまだ、かすかに文字が残っている。


```text

名:なし

```


 その文字を見た途端、霧の中から無数の声が聞こえた。


『名前を返してほしい』


『私の子どもを知らないか』


『私は、誰だった?』


『ここから出してくれ』


 声は墓所の奥から響いていた。


 門の向こうには、街並みが広がっている。霧に沈む建物の間を、白い仮面をつけた住民たちが無言で歩いていた。


 誰も互いに話しかけない。


 誰も自分の顔を見せない。


 そして、誰も名前を呼ばない。


「ここが……忘名墓所?」


 少女が呟いた。


 悠真は首を横に振った。


「違う」


 視線の先に、都市の中心へ続く巨大な石道があった。


 その両脇には、墓標が並んでいる。


「墓所は、街の中にある」


 墓標には名前が刻まれていなかった。


 代わりに、番号だけが記されている。


```text

記録番号 00001

名前:返却済み


記録番号 00002

名前:失効


記録番号 00003

名前:管理者保管中

```


 少女が墓標に手を触れた。


 その瞬間、彼女の身体が大きく揺れた。


「……分かる」


「何が?」


「この人を知ってる」


 墓標から青白い映像が浮かび上がった。


 そこには、幼い少女と、赤ん坊を抱いた女性が映っている。


『お母さん……』


 少女が震える声を漏らした。


「私の母親よ」


 映像の中の女性は、幼い少女の頬を撫でている。


『いつか、あなたが自分の名前を忘れても、私だけは覚えているからね』


 しかし、その女性の顔には黒い契約印が刻まれていた。


 映像が切り替わる。


 白い仮面をつけた執行官が、女性を連行していく。


 幼い少女は泣きながら追いかけていた。


『お母さん! 待って!』


 最後に、女性が振り返る。


 その口が、何かを伝えていた。


 少女は震えながら唇を読んだ。


「……セラ」


 悠真は、その名を聞いた瞬間、胸の奥に強い光が走るのを感じた。


「セラ……」


 思わず、その名前を口にする。


 少女がこちらを振り返った。


「今、私の名前を呼んだ?」


 悠真は頷いた。


「セラ。君の名前は、セラだ」


 その瞬間、少女の身体を覆っていた霧が弾け飛んだ。


```text

対象B:

個人名の復元に成功


セラ・アルヴェイン

記憶保全率:31%

```


 セラは自分の胸に手を当てた。


「セラ……そう。私はセラ」


 彼女の瞳に、少しずつ光が戻っていく。


「あなたは、悠真」


 その言葉に、悠真の身体が硬直した。


「俺が……悠真?」


「そうよ。ユウマ・カガミ。王都で私と一緒に戦った」


 名前を聞いた途端、断片的な記憶が戻ってきた。


 青空の下で、セラが笑っていた。


 地下保管庫で、彼女が自分の名を呼んでいた。


 そして、王都を覆っていた黒い環を共に壊した。


 悠真の手の甲に、消えたはずの紋章が一瞬だけ浮かび上がる。


```text

対象A:

個人名の復元に成功


ユウマ・カガミ

直系鍵:封印中

```


「悠真……」


 エドガーが、記録板を握りしめた。


「そうだ。僕はエドガー・ノルン。セラと君と一緒に、王都から来た」


 エドガーの名前も復元された。


 しかし、その直後、墓所全体に警報が鳴り響いた。


```text

警告:

失われた名前の無断復元を検知


執行官を召喚します

```


 墓標の間から、黒い人影が立ち上がった。


 白い仮面。


 長い黒衣。


 手には、名前を刈り取るための鎌のような契約具が握られている。


「名前を返すことは、ノクティアの規約に対する反逆だ」


 執行官が言った。


「返された名前は、都市へ戻さなければならない」


「断る」


 悠真は一歩前へ出た。


 直系認証鍵は封じられている。


 それでも、杖は手の中にある。


「名前は誰かの所有物じゃない」


「この都市では違う」


 執行官の仮面に、赤い文字が浮かび上がった。


```text

名前の所有者:

中央契約院


記憶の所有者:

中央契約院


生存権の所有者:

中央契約院

```


「住民は、契約によって生きている。契約を失えば、存在も失う」


「それは生きているんじゃない」


 悠真は杖を構えた。


「管理されているだけだ」


 執行官が腕を振る。


 黒い鎌が霧を切り裂き、悠真の首元へ迫った。


 セラが剣を抜き、鎌を受け止める。


 激しい金属音が墓所中に響いた。


「悠真、鍵は使えないの?」


「分からない。名前を取り戻しただけで、紋章は封じられたままだ」


「なら、鍵なしで戦うしかないわ!」


 エドガーが墓標の列へ駆け寄った。


「悠真、セラ! この墓標は、ただの記録保管装置じゃない!」


「何が分かった!」


「墓標一つ一つが、都市契約の証人なんだ。名前を奪われた人々の記録が、中央契約院への抵抗権を保持している!」


 エドガーは、近くの墓標へ記録板を接続した。


 青白い光が墓所全体へ広がる。


```text

忘名墓所:

証人記録の同期を開始


登録された失効名:42,817

```


 墓標の間から、無数の声が響き始めた。


『私は、ここにいる』


『私の名前を返せ』


『私の記憶を、私のものに戻せ』


 白い仮面の執行官が初めて後退した。


「停止しろ。墓所の証人記録は、中央契約院の執行対象外だ」


 エドガーが顔を上げる。


「つまり、ここだけが契約の外側なんだ」


 悠真は気づいた。


 カナタが言っていた。


 中央契約院へ入るなら、正門ではなく忘名墓所から進め、と。


 墓所は、死者のための場所ではない。


 名前を奪われた者たちが、まだ契約に完全には組み込まれていない最後の避難所だった。


「エドガー、中央契約院への道は?」


「この墓所の地下にある。ただし、入口を開くには三人の証人が必要だ」


「三人?」


「表の鍵、記録の証人、そして……」


 エドガーが言葉を止めた。


 墓所の最奥に、一つだけ黒い墓標が立っている。


 そこには、名前ではなく、二つの紋章が刻まれていた。


 悠真の紋章。


 そして、カナタの紋章。


```text

最終証人:

表の鍵と裏の鍵を生み出した者

```


 セラが息を呑む。


「これを作ったのは誰?」


 黒い墓標の前に、白い光が集まった。


 やがて、一人の女性の姿になる。


 透き通るような目。


 悠真とよく似た顔立ち。


 ミレイユだった。


 しかし、その姿は以前の幻影とは違っていた。


 彼女は管理システムに取り込まれていない。


 自分の意思で、ここに残っているように見えた。


『悠真』


 母の声が、墓所全体に響く。


 悠真は息を呑んだ。


「母さん……?」


『その名前を取り戻したのね』


「母さんは、死んだんじゃなかったのか?」


『あれは、私の一部にすぎない。王都に残した私、契約に取り込まれた私、そしてここに隠した私。私は自分自身を三つに分けたの』


 セラが警戒しながら尋ねる。


「なぜ、そんなことを?」


『無名の管理者から、最後の自由を隠すためよ』


 ミレイユの幻影が、黒い墓標へ手を伸ばす。


『あなたのお父さんは、契約網を壊そうとした。私は、あなたたちを守るために契約網の中へ入り込んだ。でも、それだけでは足りなかった』


「カナタは、まだ中央契約院に囚われている」


『ええ』


 ミレイユの顔に、深い悲しみが浮かぶ。


『そして、無名の管理者は、あなたたち二人を使って大陸契約網を完成させようとしている』


「無名の管理者の正体を教えてくれ」


 ミレイユはすぐには答えなかった。


 代わりに、黒い墓標へ一本の指を触れた。


 墓標に刻まれた二つの紋章が、赤く輝く。


『無名の管理者は、あなたたちの父親でも、私でもない』


「じゃあ、誰なんだ?」


『あなたたちを生み出した、もう一人の契約者』


 悠真の胸に、嫌な予感が広がる。


『その者の名は、アキラ・カガミによって最初に消された』


 墓所の空気が凍った。


 ミレイユは悠真を見つめた。


『あなたたちの本当の父親は、アキラではない』


 その言葉と同時に、遠くで中央契約院の鐘が鳴った。


```text

大陸契約網・最終統合式


残り時間:52分

```


 悠真は、何も言えなかった。


 父だと思っていたアキラ。


 母のミレイユ。


 そして、記録から消されたもう一人の契約者。


 すべての血統と契約が、別の誰かによって作られたものだというのか。


 ミレイユの幻影が薄れていく。


『忘れないで、悠真。名前を取り戻しても、過去を信じてはいけない』


「母さん!」


『中央契約院の最上階で、あなたたちの出生記録が待っている』


 最後に、ミレイユはカナタの紋章へ触れた。


『そして、カナタを救って』


 幻影が消える。


 黒い墓標の下から、地下へ続く階段が現れた。


 その階段の先から、低い声が響く。


『出生記録を知りたいか、ユウマ・カガミ』


 無名の管理者の声だった。


『ならば来い。お前の父親が誰であったか、お前自身が何のために作られたか、すべて教えてやろう』


 悠真は階段を見下ろした。


 セラが隣に立つ。


 エドガーも記録板を抱え直した。


「行こう」


 悠真は二人を見た。


 今度は、二人の名前を忘れない。


「カナタを助けて、中央契約院の最上階へ向かう」


 墓所の無数の声が、三人を見送るように響き渡った。


『行け』


『名前を取り戻せ』


『契約を終わらせろ』


 三人は地下階段を下りていく。


 その背後で、忘名墓所の墓標が一つ、また一つと光り始めた。


 失われた名前たちが、長い沈黙を破って立ち上がろうとしていた。

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