もう一人のカガミと失われた名前の契約
契約門が閉じる音を、悠真は背中で聞いた。
王都へ戻る道が断たれた。
目の前に広がっているのは、果ての見えない地下回廊だった。壁面には無数の契約文字が浮かび、赤い光が脈打っている。
その光は、悠真の手の甲に残った直系認証鍵と同じ色をしていた。
「本当に、二人いるのね」
セラが小さく呟く。
回廊の奥に立つ人影は、悠真と同じ黒髪、同じ目元をしていた。
ただし、頬には古い傷が走り、身にまとっている外套は王都のものではない。黒い布地の胸元には、断環会の上位印が刻まれていた。
男はゆっくりと仮面を外した。
その顔を見た瞬間、悠真の頭に激しい痛みが走った。
幼い頃の記憶。
雪の降る中庭。
アキラの背後に立つ、同じ年頃の少年。
少年は悠真に向かって笑っていた。
『僕が先に行く。君はここに残っていて』
だが、その記憶はすぐに黒い炎に焼かれ、消えていった。
「お前は……誰だ?」
悠真が尋ねる。
男は答えなかった。
代わりに、足元へ一枚の白い札を投げた。
札には、名前が一つだけ書かれている。
```text
カガミ・カナタ
```
「カナタ……」
エドガーが息を呑む。
「その名は、初代管理者の家系図には記録されていない」
「当然だ」
男――カナタは、淡々と答えた。
「僕は記録されなかった。お前を残すために、最初から存在しない子どもにされたんだからな」
悠真の手の甲の認証鍵が、激しく明滅した。
「俺たちは兄弟なのか?」
「兄弟?」
カナタは、初めて笑った。
「そう呼ぶほうが都合はいい。だが、僕とお前は普通の兄弟じゃない」
彼は右手を掲げた。
同じ紋章が刻まれている。
「僕たちは、初代管理者の権限を二つに分けて作られた。お前は表の鍵。僕は裏の鍵だ」
エドガーが記録板を取り出す。
「権限の分割……そんな記録はどこにもない」
「記録から消されたんだ」
カナタは回廊の壁を指差した。
浮かび上がった契約文字が、次々と書き換わっていく。
```text
初代管理者継承計画:
正規継承者 ユウマ・カガミ
補助継承者 欠番
```
「欠番?」
「僕の名前を消したのは、父さんだ」
悠真の胸が締めつけられた。
「父さんが?」
「ああ。アキラは、一人に権限を集めることの危険を知っていた。だから、僕を裏側に隠した。表の権限をお前に、裏の権限を僕に与えた」
「それなら、なぜ俺の記憶を封じた?」
カナタの表情から笑みが消えた。
「お前が、僕の存在を知っていたからだ」
回廊の壁に映像が浮かび上がる。
十二年前の地下保管庫。
血に濡れたアキラの前で、幼い悠真とカナタが向かい合っている。
アキラは、二人の肩にそれぞれ手を置いていた。
『どちらか一人に、すべてを背負わせてはいけない』
しかし、その直後、白い仮面の人物が現れた。
レオニスが背後に控えている。
『裏の鍵を引き渡せ。そうすれば、表の子どもは生かしてやる』
アキラは、カナタをかばうように前へ出た。
『断る』
映像の中で、刃が閃く。
アキラの胸に刃が突き刺さった。
幼い悠真が叫ぶ。
カナタは、その場から連れ去られていた。
映像が乱れ、白い仮面の人物の声だけが残る。
『ミレイユの名で契約する。二人の記憶を分け、互いの存在を消せ』
「母さんが、俺たち二人の記憶を封じたのか?」
悠真の問いに、カナタは首を横に振った。
「母さんは契約を実行した。だが、命令したのは別の誰かだ」
「誰だ?」
カナタは、回廊の奥を見た。
「ノクティアの中央契約院にいる。僕が十二年間、仕えていた相手だ」
セラが剣の柄に手をかける。
「まさか、あなたは敵側にいたの?」
「敵側?」
カナタは静かにセラを見る。
「僕には、他に選択肢がなかった。ノクティアの契約は、僕の名前と記憶を担保にしていた。逃げれば、僕だけでなく、この都市の住民全員が契約によって処分される」
エドガーが眉をひそめた。
「住民全員を担保にした契約だと?」
「旧契約都市は、都市そのものが一つの担保だ。食料も水も、住民の身分も、すべて契約で維持されている」
カナタが指を鳴らす。
回廊の先に、巨大な都市の映像が浮かび上がった。
霧の中に築かれた石造りの街。
塔の頂上には、王都を覆っていたものよりはるかに巨大な黒い環が浮かんでいる。
```text
ノクティア都市契約:
稼働中
住民登録数:128,402
契約担保:都市機能・記憶・血統
中央契約院:執行権限保持
```
セラが顔をしかめる。
「記憶まで担保にしているの?」
「ノクティアでは、住民が都市を離れると、その人の名前と過去が少しずつ失われる」
カナタは悠真を見た。
「だから、ここへ来る者は名前を捨て、血を差し出し、記録を忘れる」
悠真は、階段の入り口に刻まれていた通行条件を思い出した。
「それは、都市の中へ入るためじゃない。都市に縛りつけるための契約だったのか」
「そうだ」
カナタは一歩近づいた。
「お前は、まだ名前を捨てていない。だから、今なら戻れる」
「戻るつもりはない」
「なら、ここで僕を倒せ」
カナタの周囲に、無数の黒い契約文字が集まり始める。
```text
裏側の直系認証:
戦闘執行権限を起動
対象:
ユウマ・カガミ
```
セラが悠真の前へ出る。
「悠真、私が――」
「いや」
悠真は首を横に振った。
「こいつとは、俺が話をつける」
「話が通じる相手には見えないわ」
「それでも、戦う前に聞かなきゃならない」
悠真はカナタを見据えた。
「中央契約院にいる黒幕の名前を教えろ」
カナタの目が、わずかに揺れた。
「名前はない」
「そんな人間がいるのか?」
「名前を捨てたんだ」
カナタは低く答える。
「かつて、その人物はアキラと共に大陸の契約制度を作った。だが、制度が完成した後、自分の名前を契約から切り離した」
エドガーが記録板を落としかける。
「名前を持たない契約執行者……」
「中央契約院では、彼をこう呼んでいる」
カナタの背後に、古い称号が浮かび上がった。
```text
無名の管理者
```
悠真の中で、何かがつながった。
父を殺した命令。
母の代理署名。
レオニスを動かした上位印。
王都とノクティアをつなぐ契約網。
すべての背後に、名前を持たない管理者がいる。
「そいつが、父さんを殺したのか?」
「直接ではない」
「なら、なぜ父さんは殺された?」
カナタは、しばらく黙っていた。
そして、悠真の手の甲に浮かぶ紋章を見つめる。
「アキラは、お前たち二人を使って、契約網そのものを壊そうとした」
カナタの声が初めて震えた。
「だから、無名の管理者はお前を表の鍵として利用し、僕を裏の鍵として拘束した。二人が揃わなければ、最終契約は完成しない」
「最終契約……」
「王都で起動しかけたものは、ただの予備だ」
カナタが手を伸ばす。
その指先に、ノクティアの全景が映し出された。
都市の中心にある巨大な塔。
その最上階で、黒い環が回転している。
```text
大陸契約網・最終統合式:
起動条件
表の直系認証:ユウマ・カガミ
裏の直系認証:カナタ・カガミ
両者の対面:成立
```
悠真の背筋を、冷たいものが走った。
「俺たちが出会ったことで、最終統合式が起動した?」
「ああ」
カナタは、悲しげに笑った。
「お前は、ノクティアへ来るべきじゃなかった」
「でも、来た」
悠真は杖を握り直した。
「なら、二人で壊す」
「僕とお前が協力すると、本当に思っているのか?」
「思っているんじゃない」
悠真は、カナタの目を見た。
「必要なんだ」
その瞬間、回廊全体が激しく揺れた。
遠くで、巨大な鐘が鳴る。
```text
ノクティア中央契約院:
最終統合式を開始
残り時間:60分
```
カナタの胸元に、黒い契約文字が浮かび上がった。
```text
裏の鍵、強制帰還
```
彼の身体が、暗い光に包まれる。
「カナタ!」
悠真が手を伸ばす。
カナタは抵抗しながら、最後に一つの言葉を叫んだ。
「中央契約院へ来い! ただし、正門から入るな!」
「どこから入ればいい?」
「名前を失った者たちの墓所だ!」
光が弾け、カナタの姿が消えた。
残された回廊に、無数の契約文字が降り注ぐ。
その中から、一枚の黒い札が悠真の足元へ落ちた。
```text
潜入経路:
忘名墓所
必要条件:
自分の名前を一度だけ捨てること
```
セラが札を拾い上げる。
「自分の名前を捨てるって、どういう意味?」
悠真は、遠くにそびえるノクティアの塔を見つめた。
「たぶん、俺が悠真・カガミであることを、一時的に消す」
「そんなことをしたら、戻れなくなるかもしれない」
エドガーも険しい顔をしている。
「契約に奪われた名前は、簡単には取り戻せない。最悪の場合、君は自分が誰だったのかすら忘れる」
悠真は黒い札を手に取った。
指先から、赤い血が一滴落ちる。
```text
潜入者名を入力してください
```
悠真はしばらく黙っていた。
やがて、札に文字を刻む。
```text
名:なし
```
世界から、音が消えた。
悠真の手の甲から直系認証鍵が消え、セラの声が遠ざかっていく。
「ユウマ……?」
悠真は答えようとした。
だが、自分の名前が思い出せない。
目の前にいる少女の名前も。
隣にいるエドガーという男の名前も。
それでも、手の中の杖だけは離さなかった。
杖の先に、最後の文字が浮かぶ。
```text
潜入者:
記録外の一名
中央契約院への侵入を許可
```
霧の向こうで、ノクティアの門が開いた。
都市の中心にそびえる塔から、無数の黒い糸が伸びてくる。
その一本が、悠真の胸へと突き刺さった。
『ようこそ、名前を持たない者よ』
どこからともなく、低い声が響く。
『お前の父親が拒絶し、お前の母親が守り、お前の兄弟が囚われた場所へ』
悠真は、声の主を探して顔を上げた。
塔の最上階。
黒い環の中心に、白い仮面の人物が立っている。
『さあ、始めよう』
仮面の奥から、声が告げた。
『最後のカガミを、正しい場所へ戻す』
ノクティアの門が閉じる。
悠真たちは、名前を失ったまま、霧の都市へ足を踏み入れた。




